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君とワルツを2

「ノエル、これをかぶって、頭を下げて」

 エリックは召使いの部屋からくすねてきたらしい、綿のスカーフを彼女にかぶせ、唇の前に人差し指を立てた。

 目の前を通りすぎる見張り兵から隠れるために、木陰に身をひそめる。年老いた庭師を見張るよう、彼に目で合図をする。

「あの、本当に大丈夫なんでしょうか」

 身をかがめながら、俺を心配そうに見上げた。

今、彼女は軽やかなベージュのワンピースに身を包み、スカーフで頭を覆っている。一見するとただの町娘だ。かくいう俺たちも、いつもの肩のこる服装ではない。麻のシャツに黒く染めたズボン、狩りに使うブーツを履いているだけの、市民のような恰好だ。

「俺とエリックは何度もやっている。大丈夫さ」

「ああ。一回やったらノエルもはまるよ」

 お決まりのウィンクをすると、彼女はクスクス笑った。

「こら、ふざけている場合じゃないぞ。今がチャンスだ」

 見張り兵が渡り廊下の向こうに消えたことを確認し、二人の肩を叩く。

「こっちもいけるな」

 エリックが親指を立てて、俺たちに合図する。

「ノエル、行くぞ」

 彼女の手をとって、垣根のほうにこっそりと向かう。柔らかな手のひらに、自分の手汗がばれないよう祈りながら、城のはしっこにある垣根までたどりつく。

ここの下には昔から使っている抜け穴がある。人が一人通れるかどうかの穴は、庭師の老人がかなりもうろくしていると示しているが、少なくとも俺達にとっては都合がよかった。

 順番に穴をくぐり抜け、見張りがいないことを確認すると、一目散に街へと駆けだし市場へと向かった。人ごみに紛れてしまえば、あとは衛兵にだけ注意しておけば問題ない。

「よし、もういいんじゃないか」

 エリックが市場の中ほどで言った。ノエルは初めて見る物ばかりだという顔で、きょろきょろしている。

「それにしても、今日はだいぶ楽に来られたな」

 額に浮いた汗をぬぐいながら、感想をもらす。

「ああ。前来たときは、庭で逢瀬しているところにぶち当たって、えらい目に合った」

「まあ……」

 あれは傑作だったと顔を見合わせて笑うと、つられてノエルもほほえんだ。

 あれから半年ほど経ち、彼女とは普通に話せる程度にまで進展した。といってもエリックになついているため、その仲介があって俺とも話してくれているに過ぎないのだが、今のところ、そんなことはどうでもいい。

もちろん貴族の男女、それも三人で頻繁に会っていると、いかがわしい噂がたつ。それを防ぐためにも、ここ最近はなるべく誰にも見つからないように会っている。

そして今日は、初めてお忍びで遊びに行こうと約束していた日なのだ。

「なあ、ノエル。なにか見たいものがあるって言っていたよな」

 エリックが優しい声色で尋ねた。色男ぶった口調はなりをひそめ、彼女を本当の妹のように思っているようだ。

「私、このあいだ、お二人が訪れたって仰っていたお店へ行ってみたいです。ウィル様、いいですか……?」

 遠慮がちに聞いてくるので「もちろん」とうなずくと、彼女は喜びを抑えきれないように笑った。最近は俺にも笑顔を見せてくれるようになって、とても嬉しい。どんな女をものにする喜びよりも、この瞬間がなにより尊いと思う。

「今日はノエルのお忍び初日だからな。どこでも行きたい場所に連れていってやるよ」

「まあ、ありがとうございます」

「ただ、ばれないようにするんだぞ」

 エリックがずれたスカーフを直してやると、彼女は顔を赤らめた。複雑な気持ちになるが、二人を先導することに専念する。今日は楽しむと決めたのだ、下らないことを気にするのは止そう。

 それから、お気に入りのパン屋や市場の出店を転々と歩いた。街には活気があり、来ると元気が出る。ノエルにもそんな活気が移ったのか、だんだんと自信をつけて、あちらこちらに足を向けるようになった。

「こら、あんまり遠くに行くなよ」

 どんどん興味のあるほうへ行ってしまうので、二人でセーブさせつつ、そぞろ歩いていく。

お土産が持ちきれないくらいになったころ、俺たちは街の端まで来ていた。

時間はあっというまに過ぎるもので、城を出てきたときはまだ太陽が東にあったのに、もうすぐ日が傾こうとしている。

「そろそろ帰らないといかんなあ」

 名残惜しげにエリックが呟いた。

「え、もうですか?」

 驚いた声をあげた彼女の顔には、よほど楽しかったのだろう、まだ帰りたくないと書いてある。

「俺たちの馬乗りに君が同伴するっていう理由で、お父上には伝えてあるからね。夜までには帰らないと」

 そう説明すると、ノエルはがっかりしたようにうなだれた。かわいそうだが、俺たちの乳母や執事にはなんとか言い逃れができるからいいものを、ノエルにそんな器用な真似ができるとは、とうてい思えない。彼女の父上に怪しまれないためにも、これくらいが引き際だろう。

