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幸福1

   幸福


「言いましたよね。二重チェックを、きちんとしなさいと」

「は、はい」

「なんで私は、同じことを何回も言わなくてはいけないのかしら?」

 書類から視線を上げる。冷や汗を流している男は言葉を失い、口をぱくぱくとさせていた。

「私たちの仕事は、信用が命です。さんざん言われてきたでしょうけれど、少しのミスが会社の信用にかかわります。貴方が今回しでかした間違いは、それを脅かすことです。そして、上司としては、貴方の能力の是非を上に届けでる使命がある。分かりますね?」

 答えが返ってこないので、もう一度同じ言葉をくり返す。かすれた声で「分かります」と返答が聞こえたので微笑む。これで厄介払いができる。

「分かったのなら、結構」

 書類をつき返し、自分の仕事に戻る。周囲からちくちくと視線がささる。顔を上げて睨むと、みんな慌てて仕事に勤しんでいるふりをした。

なによ。正しいことをしているんでしょう。出そうになった舌打ちを、なんとかこらえる。

 このデスクを与えられて一年ほどたつが、同僚の一人たりとて、まともな仕事が出来る奴はいない。簡単に数字を間違えるし、誤ったスペルの単語をのせたメモをやすやすと見せてくる。この間なんて、会議の五分前になって到着する奴がいたのだ。信じられない。社会人なら、十五分前には席についているのが当然だというのに。

 イライラしながら仕事を進めていると、あっという間に昼休みになった。

書類を机の中にしまって昼食を食べにいく。いかつい顔をして槍を構える守衛に会釈をしつつ、外に出る。

銀行の中に食堂があるのだが、あれはあまり口に合わない。味が濃すぎるのだ。きっとコックが南国出身だからだろう。たいていの人が気の合う同僚と食べているのに、自分だけひとりなのが嫌だからでは、断じてない。

 五分歩いた先にある公園で、もさくさとパンをつまむ。すぐに食べ終わって暇になったので本を読む。最近話題になっている、経済評論家の論文だ。きっと同僚の誰も目を通しているどころか、存在すら知らないだろう。旧時代に依存しているだけの軟弱な意見を叩いていく、この論者の意見は常に好ましい。

休憩から戻ると、自分のデスクに青年がもたれかかって話をしていた。

「あ、エミリさん。おかえりなさい」

青年が白い歯を見せつけてくる。同僚の中に仕事のできる人間はいないと言ったが、彼だけは違う。きらりと光る歯に、ばっちり決めたクロード社のジャケットがまぶしい彼こそが、業績若手ナンバーワンの男、ハインツだった。

彼のような男こそが、完璧という言葉の体現なのだろうと考える。腹のたつことに、顔も頭も素晴らしくいい。性格も問題なく、誰に対しても分けへだてないから、自分にもよく話しかけてくる。それはそれで舐められているようで腹がたつが、造りのいい顔に免じて許してやる。

「そこ、私のデスクなんですが」

「あっと、すみません」

 彼は机にもたれるのを止めてから、会話を再開した。そこで話すのはやめてほしい、と思いながら椅子に座る。もう少しで就業再開だというのに、いつまで喋っているつもりなのだろう。

「そうだ、エミリさん」

 会話をふられ、ぎょっとする。いつのまにか、ハインツ一人だけになっていた。

「な、なんでしょう」

 声を低くして「さっきのことなんですけど」と言われる。

なんのことだろうと頭を巡らせていると、ピンときていないと気づかれたのか、彼は苦笑して、さっき叱った後輩の席を、あごでしゃくった。

「ああ、彼ですか」

 すっかり頭から消えさっていた話だったが、たぶん批判されるのだろうな、と長年の経験から察しがつく。

自分は銀行員として、数字を間違えるなど言語道断だし、クビでもいいくらいだと考えているのだが、残念ながらこの職場の人間はそうではない。

後輩のミスを上に報告するなんて、上司のやることではないと言われた経験がある。私だって一度目は注意で終わらせた。だが、二度目があるならばそれはミスではなく、適正がないということだ。能力のない人間のせいで、会社に損失が出るのは避けなければいけないだろう。

