YAKISOBA
3章
例のそそる女性には、悪い知らせを届けることしかできなかった。
「バーニーは、取り込み中でして、申し訳ないとのことです」
「東京でコーシャ料理のデリがどれだけ大くの利益を生むか、あの方にお伝えいただけませんか?」
「コーシャ料理に特化しているわけではありませんが」
「そうですか。事実がどうであれ、ビジネスに支障はありません。マッツォボール入り味噌汁…ベーグル寿司など」
「お力になれずに申し訳ございません」
「ただ、お店の名前を使わせていただければ…あとは弊社にお任せください。これで天から、ロイヤリティという名のぼた餅が降ってくるなんて夢のような話かと」
「うちの者、堅物で有名でして」
「では、あなたはいかがですか?」と彼女は食い下がった。
「私…ですか?」
「ここでの勤務は長いんですか?」
マネージャーのアートとスタッフ一同は懸命に聞き耳を立てる。
「3年間です」
「では、ここでの商売は熟知されていますね」と言うと、彼女は、カバンに手を入れながら、初めて微笑みを見せた。その瞬間、頭の中の写真には、白く整った歯が書き加えられた。
声をひそめながら、何食わぬ顔で「で、どのようなお話でしたか?」と僕は尋ねた。
「それがですね、“購入”…の件で」
その瞬間、この女性には筋があることを感じ取った。“購入”とは“レシピ”を表す業界用語である。
実際、壁に貼られたシカゴトリビューン紙によるところの“シカゴを代表する快い刺激”を備えたパストラミをはじめとする、秘伝のレシピを求めて、今まで何度か交渉を持ちかけられたことがある。
ある男は店に入るやいなや200ドルを懐からさっと取り出し、レシピを買うと申し出た。魔法のレシピを手渡し、僕はここで何事もなかったかのように働き続ける、という提案らしい。ただ僕は、すかさず、失せろと言ってやった。もしバーニーを裏切ったとしても、そのあと知らん顔して、いつもどおり会話を続けるような人間じゃない。人の妻と事をおこすのと、その女性の匂いを体にまといながらも何も知らない男とビールを交わすのは、全く別の話だろ?
「厨房では、上から2番目です」と伝えると、彼女の切れ長の目が青天の霹靂と言わんばかりに、一気に見開かれた。
「それはそれは」と彼女は、カウンター越しに手を伸ばしながら言った。 「私、田辺恵子と申します。金曜日まで日航ホテルに宿泊予定ですので、日本での素敵なビジネスチャンスについてご興味があれば、お電話ください」
僕は名刺を受け取ると、ナプキンに自分の名前を書いて渡した。
「あの、ジェレミー・バグさん…?」
「ジェレミージェレミーで結構ですよ」
「ジェレミーさん、一応言っておきますけど、私、単刀直入に物事を処理し 、きびきび行動するタイプです。この点はあらかじめご了承いただければ幸いです」
デリ正面のガラスを指差す彼女。
「ランチの時間に、外からあなたを観察してみて、身の振り方を心得ている印象を受けました。東京に来たら成功できるでしょうね」
「ちょ、話が早すぎませんか」
「あなた、独り身ですよね?」
「なんで、そんなこと?」
「日本女性特有の“勘”というものでしょうか。日本の女性にけっこうおモテになられるでしょうね。では今日はこのへんで失礼いたします。お電話、お待ちしております」
「その前に、サンドはいかがですか?」
「ああ、そうですね。ええ」と彼女は言った。「人気のパストラミサンドを…チェダーチーズ…スライストマト…マヨネーズ…シンプルなトーストでお願いします。トースト、ありません?」
なんたる屈辱!先祖代々受け継がれし、質素なる美を体現するライ麦パンのパストラミが、今この手で、チーズ、マヨネーズ、トマト、トーストという混沌に生まれ変わろうとしている。冒涜だ。ユダヤの伝統に泥を塗る禍々しき行為。
その時、恵子さん、そして、ことば巧みに紡ぎ出される日本の幻想に夢中にさえなっていなければ、より明確な意識のもと、彼女の注文したサンドが今後訪れる未来を暗示する象徴かと、思いを 巡らせることができたかもしれない。だが、年若き者の欲求と妄想の世界に非論理性と突発性は欠かせない要素なわけで。