 しゅんとしてしまった彼女の頭をエリックが叩いた。

「また来ればいいじゃないか、なあウィル」

「そうさ。また三人で来よう」

 そうあやすと、彼女は顔を上げてこくこくと頷いた。その小動物のような様子に、エリックと二人でにやにやしてしまう。

「な、なんで笑うんですか」

 抗議する彼女を見て、さらに笑いがこらえきれなくなる。

彼も俺も、考えていることは一緒だろう。半年前まで女といえば一晩限りの関係だった俺たちが、妹が出来たように振舞っていることが、おかしくてたまらないのだ。無論、そんな自分たちが嫌ではない。できればこの関係が続けばいいとさえ思っている。

「なんでもないよ」

 言いわけをしても、彼女のふくれっ面は直らない。なだめながら帰路に向かおうとすると、かしゃんかしゃんという音が聞こえた。

鎧の音だと気づき、向こうの曲がり角を確認すると、ごつごつと角ばった形をした影が伸びている。

「やばい、隠れろ!」

 とっさにノエルの肩を抱いて走り、そばにあった樽の影に隠れる。その時、角の向こうから槍を持った衛兵が現れた。

 エリックだけ逃げ遅れてしまったようだ。ふり返り気味で見えた顔は「やっちまった」と言いたげに、頬を引きつらせている。

 鎧の音が近づいてくる。彼も俺も城から脱走して捕まったことが、いくどともなくあるので、衛兵達には悪い意味で顔が知られている。

やがて、二つの足音が遠のいた。心の中で彼に同情しながら道をのぞくと、案の定もうそこには誰の姿もない。

「ああ、なんてこと」

 震える声にはっとして腕の中を見ると、ノエルが大粒の涙を流していた。

「ちょ、どうして泣いているんだよ、ノエル」

 慌てて腕を離して正面にひざまずき、ハンカチで涙を拭う。彼女は眼を真っ赤に腫らし、しゃくりあげながら口を開いた。

「だ、だってエリック様が捕まってしまいましたわ。ねえ、エリック様はどうなってしまうの。まさか罰せられてしまうのでしょうか……?」

「そんな、まさか。ちょっとお父上に、怒られるくらいじゃないかな」

 こんなことで泣きだすとは思ってもみなかった。動転しながら答えると、イヤイヤをするように首を振られる。

「それでも、私が帰りたくなさそうにしたから、あそこで立ち止まることになってしまって……ああ、私のせいで連れていかれてしまったのかも」

「べつに君のせいじゃないだろ」

 涙は俺がなんと言っても、収まらなかった。しばらくは泣き止ませようと頑張ってみたが、こういうときエリックが俺たち二人の橋渡しだったと痛感する。彼がいなくなってしまったせいで彼女の不安は増し、涙はこぼれるばかりだ。

「ああ、お願いだから、泣き止んでくれよ。とにかく俺たちも帰らなくちゃならない。エリックのことなんて、今はとりあえず放っておけよ」

 なだめるのに疲れてしまい、俺はそう口走った。彼女がきっと睨みつけてきたことで、地雷を踏んだと悟る。

「放っておけって、そもそもウィル様がエリック様に、衛兵が近づいてきていると教えてくれさえすれば」

 かみつくような口調に、言葉が返せなかった。たしかにそうかもしれないが、エリックにまで声をかける時間は無かったのだ。

「エリック様がウィル様でしたら、絶対に助けてくださっていました」

 声を荒げる様子に、さすがに苛立ってきた。せっかく助けてやったというのに、それに対する礼の一つもないどころか、他の男のことしか頭にないのか。

 立ち上がって彼女を見下ろす。

「そんなにエリックが気になるのなら、今すぐにでも助けに行ってやればいい。それに、もともとはあいつが自分で気づかなかったのが悪いんじゃないか。兵士に近い場所にいたのに、気づかないあいつが悪い」

「エリック様のことを悪く言わないでください!」

 金切声で叫ばれ、ぎょっとする。彼女自身も驚いたように、両手で口を抑えた。目の際に残っていた涙がぽろりと落ちた。

俺は呆然とした。分かってしまったからだ。ノエルがエリックを兄のように慕っているとは知っていた。しかし、それは兄としての思いを超えている。

「ノエル……」

 なんと言えばいいか分からず、ただ見つめていると、再び青い目のふちに涙がたまり始めた。彼女は手をぎゅっと握りしめて、いきなり走り出した。

「待て、ノエル!」

 引きとめようと追いかけるが、再び聞こえた鎧の音に足を止める。

曲がり角の先で、衛兵に話しかけている彼女が見えた。俺にちらっと目を向け、すぐに視線を反らす。二人は立ち去って行く。

「いったい、なんなんだよ……」

しばらくその場に棒立ちになったあと、胸の奥のモヤモヤにたえられず、そばにあった柵を蹴りつけた。

ノエルはエリックに対して想いを抱いている。その気持ちは家族の間のようなものであり、恋ではないと思いこもうとしていた、さっきまでの自分が馬鹿みたいだ。なにが兄と妹だ。そんなの、俺のそうであってほしいという願望でしかない。        