でも、それを誰も分かってくれないと知っている。もう何回も経験済みなのだ。私の意見は、この職場では浮いているらしい。

それでも黙っていられなくて、口を開く。

「きつい言い方かもしれませんが、私はあの手のミスは同僚全員に迷惑がかかるし、間違った人間に甘い対応をして、また同じことをくり返されるくらいなら、身の振り方を考えてもらったほうがいいと思っています。あなたがそれに異を唱えるつもりなら、それはそれで構いませんけれど」

 会話をさえぎるように手をあげられ、口をつぐむ。

「エミリさん、ほんとに真面目なんですね」

「は?」

 この男、ちょっと顔がよくて仕事ができるからって、ケンカを売っているのか。そう思う気持ちが顔に出たのか、あわてて「違うんです」と弁明される。

「怒らないでください……俺は文句を言おうとしていたんじゃなくて、むしろビシッと言ってくれたことにお礼を言おうと思っていたんです。そりゃあ、やりすぎだって言う奴もいるでしょうけど、でも仰るとおり、銀行員にとって数字は慎重に取り扱うべきものですし、エミリさんの存在ってこの部署では本当にありがたいと思うんです」

 ですが、馬鹿にしているように聞こえたのならすみません。彼はそう言って頭を下げた。

「え、いや、別に」

 予想外の言葉に面食らう。

「き、気にしてないですし、大丈夫ですよ」

「そうですか? よかった」

 頭をかく少年のような仕草に、どうしてか胸がざわつく。

体がかゆくなってきたのが自分でも分かったので、会話を切りあげようとするが、その試みはあえなく失敗した。

「そうだ、別の話になるんですけれど、エミリさんに手伝ってほしい案件があるんです。複雑な部分が多いので、俺だけだと不安で……エミリさんしっかりしていますし、もし面倒でなければチェックを頼みたいんですが」

 お願いできるでしょうか、と困り顔で書類を見せられる。ちらりと見えた数字の羅列は、たしかに一人でやったら徹夜必須だ。

「まあ、それくらいなら」

「ありがとうございます」

 笑いかけられると、心臓が高鳴った。なんだこれ、気持ち悪い。

「じゃ、じゃあ私とりあえず、先にやっていた仕事片づけますから。その後で」

彼は了解し、席に戻った。就業開始のベルが鳴り、部屋の中はペンを走らせる音、紙をめくる音だけが響くようになった。

ペンを握り、深呼吸をする。心が乱れている。必死に数字を目で追うが、どうにも集中できない。まばたきをする度に、ハインツの顔がちらつく。        

 心臓がどきどき鳴っている。まいった。本当にどうかしている。こんなのではまるで、恋をしているみたいじゃないか。

「いやいやいやいや」

「エミリさん?」

 隣のデスクから同僚が「どうかしましたか?」と、うかがってきた。

「ごめんなさい、なんでもないです」

 書類をできる限り顔面に近づけ、至近距離の文字をにらみつける。

 私がハインツに恋をするなど、ありえない。ただ私は、最近では非常にまれなことに「ありがとう」などと言われたせいで、興奮状態に陥っているだけだ。

 恋心など抱くはずがない。だって私は、恋愛なんかに浮かれている低能な連中とは、違う

人間のはずだもの。



 恋愛というものが苦手だ。

 まだ若かったころ、同年代の女子たちはそれに浮かれていたのに、どうしてか私はなじめなかった。たんに両親が厳しくて、勉強のほうが大切だったからかもしれない。

帝国内でも地方の田舎町で私は産まれた。あいにく頭が良かったから、両親は必死に貯めたお金で学校へ行かせてくれた。いい学校に入り、いい会社に勤め、お金をたんまりと稼ぐことが両親の、そして私の望みだった。

自分でもそういった両親の期待に応えたかったし、同年代の土臭い頭の奴らと話しが合わないと気づいていたのである。もちろん恋愛だなんだと浮かれているのは彼らの勝手だ。しかし、それに私は関係がないし、関わる必要がない。

