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不幸な貴方へ1

不幸な貴方へ


 最低の人生が、どこに落ちているのかと問われたら、それはここにありますよとセーリエは間違いなく答えられる。

 小さいころの記憶はあんまりない。ただ痛かった記憶というのは、いつも鮮明だ。ふりそそぐ熱い液体に、自分の悲鳴が響きわたった。混乱と激痛にくるくると運命の針が回って、矢印は地獄を指さした。

それから、奴隷商にたった銅貨三枚で売られた。顔がだめだったせいで娼婦にすらなれず、役にたたないから、船に売られた。沈むだろう船のこぎ手はいつも大募集だ。犯罪者達と混じって、何年か一生懸命船をこいだ。最悪なことに、船は沈まなかった。

それから、その醜さが買われた。サーカスだ。初めに聞いたときは、なんのことを言っているやら分からなかった。新しい見世物の形らしい。ああ、やっとマシな所に行けると思ったが、そんなわけはなかった。

いつも落ちるところまで落ちたと思うのに、底はまだまだあるのだと悪魔が足を引っぱるのだ。


「この蛆虫が、今日の演目はなんだ! え?」

 ばちん、とムチの音が響いた。背中に焼けるような痛みが走る。悲鳴を口の中でかみ殺す。団長は高い声が嫌いだ。悲鳴をあげると、もっとぶたれる。

「ちゃんと、調整をしてこいと言っただろう! あんな甘い動きで、客が喜ぶと思っているのか?」

 ごめんなさい、団長。私がぐずだから。うずくまって何回もくり返す。そうやってひたすら耐えていると、やがて気がすんだのか、足音は遠ざかっていった。

 まわりを見渡して、もう誰もいないことを確認する。ああ、これでやっと帰れる。

血が流れている背中をかばいながら、ローブをはおる。他の団員達は、とっくに帰ったようだ。誰もかばってくれない。当然だ、口答えをしたら、なにをされるか分かったものじゃない。

 もうすっかり慣れてしまったな、とセーリエは思った。痛いのも辛いのも、慣れてしまえば、なんてことはない、ただの日常だ。

 部屋から出ると、雨がふっていた。

冷たい雨粒を受けながら、暗い路地裏を進んでいく。人っ子一人いない。土のにおいをかぎながら歩いていると、傷は痛かったが、ちょっぴりいい気分だった。今だけは自由だ。誰にも怒られず、ぶたれない。

そんな風に気分がよかったからか、彼女はいつもならば気づかないようなことに目を止めた。

 脇道に、なにやら大きなものが落ちている。よく見てみると、人間のようだ。迷った末に、近寄ってみる。

「あのー」

 まだ年若い男だった。泥まみれだったのでよく分からなかったが、ちゃんとした身なりをしているように見える。傷を負っているのか、鉄くさい匂いがした。

「し、死んでますか?」

 全然息をしていなかったので、思わずたずねた。手が少しだけ動いたことで、意識があると分かった。

とりあえず、放っておくわけにはいかないだろう。ここら辺は強盗に死体漁りに奴隷商人、ありとあらゆるあくどい商売に手を染めている人々がうろついているのだ。放置していたら、死ぬより酷い目にあうのは目に見えている。

 なんとか抱えて運ぼうと試みるが、背中の傷もあってすぐ転んでしまった。

思いきり落としてしまったので、あわてて男を助けおこす。もう意識がないようだ。

 そうだ、と思いだして、懐から糸を取りだす。ぐったりした男の体に巻きつけ、引っぱってみる。足が引きずられて、かわいそうだが、これならなんとか家まで連れて行けそうだ。怪我をしてしまうかもしれないが、ここに放置するよりはマシだろう。

 ずるずると男を引きずり、道を進む。人がいないことが幸いして、無事に家までたどりついた。糸を外して泥をふき、布団に寝かせる。あらためて見ると、どうして生きているのか不思議なくらい、傷だらけだった。

