YAKISOBA
7章 Part 1
リネット・ダウドがついた時、ヴィクター・“カツ”・ロゼッティは、ちょうど、バーの向こうにいた。通常、Tabascoのロゴがついた赤いエプロン、麻薬の合法化を訴える黒のTシャツ、タイトな黒のジーンズを身にまとったカツは、ドリンクのミックスをしたり、正面玄関の担当をしたり、裏手のVIP席の面倒を見たり、ダンスフロアを気にかけたり、また時には、特別な誰かの気持ちを高めるために魅力的なバラードを流したり、建物内を忙しく動き回るものだ。
身長188cm、細いウェスト、突き出た顎、ジェルできれいにセットされた“まげ”を颯爽と頭に乗せ、骨董ものの短剣を太ももあたりの鞘に収めたその姿は、初来店者が見ても、Temptationsの責任者であることを堂々と物語っていた。 地元で親衛隊の類のファン層すら獲得する、47歳のカツ・ロゼッティはまさに、引っ張りだこの男。
この店のどの時代切り取ってみたって、自称「バーテンダー」を名乗る者たち、最低でも常時20人が、履歴書を用意している。しかし、箱を開けると、バーテンダーのイロハを知る者はほとんどいない。スコッチを“ニート”で提供しろと指示された際には、ともすると、ちょっとした“引きこもり感”を演出する者すらいるだろう。そんな奴らは、大抵、見た目が整っていて、日焼けとポニーテール姿が相場。なにせ、カツ・ロゼッティの後釜を狙い、チャンスをうかがっている。その立場を利用した、あふれんばかりの女性との出会いが目当てだ。
例のバーは、実際、およそ30年前にミシガン州立大学での学生時代の途方もないくらい多くの時間を費やした、ミシガン、アン・アーバーにある、湿り気の強く、パチョリの匂い漂う、地下のバーFi’lay of Soulに習った、カツの秘蔵っ子だ。カツは、当初、そこで、出来の悪い詩を書いたり、大学の転覆計画を練ったりしていた。
アン・アーバーのある夜のこと、新しくネパールから入荷したばかりの大麻を試してみた後、カツは、トイレの壁に貼り付けられた白黒の Temptationsのポスター(これが、東京にある現在の彼所有のバーに飾られている)を拝借した。
リネット・ダウドが、の太い声とともに、生き絶え絶えに、バーならではの背の高い椅子に崩れ落ちながら「脚が棒のようだわ」と一言。「ブラッディー・ギーシャで、わたしの疲れを癒してちょうだい」
カツ・ロゼッティは、額の汗をジャケットの袖で拭う、たくましい女性を見上げた。その女性は、太い鼻とたくましい顔に不釣り合いの、青色の“おばあちゃん”仕様のサングラスをかけている。
「お客様、ゲイシャと発音します」とカツが訂正した。
カツは、愛すべき日本酒をトマトジュースと混ぜることに十分な抵抗は持ち合わせているが、経験上、地元の習慣を無視することが、“祝い酒発明の母”であることは心得ていた。
「それと、あなた、エアコンを強くしてくれないかしら?」とリネット。「汗ばんじゃって、仕方ないのよね」
微笑むと、カツは、背後の壁に設置された自動温度調整器をいじった。
ブラッディー・ゲイシャを一口でごくりと飲み干すと、リネットは、ビールが冷えているか確認した上で、「くだらない果物が入ってない、やつを」と注文した。
彼女は、ハンドバッグからくすねたガイドブックを取り出すと、それの、蚤の市での経緯を説明してみせた。次の瞬間には、まるで聖歌隊のように本を握り、立ち上がると、柔らかで同時にしわがれた声による、朗読が始まった。
