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閑話

閑話


 真夜中の街に、雨が降っていた。昼も夜も関係なく治安の悪いスラムでも、こんな天気では誰も出歩こうとはしない。ただ、かすかな土埃がただよう中に、雨音だけが響いている。

そんな街のさいはて、悪臭がうずまく路地裏に、ぼろ雑巾のような物が転がっていた。目を背けたくなるような傷を負ったそれは、どうやら人の形をしているようだ。

彼は紫色に変色した指先で下腹をおさえ、腸が飛び出てくるのを防いでいた。ぐじゅぐじゅになった傷口から血と膿が流れ出ていて、死体とさほど変わらない有様である。

 ああ、シャワーを浴びたい。そう彼は考えていた。

かれこれ二週間くらい帝国中を逃げまわって、風呂どころか食事すら、まともにとれていない。食べなくても眠らなくても死なない体は、こういうときに仇となる。どれほど苦しかろうが、終わりがこないのだ。

しかも、この数時間ほど、誰も道を通りかからない。困ったことに、自分は他人がいなければただの人間と変わりないのだ。誰かが助けてくれるまでのあいだ、このとんでもないゴミ置き場に横たわっていなくてはならないと思うと吐き気がした。いや、もうすでに何回か吐いている。ただ、胃液しか出てくるものがないのだ。

この一か月を思いかえしてみると、失敗したなあという感想しか思い浮かばなかった。

そもそもの元凶は、前の国に飽きて、二百年ぶりに引っ越しをしようと思いたったことだった。以前住んでいた国は栄えている分にはいいのだが、王家の束縛が激しくていけなかった。まるで自分を王宮づきの魔法使いのように扱うし、えらい窮屈な暮らしだったのだ。

それで、こっそりと引っ越しを決行したはいいものを、気づかれたが早いか、追手がこれでもかと送られてきた。

始めの一週間は金をつかませて、誰かに願い事をしてもらうことで、なんとか逃げきれたが、相手は予想以上に本気で、どうにかして連れ戻そうと追いかけてきた。今まで自分に頼りきりで王政を行っていたから、頼りの魔法使いがいなくなったと周囲に知られたが早いが、革命期の訪れは必至であると分かっていたのだろう。

その後の一週間でついに捕まりそうになり、追いつめられた道のどんづまりで浮浪者を捕まえて、言わせた内容がいけなかった。

どうにかして逃げられるように願ってくれと頼みこんだ彼に対して、浮浪者はにやにやしながら、のたまったのである。「猫に変身すれば楽々だよ」と。

そうして猫になってしまったはいいものを、他人に願い事を言わせられないせいで、猫生活を三日も続けることになってしまった。

そして今日、エサを貰おうとした肉屋の旦那に思いきり蹴りとばされ、そのついでとばかりに、最新式の蒸気機関車にぶっ飛ばされた。気がつくと、路地裏のゴミ箱に捨てられていた。魔法使いの名が泣くくらいのみじめさだ。

こんなことなら、おとなしくあの国にいればよかったなあ、と思うが後の祭りである。

魔法を維持する気力もなくなったせいで、人間に戻れたのが唯一の救いだ。もしゴミとして回収されて、燃やされていたらどんな生き地獄が待っていたか、考えるだに恐ろしい。

 そんな風にだらだらと考えながら転がっていると、道の向こうから、誰かがこちらをのぞきこんでいることに気づいた。

明かりがないせいで、どんな人物かは分からない。一つだけ、異様に白っぽく細い足首が、ローブの下から突きでて光っているのだけが見えた。

 その人物は転がる彼を三度見くらいしてから、ようやっと路地裏に足を踏みいれた。

「あのー」

 雨音にかき消されそうなくらい小さな女の声だった。

「し、死んでますか?」

 死んでいたら答えられないだろうと彼は思ったが、そう話す元気はどこにもなかった。ただ、手をあらんかぎりの力で持ちあげて応えた。

「あ、し、死んでない。そうですか」

 彼女はどうしようか迷ったすえに、彼を抱えようとした。しかし、まったく力の入らない体を支えられるような力を、その細腕はどう見ても持ってはいない。試みはあえなく失敗し、二人して汚い雨水に飛びこむ羽目になった。

彼女は泥の中から顔を上げると、ぐったりとして動かない彼を見て悲鳴をあげた。

これは役に立たない、とかすれた意識で思う。もう傷を治すだけの力もないので、願い事をしてもらっても無駄そうだ。

どうしよう、と思考しているあいだにも、気が遠くなってくる。女の慌てた声が徐々に小さくなっていく。

次、目が覚めたときに、土の中にいたなんてことになりませんように、そう願って、彼は意識を手放した。


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