幸福2
閉めきったカーテンの向こうから、路面電車が走っていく音が聞こえる。「よくこんなうるさい部屋で寝られるわね」と言うと、彼は「もう慣れたからね」と答える。
そっとベッドから抜けだし、下着だけ身につけて水差しから水を飲む。
「俺にも」
渡してあげると、寝転がったまま飲んだせいで水がシーツにこぼれる。
「行儀が悪いわね」
びちょびちょになった彼を見て笑うと、君もやっていただろうとハインツは口角を上げた。
こうやって朝を迎えるのも、もう何回目だろうか。
願い事をした日を境に、どうしてか彼は私を同僚扱いしなくなった。始めはなんて節操のない男だろう、嫌らしいと思った。
だが冷たくしても、彼は熱烈にアプローチを仕掛けてきた。引き出しにはほぼ毎日手紙が入っていたし、週一回は夕食に誘われた。そこまでされて、突き放せる女がいるだろうか。彼は言った。俺は君みたいな女性をずっと探していたんだ。
その情熱に折れて、つきあい始めると、周囲の反応はさまざまに変化していった。どうせ遊ばれているだけだと陰口を叩いていた女共も、徐々に認めるようになった。嫌がらせを受けることもあったが、それすら快感だった。なぜなら選ばれたのは、私だ。彼女たちではない。他の男たちも、前よりもしかるべき態度で私を扱うようになった。彼等は今ごろ後悔しているのではないだろうか。他の男に奪われた後で、その価値を知ることになったのだから。
「子供ってかわいいよなあ。エミリはもし子供を産むなら、何人欲しい?」
「え?」
窓の外をのぞきながら問われ、うろたえる。最近こういう話題が多いが、ひょっとするとそういうことなのだろうか。
「そ、そうねえ。二人くらいかしら」
「男と女が一人ずつって感じかな。俺も二人がいい。男の子には、いっぱい勉強をさせて、女の子にはバイオリンをやらせたい」
「それ、いいわね」
彼と話をしていると、今まで想像もしてこなかった夢の世界が広がるようだった。故郷にいたころは家庭の幸せなんて、旧時代的な風習をすりこませるための洗脳にすぎないと思っていたが、ハインツとだったらそれも悪くないかもしれない。
「でも、私、子供ができても仕事を続けたいわ」
せっかく憧れの職につけたのに、子供がいるからってそれを諦めたくない。思いきって告げると、彼は温かい笑顔を浮かべた。
「もちろん、分かっているよ。エミリは頑張っているんだから、仕事も諦めちゃだめだよ。大丈夫、心配しないで。家は俺が全部支えてあげるから」
だから、結婚しよう。
唐突なプロポーズに、感激で胸が打ち震えた。いつか来るのでは、と思ってはいたが、いざされてみると、泣きそうだしそうになってしまうくらい嬉しかった。
「私、いい奥さんになる。絶対に、あなたと幸せになるわ」
「そうだね、俺もいい旦那になるよ。幸せになろう、エミリ」
二人で抱きしめあう。
この世界全ての幸せが手に入った気がした。仕事も、恋愛も、なにも諦めなくていい。こんな進歩的な人と結婚ができる自分は、きっと誰よりも幸せな女だ。
これからさらなる幸せが私を待っている。そんな気がした。
「本当にエミリさんは幸せねえ」
「ええ、まったく」
「帝国銀行で、部署を取りまとめていらっしゃるんですって? 素晴らしいわ」
「あなたはこれからの時代を先導する、女性の星よ。応援しているわ」
「家庭もきっちりなさっているし」
「旦那様が、支えてくださっているんですって? 素敵な旦那様ねえ」
「お子さんもかわいくって、うらやましいわあ」
「まるで、幸せの全てを手に入れたみたいね!」
丸テーブルを囲んだ夫人たちは、目を輝かせて口々に話し続ける。
気づかないうちに手が震えている。手を握りしめて抑えこみ、紅茶を一口飲む。笑わなくてはいけない。
「ええ、これも全て夫のおかげです。感謝しています」
ご近所同士の茶会が終わった。ごきげんよう、と手を振りあい、彼女たちは迎えの馬車に乗っていく。私は歩いて帰る。普段ならこんな場に来るはずもないのだが、二回連続で断っているので今回は来ざるをえなかったのだ。
職場にほど近いアパートに着くと、ハインツが迎えに出てきた。エプロンをつけ、ぐずるメルを片手で抱えている。
「おかえり、どうだった?」
「うん、楽しかったわよ」
無理やり笑顔を浮かべる。
「ご飯、もうできているからね。ほら、メル。ママが帰ってきたよ」
腕の中でしかめっ面のメルをなだめるが、彼女は私のほうを見ようともしなかった。ハインツの胸にしがみつき、甘えている。
「ごめん、機嫌悪いみたい」
「いいのよ、構ってあげられていない私が悪いんだから」
「エミリは仕事が忙しいんだから、仕方がないよ」
家に入り、彼が用意してくれた夕飯を食べる。
「そうだ、新しいベビーシッターを雇うつもりなんだけど、いいかな」