「東京が誇る活気に満ちたオールナイト・パーティー・タウン、六本木。約5平方キロメートルのネオン街にひしめくのは、バー、ディスコ、クラブ、レストラン。特に有名なのは激辛カレー、売春婦の崩れきった日本語、目を丸く見開いた、船から降りてきたばかりのアメリカの船乗り。はしゃぎたい盛りの女性が見逃してはならないバーが、Temptations。地元の有名人や豪勢な面々が集う場所。ハリウッドスター、ロックミュージシャン、ダンサー、モデル、さらには、海外の政治家や高官までもが、ここで羽を伸ばす。デヴィッド・ボウイ、ロバート・レッドフォード、テッド・ケネディは、この街を訪れる際には、ここで連日パーティーを楽しむのだとか」
カツは、読み聞かせをされるのは好きでなかったが、かといって、彼女を止めることもできなかった。
「装飾は、決して見栄を張らずに心地いい。まるで、友達の家を訪れた時のよう。Temptationsで肝心なのはソウルミュージック。ほとんどの場合、フォー・トップスのトップ40ベストヒッツ。まさに、一流、正統派の音楽。最先端のシステムにより、朝7時までビートは続く」
「ここが、特に最高なの」と微笑みながら言うと、リネットは咳払いをした。「さあ、よく聞いて」
「侍の髪型をしたカリスマ性あふれる店主、カツ・ロゼッティは、その場所に愛を注ぐ、さりげないプロ意識漂うアメリカ人。毎晩、バーの向こう側から、常連客を楽しませ、気前よくドリンクを注ぎ(ビールが揺るぎない人気)、お気に入りのアクティビティ、いちゃつきに興じる。
剣術の達人、高野先生から指導を受けた唯一の外国人。古式日本刀は決して、彼のもとから決して離れない。かつて、酒に酔い、ウェイトレスに手を出した日本人サラリーマンの着用していたアルマーニの襟元を“整えた”との噂も。
経営陣による、若きスタッフに、他人同士の“お近づき”をサポートし、そそのかす極意を伝授する能力は高い賛辞に値するだろう。東京の大学で開催される人気の豆腐ダイエットプログラムに参加するためにやってきた、体周りのしっかりした外国人男性や女性に出くわすことも、また一興。一押しの名店」
「素晴らしい言葉選びだ。印刷させてもらえませんか?」とカツは言った。
リネットは「もう、あなたのよ」と言いながら、その本を手渡した。「プレゼントです」
「本当にいいんですか?」
「ええ」
「どうも」
「明日から会議で、とっても忙しくなるの」
「ビールは店からのおごりです」
「あら、ありがとう」とリネット。「男に酒を奢ってもらうのは悪くないわね」
彼女は、カツに向かって眉毛をくいっとあげた。
「会議と言いますと?」とカツ。
リネットは、短く高い、くすくすとした声をあげると、顔を赤らめた。その瞬間、音楽を任されていた、サーファー兼バーテンダーのデューク・秋山が、サム&デイヴの『Sweet Soul Music』の音量を、気づかれないほどわずかに上げた。
声が聞こえるよう、前のめりになりながら、彼女は、「ファム・ファタール・フェア…六本木のプリンスホテルで」と答えた。
カツがくっくっと笑う。「何ですか、それは?」
「世界中からの服装倒錯者とトランスジェンダーが一同に会し繰り広げる、一週間にわたるイベント。昨年はリオだったんだけど、当時の私には早かったの。それで、今回が初参加」
「それは、おめでたいですな」
「あら、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
すると、すぐにこう続いた。「音楽がちょっとうるさいわね」
リネットの方をふと見るカツ。
「おっぱいで振動を感じるわ」とリネット。「あ、これゴムじゃないの。ねえ、あなた、これ、全てがわたしなの」
彼女はサングラスを鼻のところまで下げると、カツにウィンク。次の瞬間には、質を証明するかのように両方の胸を手で覆ってみせた。彼女の言葉の末尾━━全てが私なの━━が、低い、男性の声で発せられていたことから、カツはついに、リネット・ダウドの本意を理解した。もしくは、彼の単なる思い違いかもしれない。長いバーの向こう側にいるデュークに対して、音楽のボリュームを下げるように合図を出した。