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やきそば  作者: ライル・フォックス
4/13

YAKISOBA

4章


翌日、早朝5:30。ジェレミー・バグがベッドから這い出るころ、タイムゾーンで言うところの14時間先を行く東京は、午後7時30分。ペンシルベニア州にある小さな町出身の、体格のいい女性警官、リネット・ダウドは、2.5cmのヒールに身を預け、危なっかしい足取りでネオンに照らされた狭い脇道を進んでいた。彼女の化粧は、少し、やりすぎで、繊細さを欠いた仕上がりであった。完全に道に迷い、一つ一つの店の前で立ち止まっては、店名に目を凝らす。次に確認するのは、手に握られている『はしゃぎたい女性のための東京めぐり』と題されたソフトカバーのガイドブック。


女リネット・ダウドは、ひとりしらふで、例の本の中で最高評価を獲得する、六本木を代表するお洒落なナイトスポット、Temptationsを求め、ただ歩みを進めた。


アジアで最もイカした、ソウルミュージックの楽しめるダンスバー。チリビーンズは激辛、ビールの冷えはイマイチ。愛想のない、イケメンバーテンダーにクレームをつければ…もれなく、バケツ一杯分の氷を“ご馳走”してもらえるとか。


二週間に渡る旅行━“オリエンタル・オデッセイ”ツアーと題され、次に香港を訪れショッピング、その後には台湾という予定であった━の出発前、リネットはアンティークのワッフル焼き器を取り合う二人の女性のいさかいを仲裁するため蚤の市に召集されたのだが、このとき、ガイドブックをねこばばしたのだった。


闘志をむき出しに、取り乱した二人をなだめようとしたとき、リネット・ダウドのみぞおちに、ワッフル焼き器の持ち手がクリーンヒットし、彼女は、膝から崩れ落ち、呼吸をすることすら危うかった。この痛みはのちに、「まだ、ブラジャーをつける時に痛むんだから」とバーテンダーに、語られることとなる。


痛みそのものに加え、職務中に、それがなんとも不名誉な方法でその身に降りかかったことから(なんてことのないワッフル焼き器をみすぼらしく奪い合う、“中身空っぽ女”二人によりノックアウトされる屈辱は、想像に難くない)腑が煮え繰り返る思いで、リネットは、いざこざを収拾すると、目ぼしいガイドブックを後ポケットにしまったのだった。


彼女は、「で、なんで、盗人なんかが、楽しい思いをするものなのよ」と付け加えている。


シェラトンホテルのコンシェルジュが言うには、Temptationsは、「天国を凌駕するほどに安全な場所」に位置するはずだったが、リネット・ダウドが、自身の家のガレージに満たないほどに小さい、ほの暗い墓地の前を通り過ぎた時、突如、気味が悪くなった。その時、背後から、何が腐食したような匂いが漂った。リネットは、この悪臭を、全く処理の施されていない下水に溜まり、腐りきった魚の頭のそれとしか形容できず、息を止めると、粉っぽい鼻をしっかりとつまんだ。


通りに並ぶたくさんの屋台━焼きそば、がんもどき、しょうゆで味付けされた焼きとうもろこし、など━の一つでは、白いコットン製のももひき、タンクトップという出で立ちの泥酔した老人が、箱を置いただけのようなみすぼらしい椅子に腰掛けていた 。すると、その老人が、コップ一杯の、よく冷えた、安い日本酒と、やきそばを前に「おや、そこの色っぽい…外人のお姉ちゃん…孤独なじじいが、焼きそばを奢ったろうか…ちょっとおいでな」と幸せそうな、抑揚のない口調とあわせて 、リネットに向かってやせ細った腕を振り始めたではないか。


その老人は、期せずして、二つもお世辞を送っていたことになるが、リネットは、目を合わせようとせず、かわりに、ハンドバッグの中に忍ばせてある、パトカーから拝借した催涙スプレーを手探りで追った 。


