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開幕

開幕


私の記憶の始まりは、星空です。真っ黒い壁みたいな空をおおいつくすように、小さな小さな光がいくつも輝いていました。

私はそれを見て、自分はこの空の中にある星の一つなのだろうと思いました。あまりにも周囲は真っ暗でしたし、体の感覚もなかったものですから、そう思ってしまっても仕方がないとご理解いただければと思います。

 そんな風に勘違いしていると、大きな二つの月が私を見ていることに気づきました。

 やあ、起きたのかい。

お月様がそう話しかけてきましたが、私はうなずく等といった行為ができるとは思っていなかったので、黙ったままでいました。

 君が起きるのを、ずっと待っていたんだ。

 ずいぶんと優しい声でしたから、自分はきっと、お月様に愛されているに違いないと思いました。それはそのときの私にとって、この上もなく幸せな発想でした。この綺麗で優しそうなお月様と一緒にいれば、寂しいなんてこともないでしょう。

 私は優しいお月様のことが知りたいと思いましたので、必死にそれをどう伝えようか悩みました。そしてしばらくたって、自分に口があることを知りました。口があるならば、声を出せるようです。

 あなたはだれですか。

 そう問いかけると、お月様はひときわ大きくなったあと、消えました。がしゃん、という音がしました。夢から覚めたように、私は彼が人間であり、自分もまた人間のような形をしていると認識しました。

果てしなく暗い部屋でした。夜空が天井を埋めつくし、明かりといったら星の光しかありません。枕元に腰かけた男性は、沈黙を守ったまま私を見おろしていました。ふと、血の匂いがしました。頭の横にガラスの破片が散っています。割れた花瓶が、彼の手を裂いたのだと気づきました。

冷たくぬれた手が、頬に触れました。

「君は、ぼくが誰かって聞くんだね」

 さっきまでの優しい響きが消えたことに、私は動揺しました。

反動が都合よく働いたのは初めてだな、と彼が呟きました。

「もし、君が覚えていないなら……いや、覚えていないどころか、知らないのだとしても、そっちのほうがいいんだ。そうに決まっている」

 彼の口ぶりから、どうやらなにか大事なことを、私は忘れてしまったらしいと分かりました。不安になる私をなだめるように、彼はもう一度、優しい声をつくろって言いました。

「ということは、初めましてだね」

顔は見えませんでしたが、彼はきっと笑っていたと思います。

「おはよう、キルケ」

いつものとおり、楽しくても悲しくても笑う人ですから。



































 市場を歩くのが苦手です。

人をさけるのが苦手、というほうが正しいでしょうか。どんくさいようで、歩いている人とぶつかってしまうのです。

舌打ちをされたり罵声をあびせられますので、本当はこんな混雑した時間に出歩きたくはありませんが、あの人が起床するまでに買い出しに行くのが、私の仕事です。

私は目立つ容姿をしているらしいので、いつも帽子を深く被って買い物に出かけます。それが人を上手にさけられない原因でもあるのですが、こればっかりは、どうしようもないことです。以前に帽子を被り忘れて出かけたせいで、知らない人に連れていかれそうになってからと言うもの、あの人は私をとても心配します。

外への買い出しすらさせてくれなくなりそうでしたので、帽子だけは忘れないようにという約束のもと、外に出ているのです。

あの人の役にたたなくなること、それは一番恐ろしいことです。役に立たない人形など、そこらに転がる家具よりも劣る存在に違いありません。いえ、家具よりも劣っていてもべつに構いはしません。なによりも恐れているのは、役にたたないせいで、あの人の傍にいられなくなることなのです。

ですので、今日も役にたつ私であるように、苦手な市場での買い物を進めようとするのですが、それでも上手くいかないときというものはあります。今日もそうです。

「ねえ、お姉さん。今、暇かい?」

 人なつこそうな笑顔の青年が、道を阻みました。

かごいっぱいのチラシと、こぶしほどの大きさの、カラフルなボールを持っています。目が覚めるような青いジャケットと真っ赤なタイツを身につけた姿は、正直目がちかちかするような恰好です。どこからどう見ても、普通の人ではありません。 