エリックは彼女のことをどう思っているのだろう。妹のように思っている? まさかそんなわけはない。俺がそうではないように、エリックだって想いを向けられたならば、それに応えるだろう。

 無意識下で思っていたのかもしれない。俺は腐ってもこの国の王子だから、彼女だって俺を選ぶに違いない。今は優しいエリックに惹かれているだろうが、いつかは利益の大きな俺を選ぶだろうと、そうおごって彼女の気持ちに気づいていなかった。

考え続けているうちに立っている元気も無くなってしまい、地面に転がっていたレンガに座りこんだ。

すっかり周囲が夕暮れに染まっている。途方に暮れながら沈む太陽を眺めていると、背後で扉が開く音がした。

「なんということでしょう、柵が」

 柵という単語が聞こえたので、ふと、やつあたりをした柵を見ると、木製のそれが無残に折れていることに気づいた。

やってしまったと青ざめながら、立ち上がって声の主を見る。

そこには白いエプロンをつけ、鍋掴みをはめた女が、無感情な顔で立っていた。

「あら、ウィル王子ではないですか」

「き、キルケ?」

 彼女はかすかに目を見開き、玄関から出てきた。

「なぜこのような場所にいらっしゃるのですか。ここは、街のはずれですよ。王子がこんな時間に、一人で出歩いてはいけないのではありませんか」

「いや、なんであんたこそ、こんな場所にいるんだ」

 予想外の人物の登場に混乱しながら、そう尋ねる。

「家にいるのは普通のことですよ」

「家って、どこに」

「どこと申しましても、目の前にあるではないですか」

彼女は指を天に向けた。つられるがまま、その先を見る。そこにはまるで見覚えのない、寂れた塔が立っていた。

「は? いや、俺はこんなところには、いなかったはずなんだが」

 記憶を思い返してみる。俺はたしかに街の外れにいた。こんな塔なんて無かったはずなのだが、夢でも見ているのだろうか。

 だが塔はまぎれもなく、目の前にある。どうにも現実離れした形をしている。とても細長く、人が住めるのかどうかさえ怪しい。キルケが今まさに出てきた扉も、あきらかに塔の横幅との比率がおかしい。絵の下手な奴が描いた絵本の中に入ってしまったような気分だった。

「王子にもなにやらあったようですが……立ち話もどうかと思いますし、せっかくですから晩御飯はいかがですか。今ちょうど、作り終えたところですので」

 さらりと俺を誘うと、玄関まで歩いて行って扉を開く。突然の出来事に抵抗するだけの気力もなく、誘われるままに玄関をくぐる。食欲をそそる匂いが鼻をついた。

「本当にここがあんたの家なのか?」

「ええ、そうですよ。なにやら物音がしたと確かめに出ましたら、まさか王子が庭先で、たそがれていらっしゃるとは」

「俺だって来たくて来たわけじゃないんだがな」

 彼女は俺をちらりと見て、次の部屋の扉を開けた。そこには、広々とした居間があった。特に豪華な調度品が置いてあるようには見えないが、清潔な雰囲気が漂っている。若いカップルが暮らしていそうな、貧乏さと温もりある家だ。

「あれ、王子だ。こんな時間にどうしたのさ。民家の食生活事情でも視察に来たの?」

 魔法使いはソファにだらしなく座って、目を丸くした。ただ、その姿にどことなくわざとらしさを感じる。こいつが俺を呼びよせたのではないか、という気がした。

「玄関前に座りこんでいたのです。しかも、柵を壊されてしまったようで」

「え、壊したの? 嘘でしょ、弁償してよ? 五倍くらいで」

 彼は「冗談だけど」と一人で笑いながら、前のソファをすすめた。

腰を落ちつけると「お食事を持ってまいります」とキルケはどこかへ去っていった。

「壊したのは悪かったよ。五倍でもなんでも、ちゃんと弁償はする」

 やってしまったことは仕方がないので、そう謝ると、彼は手をひらひらさせて「そんなこと、どうでもいいよ」と言った。

「柵くらいでガタガタ言うほど、ぼくはケツの穴の小さい男じゃない。おっと、王子の前でこんな言葉を使うのはよくないか。えーっと、ぼくは出す物はちゃんと出す男だって意味だよ、分かるかい」

「いちいち説明しなくても分かっている」

「それならよかった。不敬罪で捕まるのは嫌だからね」

 くだらないことばかり言っていた彼は「さて」と話を仕切りなおした。

「本題に入ろうか。ぼくに用があるから来たんだよね」

「いや、さきほどキルケにも言ったが、そういうわけじゃないんだ。街外れにいたら、いつの間にかこの塔の前に来ていて……」

「いいかい、王子」

 言葉をさえぎられる。彼はにんまりとしながら続けた。

「『そういうわけ』じゃない人は、そもそもこの塔に来られないし、姿も見えないんだよ。この塔に来てしまったことが、君に叶えたい願い事があると証明してしまっているんだ。分かるかい?」