彼女の足は、もう、腫れ上がり、擦り傷さえできていた。一歩進むごとに、わずかによろめきの度合いも増す。身長170 cm、 体重82 kgのリネット・ダウドは、疑いの余地なく、ヒールに適した体型とは言えなかったが、多少の流麗さと快適さを犠牲にしてまでも、彼女の所有するコレクションは80を超える勢いを見せたのであった。


現に、旅行者特有の向こう見ずで、ひどい思考に苛まれ、リネットは荷造りに丸々七日間を要した末に、結局、三つのスーツケースに十四組のハイヒールを━色とりどり、様々な髪型のウィッグとあわせて━放り込んでいる。蒸し返すような今宵に身につける、肩上丈、カールのかかった柔らかな茶褐色のウィッグは、彼女の外出時のお気に入りであった。


リネットは、ヒールでここまで長い距離を歩いたことがなかった。汗で、頭皮に痒みを感じるほどだ。あの時、ホテルのコンシェルジュが、十分ではなく、二十分はかかると進言してさえいれば、今頃、タクシーに散財していたことだろう。


重苦しい空気を通り抜けるようにして、蜂蜜の滴るかのごとく色めかしいマーヴィン・ゲイ(もしくは、ジョニー・キャッシュであったかもしれないが、彼女に確信はない)の歌声が耳に届いた瞬間、彼女は足を止め、額に滲む汗を、ポリエステル製のオレンジ色した袖口で拭い、狭い道に整然と並べられたスクーターの中の一つのバックミラーでお色直しをした。


Temptationsは、十年ほど前から営業を続けてきた、お洒落な雰囲気漂う佇まいで、端から端まで到達するほどの長さの、引っ掻き傷のついた木製のバー、所狭しと並ぶテーブルで飾られ、奥の方にはVIP専用席まで用意されている。60年代、モータウンというジャンルを席巻したスターたちで彩られた、ポスターやアルバムが並ぶ、ソウルミュージックバーだ。リネットがここに足を踏み入れた時には、ちょうど、ウィルソン・ピケットによる往年の名曲『ムスタング・サリー』が流れていた。


ボロボロになったコロナビールのケースが、さりげないワンポイントアイテムとして、入り口前にある木挽台にホッチキスで留められ、自らの重みに耐えらえないかの如く、右肩下がりに湾曲する手書きの文字が記されている。その擦り切れた看板の中身はこうだ。


入店前に一読のこと

1. 当店は民主的な店であることを誇りとし、どれだけ有名であると、または、裕福であると本人が主張する場合においても、その人物の入店を断る権利は当店にあるものとする。

2. スケベ根性丸出しの手を自制し、価格にイチャモンをつけない限りにおいて、米兵の入店を歓迎する。

3. 葉巻を口にくわえる前に、周りを見回し、当店が客のつまみ出しに無駄な時間を費やさないように留意すること。

4. 携帯電話も同じく。持参する場合には、“その器械の類”の電源をオフにすること。違反者は薄汚れたケツを、汚いドブにぶち込まれることとなるので、あしからず。

店主のカツ・ロゼッティより


扉に手をかけ押し開ける前に、リネットは、「肩肘張らない空間を演出する、アメリカの古き良き皮肉とは似ても似つかない」と思いを巡らせつつ深呼吸をして、覚悟を決めたのだった。


大げさなまでに丁寧で、婉曲的な言葉遣いや表現が好まれる文化においては、カツ・ロゼッティの歯に衣着せぬ看板は、商売の妨げになると考えられがちだろう。しかし、それとは正反対なのであった。つい最近、オープン十周年の祝杯をあげた Temptations は、“タバコが一本吸い殻になり、高価なメープル製テーブルの上に灰として落ちる間も無く”新たなバーが所有者を変える、という移り気なご時世の中、急速に成長を続け、熱狂的な支持層を獲得し、東京のナイトシーンの中心となる地位を獲得しようとしていた。



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