故郷では結婚しない女など、どんなブスであってもいないけれど、この帝都のど真ん中ではわずかながら、そういう女性もいると聞く。私はそうなると決めている。女が男に頼らざるをえない時代は終わったのだ。結婚して子供を産むという、典型的な女性像に頼った生き方しか出来ない、故郷の馬鹿女たちをあわれむ気持ちがあるくらいだ。

 素晴らしい人生を自分の力で勝ち取ってきたという自信がある。

それなのに、どうしてこんなに満たされないのだろう。都内に部屋が借りられるくらいの給料があり、出世街道を歩いている。昔からの夢を叶えている。それなのに。


「エミリさん、今日のお昼はどうしますか」

 休憩開始のベルが鳴ったので、部署から出ると、待ちわびていたような顔でハインツが追いかけてきた。まるで大型犬になつかれたみたいだ。尻尾を振っている幻覚が、見える気すらしている。

「あの、今日もですか」

「嫌ですか?」

 しゅん、とした顔をされると弱い。

「嫌では、ありませんけれど」

「それならよかった! 近所に新しいカフェができたんですよ、行きましょう」

 彼は嬉しそうに笑うと、先を切って歩いていく。その背中についていくと、こそこそと陰口を叩かれている場面が脳裏に浮かんで、気分がよくなった。受付嬢の女たちは囁きあうのだ。ちょっと、嘘でしょう。なんであのハインツさんが、エミリなんかと一緒にいるのかしら、と。

 仕方がないでしょう、彼から来たんだもの。今の私なら冷笑を浮かべてそう返せるだろう。

 先日仕事の手伝いをしてからというもの、ハインツはなにかと私に構うようになった。昼食は三日に一度の割合で誘ってくるし、ちょっとした確認も私にしてくる。始めはからかっているのかと思って疑心暗鬼だったが、最近ではすっかり慣れた。

彼は私に好意をよせてくれている。少なくとも、同僚としては。

 カフェに入り、列に並び始めると、席をとってきてほしいと言われたので、大人しく従うことにする。お金を渡そうとすると「俺が出しますよ」とウィンクされた。前なら、きざったらしいと思うところだが、もう慣れてしまった。

オープンしたばかりということもあり、店内は混雑していた。テラス席が空いていたので、テーブルの一つに荷物を置く。どんな景色が見えるのかと思いながら、周囲を見渡す。まだ春先で肌寒いせいか、私の他には一組の男女しかいない。赤いパラソルが影を作っているせいで、顔はよく見えなかった。ただ、その二人を視界におさめると、なんとも言えないめまいのようなものが起こった。

 首をひねりながら席に座る。

「やあ、こんにちは」

 いきなり、目の前に男と女が座っていた。男はまだ年若く感じのいい青年で、女の方は目を疑うような美女だ。二人の黄色い瞳が、私をじっと見つめている。

「エミリ様、ですよね」

女がそう確認してきた。こんな知り合いはいないはずなのだが。

わけが分からなくて硬直していると、男がにやにやした。

「まさに石のように固まるって感じの固まり方だね。きっといい石像になれる」

「驚かれたようですが、私たち怪しい者ではありませんので」

「いやいや、この登場の仕方で怪しくないって言われても困るんじゃない。ねえ?」

 なんだこいつら。春だから、頭のわいている連中が多くなっているのかもしれない。そう考えつつ立ち上がる。

ハインツに店を変えようと言うために、店内へ足を向ける。異常に気づいた。先ほどの賑やかさが嘘のように、誰もいない。テラスだけではない、店内どころか、外にも人影一つたりとて見えないのだ。

「な、なんで」

「落ちついて話がしたかったからさ。ちょっとだけ隔離させてもらったんだ」

 異常事態に、パニックになりかける。

「あなたたち、誰ですか」

「落ちつきなよ。慌てても、いいことなんてなんにもない。とりあえず、席に戻って」

 男はにこやかに話しながら、席を手のひらで指した。

 混乱した頭でも分かる。明らかにまずい展開だ。荷物を腕にかかえ、店の外に向かって走り出す。

「キルケ、願い事して」

「はい。エミリ様を、止めてください」

「分かった」

 二人の会話が聞こえた瞬間、びたっと体が止まった。なにかに体を縛りつけられているようだ。足が自動的に動き、もとの席へと戻っていく。

「はいはい、落ちついてー落ちついてー、ひっひっふーひっひっふー」

「それは違うかけ声ではありませんか」

 勝手に体が椅子に座り、手はおとなしく膝の上におさまる。悲鳴をあげたかったが、舌すらも思うように動かない。ただ「あー」とか「うー」とかいう、うめきしか出ないことに絶望する。

