YAKISOBA
1部:パストラミ;キャラメルチーズケーキ;とろろそば
2章
それは朝早くのことだった。10時前だろうか。その時デリにいた客は一人だけだった。 すらっとした長身に、程よく日焼けした肌の、アジア系の女性。スカートは短めのベージュで、オレンジのティアドロップ型サングラスを頭に乗せ、 メニューを時が止まったかのように眺めていた。メニューがヒエログリフで書かれているのかと疑ったほどだ。
一言も発することなく、その女性は、大きなショルダーバッグからカメラを取り出すと、あたりの写真を撮り始めた。所々欠けて、汚れの付着したカウンターのケース、秤、スライサー…カウンターに置いてあった古びたポテトチップス用陳列棚まで写真に収めた。店内に入ってきた人が写真撮影をすること自体は決して稀なことではないが、相場は、もっとさりげなくやるものだ。旅行者はふつう、お土産用にシャッターを切り、ネブラスカかテキサスの友人に見せびらかす程度だろう。バーニーズ・デリに隠された魅力を暴きだそうと考えてカメラを片手にやってくるアホな同業者もいないことはない。
「その不潔なカメラがぶっ壊れるまで撮るがいいさ。道路を挟んだ真向かいに店をおっ建ててみな。6ヶ月が関の山だろう」がバーニーの口癖だった。
その女性の魅力を無視することは到底できなかった。何か狙いがあるに違いない。だから油断するわけにはいかなかった。
「瓶のピクルスだろ…」バーニーは、忠告が大好きだ。今回はカウンターにあるコーシャ料理、ディルピクルスのずんぐりした瓶を指差している。 「…お前が熱視線を送るべきは。働け、この役立たずが」
しかし、一方で、空虚を帯びて、渋めのワインレッド色したハンカチで湿った額をぽんとなでる彼女を気の毒に感じ、もうじきのランチタイムに押し寄せる群衆に、55kgの体が飲み込まれてしまう様子を想像することには耐えられなかった。
なにより、女性の放つ滑らかなブロンズの美貌を前にして、無性にバーニーのキャラメルチーズケーキを欲する僕がいた 。その瞳はまるで、ほっぺたの落ちるギリシャ産オリーブ。顔も身体も、どこかの年寄りの逆鱗に触れるリスクをさっぱり忘れさせる。僕は、カウンターに寄りかかり気味になって、低めのトーンで「何かご不明な点はございますか?」と話しかけた。
すると、頭にかけられていたサングラスを外しながら、彼女は、真剣な眼差しで僕をまっすぐ見つめた。
口から出たのは、「弊社は日本でバーニーズ・デリのチェーン展開を行う方針を打ち出しました 」 という宣言の類だった。
自覚している限り、自分は、人の顔を覚えることには人より優れた何かを持ち合わせている 。店を訪れた客の顔だってほとんど全員に近い割合で記憶しているし、ほとんど見ないアジア系の人であればなおさらだ。写真に収めたかのような情景の集積とも言える。ただし、顔しか印象に残らない。だから断言できる。この女性は今まで、デリにやってきたことがない。当店自慢のジャンボサンドもきっと口にしていないだろう。
そこで、今はふさわしい時ではないが、希望であれば、後日に話し合いの場を設けることは可能である、と伝えた。
「ビジネスにおいてタイミングが全てを決することを、どうやら、ご存知ありませんね?」と彼女は尋ねた。
次の瞬間に「申し訳ありませんが、後日は先約で埋まっております」と付け加えられた。
「こちらは2時以降でしたら、問題ございませんが」
「お分りいただけていないみたいですね」と彼女は鋭く返した。
勝機はゼロだった。
「わかりました、責任者に確認させていただきます」
厨房では、コールスローサラダを一式つくり終えたバーニーが、巨大な木製スプーンに乗ったドレッシングのかたまりを舐めているところだった。
「日本でチェーン展開したいという女性がいらしています」
「なんて名前だ? 東京ローズか?」
「いえ、真剣な話みたいです」
「お前らと仕事なんかしねぇって伝えとけ」
「そんなこと言えません」
「俺の弟が沖縄で、日本兵からケツの穴に銃をぶち込まれておさらばしたって伝えて、どんな反応するか見てみろ」
「バーニーさん、それはもう60年以上前の話でしょう」僕の頭の中では、女性から発せられたチェーン展開という言葉が渦巻いていた。
「時が経ったって傷は癒やしねぇんだ」
「まだ、そこで立って待ってますよ」
「帰れと伝えろ!」と怒鳴るバーニー。「もう日本はこりごりだ」
「ちょっと出て来て話でも…もし気が変わった時に」
「いいか、ランチの準備をはじめろ!」バーニーの声は一層強くなる。「おい、いいか。どんな女だろうと、ナニはちゃんとしまっとけよ」