 血でぐっしょり湿っているシャツをまくって、思わず目をそらす。手当をしなければ、本当に死んでしまうかもしれない。

救急箱を持ってきて、とりあえず包帯を巻いた。もし、死んでしまったらどうしようと不安になる。医者に見せなければいけないが、あいにくこの区域には頼りになる医者がいないのだ。

 明日、隣町まで行って医者を呼んでこようと決心し、思いつくかぎりの手当をし続けているうちに、睡魔が襲ってきた。だめだ、自分がここで寝てはいけないと首をふる。眠っているうちに、この人が死んでしまったら後悔してもしきれない。

 それから何時間かして、手が無意識のうちに止まるようになった。そういえば、自分も背中に怪我をしていたと思いだす。傷が熱を持ってきたのか、頭がぼんやりとする。

 そうして、セーリエは眠りに落ちてしまった。


 セーリエは、いつのまにか寝てしまっていたことに気づいた。どれくらいの時間がたったのだろう。部屋が地下にあるせいで、まるで時間の流れが分からない。はっとして寝ている男を確認すると、ちゃんと息があった。

とりあえずは安心だ、と思って体を起こそうとする。背中がずきん、と痛んだ。そういえば自分の傷は放置したままだったと思いだす。血がぱりぱりになって布を引っつけてしまっているので、はがそうと手を背中に回す。

「いたっ、いたた」

 かゆいような、裂けるような感覚がした。涙目になりながら布と格闘していると、ひじが男の体に当たってしまった。

「ああっ、ごめんなさい」

 男がうめく。ゆっくり開かれた目と、視線があった。その瞳は、見たことがない色をしていた。空に浮かぶ月のような、透きとおった黄色だ。

 彼は固まったセーリエをぼんやり見あげていたかと思うと、かっと目を見ひらいた。

「痛い!」

「えっ」

「すごい、痛い」

 彼はそう言いながら布団の上でもだえた。

「あっ、あの、お医者様呼んできますから!」

「それはだめ!」

 彼は怪我人にそんな声が出せるのかというくらいの大声で叫ぶと、勢いよく布団から転げおちた。痛い、と涙声が聞こえる。

「だ、大丈夫ですか」

 体を布団の上に戻してあげると、こくこくとうなずかれた。落ちつきを取りもどしたのか、さきほどよりも冷静な口調で話しだす。

「ごめん、取り乱した。こんなに痛かったの、ひさしぶりで……」

「それは、そうですよね。お腹、割れちゃっていますし」

 包帯の下の惨状を思いだしながら話すと、彼は血の気のない顔をさらに青ざめた。

「なんにせよ、助かったのか、ぼくは」

 彼は周囲を見渡し、そう呟いた。

「君が助けてくれた、んだよね?」

「えっと、一応」

「そりゃあ、ありがたい。本当に助かった。あのまま土に埋められるんじゃないかと危惧していたんだ。生きたまま埋められるのって、結構きついからね」

 彼は怪我人にしてはやけに饒舌に喋った。これだけ元気ならば、今すぐ死んでしまうことはないだろうと一安心する。

彼は包帯をゆるませて傷口を確認すると、顔をゆがめた。そして、セーリエのほうをちらっと見たあと、思案するように視線をあげた。

「本当に、お医者様を呼ばなくて大丈夫ですか」

「うん、それは大丈夫……というか、呼ばれるとちょっと困るんだ」

 その解答で、きっと追われている身なのだろうと察しがついた。泥だらけだったが、けして悪い身なりはしていないし、わけありなのだろう。

「あのさ」

 彼はなにかを言いかけたが、血でぱりぱりになったローブに視線を移すと、口をつぐんだ。

「お医者様が呼べないなら、とりあえず今は寝ていてください。ここ暗いし、じめじめしていますけど、あんまり人には知られていないし、安全なんですよ」

 話しながら、立ちあがる。背中をかばいながら鍋に火をかけ、中に入っていたスープを器に盛った。

「昨日の朝の残りものなんですけど、よかったらどうぞ。少しは口にしないと、体力が戻りませんから」

「え、ああ、ありがとう」

 彼はとまどったような顔で、スープに口をつけた。自分も床に座り、味のうすいそれを食べはじめる。仕事に行く前に、新しい包帯と男の食事を買ってこなくてはと考える。こんな栄養のないものでは、治るものも治らない。

