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不幸な貴方へ3

 最後のネジを締め終わったところで、息苦しさに気づいた。知らないあいだに呼吸を止めていたようだ。レンチを片手に、床にへたりこむ。やっと、完成した。

 しばらくそうやって、彼女を眺めていると、もうすっかり朝だということに気づいた。カーテンを開け、朝日を部屋に取りこむ。よりいっそう、その姿の美しさが映えて見惚れる。虹彩の筋が光をうけて、波打つように輝いた。

「セーリエ、起きてる?」

 ノックの音に飛びあがる。慌ててシーツをかぶせて、部屋のすみに移動させる。

「はい、はい、起きています!」

 扉を開くと、朝にしては珍しく、きちんとした格好をしたニトが顔を出した。

「おはよう」

「おはようございます。なんだか、今日はちゃんとしていますけど、どうかしましたか?」

 しわひとつないシャツを見ながら、たずねる。

「ちょっと出かけようかと思ってね……君は忙しいの? なんだか部屋がいつにもまして、ぐちゃぐちゃだけど」

 工具や材料がばらまかれた部屋をまじまじと眺められ、恥ずかしくなる。

「ちょうど、一段落ついたところなんです」

「ああ、そうなんだ。じゃあ、今は暇?」

「そうですね」

 そう答えたが早いか、腕を引かれて部屋の外へ連れだされた。

「ど、どうしたんですか?」

「暇なんだろ? なら、今日はぼくにつきあってよ」

「いいですけど……いったい、どこへ」

 セーリエの言葉など聞こえていないかのように、彼は玄関へ向かった。扉の前でぴたりと足を止めると、彼女に向きなおる。上から下まで眺めて、うなる。

「まずは、服屋だな」

「はい?」

 彼は街へ出ると一目散に服屋に向かった。きらびやかなショーウィンドウにたじろぐ彼女を無視して、店に入る。

 好奇の目を向けられている気がして、フードを引っぱる。ニトの考えていることが、まるで分からなかった。

「これと、これと、これ」

 ぽんぽんと色鮮やかな服を持たされたかと思うと、試着室に押しこめられた。

「ニトさん、どういうつもりなんですか」

「いいから、早く着て」と冷たく返されてしまったので、しぶしぶ渡された服を着る。

ついぞ袖を通したことのない、鮮やかな黄色のワンピースに、白いヒールの靴、大きなひさしの帽子を身につける。

恥ずかしさで爆発しそうなくらいだったが、彼はその姿に納得したのか、ひと揃いを彼女に買い与えた。

「あの、買ってくれたのは嬉しいですけど……こんな服貰っても、着る機会ないですよ」

「今、着ているんだからいいだろ。それより、早く次に行くよ」

「せめてどういうつもりなのかくらい、教えてくれても」

「はいはい、うるさいうるさい」

 会話しながら、歩いていく。セーリエの勤めているサーカスは街の中でも下層のほうにあるので、こんなに賑やかで明るい場所にいると落ちつかなかった。道行く人はみんな身なりがいいし、道脇に並ぶ店も高級そうだ。

通りを行く人たちに顔を見られている気がして、帽子のひさしを下げる。ちゃんと傷が隠れているか、心配だ。

「そんなに下げなくても、誰も見ちゃいないよ」

「わっ、なにするんですか!」

 ひさしをぐいっと上げられそうになったので、とっさに抑える。

「傷はちゃんと隠れているし、見えたとしても、みんなそこまで気にしないよ。それより、そんなに下げたら前が見えなくて、そっちのほうが危ない……ほら」

 肩を寄せられて、足元がよろける。すぐ後ろを、自転車に乗った新聞配達が通っていった。人波のざわめきに、気分が悪くなっていく。

「帰りたいです」

「だーめ、今日はぼくにつきあってもらう」

 彼はそう断言すると、彼女の手をしっかりと握って歩きはじめた。

なぜこんな拷問のようなことをさせられるんだろう、と心中でうなだれる。知らないあいだに怒らせてしまっていて、遠まわしな復讐をされているのかと思えるくらいだった。

ただ、先へ先へと歩いて行く横顔は、今にも口笛を吹きそうなくらい、上機嫌に見えた。

「ここがいいかな」

 ニトはガラス張りの建物にふらりと足を向けた。中では着飾った男女が小さなテーブルを囲んで、なにかをつついていた。あまりにも自分とは縁のない空間にめまいがする。またもや顔を見られている気がして、思わずうつむく。

