YAKISOBA
8 章
スイートルームに入るやいなや、景子さんは、最初のミスを犯した。その部屋が、一泊900ドルもすることを自慢しつつ、「でも、会社の費用として落とせるから、最上級を選ばない理由なんて、ありませんよね?」と口にしたのだ。僕自身、経理のことは十分に心得ているもので、ある、問題が起こりうることに気づいた。彼女が、“僕ら二人の”利益を、このような私的な用途に濫用しないように、デリの帳簿を見張っておく必要があるだろう、ということだ。(まさに「あなたの取り分は10%なので、利益ゼロの10%は…」といった具合だ)
部屋の中は、驚くべきことに、煩雑そのものだった。例の価格からすると、24時間体制でメイドが常駐していそうなものだが。汚れた服が床を覆い、地図と新聞が台所横の小さなカウンターに散乱。ちょうど、前日、僕が彼女に渡したそれによく似た茶色の紙袋が、“冒涜の化身”と化したパストラミとともに 、すみの方でくしゃくしゃになっている。奥の方をのぞいて見るのは、恐怖だった。そこら中に散らばるのは、汚らしい灰皿。
「普段は、こんなぐちゃぐちゃ…じゃないんですけど」と彼女は言った。それは、反省というよりも、言い訳のように聞こえた。「今朝 、メイドに部屋から出て行ってもらうことになって」
「なんでまた?」
「気づいたら、彼女、わたしのシカゴの市街地図、見てたの」
「なんて、ずうずうしい」
「聞いてもいないのに、どこに住んでるか教えたいって言い出して。アメリカでは、メイドすら、お友達になろうとするのかしら。それで、たくさんチップをくれ、とでも言いたいのかしらね」
敵意は、静まりそうにない。
「まあ、私の愚痴を聞きに来たわけじゃないでしょ?飲み物をご自由にどうぞ。すぐ戻りますから」
彼女は寝室に消え、後ろ手に、扉を閉めた。数分後、僕の名前を呼び、部屋に入るように言った。
寝室に足を踏み入れると、彼女は、少し散らかったベッドの傍に、シカゴ・ホワイトソックスの子供用ユニフォームを来て、立っていた。上着のボタンは開いている。ブラジャーもしていない。
「息子が欲しがった唯一のプレゼントが、ホワイトソックスのユニフォームだった。紋章が大好きでね」
「いい趣味だ」が、唯一口から出た言葉だった。
彼女は、こっちに、巨大な買い物袋を投げてよこした。
「そのカブスのユニフォーム、着て」
僕は、あまりにも小さな、ダサいユニフォームを着ることに同意した。というのも、そう長時間着ることにはならないと、感づいていたからだ。
実際、僕の第六感は正しかった。正確には、およそ90秒間。その後の、甘美なる所作を省いて形容するならば、カブスとソックスが、クロスタウン・インターリーグの愛を、6月の夜に、幸福感に包まれた2時間にわたり、育んだ…となるだろう。
両者は、プロ顔負けの、類稀なる攻守、そして、スキルを披露した。完璧な犠牲バント、ホームベース(僕)と三塁(彼女)の立て続けの盗塁、3回の追い込みのためのトスからの牽制による刺殺、強烈なライナーのダイビングキャッチ、5-4-3のトリプルプレー…。
7イニングに続く、内野への水撒き、バッターボックスの整備後、二人は攻守ならびにポジションを交代し、彼女が投げ、僕が受けた。さらに2イニングを終えた後、9回の裏に、僕はまた、主導権を握った。アニメの世界のような、スプリットフィンガー・ファストボールを二球、スローを一球、次に、ラウンドハウスカーブ。景子と僕は、立て続けに、特大ホームランを放ち、それはリグレー・フィールドから、コミスキー・パークにまで届いたかと思うと、次の瞬間には、日航ホテルの上空、真っ暗な夜空のどこかに永遠に消え去った。9回を終えて、スコアはドロー。しかし、選手の疲労困憊を理由に、試合はコールドゲームとなった。
景子は、さらりとした美しさを湛えていた。腕の確かな製図工によるものだろうか。彼女の見目は、優美なまでの均整を誇り、全体としての対称がつくりこまれている。口の寸法は完璧で、鼻すじの形も申し分ない。控えめで、凹凸が少なく、柔和な瞳による主役の座を見事に演出。腰、胸、足、肩、手は、体全体に調和するかたちで、誂えられ、寸法と形状が一つに結実。簡単に言うならば、景子の並外れた美は、月並みを突き詰めた結果なのだろう。数分間の小休止の後、審判の決断を覆し、延長戦を開始させようと試みたものの、彼女は、すぐさま、それを退けた。
「初体験だった?」と数分後に、彼女は尋ねた。
「まさか、そん…」
「日本人女性と」
「なんで、それが?」
「盗塁が、おそるおそるだった」
「先に投手の動きを確かめるのが好きで」
二人は、声をあげて笑った。