「ぼくが聞くのも変かもしれないけど、その怪我、大丈夫なのかい」

「これですか? 慣れているので、大丈夫ですよ」

 笑ってそう返す。体に傷跡はたくさんあるが、それは治らなかった傷がない証明でもある。ちょっと消毒して包帯をまいておけば、あとは平気だろう。

「そういえば、名前を聞いていませんでしたね。私、セーリエと申します。あなたのお名前を伺ってもいいですか?」 

少したってから、彼は「ニト」と名乗った。

「ニトさん。傷がよくなるまで、ここにいて大丈夫ですからね。あんまりいい場所ではないですけど、体調が悪いまま外に出ると、なにかと危ないですし」

「いいの?」

「ええ、あなたさえ嫌でなければ」

 虚をつかれたような顔で、彼は「ありがとう」と礼を言った。

「しばらく、お世話になるかもしれない。それと、ちょっとくり返して言ってほしいことがあるんだけど」

「くり返し、ですか」

「うん、そのまま言ってね……『私の傷を治してください』はい、どうぞ」

「え、あ、わ、私の傷を治してください?」

 そう口にすると、彼はほほえんでうなずいた。

「ありがとう。これ、ぼくの国に伝わるおまじないなんだ……それじゃあ、これからお世話になるね、セーリエ」

 ニトが話しているあいだに、なぜか背中の痛みが引いていくような気がした。


 セーリエの暮らしに、不思議な同居人ができた。ニトは明るい性格のようで、体調がよくなるにつれて、なにかと話しかけてくるようになった。

彼は聡明で、いろんなことを知っていた。旅をしていたのか、よく他国の話をしてくれた。セーリエは船に乗っていたことはあれど、国の外に出たことがない。だから、東の国の変わった風習や、北の国に伝わる恐ろしい魔物の伝説なんかを聞くのはとても楽しかった。彼は話し上手で、とても昔にあったようなことも、まるでその目で見てきたかのように話してくれた。

家で作業をして、夜にはサーカスに行って、帰ってきて、彼の話に耳をかたむける。そんな生活が続いたある日のことだった。セーリエはいつものように作業に取りかかっていた。

団長から、新しい人形を造れとの命令が下ったのだ。できるかぎり早く造らないと、ムチ打ちの回数が増える。

「人形造りって、楽しいかい」

 腕をどうくっつけようか迷っていると、様子を眺めていたニトが話しかけてきた。

「楽しいですよ」

「でも、無理やりやらされているんだろう。見ていると、なんだか面倒くさそうな作業ばかりだし」

「はじめは、そうでしたね。でも、今となってはこの子たちだけが、私の友達ですから」

 彼女は自分で言ったことの奇妙さに、苦笑いを浮かべた。

「変ですよね。人形が友達なんて」

「そうだね。今はやりの、怪奇小説みたいだ」

「ふふ、そうですか」

 遠慮のない言いまわしがおかしくて、笑いがこぼれる。笑われたことが不満だったのか、彼は片眉を上げて「なんだい」と言った。

「いえ、ニトさんは、友達がたくさんいるのでしょうね。世界中を旅しているのだから」

「いや、そんなことはないよ。友達どころか、家族すらいない」

「じゃあ、私と同じですね」

 そう答え、作業を進める。

本当は友達が世界中にいるのだろうな、とひそかに思った。

この人には特別な、人を引きよせるような雰囲気がある。それは、ふとした視線の動きだったり、語り口調だったり、とても珍しい瞳の色だったりした。ただ、どこか不思議な人だとセーリエは思っていた。