「君ねえ、べつに取って食おうってわけじゃないんだからさ。少しばかり、びっくりするようなことがあったとしても、逃げださないことって大事じゃない?」

「エミリ様の舌、解放してさしあげたらいかがですか」

「おっと、そうだった」

 手をかざされると、舌が動くようになった。

「た、助けてー!」

 ありったけの声で叫ぶと、男がうるさそうに耳をふさいだ。

「エミリ様、なにも恐ろしいことをしようとしているのではありません。あなたは選ばれたのですよ」

 女が冷静に話しかけてくるが、そんな宗教勧誘のような文句を受け入れられるわけがない。

「そんなの信用できますか! 助けて! 衛兵! 衛兵! 仕事をしなさい!」

「衛兵はいないってば」

 叫び続けても、やはり誰も現れない。疲れきったところで、叫ぶのを止める。もう諦めるしかないようだった。

「諦めがついた? せっかく願いを叶えてあげようっていうのにさあ、そんなに抵抗することないでしょ」

 男が肩をすくめてそう言った。

「ね、願い?」

 聞き間違いかと思ってそう返すと「そうだよ」と言われた。

「田舎出身みたいだけど、一応帝国民なんでしょ。なら知っているんじゃない。魔法使いが願い事、叶えてあげるって言っているんだよ」

 昔聞いたおとぎ話が、脳裏をかすめる。本当に幼いころ、まだ親が私を子供として扱っていたころに聞かせてくれた夢物語だ。

「あなたが、その魔法使いですって」

「そのとおり」

 冗談でしょう、と笑おうとしたが、さっきの麻痺が襲ったような感覚を思いだして戦慄する。まさか、と思うがあんなことは普通の人間にはできない。

「ぼくは魔法使い。呼び方はなんでも構わないよ、魔法使いさんでも、魔法使いくんでも」

「キルケと申します。お見知りおきを」

 二人の自己紹介に、しぶしぶ自分も名乗る。

「エミリ・K・グロリアよ……なぜかもう知っているみたいだけど」

「ふふん、魔法使いだからね。それより、エミリさん。君、もう願い事決まっている?」

 質問に、首を横に振る。決まっているもなにも、まずこの状況が信じがたかった。

「願い事、決めてもらってもいい? 今日は昨日みたいに、夕飯を先延ばしにはしたくないんだよね」

「あれは、あなたが昼寝をしていて、起きてこなかったせいだと思いますが」

「それで、なにかある?」

それで、と言われても急に願い事なんて思いつかない。そもそもなぜ私が選ばれたのだろうかとたずねてみると、彼は不吉な顔で笑った。

「それは企業秘密ってやつ。さあ、願い事を言っておくれよ」

「願い事、ねえ」

 正直脳の容量はパンク寸前だった。ただ、かすかに聞いた記憶のある、おとぎ話が頭の中をぐるぐると回った。願い事を叶えてくれる、魔法使いの言い伝えだ。

 この国は、政治、経済、商業、どの分野においても先進的であると表現できるが、ずっと昔から言い伝えられている、おとぎ話だけは別だ。この国で生まれ育った子供ならば、一度は聞いたことのある言い伝え。帝都のどこかに住んでいる魔法使いは、なんでも願い事を叶えてくれる。