「ほら、しゃんとしなよ。前を見て、きちんと立つんだ」

 背中を軽く叩かれる。恨めし気に見ると、にやりと笑われた。

「ちょっとは耐性をつけないとね。サーカスにいるんだとしても、これからは引きこもりでは、いられなくなるんだから」

「私は引きこもりで構わないんですけど……」

 綺麗な衣装を着た給仕に案内され、小洒落た椅子に座る。楽しげな人々が、肘をついて歓談に興じているのが見えた。

「ここ、チーズケーキがおいしいんだって」

「一人で入りづらかったから、私のことを連れてきたんですか」

 彼は意味ありげにほほえみ、チーズケーキとコーヒーを二人分頼んだ。初めて見たケーキなるものは、話で聞いていたよりも、ずっと地味で不思議な食べ物に見えた。綺麗なこがね色の表面をフォークでつつくと、ほろりと崩れる。

「うん、悪くない」

 彼は満足気だ。一口食べると、たしかにおいしかった。ほどよい甘味が、コーヒーによく合う。

 そのあとも、二人は意味もなく街を歩いた。画廊に入って流行らしい抽象的な絵を眺め、感想を言いあった。ニトはこういう絵が嫌いなのか、出たあとも文句を言い続けていたので面白かった。

教会の前の広場で開かれているマーケットの出店をひやかし、ジャグリングや縄跳びを遠目で眺めながら、果物のジュースを飲んだ。

歩いていくうちに、視線が気にならなくなっていた。街にいる人々は忙しいから、他人の顔なんて、たいして気にもとめていないと分かったのだ。

帽子のひさしを上げて眺める街は、にぎやかで楽しそうだった。自分もこの中の一人なのかと考えると、不思議な気持ちだ。こんな場所に居ていい人間じゃないはずなのに。

 そう彼に伝えると、笑われた。そう思っているのは、君だけだよ。

 夜になった。大きな劇場の前につくと、昼間とはまた違った意味で着飾った人々がたくさんいた。チケットを渡して、豪華な玄関に進む。案内された先は、舞台がよく見えるボックス席だった。

「すごいですね」

 光輝くシャンデリアを見あげながら、感嘆する。

「舞台に立つ側だから、こうやって見るのは初めてだろ」

 ふかふかのシートに座り、階下の舞台を見おろす。

「サーカスは、こんな高い場所から見えませんけどね」

 ベルベットの赤い垂れ幕を触ると、高級そうな手触りがした。数年前の自分はこんな所にいると想像すらできなかっただろう。

「オペラもバレエも、サーカスも一緒だよ。演じる者が居て、観る者が居る。ただそれだけ」

「ふふ、裏に大道具さんと脚本家と、オーケストラも居ますけどね」

「それを覚えていられるのは、ごくわずかな人達だけだけどね」

 話しながら開演を待つ。だんだんとざわめきが小さくなり、音楽が奏でられはじめた。照明が落とされ、舞台に光が集まる。舞台袖から、異国の衣装を着た踊り子たちが出てくる。何人もの役者が立派な衣装に身をつつみ、歌いながら舞台の上を歩く。

 セーリエはふと思った。オペラもバレエもサーカスも一緒だと彼は言った。舞台があって、演じる者が居て、観客が居る。こんな華麗な舞台の上に自分が立つことはないだろうけど、それでも。

 ふと視線に気づいた。口が動き、なにか言われたようだと思う。

聞き返そうとすると、無理やり首を舞台のほうに戻された。大人しく観ろ、ということだろう。

 ありがとうございます、と呟くと黙ってうなずかれた。


 興奮のせいで、帰り道もあたたかく感じられた。まだ耳の奥にプリマドンナの歌声が残っている。

「すばらしかったですね」

「そうだね」

のんびりと歩いていると、気持ちいい風が通った。

「今日、楽しかったです」

 なんとなく歩みの遅い彼を振りかえって言う。

「はじめは、なんでこんな風に連れだすんだろうって思っていましたけど。でも、楽しかった。世の中には、すばらしいものが、いっぱいありますね」

 見あげると、空は真っ黒だった。今日はよく晴れていたから、きっとたくさんの星が輝いているだろうと思ったのだが、街中だとあまり見えないのかもしれない。やはり、夜空を観るならば彼の部屋からが一番いい。