 物思いにふけりながら、作業を続ける。なかなか腕がくっつかない。

「ボルトが合っていないのかしら」

ぶつぶつと呟きながら、あれこれと試してみるが、一時間ほどたっても、腕はつかない。ついたと思ってもすぐに取れてしまうので、だんだんと焦り始める。

団長からは、今日中にある程度の形を見せろと命令が下っている。腕さえ上手くつけば、あとは問題ないのだが、今から新しい部品を拾ってくる時間もない。お金が無いので、人形は拾ったガラクタで造っているのだ。

サーカスにある備品で間にあわせられないだろうか、と考えながら、どうしてもくっつこうとしない腕と肩のあいだを睨みつける。

「ねえ、セーリエ。おまじないしよう」

「え?」

 集中していたところに話しかけられ、きょとんとする。

ニトは人差し指をたてて、得意げに言った。

「くり返してね……『人形の腕をくっつけてください』」

「人形の腕を、くっつけてください」

 彼はにっこり笑って頷いた。

「それ、故郷のおまじないだって言っていましたよね」

「うん、そうなんだ。よく効くよ」

 彼の言うことは本当だった。あれほど手こずっていたことが嘘のように、腕はぴたりとはまった。持ちあげて、ぶらぶらと振らせてみるが、取れそうな様子もない。

「わあ、やりました! ありがとうございます!」

 やっと形になった人形を抱きしめる。彼は「はいはい、良かったね」と目を細めた。

「そのおまじない、すごいですね」

「ふふ、言っただろう、よく効くって」

 その日、セーリエは団長に怒られずにすんだが、腕を舞台装置にぶつけたせいで、大きなアザができてしまった。だが、それにしても、ムチ打ちがない日はいい一日には違いない。彼女は気分よく家に帰ることができた。

それからというもの、セーリエが困っているとき、なにかと彼がおまじないをすすめてくるようになった。言葉をくり返すだけの、その単純なおまじないが効かないことは、なぜか一度もなかった。もしかしたら、なにか秘密があるのかもしれない、と彼女は思ったが、変に詮索をするのは止しておいた。話してくれる気になったら、聞けばいいだけのことだ。

ニトを発見してから一か月がたった。

もう彼はある程度のことは、自分でできるようになっていて、もしかしたらそろそろ出て行ってしまうかもしれないなあ、とセーリエは思っていた。

体調が回復したことは喜ばしいが、いなくなった後を想像すると、きっと寂しいだろうと思うのだ。

短いあいだだったが、彼とすごす時間は楽しかった。家に帰ると「おかえり」と迎えてくれ、なにげなく話しかけてくれる。たったそれだけのことが、どれだけすばらしいものなのか、思い知るような気がした。

今日はこんなことがあって、団長に怒られてしまった。変なお客さんがきて、嫌な目にあった。そんな風にぐちを言うと、彼は意地悪そうな顔で返すのだ。それは大変だったね、こんなふうに仕返しをしてやったらどうだい。突拍子もない提案に、セーリエはそんなことはできないと笑う。

彼と話をしていると、今までなら、忘れるのみだった痛みや苦しみが、実感をもって落ちてくる気がした。痛かったね、と言ってもらって初めて、傷があることに気づく。傷だらけの現状はなにも変わらないけれど、痛みは少しずつ薄れてくる。

 もしかしたら、ニトは神様からの贈り物なのかもしれない、と考えていた。こんな自分に、少しばかり素敵な思い出を作らせてあげようと送ってくれた贈り物だ。それならば、彼が出ていくときには、笑顔で送ってあげなければ。