 なにかの勧誘かと思って警戒しますが、無視して押しのけるなどということはしかねました。明るい笑顔を見るに、悪い人ではなさそうです。少しくらいお話しを聞いてあげても、と思った自分を心の中で叱ります。こういう考え方がよくないと、しょっちゅう怒られているのです。

しかし思考しているあいだにも、あれよあれよと物事は進んでいきます。

「暇そうだね! それなら、ほら、ちょっとこれ持ってて!」

つき出されたかごを、思わず受けとってしまいました。

青年は中に入っていたボールを、得意げにお手玉しはじめました。通行客がなにごとかと立ちどまりました。

「見てって見てってー、今夜から教会前広場でサーカスだよー!」

 叫びながら、ボールを増やしていきます。六個になった瞬間、彼は「あっ」と声をあげると、すべて落としてしまいました。

見世物が終わったと判断した通行客は、興味を失って歩きはじめました。ボールが地面を転がって遠くへいってしまいそうになったので、拾おうと手をのばします。身をかがめると、風が吹いたせいで、帽子が落ちてしまいました。

「あ、ごめんよ、お姉さん」

 青年が帽子を拾って、土埃を払ってくれました。顔をあげた彼が、息をのんで固まりました。どうすればいいのか分からなかったので、ボールをさしだした姿勢のまま立ちつくします。

「え、えっと、俺新人だからさ、こうやって公演前の客よせしか、やらせてもらってないんだけど。本当は十個まで、できるんだぜ」

彼はもごもごとそう言いました。

 公演、客よせ、という単語が頭の中をくるくると回ります。どうやら彼は、街に巡業に来ているサーカス団の一員のようです。実際に観たことはありませんが、本で少しばかり読んだことがあります。たしか見世物の形態の一種で、今みたいにお手玉をしたり、楽しそうな物を見せてお金をかせぐのです。

ぼんやり考えごとをしたまま、ボールをさしだしていたのですが、彼はなぜか受けとらず、帽子を握りしめたまま黙っていました。強く握りしめすぎてつばが折れています。

「あの、つばが」

 指摘すると彼は「ああっ」と大声をあげました。

「ごめん、わざとじゃないんだ。ああ、しかもここ、ほつれちまってる……」

「大丈夫ですよ。それくらいなら」

 それより、早く帽子を被らないといけません。返してほしい、という意味をこめて手をさしだすのですが、頑として渡してくれません。壊してしまったことで頭がいっぱいになっているようです。

「そうだ! これ、俺のところの衣装係に頼めば、なおしてくれるよ。そうすれば、お詫びもできるし。近いからついてきな!」

 青年は顔を輝かせて、いい思いつきだとばかりに言いました。親指で市場の先をさすと、私がついてくると信じきっているように歩き始めます。

手の中のボールと、青年の手におさまったままの帽子を見比べます。

あの人が起きてくるのには、あと一時間くらいの時間があります。それまでに戻れば大丈夫でしょうか。考えているあいだにも、帽子はどんどん遠くへ離れていってしまいます。仕方ないので後を追います。

 一人でなにかを決める、という行いも、人混みと同じくらい苦手です。私だけで遠出をしたり、なにか特別な行いをすることがないからでしょう。一人で行動するのは、買い物の時間だけです。あの人が眠り、起きてくるまでのあいだ、全部を私の意思で決定しなければなりません。それは怖いことでもあり、楽しいことでもあります。

あえて言うならば、これを自由というのでしょう。未知の体験に浮きたつような気持ちになる、そんな思いもないわけではありません。好奇心というものが、私にもあります。ですがそれ以上に、早くあの人のもとへ帰りたいという焦燥感に駆られるのです。

自由は好きでも嫌いでもありません。ただひたすらに扱いづらいものです。自由だと思っている時間ほど、思考は一つのことに囚われて、結局自由にはいかないのです。

 青年に従って市場を進んでいくと、痛いくらいに視線が突きささるのを感じました。

「お姉さんさ、この街の人なの?」

 顔をふせ気味に歩いていたのですが、話しかけられたせいで、そうもいかなくなりました。

「そうですよ」

「へえ、やっぱり帝国ともなると、洗練された人がいるんだなあ。俺、いろんな国を巡業してきているけどさ、お姉さんくらい綺麗な人、初めて見たよ」

「それは、もったいないお言葉、ありがとうございます」

「俺は南の方の出なんだけど、この国に来て本当にびっくりしたもんな。なんでもあるし、やっぱり都会は便利だよ」

「そうですか」

 あの人以外と一対一で会話すること自体がひさしぶりなので、まごついてしまいます。これは他者と会話するためにも、「そうですか」以外のあいづちを、あらかじめ考えておくべきだったと思いました。