「そう、なのか?」

 街外れに来たことは何度かあったが、この塔を見かけたのはこれで初めてだ。とすると、たしかに彼の言うとおり、願い事が出来たから塔が現れたと考えるのが、自然なのかもしれない。

「前に会ったとき、君はなにかに悩んでいたみたいだし。実のところ、ぼくはそんなに驚いてもいないよ」

「一応聞いておくが、あんたが無理やり呼んだわけじゃないよな」

「違うよ。そんな面倒なことするもんか。君が勝手にやって来て、勝手に塔の前に座りこんで、勝手に柵を壊して、悲劇の主人公きどりで夕日を眺めていたんだろ。そんなこと、わざわざ呼んでさせるわけがないね」

 こいつ俺がやっていたことを全て見ていたな。ぎろっと睨むと、裏の読めない笑顔で「まあ、いいじゃない」とごまかされた。

「なにかに悩んでいるのは事実なんでしょ。せっかく来たんだからさ、相談くらいして行ったら?」

 悩み、そうだ。まさにノエルとエリックのことが、俺を塔に呼びよせたに違いない。しかし、このことを彼に話してよいものだろうか。

 迷っていると、部屋に香ばしい匂いがただよってきた。

「お待たせいたしました」

メイドよろしくキルケがやってきて、あつあつの小さなココットを、目のまえに置いた。のぞきこんでみると、中でとろとろのチーズが波打っている。続けてパン、マッシュルーム、ソーセージなどがのった大きな皿も登場すると、魔法使いは子供のように手を叩いて喜んだ。

「わあ、チーズフォンデュだ」

「王子もどうぞ」

 銀のスティックをさしだされたので、礼を言って受けとる。猛烈な勢いで食べ始めていた彼に続いて、パンをチーズの海にひたし、恐る恐る食べる。濃厚な香りが鼻へと抜ける。パンをなんとか飲み込む。

「うまいな」

「ありがとうございます」

 彼女はどこか満足そうにうなずくと、彼の横に座ってじっとした。まったく口をつけようとしたいので「食べないのか?」と聞く。

「私は、遠慮しておきます。どうぞ熱いうちにお食べください」

 彼女はそう言って、底をつきそうになっていたパンを切りに、再び立ち上がった。仕えている身だから、彼女は後で食べるのだろうと納得して、食事を続ける。

食べる手が止まらずにいると、一足先に満足したのか彼は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

「王子、キルケは料理上手だと思わないかい?」

「そうだな」

 うなずくと、自分の手柄のように「そうだろう、そうだろう」と自慢げにした。

「もし欲しくても、あげないからね」

「分かっているよ……まあ、うらやましくはあるけどな。俺はあんたみたいに、恋人に作ってもらった温かい飯を食べることはできないから」

 人参をスティックでつき刺し、チーズにくぐらせて口の中に放りこむ。ふと前を見ると、彼は虚をつかれたような顔をしていた。

「どうかしたのか」

 いつもなら調子に乗った長台詞を吐くはずなのだが、なぜかなにも言わない。

「俺はなにかまずいことを言ったか? 気を悪くさせたなら、すまん」

「あー、いや」

 咳払いをし、皿を意味もなくいじる。

「ちょっと驚いただけさ。そうだよね、王子ともなると温かいご飯にもありつけないだろう。なんてかわいそうなんだろう。今のうちに、たんとお食べよ。ね、キルケ」

 戻ってきた彼女に、そう話をふる。

「ええ、王子。まだまだありますから、いっぱい食べてください」

 キルケは俺の皿に、これでもかと具材を取りわけた。話がそらされたのには気づいたが、追及しても良いことはなさそうだ。食事が美味い事は事実なので、好意に甘えてどんどん口に運ぶ。

「そういえば、ぼくたちは君の悩み相談を聞いていたんじゃなかったかな。すっかり忘れていたけど」

「ああ、そうだったかな」

もとに戻った話題に頭を切りかえ、チーズのこびりついたスティックを置く。

「で、王子の悩みごとは一体なにかな? だいたいの話は分かっているけれど、一応君から聞かないといけないからね」

「やっぱり見ていたのか?」

 ぎくりとして問うと、彼は「家の前で面白い見世物がやっていたら、ついつい見てしまうものだろう?」とにやついた。

見世物呼ばわりには怒りたいところだったが、それよりも恥ずかしさが勝った。こんな年になって、恋愛相談なんて馬鹿げているが、黙っていても一緒なら、自分で話したほうがマシだろう。

「ありがちな話だよ。好意をよせている女性が、友人のほうを好きだったんだ。彼女は俺なんか眼中にないみたいだし、なんというか、ショックでな」

「恋の痛みってやつだね。いいねえ、実に青い。参考までに、彼女のどんなところを好きになったのか教えてよ」

 からかうように問われ、ただでさえ熱い顔がさらにほてる。

「誰が語るか、そんな女々しいこと……ただ、そうだな。なんというか、彼女は今までの女たちとは違うというか、特別なんだ。正直これまでは一晩楽しい思いをさせてくれれば、あとはどうでもよかったんだが、彼女は大切にしたいというか、ちゃんと正面から向きあいたいって思うんだよ。それもこれも、彼女は他の女とはまるで違っていてな、見ていると守らなきゃって気になるし、喜んでいるのを見ると俺も嬉しいし、悲しい顔はさせたくないって思う」