 こんな馬鹿馬鹿しく単純な伝説を信じたことなど、子供時代でもなかった。しかしながら目の前で微笑んでいる男は、自分自身がその魔法使いだと名乗っている。

「魔法使いだって証明してくれませんか」

 くだらない話に乗るのはしゃくだが、試してみても損はないと提案してみる。

「信じていないの?」

 彼はがっかりしたように言うと「まあ、当然か」と自己完結した。

「魔法使いなんて、すぐに信じる大人のほうがやばいよね。それにしても、証明ねえ。なにをすれば、信じる気になる?」

 そもそも信じる気などないのだが、提案した手前、考えないといけないだろう。どんなトリックも絶対に使えなさそうな証明を思いつく。

「それじゃあ、夜にしてくれませんか」

 空を指さす。どんな嫌そうな顔をするかと思って見ていると、彼はあっさり「分かった」と承諾した。すかさず女が口を開く。

「『夜にしてください』」

「了解」と答えると、人差し指をすっと空へ向ける。照明が切れたかのように、唐突にあたりが真っ暗になった。目をつむっているのかと勘違いしそうになるくらいの暗闇に、呆気にとられる。まさかと思いながら見上げると、満天の星々と月が私を見下ろしていた。

「君が言うとおり、夜にしたよ。信じる気になったかな?」

暗闇の中から男の声がした。

 笑いがこみあげてきた。ありえない。夢を見ているのではないかと手をつねってみると、確かに痛い。信じるしかないようだ。

 私を納得させられたと判断したのか、女が「『元に戻してください』」と言うと、再び空が明るくなった。

「信じてくれたみたいで、よかった。さあ、これでなんの心配もなく願い事ができるね」

「そう、ですね」

にこにこと笑う男を再度観察する。この男が魔法使いだなんて、いまだに信じられないが、証明されてしまった以上、疑うことも不可能になってしまった。

しかし、これはもしかしたら、途方もないチャンスなのかもしれない、とふと思う。なんでも願いが叶うのだ。こんな機会、人生にもう二度とないだろう。

頭を可能な限り冷静にして、口を開く。

「それって無料で叶えてくれるんですか?」

「残念、無料ではないよ。願い事一つにつき、金貨五枚だ。なんでも好きな願いが叶うんだから、お安いもんだろ?」

 金貨五枚は私の一か月の給料と同額だ。ただ、払えない額ではない。もともと贅沢が嫌いだから、貯金はたくさんある。

 願い事をしてしまったらどうだ、と心の中の私が囁いた。たった金貨五枚でなんでも叶うなんて破格もいいところだ。なんでもいいから、願い事をしてしまえ。

安易に決めないほうがいい、と疑いの心が忠告する。こんなに簡単に願い事が叶うなんて、怪しくないだろうか。なにか裏があるのでは。

「まだ決まらないの? なにをそんなに怪しんでいるんだい。きちんと君の言うとおりに証明したんだから、いい加減信用してくれてもいいと思うけどね」

 退屈してきたのか、彼はあくび混じりにたずねた。仕方がないので、思っていることを話す。

「信じていないわけじゃないわ。ただ、怪しまないほうがおかしいでしょう。たった金貨五枚で願い事が叶うなんて、そんなことがあるものかしら。だいたいお金が必要なら、魔法で好きなだけ出せるんじゃないの?」

 問いかけると、二人は顔を見合わせた。

「それが、できないんだよねえ」

「どうして?」

「ぼく、自分の願い事は叶えられないんだ。誰かが願い事をしないと、ぼくには、なんにもできないんだよ。だから、お金をじゃんじゃん出すためには、誰かがそう願ってくれないと」

女がわずかに眉をひそめる。

「そんなことをしたら怠惰な生活に飽きて、ただの駄目人間になりますよ」

「ほら、こう言われちゃったら無理なんだよね。魔法使いだからってなんでも思いどおりに行くわけじゃないんだ」

「誰かを仲介しないと、魔法は使えないってこと? なにそれ」

「そういうこと。だから、こうやって誰かの願い事を叶えるのを、商売にしているんだよ。まあ、キルケの言うとおり、たまには人の役に立つようなことをしないと、張りあいも楽しみもないしね」

「なるほどね」

 それを聞いて、なんとなく納得はできた。だが、いまいち心が決まらない。具体的な不利益はなさそうだが、肝心の願い事が決まらないのだ。

「分かった、怪しむのは止めにする。あともう少しだけ待ってちょうだい。願い事を決めるから」

「絶対だね?」

 確認の言葉に頷く。

「それじゃあ、もう少しだけ待ってあげる。キルケ、なんか食べたい。おやつ買ってきて」

 女はさし出された金を受け取ると、どこかへと歩いていった。

その間に、なんと願い事をすれば、一番利益があるのかと考える。やはり仕事の成功だろうか。いや、それは自分でも叶えられる。どうせ叶えてもらうのならば、魔法でしか叶えられないことのほうが利益を得られるだろう。