「お姉さん、なにしている人なの? ひょっとして女優さんとか、モデルさん?」

 これは困りました。なにしている人、という質問は、どんな職業をしている人という意味だと思われますが、生憎私は職業らしき職についていませんし、そもそも人間ですらありません。

「家事、手伝いですかね」

 頭をひねって出てきた答えがこれでした。間違ってはいません。あの人の稼業を私は手伝っています。魔法使いを職業と呼んでいいのかどうかは、このさい置いておきましょう。

「あ、分かった。良いところのお嬢さんなんだな! 品があるし、そうっぽい」

「そんな感じかもしれませんね」 

 どうやら都合よく解釈してくれたようです。

「じゃあ、サーカスなんて見たことないだろ」

 青年は歩みを緩め、チラシの一枚をとり出して見せてくれました。

ずいぶんと派手な色使いのチラシです。三角帽を頭に乗っけた熊や、おかしな化粧をほどこしたピエロが玉に乗っている絵が描かれ、真ん中には『今世紀最大のサーカス現る!』と大きく書かれています。

「空中ブランコとか、火くぐりとかさ、見たほうがいいよ。本当にすごいし、絶対面白いから!」

 興奮したように喋られても、またもや「そうですか」と返すことしかできませんでした。想像力が欠けているのか、すごくて面白いと言われても、まるで頭に思い浮かびません。

そもそも空中ブランコとは、どのようなものなのでしょう。空の上でブランコをする姿を思い描きます。どこに支柱をつければ、空中でのブランコが可能になるのでしょうか。

「それにさ、今回の公演では、俺達の中でも一番のベテランがトリを務めているんだ。気まぐれな人だから、今度はいつ出てくれるかも分からないし、今のうちに来たほうがいいぜ」

 熊が玉乗りをしたり、空中でブランコをする人々を思い浮かべて、夢のような世界に妙な気持ちになります。現実に行われているとは、とても考えがたい風景です。まあ、そのようなことを言いだしたら、魔法使いの存在自体が夢のようなものかもしれませんが。

「ごめん、あんまり興味なかった?」

青年が顔をくもらせて、たずねてきました。ちゃんと話を聞いてはいたのですが、あまりにも私が表情を動かさないため、退屈そうにしていると考えたようです。

「いえ、その、興味はあります。空中ブランコとは、どのようなものなのかと考えていて」

 親切そうな人を落ちこませるのは控えたいと思ったので、そう弁明します。

すると彼は「あ、そっか。そこから知らないのか」と言って、空中ブランコとはどういうものなのか説明してくれました。聞いてみると、たいへん危険そうなので、そんなことをして無事なものなのか、たずねます。

「そりゃあ怪我することもあるよ。でも一応、安全のための網が張ってあるし、みんな訓練しているから大丈夫さ」

「そういうものなのですか」

「そのかわり、舞台に立つには、ものすごく練習しないとだめだけどな。先輩なんて舞台に出るまでに五年もかかったんだ。それまでは裏方だよ……まあ、それも訓練のうちだけど」

 誇らしげに語る様子に、この人は、サーカスという場所が心底好きなのだろうと思いました。好きなのは、いいことです。実は私には、好きなものがそんなにありません。焼きたてのパンや、庭に春先咲いてくれる白い花、あの人が朝飲んでいるコーヒー、それくらいです。

「ああ、そういえば、名前聞いてなかったよな。俺、ビケット。お姉さんは?」

「キルケです」

 答えると、いい名前だな、とほめてくれました。いい名前なのでしょうか。私には判断しかねますが、あの人がつけてくれた名前をそう言ってくれるのは、嬉しいような気がしました。といっても、私にはこれが、本物の嬉しいという気持ちなのかどうかは分かりません。なんとなく浮きたつような、誰かに話したいような気持ちを嬉しいと呼んでいるだけです。