 いざ話始めると、彼女には果てしない魅力があると、あらためて思う。馴れ初めから、この半年間のことを語りつくし終えると、胸がいっぱいになってしまった。

「ああ、とにかくこんなの初めてなんだよ……分かってくれるか?」

「ああ、うん」

彼は犬のフンでも踏んづけたような顔をしていた。キルケは対照的にポカンとしている。

「なんだろう、ぼくが悪かったんだな」

「おい、俺はなにか変なことを言ったか?」

「いや、いいのさ。恋は盲目、それで構わないと思うよ。そうでないと話は始まらないわけだし」

 一息置いて、言葉が続けられる。

「まえにも言ったかもしれないけど、願い事としてはそれって『安い』よ。女の子のうつろいやすい気持ちなんて、すぐにコロッと変わるものだしね。ちょっと細工をすれば、その子は君を好きで好きでたまらなくなる」

「彼女の気持ちを、魔法で俺に向けるということか?」

「そうそう。反動も大きくないだろうし、お得な種類の願い事だね。王子だからお金はちょっと多めに貰うけど、それくらい構わないでしょ?」

「お得って言われてもな……反動はどんなことが起きるんだ?」

「今までの例だと、一週間、やたらとタンスの角に足の小指をぶつけるとか、なぜか肌に出来物が増殖するとかかなあ。なんにせよ、そんな困ったもんじゃないよ」

「充分困った反動に思えるが」

 口では納得いっていない風をよそおうが、彼女の気持ちを変えられることに心が揺らいでいた。金なら使い道のない宝石があるから、それをいくつか渡せばいい。足の小指も肌の調子も犠牲にしたくはないが、ノエルの気持ちが手に入ることと比較すれば、だんぜんに得なはずである。

「王子とは長いからさ。ぼくとしては、それくらいの願いなら叶えてあげたいんだよね。貴族特有の、気色悪い願い事でもないし、なんだろう。あまずっぱい気持ちを応援してあげたいって言うか」

「あまずっぱいってなんだ。気持ち悪い」

「ですが、王子。たしかにお得ですよ。願い事に制限はないわけですし、ここは一つお試しだと思って、お願いしてみたらいかがでしょう」

 キルケが口を挟んでくる。

「私としては王子が願い事をしてくださると、たいへん助かります。現在、家計が切迫しておりますので」

 彼女はそう言って、家計簿らしき台帳をちらつかせた。

「このあいだの願い事から意気消沈してしまって、まったく仕事をなさらないのです。ですから、ここであなた様が願い事をしてくだされば、再びやる気に火がつくかもしれません」

「そうそう、火がつくかも」

 にこにことしながら、彼女の言葉に便乗する。

二人がかりで説得にかかられ、言葉に困ってしまう。二対の目に見つめられていると、催眠術にかかったような気持ちになる。

まばたきをすると、ノエルの泣き顔が思い浮かんだ。エリックを好きだと分かったとき、とても辛かった。だが、あの青い目がきらきらと激情に燃えるさまは、いつも以上に綺麗だった。

こぶしを握りしめ、膝の上に置く。

「悪いが、無理やり気持ちを変えて好きになってもらうのでは、意味がないと思う。せっかくの提案だが、願い事はしない」

 しん、と部屋が静まり返った。心なしか気温が下がった気がする。

さっきまで楽しげにしていた彼は「うーん」とうなると、口を開いた。

「意味がないって言うけれどさ。願いを叶えたいと思ったから、君はここに来ることができたんだよ?」

「そうかもしれないが……でも今はもう、したくないんだ」

 彼は困った顔でこめかみを引っかいた。

「べつに願い事するしないは君の勝手だからいいけれどね。恋愛に意味なんて挟みこんでいるようじゃ、一生彼女は手に入らないと思うけど」

「それでも、できないんだ。そんなやり方で好きになってもらっても、なんにも嬉しくない。そんな風に人の気持ちを操ることは、俺にはできない」

「人の気持ちを操ることはできない、ね」

 溜息を吐き、眉間を指先でおさえる。その隙間から、爬虫類のような目が俺を見る。

「王子は、彼女と結婚する気はあるのかい?」

 ぼそりとされた質問に、脳の動きが止まる。結婚なんて考えたこともなかった。

「まだ、そんなことまでは考えてはいなかったが……できれば」

「できれば、無理だって分かっているよね。さすがの王子でも」

 重ねられた言葉になにも言えなくなる。

「ただの貴族の娘、それも成金あがりの娘と王子が結婚できるわけがない。そんなの分かり切っていることさ。常識で考えれば、ね。ただ、ぼくならそれもひっくり返してあげられるよ。君は王子のまま、彼女と結婚もできる。願い事さえすればね」