「早く、帰りましょう。なんだか、星が見たい気分なんです」

 珍しく浮かれた気持ちで、振りかえる。立ち止まった彼に、首をかしげる。

「どうかしましたか?」

「ずっと考えていたんだ。どうしたら、君に恩返しができるかって」

 静かな声に耳をかたむける。少し離れた場所にたつその姿は、今にも暗闇に溶けてしまいそうだった。

「恩返しって、それをしなくてはいけないのは、私のほうですよ。今日もこんなに素敵な体験をさせてもらって……」

「ううん、違うんだ」

 言葉をさえぎられる。

「君に助けてもらったあの日から今日まで、とても楽しかった。ぼくは自分がどうして存在しているのかすら、もはや分からないけれど。それでもこの何年間は、そうだね。すごく楽しかったんだ」

「私もですよ」

 ほほえみかけると、彼は少しずつ近寄ってきた。歩みを止めると、いつになく真面目な顔をしているのが見えた。

「いつか君、ぼくに言ったよね。自分の願い事はないのかって」

「ええ、言いましたね」

「今、叶えてもらってもいいかな」

 唐突な申し出に驚くが、願い事に対して積極的ではなかった彼が、やっと自身の願いを見つけられたのかと思うと、嬉しくなった。

「いいですよ。なにを願うんですか?」

 二つ返事で了承すると、つばをのむ音が聞こえた。緊張しているのか、続いた彼の声は乾いていた。ぼくの幸せを願って、セーリエ。

 想定外の願い事だったが、迷うことなく口にする。心から祈ることができる願い事だった。

「ニトさんが、幸せになりますように」

 気づかないうちに、体が触れあっていた。冷たい手のひらが、ほてった額に触れる。顔が見えない。耳元で優しい声がした。

「ありがとう」

 視界が揺れる。耳の奥で砂嵐のような音がする。

「よかった。ちゃんと願い事が叶った」

 これで、ぼくは幸せだ。ほっとしたような言葉が、遠くから聞こえた。

「幸せになってね、セーリエ」

 腰から崩れおちる。月のような二つの光がぶれながら見おろしている。薄れていく意識の中、手を伸ばす。人差し指に、ぬるい水が触れた。

ああ、こっちは体温があるんですねなんて、口に出せないままに目を閉じる。











「セーリエ、そこのロープ取ってくれるか!」

 向こう側でジョンが叫んだ。足元に落ちていたそれを拾って投げると、礼を言われる。

あわただしく駆けまわる団員たちの邪魔にならないように、人形を抱えてすみに寄る。調整は終わっているのだが、公演の直前はぎりぎりまで傍にいたいのだ。

関節に触れ、なめらかに動くことを確認する。糸もちゃんと張ってあるし、思いどおりに動く。大丈夫、とひとりごちる。

幕が降ろされる音と、客のざわめきが聞こえてきた。舞台袖に移動すると、ジョンが近づいてきた。彼は火吹き男から引退して、団長の座におどり出ていた。

軽い口づけをかわすと、セーリエに笑いかける。

「その衣装、可愛いな。やっぱりローブより、そういう恰好のほうがいい。フードも外せばいいのに」

「どうせ見えないんだから、どんな格好をしても一緒でしょう。それに、これがないと落ちつかないの」

「綺麗な顔なのに、もったいないな」

 ジョンの手が彼女の前髪をかきあげた。傷一つない顔面がこわばっている。

「なんだ、あいかわらず緊張しているんだな」

「初心を忘れていないだけって思ってくれると、ありがたいわ」

 小声で会話しながら、糸を繰る。周囲の役者たちが、かたかたと音をたてて歩いてきた人形に目を奪われる。顔にかかった髪を払い、目を見つめる。輝きは決して鈍っていない。

「キルケの調子も万全じゃないか、ん?」

「ええ、もちろん」

 ぱしゃり、と音が聞こえた。大きなカメラを掲げた少年が手を振った。笑いかけると、かけ足で去っていく。

「もうすっかり大御所の風格だな」

「それ、あなたに言われたくないわね、団長さん」

「こら、そこの夫婦。いつまでいちゃついているんだ」

 団員の一人が笑いながらひやかした。頬が熱くなる。ジョンの肩を叩いて、キルケの調整に戻る。

「期待しているぜ、いとしのハニー」

「はいはい」

 こういう時、お互いに同じ職場だと困るが、勇気づけられもする。

ジョンとの結婚を決めたのには理由があった。

ある日、セーリエは馬車に跳ねられ、記憶をほとんど失ってしまったのだ。目を覚ましたときには、サーカスのテントにいた彼が、かいがいしく看病をしてくれていた。

不思議なことに、サーカスで過ごしていた記憶はあったのだが、どこで暮らしていたのかとか、どうしてこの国に来たのかといった記憶をいっさい失ってしまっていた。そんな彼女を手助けしてくれたのが、ジョンだったのである。