 そのあとも、話を聞きながらまっすぐ歩いていくと、十分ほどで教会前広場につきました。

いつもは閑散とした広場に、人がひしめきあっています。巨大なテントを囲むように小さなテントがいくつも建てられ、ビケットさんと同じような、派手な恰好をした人たちが出入りしていました。

 そんな風景を興味深く眺めていると、横をすごいスピードで一輪車が通っていきました。

「おっと、わりいな!」

 一輪車に乗った人は片手をあげて謝ると、またもや走っていきます。あちこちで玉乗りをしたり、火を吹いたりしています。

「すごいだろ」

 にっこり笑って問われたので、今度は心からうなずきました。

まるで街の真ん中に、非日常が降り立ったようだと思いました。あわただしくて、華やかで、なにかを期待させる雰囲気に満ちています。ビケットさんはこの空気に魅せられたのであろうと想像できました。

「へへ、よかった。衣装部屋も圧倒されると思うぜ」

 広場の左端にある、黄色と紫色のストライプが目立つテントへ向かいます。

入口にかかったベールをめくって中に入ると、薄暗い空間に、布がこれでもかというくらい敷きつめられていました。王族のようなジャケットが椅子にかけられていると思えば、ピンク色のフリルだらけのドレスが床に落ちていたりもします。しっちゃかめっちゃかという表現そのものの状況です。

 ビケットさんは布の海の隙間を器用に進んでいき「おーい、エリィ」と声をかけました。

奥に立っている仕切りの向こうから、痩せた金髪の女性が顔を出します。

「なんだ、ビケットかい。今忙しいんだよ、後にしとくれ」

 彼女は赤い唇をとがらせてそう言うと、ふとこちらに目を止めました。会釈をすると、驚いた顔で出てきます。下着姿かと思えるくらい薄い黒のワンピースを着て、腰に裁縫道具らしいポシェットを下げています。春先には、少し肌寒そうな恰好です。

「あんた、どこでこんないい女、捕まえてきたんだい」

 彼女はこちらに近づいてくると、ビケットさんの頭をこづきました。

「違うっての! さっきチラシ配りをしていたら、うっかりこの子の帽子を壊しちゃってさ……エリィなら、なおしてくれるかと思って」

「なーんだ、そういう事かい。まあ、あんたにこんな美人もったいないわな」

「それ、どういう意味だよ」

 エリィさんは、入口で止まったままだった私に向きなおりました。

「こいつが悪いことしたね、お入り。ちょっとしたものなら、出してあげられるから」

「それでは、お邪魔いたします」

 言われるがまま、布を踏まないように慎重に中に入ります。

ビケットさんが帽子を手渡すと、彼女は「はいはい、ちょっと待っていてね」と仕切りのほうへ顔を向けました。

「じいさん。今の話、聞いていただろ。あんたは後回しだから、ズボンはきなおして出ておいでよ。ビケットがえらい美人をつれてきたから」

すると「了解」としわがれた声が聞こえました。

 二人が布を端に寄せて、なんとか一人が座れるくらいの空間を作ってくれましたので、そこで待つことにします。横からビケットさんが「はいよ」とマグカップを渡してくれました。

「これ、エリィが作ったレモネードなんだ。うまいよ」

 私は飲食ができないのですが、それを伝えるのは、なんとなくはばかれる気がしました。

「すみません、なにからなにまで」

 エリィさんは「なに言っているんだい、こいつが迷惑かけたのが悪いんだからね」とかぶりを振りました。

「それにしても、あんた本当に美人さんだねえ……サーカスに興味ないかい? その顔なら、なんの芸がなくても、横に立っているだけで客よせになりそうだ」

 そんなことをしたら、あの人に怒られてしまうでしょう。思っていることが顔に出ていたのか「冗談だよ」と笑われてしまいました。

「こんなところ、あんたみたいな、ちゃんとしたお嬢さんがいていい場所じゃないさ。みんな、ちょっとおかしいんだ……それが面白いんだけどね」

「おーい、俺はまともだぞ」

「嘘おっしゃいよ、この能天気」

二人は仲むつまじげで、まるで姉弟のようです。ずっとこのサーカスで旅を続けているという話なので、家族も同然なのでしょう。

そう話すと「こんな姉貴いらねえや」と毒づくビケットさんに「あたしだって、こんなアホ願い下げだね」とエリイさんが応酬します。

 その会話がまさに姉弟そのものでしたが、そのことは言いませんでした。家族というのは、あえて言葉にしない愛情というもので成りたっていると、先日読んだ本に書いてあったからです。