 淡々と彼は語る。俺は正直混乱していたが、たしかに言うとおりだと思った。このままでは仮にノエルを振り向かせることができたとしても、それは淡い恋に終わるだろう。一応爵位のある家の娘とはいえ男爵家、それも純粋な貴族ではないのだ。周囲からの反対は激しいだろうし、結婚できたとしても、みんなから歓迎されはしないだろう。

「彼女が本当に欲しいなら、ここで願い事をしておくのが賢明だと思わない? リスクが小さいうちに、叶えられることは、叶えちゃったほうがいいだろう?」

悪魔のささやきのような言葉だ。まどわされる気持ちを抑えて、首を横に振る。

「それでも、できない」

「どうして? 人の気持ちを操ることは、できないからかい?」

「そうだ」

 うなずくと、彼はあざけるような笑みを浮かべた。

「君は、嘘つきだねえ。認めなよ、今だけが楽しければ、それでいいって思っていたって。結婚なんてそんなこと、考えてなかったんだろう、王族のくせに」

 つきつけられた言葉に絶句する。

「王族の結婚は、権力の闘争だ。それなのに願い事のために『結婚せざる』をえなくなったら、リスクは計り知れない。そのときは王子でいられるかもしれないが、世襲したときに反乱が起こるかもしれない。もしかしたら生まれる子供は母親の身分のせいで、兄弟にお株を奪われるかもしれない。彼女との結婚は、君の人生を狂わせる。分かっているだろう? 君は、今の楽しみしか頭にない。そんなものは愛とは呼ばないね。馬鹿馬鹿しい」

 つらつらと述べられる言葉に、縫いつけられたように硬直する。反論しようにも、舌が動かない。

「どうせ一瞬の快楽しか頭になかったんだろう? なら、素直にそう認めればいい。認めたうえで願い事をすればいいんだ。自分が飽きるまで、彼女の気持ちをこっちに向けていてほしいって!」

「なぜあんたに、そこまで言われなくてはならないんだ」

 どうすればいいのか分からなくて、泣きそうになる。

彼の言っていることは、間違っていないのかもしれない。それでも彼女への思いが、そんな風にさげすまれることには、たえられなかった。

「あんたは俺達の何倍も生きているから、そんな考え方しか、できなくなっているんじゃないのか。たしかに結婚なんて考えていなかったさ。だがそれは、まだ気持ちが通じあっていなかったからだ。俺は、けっして彼女を一時の快楽のために、どうこうしようなんて思っていない! そんな風にしか考えられないあんたは哀れだ!」

 やぶれかぶれに言い返すと、彼は顔をひきつらせた。目が笑っていない。

「言うじゃないか、たかが王子風情が。君は彼女と一時の快楽ではなく、恒久的な愛を望んでいるようだけど、それじゃあ今までもてあそんできた女の子たちは、どう説明するんだい? やることだけやっておいて、あとはポイ捨てなんて、さんざんやってきたことだろう」

「ノエルは、彼女達とは違う! 見た目だけじゃない、心も美しいんだ」

「あーもう、馬鹿なこと言わないでくれよ。成りあがり男爵の娘が、そんなに純粋に育ってきているわけないだろ? すべて君と、君の友達に取りいるための演技なのに、よく呑気なこと言っていられるなあ」

 その言葉で、いよいよかちんと来た。立ち上がり、護身用にさしていた剣に手をかける。

「それ以上、彼女を侮辱するな!」

 気持ちがおさえきれずに口走った瞬間、上半身に衝撃が走った。息がつまって、むせる。首に冷たい物が押しつけられた。背筋に怖気が走る。黄色い瞳がこちらを射殺しそうに睨みつけている。ソファに座ったままの魔法使いが、あっけにとられている。視線を下にずらすと、ワンピースからむき出しの足が、がっちりと体を押さえつけていた。チーズがこびりついた銀色の針が、頸動脈に押しつけられている。

「ウィル王子」

 無機質な声が耳元でささやいた。まったく呼吸の音が聞こえない。体が意図せずして震え始めた。間近に迫った目は、まばたき一つせず、俺を凝視し続けている。

「キルケ! やめろ!」

 あせったように叫ぶ彼が、その肩に手をかけた。

「止めません」

彼女は手を振りはらい、針を握る指先に力をこめた。痛みが走る。皮膚の上を血がつたっていく。

「ウィル王子。まず、あなたがこの国の、王位継承者であることは置いておきましょう」

 どこからそんな力が出てくるのか、彼女の足があばらに食いこむ。恐怖で身動き一つとれない。

「なぜならここは、あなたの城ではなく、『彼』の塔だからです。この塔においては、あなたの王子という身分はなんの権力も発揮なさいません」

 後ろで彼が「キルケ、いい子だから落ちついて」となだめようとしている。

「そして彼の城で、あなたは私の主を侮辱し、剣をとりました。これは、私にとって許容できることではありません。また、願い事を叶えようとしない以上、私達にとってあなた様はお客様ではありません」