自分にはもったいないくらい良い夫だと常々思う。ただ、失われた記憶の所在が気になっていた。なにか大事なことを忘れているような焦燥感が、ときどき彼女を襲うのだ。

開演を告げるジョンの挨拶が聞こえた。雑念を振りはらい、持ち場に移動する。手品師のマジックに、玉乗り、ライオンとクマの曲芸、空中ブランコ。観客の

歓声が心臓の鼓動を速めていく。彼の言うとおりだ。いつまでたっても、あがり症がなおらない。

 キルケの手を握ると、冷たい感触に安心した。彼女の体温はなにかに似ている、といつも考えるのだが、どうしても思いだせなかった。記憶に封をされているみたいに、思考が止まる。

 がたん、と足元が動いた。そろそろだ。階下から声が響く。仕掛け台の上に彼女を置き、縦横無尽に張られた板に自分も乗る。自由に動きまわれるように、ジョンが設置してくれた、彼女のための仕掛けだ。

「さあさ、みなさんお待ちかね。今宵の目玉の登場です。ここは現世にあらず、ほの暗い地獄の底。天上の天使よりも美しい、人形の凍りつくような美しさをごらんあれ! 我が団が誇る天才人形師、セーリエの舞台の始まりです!」

 舞台の暗転と共に、キルケの乗った板が降りていく。

スポットライトが当たって、観客たちが息をのんだ。真ん中に座りこんだ人形に目を奪われたのだ。ゆっくりと立ちあがり、礼をする。静かに音楽が流れだす。ひとりきりで踊る人形の美しさに、誰も声をだせないでいる。

彼女が舞台を降り、踊りながら観客たちのあいだを行く。セーリエも歩きながら、今日は誰にしようかと客席を見おろした。より彼女を身近に感じてもらうために、客の一人にパートナーとして踊ってもらう演出があるのだ。

キルケの姿を目で追う人々を観察しながら、ちょうどよい人材を探す。

ふと、一番後ろで立ち見をしている男性が目に入った。すらりとした長身の青年だ。一人で観にきているのだろうか、腕を組んで、じっと彼女を見つめている。その瞳の色を確認したところで、糸を繰る。

 手を差し伸べられて、青年は目を見開いた。ぱらぱらと拍手がわき、大きくなる。

逡巡した後に、彼はその手をとった。舞台に上がった二人を見て、観客達は驚いた。唐突に選ばれたにしては、二人は似通っていた。黒い髪に、珍しい黄色い瞳。普段どおりならば、客をからかいながら楽しく踊る場面になったはずなのだが、最初からそう決まっていたかのように二人が踊ったので、観客たちは手拍子も忘れて魅入ってしまった。

 青年が舞台を降りると、口笛と拍手がわいた。去っていく彼に、キルケが手を振る。セーリエもその背中を目に焼きつけようと見つめ続けた。どうしてか、忘れないようにしようと強く思ったのだ。