 悩んでいると、女がケーキ屋の箱をぶら下げて帰ってきた。

「どうぞ、エミリ様も召し上がってください」

 目の前に真っ赤なイチゴのタルトが置かれる。

「あら、ありがとう」

 タルトにフォークを突き刺しながら、ケーキなんて食べるのは久しぶりだと気づく。ここ最近はハインツのおかげで少しはマシだったが、一人暮らしを始めてから必要最低限の食事しかとっていなかったのだ。

イチゴを口に入れると、甘酸っぱい果肉がほどけていく。幸せだ、と感じる。べつにどうということもない、気負わなくていい幸せ。そういえば、ここ最近幸せだと思っただろうか。仕事でうまくいったとき、ハインツに食事に誘われたとき、どちらも嬉しかったが、幸せだったかと問われると違う気がする。

ただひりひりと生活を続けて、すっかり忘れていたような気がした。

ひらめきに顔を上げる。これはいい願い事かもしれない。

「そろそろ決まった?」

 チーズケーキを食べ終わった男が尋ねた。

「決まった、かもしれません……幸せになりたいという願い事は、叶えられますか」

この願い事なら、もし叶わなくても困ることはない。それに、叶ったとしても絶対に不利益を被るような事態にならないはずだ。なんといっても、幸せになりたいという願い事なのだから。

「叶えられるけど、それでいいの?」

「ええ」

「じゃあ、それで決定だね。お金は、うーん、君の口座から勝手に貰ってもいい?」

「それは、やめてください」

 こんな男に口座を教えるのは避けたかったので、あとで振り込みをしておくと伝える。彼はどちらでもよかったのか、彼自身の口座を教えると、さっさと帰り支度を始めた。

「ああ、ちゃんと決まってよかった。さーて、家に帰ろう。キルケ、今日のご飯はなに?」

「お魚のフライです」

「待って、願い事はいつ叶うの?」

「いつって、すぐ叶うよ」

「すぐって」

 あいまいな答えだが、それ以上具体的なことを話すつもりはないようだ。

「うん、正直一杯食わされたって感じだけど。こういうこともあるよね……君は、まあ、頑張って幸せになってくれ」

 苦笑しながら男がそう言った。一杯食わされた、とはどういう意味なのだろう。尋ねようとするが、一足遅かった。「じゃあね」と別れを告げられる。

途端に視界がくるくると回り出した。人のざわめきが近づいてくる。気づいたときには、もとのテラス席に戻ってきていた。行きかう人々の中に、二人の姿は無い。

「お待たせしました。エミリさん、コーヒーになにか入れる人でしたっけ?」

 呆然と座っていると、ハインツがやってきた。トレイにサンドイッチと、二つのカップを乗っけている。

「い、入れません」

「よかった、俺もです」

 なにがよかったのだろう、とぼんやり考える。今、たしかに魔法使いと名乗る男と会話をしていた。だが、あまりにも日常がいつもどおりに進行しすぎて、子供じみた夢を見ていただけのような気もしてくる。

 ハインツは目の前で楽しそうに喋っているし、コーヒーはあいかわらず苦い。こんなことを考えていても仕方がないだろう。日差しが気持ちいいせいで、とても短い夢を見ていただけかもしれない。

 気をとりなおして、サンドウィッチにかぶりつく。予想に反して、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。

「あ、それ俺のです」

 断面を見ると、たっぷりの生クリームにイチゴが挟まっていた。さっきも似たようなものを食べた気がする。いや、食べた。真っ赤なイチゴのタルトを。

「やっぱり仕事をしていると、甘いものが欠かせないですよね」

 彼があいづちを待っていることに何秒か経てから気づき、あいまいに笑いを浮かべる。幸せの味、そんな馬鹿げた感想が頭をよぎって、消えた。


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