 一言一言、言い含めるように言葉がつむがれる。黒々としたまつげが、またたく。彼女はうっすらと笑んだ。

「よって、あなたは必要ありません」

右手が、ものすごい勢いで振りあげられる。

「王子、助けを願って!」

 彼が叫ぶ。風きり音が降ってくるのに、思わず目をつむり、声をあげる。

「助けてくれ!」

ぱん、となにかが弾けるような音がして、体の上の重みが消えた。右側から大きな音が響

く。

「あ、危なかった」

 恐る恐る目を開くと、キルケは消えていた。かわりに、魔法使いが疲れた顔をして立っている。手になにか長いものをぶら下げている。

「まったく、なにをやっているんだ、この子は……あ、王子、大丈夫?」

「大丈夫」と答えようと思ったが、喉がひきつって声が出なかった。彼がたずさえている物が、なんだか分かったからだ。それは、右腕だった。白い、柔らかそうな腕。

 衝撃音が聞こえたほうを見てみると、壁に激突したらしいキルケが、無残な様子で転がっていた。ぴくりとも動かない。壁にはヒビが入り、ほこりが舞っている。

「こ、殺したのか」

 震える声でたずねると、「まさか」と返答された。

「キルケは人形だから死なないよ。ただ、言葉では止められそうになかったから、強制的に機能を止めたんだ」

「人形だと?」

「うん、人形。彼女は人間じゃなくて、精巧に作られた、ただの人形だよ」

 彼は白い腕をぶらぶらと揺らして見せてきた。どこからどうみても、人体の一部にしか見えないが、血は一滴も流れていない。

「ごめんね、王子。危険な目にあわせちゃって。本当はこんなつもりじゃなかったんだけど、キルケがこんなに怒るの初めてで、ぼくもびっくりしちゃってさ」

 とまどっているのか、動揺を払うように頭を振る。

「それにしても危なかったねえ。この子、本当に殺すつもりだったみたいだ」

 首を触ると、ぬるりとした感触がした。指についた血を見て、くらりとする。

「王子。傷を治してくれって願って」

 彼がキルケの腕を持ったまま近づいてきた。視界に入れないようにしながら「治してくれ」と言う。痛みが引いていく。傷をふさいでくれたようだ。

 緊張から開放されて、大きく息を吐く。

王子という身分上、命のやり取りをする場面に出会うかもしれないと訓練はしていたが、まさかこんな細い女に殺されかけるとは、宮廷の家庭教師も思わなかっただろう。

「さっきと、今の願い事に、反動はないのか」

「その程度の傷なら、なんてことないよ。こういう願い事に関しては、自然治癒するか否かが分かれめだからね……さっきの『助けて』って願い事も、そんなに心配しなくて大丈夫。不自然なことをしたわけじゃないから。もしかしたら、急に出来物が増えるかもしれないけれど、それは許してね」

 うなずいて、転がるキルケを見る。

「あんたが作ったのか?」

「ううん、違う」

 彼は言葉少なに、そう言った。

「あの力の強さを見るに、特殊な構造で作っているようだが」

「まあ、そうだね。人間よりは丈夫に作ってあるみたいだし、激しい動きに対応するために、力も強くしてあるはずだよ。それにしても、まさかこんなことになるとは思わなかったけど」

 彼は溜息をつき、動かないキルケを眺めた。あの子が、あんなに感情をむき出しにするなんてね。ひとり言のような呟きに、なんとも言えないものを感じた。

「人形だとはな……知らなかった」

 彼は複雑そうな顔をして「ごめんね、怪我させて」とあらためて謝った。

「いや、いいんだ。彼女が怒ったのは、俺に原因があるわけだしな」

 思いかえすと、俺も怒りに任せて失礼なことを言っていた。発言を謝罪すると「いいんだよ」と返される。

「本当はね、王子が言ったことが当たっていて、悔しかったんだ。ぼくはもう自分がいくつかも分からないくらい、長い間生きているし、何回も人の心を魔法で操ってきている。だから、それに慣れきっているんだよ。ただ、ぼくはそれでも人間だし、それを望むのも人間たちなんだ」

 分かるかい、と子供に言うような声色で説かれる。話し方に切実なものを感じて、なにも言えなくなる。

「ぼくは人間だから、君がこれからどうなるかも、察しがついてしまうんだ。君みたいな人は、たいてい、おとなしく身を引いてしまう。さっと次の恋愛へと向かえればいいが、簡単にそうはいかないものだ。王子、思いを成就させるのに、綺麗事だけでは無理だ。どうせ恋なんて一瞬で終わるんだから、短い青春時代くらい、ズルしたっていいんじゃないかな。君のことは結構気に入っているから、ぼくにしては珍しく忠告として言っているんだよ」

 彼はどうやら本気で言っているようだ。

ズルをして気持ちが向いたら、それはそれで嬉しいだろう。後ろめたさはあるだろうが、彼が言うように、俺達は身分の差によっていつかは離れることになる。気持ちがあろうがなかろうが、結婚相手と恋愛相手は俺たち王族にとっては別なのだ。

特に俺は、いくらサミュエル氏が望もうとも、男爵の娘と結婚はできないだろう。とすればノエルを手にするには今、この時期しかない。気持ちの整理がついたら、何事もなかったように魔法を解いてもらえばいいだけだ。そのころには俺の気持ちも冷め、別の女に向いている。ノエルだってそうだ。魔法が解けたら、あらためてエリックと結ばれることもできる。