テーブルの上に、若い女性の写真と、簡単な履歴書が置かれる。綺麗な子だった。
「ええ、いいわよ。あなただって一人じゃあ大変でしょうし」
ステーキを口に運びながら、そう答える。あまり、味がしない。
「ありがとう、エミリ」
大好きだよ、とささやかれる。私も、と答える。
吐きそうだった。とうもろこしのスープが、無性に甘く感じられたのだ。
シャワーを浴び、さっさと寝室へと向かう。途中でメルの部屋をのぞくと、もうすっかり寝ているようだったので、こっそりと忍びこむ。ベッドを見てみると、私とは似ても似つかない娘がすやすやと眠っていた。ハインツにはよく似たようで、高い鼻や、ぱっちりとした目は彼の特質をよく受け継いでいる。
自分の娘だというのに、ここまで可愛くないものか。ふと思ってしまったことに愕然として、部屋を出る。
もう何回もくり返した自問自答が胸の中で旋回し、どこか知らない場所に積もっていく。
ベッドに横たわるが、なかなかハインツは寝室へ来る様子がない。ひんやりしたシーツの上で、目を閉じる。
エミリさんは、幸せだねえ。
私がデスクで仕事をしていると、顔も知らない誰かが話しかけてきた。仕事に理解のある先進的な考え方の旦那さん、出世街道まっしぐらの仕事、かわいい子供、幸せだねえ。
私、幸せかなあ。そう聞くと、故郷の両親が当たり前でしょう、と怒った。怒られるのは嫌いなので謝る。
家のリビングで膝を抱えていると、ハインツとメルと綺麗なベビーシッターが楽しく食事をしていた。彼の肩を叩いてみる。私、幸せなのかな。笑顔で振り向き、当然だろうと言われる。メルとベビーシッターも同調する。三人は食事に戻る。
いつのまにか、夜空が覆う部屋に立っていた。星空の下、まばゆいばかりの光の群れに目を細める。それの一つが転げ落ちてきたので、あわてて拾う。
後ろから誰かが声をかけてきた。悲しんでいるような、楽しんでいるような響きの声だ。歌うように、問いかけられる。
こんな幸せ知らない方が幸せだったなんて、まさか言うつもりじゃあないだろう?
言うわけないじゃない、だって、私幸せだもの。
そうかい、それならよかった。お幸せに!
笑い転げる声が遠ざかっていく。夜空はどんどん狭くなり、私は押しつぶされて死んだ。
「俺、働きたくないんですよ」
帝国銀行の会議室、上座に腰かけた男がそう言った。部屋には日差しが降りそそぎ、まさにおだやかな昼下がりといった雰囲気だが、どうしてか窓の外にも廊下にも誰もいない。
窓辺に立っている魔法使いとキルケは、男の台詞にぽかんとした。
「働きたくないって、そんなビシッときめた格好で言われてもなあ」
「はは、商売柄、見かけは大事ですから」
ジャケットの襟を引っ張って、ほほえんで見せたかと思うと、溜息を吐く。
「まあ、見かけだけですけどね。正直、向いていないんですよ。こういう仕事」
「営業成績一位だって聞いたけど?」
「ええ、ありがたいことにそうです。でも、できるからって、向いているとは限らないでしょう?」
「そうかもしれないけどさ。じゃあ、今の仕事が嫌なんだ?」
「べつに辛いとか、手に余るってわけじゃないんです。ただ、無駄じゃないですか。俺が計算しようが、しまいが、他の誰かがやることです。それなのに、どうして貴重な人生を金勘定なんかに費やさなければならないんだろうって思ってしまう」
男は郷愁にひたりながら、窓の外を見た。
「本当は、小説家になりたかったんです。でも家族全員銀行員だったから……小さいころから計算のスピードを上げる訓練もしましたし、勘定するのだけは得意になりましたよ。だけど、今でも考えてしまうんです。ああ、仕事なんて止めて、ひがな一日文章を書いていたいって」
夢見るような言葉に、魔法使いがあきれたような顔をした。
「またずいぶんと、現在とかけ離れた夢をお持ちのようだけれど、ようは仕事を止めて小説家になりたいってこと?」
「いえ、違います。昔から考えていたんですよ……もし、おとぎ話どおりに魔法使いが現れて、俺の願い事を叶えてくれるとしたら、どうしようって。帝国の子供なら、一度は夢想することですけれど」
「小説家志望なだけあって、想像力は豊かなんだね」
「笑ってくださって構いませんよ。でも、本当にそうなりましたから」
代償があるそうですね、と男が呟く。
「ああ、金貨五枚はもらうよ」
「違います。願い事をするという行い、そのものに代償がありますよね?」
「どういうことかな? 代償なんてないよ」
首をひねる魔法使いに「とぼけなくても結構です」と男が言った。
「知っている人は、知っていますよ。魔法使いが物語の存在ではないこともそうですが……願い事をするにはリスクがある。そうですね?」
問いかけに、魔法使いは「ああ」と思い当たったような声をあげた。