また、あの人のことが頭に浮かびました。あの人にもきっと昔は、家族がいたのでしょう。家族とは、生物のすばらしい営みの一つです。心の水面下で繋がりあい、支えあうその本質を、人形は知ることが叶いません。人形に可能なのは、主人のために存在すること、それのみです。

ああ、しかし、存在していることのみが本質ならば、それはどのような形で昇華されるべきなのでしょうか。もし必要とされなくなったとき、私は何になるのだろうと不思議に思います。

「よいしょっと」

 楽しそうな会話を聞きながら考えにふけっていますと、声が聞こえました。

仕切りの向こうから、見事な白いヒゲをたくわえたお爺さんが出てきました。緑色のタキシードに身をつつみ、銀色の靴をはいています。相当なご高齢のように見えましたが、しっかりとした足取りでこちらに近づいてきました。

「ビケット、美人さんはどこだい」

「おーじいさん! こっちだよ」

 おじいさんは私に気づくと、顔をまじまじと見つめてきました。

「なあ、本当にきれいな子だろ?」

 目と鼻の先くらいまで近寄ってきたところで、彼は目を大きく見開きました。

「……キルケ、あんたキルケじゃないかね」

「はい?」

 唐突に呼ばれた名前に、驚いて声がもれました。

「なんだ、じいさん。知りあいだったのか?」

「や、知りあいと言うか、なんというかな」

彼に会ったことがあるかどうか記憶を探りましたが、依頼人の中にこのような人がいた記憶はありません。

「私のことを、ご存じなんですか」

「ああ……そうだなあ」

「ちょっとじいさん、話についていけないんだけど」

 エリィさんが、そう文句を言いました。

おじいさんは「悪い悪い」と手を振って、私から少し離れました。

「わしの昔の知りあいにそっくりな上に、名前まで一緒だったのよ。こんなことあると思うかい、エリィ」

「なにか勘違いしているんじゃないかい。こんな若い子が、あんたの昔の知りあいってことないんだから」

「そうかもなあ、人違いかもしれんし」

 その言葉におじいさんは納得し、あらためて私と握手をしてくれました。

「いや、自己紹介もせずにじろじろと悪かったね、キルケさん。わしはルージってもんだ。ここでかれこれ五十年ほど、ちょっとしたマジックをやっている」

「この人が、さっき言った人だよ」

 ビケットさんが腕を大きく広げて、ルージさんをさし示しました。ベテランのマジシャンと話してくれましたが、たしかにどこか風格がある人です。普通の人生を歩いている人がまとっている、どこか疲れたような空気を、彼は持っていませんでした。

「そうだ。帽子はつくろっておいてあげるからさ、マジックでも見せてもらいなよ。終わったら呼びに行ってあげるから」

「へえ、そりゃあいい提案だね。あんたも、それでいいかい?」

 私を知っている様子であったことが引っかかりましたが、断る理由もありません。

「はい、見せてくださるのなら」

「それじゃあ、行こうかね」

 彼は私が持て余していたレモネードを一気にあおると、テントの外へ出ました。後ろからビケットさんもついてきました。

「おや、ビケット、さっきの話を聞いていると、お前さんのせいで彼女の帽子が壊れちまったらしいじゃないか。そんなら、おまえはエリィを手伝わにゃいかんぞ」

 ビケットさんは「ええっ」と言って、嫌そうな顔をしましたが、ルージさんには逆らえないようで、すごすごとテントへ戻っていきます。エリィさんがお姉さんなら、ルージさんは一家の父なのでしょう。