「どう、気は変わった?」

 彼はぐったりとしているキルケを抱えて、たずねた。腕を失った肩は、白いつやつやとした断面が丸見えだ。

「ああ、まずいな。足も結構壊れちゃった」

 ソファに彼女を横たわらせ、あらぬ方向を向いている右足を観察している。その姿に、どことない愛情のようなものを感じる。

「なあ、あんたはどうして、彼女と一緒にいるんだ」

「どうしてかって?」

「ああ、普通の女に飽きたからか?」

 魔法使いの恋愛事情なんて知らないが、女に困ったりするタイプには見えない。そう言うと、こらえきれなかったように吹き出された。

「普通の女ね。そうだね、普通の女に飽きたからかもしれない。ぼくは王子みたいに、なんでもつまみ食いできるような立場じゃないけどね」

「おとしめたときに、キルケが怒ったじゃないか」

 茶化すような言葉を無視し、そう続ける。笑顔のまま「それは、ぼくが主人だからじゃないかな」と返される。

「そのようには見えなかったが」

「なにが言いたいんだい」

「あんたたちを恋人だって言ったとき、動揺していたよな。キルケはあんたの恋人じゃないのか」

 十年以上も付きあいがあるのに、彼らだけが時を止めてしまったように、なにも変わらない。彼は自分を人間だと言いはるが、どう考えても何百年も生きている生き物がただの人間であるはずがないのだ。そんな彼が人形であるキルケを恋人として置いているのは、歪んでいるが自然なことのように思える。

そう伝えると、苦笑された。

「君の中では、ぼくはたいへんな変態みたいだなあ」

「間違ってはいないだろう」

「まあね。でも、そうだな。君の推測は半分当たっている。キルケは人形だから年をとらないし、文句も言わずにぼくと一緒にいてくれる。それはとてもありがたいよ。だけど、恋人かと言われると、どうかな」

「違うのか」

「王子も知ってのとおり、ぼくは自分の願い事を叶えられない。だから、キルケがいると助かるんだよ。彼女を通して願い事をすれば、好きなように魔法が使える」

「なるほどな。だがそうすると、彼女が反動を被ることになるんじゃないのか」

 疑問を口にすると、彼は「いや」と否定した。

「反動が生まれる原因は、人間が運命をねじまげることにあるから、人形には関係ないんだよ。そう考えると、この子は恋人と表現するよりも、便利なペットだと言えるかもしれないね」

「それは、便利だな」

「だろう? キルケを通して願いをするってことは、ありえないくらいのズルなんだ」

 反動なしに願い事を叶えられるとなると、わざわざ彼女を傍に置いている理由としては充分に思える。

だが、この二人をずっと見てきた身としては『ペット』という言葉選びにどこか違和感を覚えた。

「だが、けして便利な道具として軽く扱っているわけではないだろう? あんたたちは、見ているかぎりでは仲がいいし、恋人も同然に見える」

「ああ、もちろん道具だなんて思ったこと、一回もないよ。そこらの恋人同士よりも、はるかに彼女を愛している自信がある。ただし、ペットとしてね」

 まるで自分自身に言い含めるように話すと、彼はキルケの首をぐいっと持ちあげた。頭はぼろっと肩から外れ、手のひらにおさまった。ぞっとするような光景だが、目が離せない。

彼は神妙な様子で、真っ白な断面を眺めた。まぶたを閉じ、呼吸すらしない顔を眺める彼は、なにかを思いだすように遠い目をしていた。

「王子は本当に、永遠の愛なんていうものを信じているのかい。」

 ふと、たずねられた。

「君はおそらく、あと五十年近くで死ぬよね。そう知っていても、それでも永遠があると思うものなのかな」

「それは……」

 永遠の愛があるかどうかなど、しらふでは、とても考えられない問題だ。しかし現在俺がノエルに感じている愛着が、これから先、死んでからも続くと想像してみると、それは自分の中でかぎりなく崇高で、死ぬより恐ろしいことのように思えた。

「あんたは、そうは思わないのか」

 魔法使いが永遠に生き続けるかどうか分からないが、少なくとも俺達よりは、はるかに近い場所にいるはずだと思って問いかける。

すると、すぐに「思わないね」と答えが返ってきた。

「永遠に続く愛なんてものが、仮にあったとしても、もうそれは愛と表現できるものじゃないよ。愛はいずれ終わると分かっているから美しいのであって、無理にとどめようとすれば別物になってしまう」

「別物って、なんになるんだ」

「なんになると思う?」

「執着などは残りそうなものだが」

 二つの顔を見上げながら、答える。この二人の間にあるものは、愛ではないのだろうかと疑問に思う。考えを見破られたかのように、ほほえまれた。

「なんにもならないさ。だって、とどめようとすればするほど、昔あったはずの愛という概念は崩壊していく。そうだろ? だから、唯一残るものは」

 愛は無かったという事実のみだ。

 彼は呟くと、息をしない彼女と同じように、まぶたをそっと閉じた。


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