作業を続けながら、黙々とそんなことを考える。

ニトもただ座っているだけでは暇なのか、部品を磨いたり繋いだりと手伝っていた。

からん、とかわいたベルの音が鳴った。

ここに住むようになって長いが、訪れる人間といえば貧しい宣教師のおばさんか、物ごいのおじいさんくらいだった。

今日はおばさんのほうかしら、と思いながらも、居留守はしたくないので立ち上がる。

「セーリエ」

 扉に手をかけたまま、振りむく。ニトが真顔でこちらを見ていた。

「どうかしましたか」

「開けちゃだめ」

「えっ?」

 再びベルが鳴る。がたがた、とノブが向こう側から揺らされたので、思わず手を離す。もう一度、鳴る。

「こっちに来て」

 揺れる扉が怖かったので、大人しくそばへ行くと、彼は真剣な顔をした。

「いいかい、セーリエ。おまじないをしよう。さあ、くり返して。『私達を見えなくさせてください』」

「え、あの」

「いいから、言って」

 冗談を言っているようには見えなかった。指示されたとおりに言葉をくり返すと、彼は「よし」と呟いた。

「ぼくがいいって言うまで、喋っちゃだめだからね」

 無理やり押し開けられようとしている扉から目を離せないまま、静かにうなずく。なにが起ころうとしているのか、わけが分からなかったが、彼に従っておけば間違いないという不思議な確信があった。

 ばん、と扉が開いた。壊れた錠前が吹っ飛んで、足元にころがる。悲鳴をあげそうになるのを、なんとか押しとどめる。

入ってきたのは、鉄の鎧に身をつつんだ衛兵だった。彼らは部屋をぐるりと見渡しながら歩きまわる。むき身の剣を持っているのを見て、頭がくらくらした。

「ちっ、いないじゃないか」

 衛兵の一人が造りかけの人形を蹴とばしながら、そう言ったので、セーリエは耳を疑った。

「あの親父、嘘をついたんじゃないのか」

「馬鹿を言え、あんな水責めに耐えられるような根性、持っているようには見えなかっただろう。それに、他の奴らはいたぞ」

「じゃあ、気づいてさっさと逃げだしたか……まったく、面倒くさい」

 衛兵達は、まるで二人が見えていないように話を続けた。横目でニトを見ると、落ちつけと肩を叩かれ、黙っているように仕草で訴えかけられる。

 衛兵達はしばらく部屋をうろうろすると、やがて出ていった。

「よし、大丈夫かな」

 彼がそう言うと、セーリエは脱力して布団に倒れこんでしまった。緊張がとけて、一気に恐怖感が押しよせてくる。

「どうして、衛兵が私のところに」

「たぶんだけど、君のところのサーカスが、風紀取り締まりかなんかに引っかかったんだね。領主が代わったらしいって聞いたし、それだろうな。ずいぶん厳しい人になったみたいだから、また探しに来るだろうね」