 公演が終わると、ジョンがセーリエに駆け寄ってきた。

「おいセーリエ! サクラを使うなんて、聞いていないぞ。あんな男、どこから拾ってきたんだよ」

「サクラじゃないわ」

 失礼な言い方にむっとしながら返すと、彼は眼をむいた。

「おい、嘘だろ。あんなに完璧にそろったの初めて見たぞ。もしかしてあいつ、何回もここに通っているんじゃないか?」

「そうなのかしら」

「それに、キルケに似ていたし」

ジョンの言うとおりだった。舞台上の青年は、どこかキルケに似ていた。まるで初めから、そう造られているかのように。

「なんにせよ、客は大喜びだったからよかったけどな。はあ、もし次に見かけたら、今度はスカウトしようぜ」

 その言葉にあいまいにうなずく。

なぜか、彼はもう来ないだろうという確信があった。そう、もう来ない。心中でくり返すと、なぜか胸の奥がひどく痛んだ。

 ジョンと今日の公演について話しながら、自分たちのテントへと歩いていく。真夜中の空を見あげると、曇天のせいで灰色がかっている。

「どうした?」

「星を観にいきたいわ」

 思いついたことを話すと、笑われる。

「セーリエ、こんな都会じゃ星なんか観えないよ」

「そうね」と答えて、歩みを戻す。

 まばたきをすると、星空がかいま見える気がした。記憶の中に、たしかにあるはずの星々と月が。






「おばあちゃん、来たよ!」

 扉を乱暴に開けて、小さな男の子が叫んだ。

まどろみから引き戻される。ベッドのふちに乗った頭をそっと撫でると、体がきしんだ。

「ありがとう、ぼうや」

「こら、おばあちゃんに無理させるな。調子が悪いんだから」

 追って入ってきた男は、自身の幼い息子をかかえると、しぶい顔をした。

「そこで待ってもらっているけど……入れても大丈夫? まさか、本当に来るとは思ってもみなかったけど。なんだか思ったより若いし、怪しい感じだよ」

彼はだまされているんじゃないのか、とでも言いたげに眉根を寄せた。疑り深いところはジョンに似たわね、と苦笑する。

「大丈夫よ、今日は体の調子がいいの。それにせっかく来てくださったのに、そんな言い方しちゃだめよ」

「分かったよ。じゃあ、俺はここに残るから」

「ごめんなさい。ちょっと内緒話がしたいのよ」

 言葉をさえぎると、心配そうな顔をされる。

「でも、母さん」

「大丈夫よ。なにかあったら、すぐに呼ぶから。それに、おばあちゃんでも、まだ隠しておきたいことの一つや二つあるのよ。ね?」

彼は溜息をつくと「すぐに呼ぶんだよ」と言って、息子をかかえなおし、部屋を出ていった。

 部屋が静かになる。窓の外を眺めていると、軽いノックが二回響いた。

「どうぞ、お入りになってください」

 きい、と音をたてて扉が開いた。

「どうも」

 まだ年若い男だった。背が高く、ぱりっとした白いシャツがよく似あう。顔にどこか見覚えがある、と思って合点する。彼女に少しだけ似ているのだ。

「こんな辺境まで、わざわざありがとうございます。私、セーリエと申します。今日はよろしくお願いしますね、魔法使いさん」

 挨拶をすると「いえ」とそっけなく返された。ベッドの傍の椅子をすすめる。近くに寄ってきた彼からは、コーヒーの香りがした。

「どんなお爺さんが来るのかと思っていたのですけれど。まさかこんなに素敵な人がいらっしゃるとは、驚きました」

「よくそう言われるよ」

「ふふ、でしょうね。その目、とても綺麗だわ」

 そうほめると、彼は黙った。

「願い事を、叶えてくださるのよね?」

「うん、君の叶えたいことなんでも」

 枕の下から、麻の小袋を出す。みんなには内緒で、こつこつと貯めたお金だ。これだけで足りるかしら、と言いながらさしだすと、彼はちらりと見ただけでうなずいた。

「充分だ。それで、願い事は?」

「あのね、すごく変な願い事なんですけど、いいかしら」

「今まで数えきれないくらい、奇妙な願い事を叶えてきているよ」

「それなら心強いわね。じゃあ、言いますね。願い事はね、こうよ。過去の私の願いを叶えてあげたいの」

そう言った瞬間、彼は表情を固くした。

「どういう意味だい」

 部屋の片隅を指さす。そこには、すっかりただの置物になった美しい人形がいた。

「とても奇妙な話なんですけれど。彼女の胸の中にね、手紙があったのよ」

 体の限界を迎えて、公演から降りたその日、役目を終えた彼女の糸を取り外す作業をしていると、それはひらりと床に落ちた。

油で茶色くくすんだ手紙は、どうやら昔の私が書いたようだった。たった一文だけ、にじんでいる文字で、それは書かれていた。『なによりも大切な貴方の願いを叶えるために』と。

「こんな手紙を書いた記憶がなかったから、見つけたときは本当にびっくりしたわ。でも、不思議と納得できてね、きっと昔、私にはすごく大切な人がいたんだわって思ったんです。でもその人が、記憶になくて」

「旦那さんじゃないかい。そのときから、一緒の職場にいたんだろう」

 魔法使いは動かない人形を見ながら、そう言った。膝を強く握りしめているので、そんなに握ったら痛いだろうと手に触れる。ひんやりした温度になぜかほっとする。

彼はびくっとして、セーリエの手を振りはらった。

「ご、ごめん」

 彼は動揺したように謝った。大丈夫、と答えながら会話を続ける。

「夫ではないんです。だってそのとき、たしか私、彼の告白を断っているのよ。だからその人は別にいるはずなんですけど、思いだせなくて……だからね、願い事をしたいんです」