「代償って、それか。べつに、わざわざ取っているわけじゃないんだけどなあ。まあでも、君たちがそう思うのも、無理はないか」
「では、やはり願い事をするには、金銭以外にも代償が」
「違うって。勝手にそうなっちゃうんだよ」
言葉をさえぎって、うなる。ふと思いついたように「君、ここにコーヒーを出してくださいって言ってくれる?」と頼む。
「これくらいの軽い願い事なら、たいしたことは起こらないから。ほら」
男はためらいがちだったが、好奇心が買ったのか「コーヒーを出してください」と言った。
「よし、分かった」
手を一振りすると、机の上に熱々のコーヒーが現れた。きっちり砂糖とミルクもついている。
「これでなにか分かるんですか」
男が疑問を口にしつつ、カップに手を伸ばすと、肘に何かが当たった感触がした。かしゃんという音が鳴る。床に黒い液体が広がっていく。
「ほら、こうなる」
インクの瓶を拾い上げ、魔法使いが言った。
「今起こったのが、君が代償だと思いこんでいること、そのものだよ。ぼくがそうしようと思わなくても、勝手にこうなるんだ。バランスを取ろうとするって言うのかな。願い事を叶えると、その人間の運命をいじることになるからね。その反動みたいなものは出てきちゃうんだ。まあ、仕方がないんだよ。世の中ってそういうものだろ?」
「なるほど。本当にそのとおりなら、面白いですね」
インクまみれになった床を見ながら、男が呟いた。
「こういうわけだから、ぼくは代償が金銭以外にあるとは思っていないよ。今起こったことと同じさ。コーヒーを出したら、たまたま肘があたって瓶が落ちちゃったっていう、それだけのこと」
「納得がいきました。では、こうやって俺たちだけを別の空間に移動させるのにも、なにか反動が?」
「それはないんだなあ、これが」
「どうしてですか?」
男が熱心に問いかけるも、返答はなかった。話はこれで終わりとばかりに、「さあさあ、もう分かっただろう?」と質問を不意にする。
「反動があるかもしれないと君が知っていて、願い事がしたくないなら、それでも構わないよ」
せかすような言い方に、「焦らないでください」と答える。
「どうするかは、もう考えてあるんです」
「あんまり焦らさないでくれよ。待たされるのは、好きじゃないんだ」
「はは、すみません。それじゃあ言いますね……実は、俺のかわりに願い事を聞いてきてほしい女性がいるんです」
「かわりに、ですか?」
驚いた様子のキルケの横で、魔法使いは眉間にしわを寄せた。
「ええ、いるんですよ。ちょうどよさそうなのが」
「なにがちょうど良いのか、説明してもらってもいい?」
問われると、男はにっこりと笑った。
「もちろん、俺の都合にちょうど良いんです。気づいたんですよ。俺に必要なのは、俺にかわって、外へ出て働いてくれる働きアリだって。彼女はそれに驚くほど適している。コンプレックスの固まりで、仕事はそこそこできるかもしれないが、教養と知恵がない。身なりにも気をつかっていないから、男性経験もないでしょうね。つまり、仕事にしか彼女の身の置き場はないんです。そういう人間が、家庭に入りたいとは、まず思わないでしょう。でも、もしそんな女性が、魅力的な男性からアプローチをかけられ、なおかつ仕事までうまくいき始めたら? 仕事もしつつ、男も手に入れる事、それこそが、自分の最大限の幸せだと、彼女みたいな人間は思うんじゃないですかね」
「でも、それはわざわざその人に願い事をさせなくても、あなた様の力だけで叶えることが出来るのではないですか? それに……」
「キルケ」
彼女の肩に手が置かれる。口をつぐみ、主人を見あげる。
「言っておくけどね。ぼくは人で遊ぶのは好きだけれど、遊ばれるのは大嫌いなんだ。分かるかい?」
「よく分かりますよ」
俺もそうですからね、と男はうなずいた。
「でも、許してください。こんなおとぎ話に参加できるなんて、夢みたいじゃないですか。だから、試したいんです。どこまでうまくいくものなのか。俺が書いた話どおりに、動いてくれるのか。知りたいんです。」
「言っておくけど、もしその子が願い事をしたとしても、それがどんな風に叶って、どんな反動が出るか、ぼくは一切保証しないよ?」
「保証なんてしなくていいですよ。分からないほうが、楽しいじゃないですか」
その言葉に部屋が静かになる。やがて魔法使いが嘆息した。
「だから言ったんだよ、こういう普通そうな奴ほど業が深いって……」
頭をかきながら、言葉を続ける。
「ああ、もういいよ。聞いてきてあげるよ。ただ、君が想像している願い事をその娘がしなくても、ぼくはなーんの責任もとらないからね」
「ええ、承知しています。でも、多分大丈夫ですよ」
期待を抑えきれないとばかりに、続ける。
「幸せがどういうものか知らない人間ほど、幸せになりたいって願うはずですから」