「なんでニトさん、そんなこと知っているんですか」

「この間宣教師のおばちゃんから聞いたんだよ。てっきり君も知っていると思いこんでいたんだけど」

「知りませんでした……」

頭がついていかない。サーカスは無くなってしまったようだし、自分は指名手配されるかもしれないし、家は割れているし、八方塞がりだ。

「これは、早く出ていったほうがいいね」

「でも、どこに」

 もはや泣き出しそうになっているセーリエを見てニトは考えこみ、やがて決心したように顔をあげた。

「セーリエ、君、体は強い?」

 唐突な質問に目を丸くする。

「弱くはない、ですけど」

「じゃあ、悪いけど、痛いの覚悟してね」

 ニトは立ちあがると「なにか持っていくものある?」とたずねた。

「特には、ないですけど」

「よし、それならすぐ行けるね。ほら、立って」

腕をとって、無理やり立たされる。

「さあさあ、しょんぼりしている暇ないよ」

なんでこの人は、こんなに落ちついていられるんだろう。そう思ってようやく、セーリエの頭の中が、さきほどの不思議な現象まで回るようになった。

どうして、衛兵は自分たちに気づかなかったのだろう。

「あの」

「どうせ行くなら、この国の外がいいだろうな……反動を背負う君が心配だけど、あいつら、まだ諦めてないみたいだし。接続がうまくいくか分からないけど、一か八かか」

 彼はぶつぶつ言いながら、まるで自分には見えないものが見えているように、宙を見つめた。

「よし。これでいいかな。セーリエ、おいで」

「あ、はい」

 近づくと、手をつかまれる。前から思っていたが、冷たい手だ。

「おまじないをしよう」

 にこりと笑いながら、彼は言った。

「願うんだ、『私達を逃げさせてください』って」

 もうこれがおまじないなんて、生温いものではないことは分かった。それでも、ニトを見ていると不思議と勇気が湧いてくる。

「私達を逃げさせてください」

「了解だ」

 手のひらに力がこめられる。爪が食いこむ。体を浮遊感が包みこんだ。

「ぼくは君に見つけてもらって幸運だったけど、君もぼくを見つけて幸運だったね」

ささやくような声が呟く。不思議な力で押しあげられるような、未知の感覚が

する。ふと目があう。この人は、普通の人じゃないんだな。今さらながら、そう合点がいった。

 次にまばたきをすると、もうそこは見なれた自室ではなかった。

まず目に入ったのは、真っ青な空だった。昼さがりの太陽が、さんさんと降りそそいでいる。普段日中は外に出ないので、光がまぶしい。

まわりを確認しようと後ろを向く。すると、そこには、見たことがないくらい大きな塔が立っていた。

「いやあ、うまく繋がったね。前の国にいたときから、こつこつと作ってはいたんだけど、予想外にひっきりなしに追い回されたから、うまく空間をつなげるタイミングがなくて」

なにを言っているのか半分も分からなかったが、どうやらこの塔は彼が建てたものらしい。塔は上には途方もなく長かったが、横幅はかなり細かった。建築的に問題のありそうな造りで、レンガの積みあげ方も滅茶苦茶である。

「よーし、入ろう。ここならさすがに見つからないだろうし、君もぼくもとりあえずは安全だ」

 ニトは呆気にとられている彼女を気にしないまま、塔の中へ入っていく。とり残されるのも嫌だったので、あとに続く。

すると、上からレンガが落ちてきて、彼女の腕にぶつかった。衝撃でひっくり返る。悲鳴も出ないまま転がると、彼が慌てて駆け戻ってきた。

「ごめん、反動のことを忘れていた。大丈夫かい」

 腕に触れられると、びりっとした痛みが、腕から肩にかけて走る。

「あちゃー、折れたかな。空間移動くらいだったら、派手に転ぶくらいですむと思ったんだけど……本当にごめんね」

目を白黒させていると、なぜか謝られた。もはやなにがどうなって、このような現状になっているのか、意味が分からなかった。

「中に入ろう」

肩を借りて塔の中に入ると、あきらかに横幅と割合があっていない、広々とした空間に出た。

 手当を受けていると、やっとこれまでの現象に頭を回す余裕ができた。衛兵が部屋に入ってきたこと、いつのまにか『おまじない』で知らない場所に来ていたこと、レンガが落ちてきて腕が折れたこと、展開が早すぎて、どこから疑問に思えば良いのかも判断がつかない。

ただ一つ、ずっと頭の片隅で気になっていたことがあったので、まずそれを聞かなくては、と口を開く。

「あの、ニトさん」

「ん?」

「怪我はもう、治っているんですよね?」

 問いかけると、ぽかんとされた。

「あ、その、動けているなら、大丈夫だとは思ったんですけど。でもやっぱり、まだ包帯巻いているし」

たいていの事は一人でこなせるようになったとはいえ、彼は怪我人である。いまだに包帯の下の傷は痛々しくうずいているというのに、こんなに激しく動いて平気なものなのか心配だったのだ。