「その知らない誰かのために?」

彼はなぜか怯えたような顔をした。

「ええ。この子はね、きっとその人のために、造られたものなんです。それで、多分その人の願いを叶えるために、私はなにかをしようとしていたはずなの。だけどもう、思いだせないから、魔法の力で昔の私が思っていたことを叶えてくれたらって考えて」

 沈黙がおりた。彼は深呼吸すると、口を開いた。

「悪いけど、それって危険な願い事だよ。昔の君がどんなことを考えていたのかは、ぼくにだって分からない」

「あら、いいんですよ。そっちのほうが面白いじゃないですか」

 彼女はくすくすと笑った。

「そんな、思いだせないような奴のために、願い事をするのは止したほうがいい。もっといい願い事があるだろう、家族の安全を願うとか、君の寿命を延ばすとか」

「家族の安全は、このあいだ教会に行って、祈ってきたんです。それに私、もう充分生きたわ」

「まだ生きられるよ。魔法でいくらだって」

「こんな体で生きたって仕方ないですよ。それより、その人のためになにかしてあげたいんです」

「そいつはもう、君のことなんて覚えていないかもしれないよ? 君の好意を無駄にするような、とんでもなくひどい奴の可能性だってある。そんな奴のために願い事をする必要はない」

「あら、そんな人を大事に思ったりなんて、今も昔もしません」

 反論する彼に、よく分からない自信をみなぎらせて答える。

「思いだせないけれど、でも、大事な人なんです。それなら、最後くらいその人のためになることを、昔の私がしてあげたかったことをしたいんですよ。きっと、今頃さみしい思いをしているはずだから」

 どうかお願いします、と頭を下げる。返事がないので、そっと彼を伺う。

ニトは彼女を見て、くしゃりと笑った。

「君って、本当に良い奴なんだね」

 瞳から、透明な滴が流れていた。思わず指ですくうと、ぬるい温度がしわだらけの手に伝わる。

ああ、この温度だったとセーリエは嬉しくなった。








「それから何週間も経たないうちに、彼女は亡くなったそうな。葬儀にはたくさんの人が訪れて、丘の上から見慣れぬ男が、人形を腕にかかえて見守っていたという話よ……おや、記憶を失っているはずの彼女が、どうやってこの話を後世に残したのかと不思議そうにしておるな。ふふ、半分は旦那のジョンが聞いた話、もう半分は想像よ。おとぎ話なんて、そんなもの。真実か嘘かなんて、たいした違いではないのよ。セーリエの物語は、もう終わったのだからな。ただ、キルケさん。あんたの顔を見るに、魔法使いは今もいるんだろうなあ」

 話が終わってぼうぜんとしていると、彼はそう問いかけてきました。

「そう、ですね」

「それじゃあ、やっぱり、おとぎ話はまだまだ続くってことだなあ。いやあ、長く生きるもんだね。この話を、当人にする日が来ようとは、わしも思ってもみなかった」

 感慨深げに語る彼の言葉を、頭の中でくり返します。

おとぎ話は、まだ続く。それはそうなのかもしれないと思いました。彼は自分を裏方だと評しますが、それは逆を言えば、永遠に終わらない舞台を演じ続けるのと同じことです。

「私は、その話に参加しているのでしょうか」

「あんたかい?」

 ルージさんは、きょとんとした顔をしました。

「もちろんさ。だって今こうして、わしと話をしてくれているじゃないか」

「でも、私は人形です。それに今のお話からすると、私はセーリエさんなのか、それとも造られた命なのか、それすら分からないままです」

「それは、セーリエにしか分からんからなあ」

 彼は肩をすくめてそう言いました。

「ただ、あんたがどうしても気になるならば、きちんと物語を読むことだね。その上で、魔法使いに聞けばいい。あんたが何者なのか、彼が一番よく知っているのだから」

 テントの外から、ビケットさんが私たちを呼ぶ声が聞こえました。質問の時間は終わってしまったようで、ルージさんはマジックの道具をかき集めると「さあ行こうじゃないか」と私を誘いました。

「ぐずぐずしているわけにはいかん。あんたにも魔法使いにも、まだ時間はたっぷりあるかもしれんが、わしにとっては限られているからな」





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