次に、アメリカ人の夫について聞いてみた。
「二年間、夜の営みがないの」と彼女は打ち明けた。「書斎ですぐ眠りについちゃって、もううんざりして、そこにベッドを移した」
「この楽しみを、放棄しただって?」
「まあ、一年に一回か二回は、セックス目当てでベッドに来るけど、終わるとすぐに帰っちゃう。動物園のパンダでも見に来るかのように。ムードのかけらもない」
そんな言葉を聞いた僕は、正気では居られなくなった。
「携帯を」と僕は言った。「今、電話するから」
「誰に?」
「いいから」
発信音が鳴った。景子は、シートにくるまりながらベッドに腰かけている。
「バーニーさん、こんにちは。ジェレミーです」
「アートから聞いてるぞ。あいつを味わったって?」
「勘弁してください。普通、そんな理由で、電話しませんって」
「普通、雇い主の隙をついて裏切ったりしないもんだが 」
「誰も、あなたのこと裏切ってないでしょうに」
「じゃあ、なんだ。このザマは」
「そもそも、あなたに先に話があったはずですよ」
「地獄に落ちやがれ、ジェレミー」
「もう、お店には戻りません」
「バーニーズの看板を、俺自身で探し出し、クソみてぇな店を、焼き払ってやるからな。わかったか?」
「でも、誰も、あなたの店名を使いませんから、安心して」
「てめぇに、デリの切り盛りができるわけねぇんだよ」
「なんとかします」
「恩知らずのクソガキが」
「では、失礼します」
「六ヶ月も持たねぇよ。ジャップの国で朽ち果てな」
「バーニーさん、どうも。理解してくれると思ってました」
電話を置くと、無性に安心感の波がこみ上げてきた。
「素晴らしい」と、無音の拍手をしながら、景子が言った。「よくやった。お祝いしなくちゃ。ルームサービスでシャンパンを用意しましょう」
「それは、どうも」
「開店前にやることが、山積みなの」
「いつから、動くべきでしょうか?」
彼女はドレッサーまで歩き、引き出しから一通の封筒を取り出した。
「これが、あなたの航空券。今日から、一週間。あと、名刺も入ってる」
片面には日本語、もう片面には英語。名刺には、僕の名前と肩書き(ストアマネージャー兼パートナー)が黒字で書かれていた。その上部には、赤字で“シカゴ・デリ”、下には、青字で“東京唯一の、本物のコーシャデリカッセン”の文字が。
「また、憎いことを」
「変化の準備ができてるって、わかってた」
「それ以上の準備が、できてるけど」
「あら、そうからしら」
彼女に口づけしようと迫ったが、ぷいっと顔を逸らされてしまった。
「今夜のことは、契約開始ボーナスですよ、バグさん。これからは、ビジネスのみで、お願いいたします」
「ウォーミングアップだけでも?」
「キャッチボールもなし」
「シーズンオフか」
「こう考えてみて。一夜限りの関係なら、何百…もしかしたら、何千というチャンスがあるわけでしょ?でも、人生で、本当に大金を掴むことのできる機会なんで、何回あると思う?一回か二回じゃない?」
彼女の言わんとしていることは、否定のしようがなかった。加えて、いつか、どこかで、また愛し合えることを感じていた。賢くて、生意気で、仕事の流儀を心得ていつつも、中身には、遊び心が潜む。そんな景子は女性的で麗しく、強かなのに従順で、鋭利なのに柔和。深読みをする世の男性を、からかうかのような存在。
「カツに電話で、朗報を伝えなくちゃ」
「その人は?」
「前に話したバーの所有者で、パートナー。Temptationsっていうところ。デリのすぐ近くの。その名もカツ・ロゼッティ。近いうちに、会うことになるでしょう。地元で名の知れた、生ける伝説なので」
ドアのところまで、見送りをされた。
「では、明日の昼過ぎに、書類のサインのために、立ち寄ってもらいます」
それだけだった。感情の介入しない、ビジネスの仲。まるで、あの時、僕たちがが演じたような、プロ野球選手同士。試合に全力を捧げ、かと言って、距離は保つ。いつ、トレードに出されるかもわからない。
外の空気で頭をすっきりさせようと、二十ブロック、歩いて帰ることにした。クラーク通りの“ラーマース・ホットドッグス”を通り過ぎたとき、 ふいに、空腹であることに気がつき、本当の食事で、調子を整えることに。二つ、三つと、人生最高のポリッシュ・ソーセージに貪りついた。歯ごたえが抜群で、外はパリパリの特大。炭火焼きで表面は黒く光る。そんなご馳走が、口内炎のできた口の中で、弾けた。シンプルで基本に立ち返った、手で食すタイプの食べ物が、胃袋のみならず、魂を満たした。僕はこれを、「ホッとする味」と呼ぶ。力強く、スパイシーなソーセージを抱く、柔らかく、温かなバンズ。それを彩るのは、荘厳なる調味料たち。