「さーて、それじゃあキルケさん。まず道具を取りにいかなきゃならんから、わしの小屋に行こうかね」

「はい」

団員の人々はルージさんを尊敬しているようで、通りがかるたびに挨拶をしていきましたが、彼自身はずっと私のことを見ていました。やはり、どこか見覚えのある顔なのでしょう。

私自身も、もう一度記憶をたどってみたのですが、あいにく記憶力だけはよいので、最終的にやはり会ったことがないという結論にしかなりませんでした。

しかし考えてみれば、私が知っている人間とは、あの人と関わった人間であるはずです。それなのに話を聞いていても、ルージさんからあの魔法使いはどうだとか、そういう話は一切出てきません。

なにをして過ごしているのか、どこから来たのかなどといった、あたりさわりのない、優しい会話を続けながら、衣装部屋の反対側にあるテントに入りました。中はさっきと同じようにうす暗く、雑多とした雰囲気でした。どうやら団員の楽屋になっているらしく、ベニヤ板で簡易的に空間が仕切られていて、小さなスペースがそれぞれの部屋になっているようです。

「さあ、ついたよ」

ルージさんについて迷路のような道を進んでいくと、大小さまざまなトランクが置いてある部屋につきました。他の部屋よりも少しだけ大きく、二人が入ってもまだ余裕があります。

「ちょっと待っていてくれるかい」

 彼はトランクの中身をひっくり返し始めました。なにに使うのか見当もつかないような機械や、トランプ、シルクハットなどが、どんどん散らかっていきます。

「わしは、八つくらいのときに昔の団長に拾われてな。ここでマジシャンとして育てられたのよ」

 なにかを探しながら、いきなり彼が話始めました。

「昔は娯楽が今よりも少なかったから、客入りはよかったが、まあ大変だった。風紀が悪くなるって衛兵が怒れば、次の日には面白がった領主の屋敷に出向く。しょっぴかれそうになったことは何回もあったが、うちのサーカスは運がよかったからか、無事にここまで大きくなれた」

黙って耳をかたむけていると、彼はやっと目当ての物が見つかったのか、トランクの奥に手を突っこみながら話を続けました。

「そんな風に昔からやっているから、やっぱり団の片隅でへいこらしている古株がいるものでな。今のわしみたいな、しょぼくれたじいさんよ。そんな彼があるとき、教えてくれたのよな。ルージ。もしおまえが、このサーカスにずっと身を置くつもりならば、ちょっくらこれからする話を覚えていてほしい。延々とここに伝わる逸話があるんだってな」

 彼は写真を渡してきました。すっかり茶色くなって風化しかけたそれには、二人の人物が舞台袖で向かいあう姿が写っていました。

右側にうつる人はローブのそでをまくって、もう一人になにかをしているようでした。フードを深くかぶっているので顔は見えませんが、女性のようです。

もう一人を確認したところで、ありもしない息が止まりそうになりました。

ルージさんは黙っています。

その目の中に、無表情な人形が立っていました。この写真と、まるで同じ姿をした、ただの人形です。

「なあ、キルケさん。わしがこうも長生きしたのは、あんたに会うためだったのかもしれんなあと思うよ」

 優しい声で続けます。

「その話をした翌週くらいに、爺さんは死んじまってな。わしにはその写真しか残っておらんが、あんたを見た瞬間に一目で分かった。なんたって、とんでもない美人だって聞いておったからな」

「その逸話とは、どのようなものなのですか」

 無いはずの心臓が、高鳴るような気がしました。聞いてはいけない、と心中で誰かが言います。あの人の顔がよぎります。

「聞きたいかい」

「ええ」

 知ることで、なにかが変わるかもしれないという予感がしていました。それでも、手の中の写真が引き返すことを許してはくれません。

「長話になるのでな、そこに腰かけておくれ」

 床に座りこむと、彼は一つ咳払いをしました。

「せっかくだから、じいさんと同じように話をさせておくれよ」と呟き、その両腕を広げました。

さあさ、皆さんお待ちかね。今宵の目玉の登場です。ここは現世にあらず、ほの暗い地獄の底。天上の天使よりも美しい、人形の凍りつくような美しさをごらんあれ! 我が団が誇る天才人形師、セーリエの舞台の始まりです!









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