そう話すと、彼はこらえきれなかったように笑いはじめた。

「君って、本当に良い奴なんだなあ」

「もう、笑わないでくださいよ。それより、本当に大丈夫なんですよね?」

「ぼくの傷なんて、どうでもいいよ。動けさえすれば、死にはしない。それより、君だ。ごめんね、ぼくのせいで怪我させちゃって」

「これは、あなたのせいなんですか?」

 固定された腕を指して言うと「そうだよ」とうなずかれる。

「反動が起きたんだ。空間を繋げる、治らない傷を治す、そういう類の普通では叶えられない願い事の反動は大きくなる。絶対に悪いことが起きるとは限らないけど、今回はちょっと大きかったね」

 願い事、反動、という単語が頭の中を回って、はじけた。

「ニトさんがおまじないって言っていたのは、その願い事のことですよね」

 彼は少しばかり気まずそうな顔をした。

「そうだね。君には話さないほうがいいだろうと思って、言わなかったんだけど……おまじないって説明していた今までのことにも反動は起きていたはずだし、公平じゃなかったって分かっている。怒ってくれて結構だよ」

「そんな、怒ってなんていないですよ」

そんな力があったとして、初対面の人間に話すことではないだろう。納得してそう答えたのだが、彼は「違うんだよ」と弁明した。

「君、ぼくがなんでも叶えられるって説明したら、真っ先にぼくの怪我を治そうとするだろうと思って。あのとき、君も怪我をしていたのに、そんなことさせたら、大変なことになる」

「それなら治ってきた時点で、言ってくださればよかったのに」

「そりや本当は、機を見て傷を治してもらって、おさらばのつもりだったんだ。でも、君は途方もなく良い奴みたいだし、なんというか、そのね」

 彼は口をもごもごとさせ、セーリエを伺うように見た。

「まあ、あれだよ。恩返ししてあげてもいいかなって、思っただけ」

 そっけない言い方に、ふと笑いがこぼれた。

この人はすばらしい力を持っているようだけれど、それでも今までと同じ彼なのだ。

「それより、気になることがいっぱいあるだろう? なんでそれを一番始めに聞かないんだい」

「その、気になることは、いっぱいあるんですけど」

「なんでも聞きなよ。君には、聞く権利がある」

 たくさんの疑問を思い浮かべる。彼は何者なのか、なぜ願い事を叶えられるのか、わざわざ人に言わせるのはどうしてなのか、ここはどこなのか。そこまで考えて、ふと心配が生まれる。

「この塔、急に崩れてきたりしませんかね……。外から見た感じと、だいぶ違うみたいですけど」

 一番の心配事を問うと、またもや彼は肩を震わせはじめた。

「なんで笑うんですか……」

「ごめ、ごめん。大丈夫だよ、崩れない。さっき君の腕に当たったのは、反動のせいだから。心配しないで」

 だんだんと笑いの発作がぶり返してきたのか、苦しげに話し続ける。

「いや、分かるよ? 心配なのは分かるけど……ぼくが誰かとか、気にならないの?」

「それは気になりますけど。でも、あなたがニトさんであることに変わりないでしょう? 今すぐ聞かなくてもいいかなって思ったんです」

 あんまりにも笑うので、さすがに恥ずかしくなってきた。

「もう、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか。聞いてほしかったんですか? あなたは誰かって」

「ふふ、そうだね」

 彼は紅潮した顔を手であおぎながら、大きく息をついた。笑いの余韻を残したまま、口を開く。

「みんな、ぼくのことを魔法使いって呼ぶよ」

「魔法使いですか」

まるで童話のような呼び名だが、不思議としっくり来る気もした。

「うん。でも、よかったら、これからもニトって呼んで。本名ではないけれど、君にとってのぼくはそうなんだろう?」

「本名は、なんと言うんですか」

 たずねると、彼は困ったような顔で笑った。

「名前は忘れちゃったんだ……あえて言うなら、ぼくは舞台裏で幕を上げる大道具、階下にひそむオーケストラ、脚本家だし、監督で、君と同じ人形師。わざわざ裏方が名を名乗る必要はない。そうだろ、セーリエ?」

































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