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序章

序章


 よい天気だ、とキルケは思った。よい天気というのは表現上の問題にすぎないが、雲が一つもなく、空は青いということである。

 猫の額ほどの庭には、色とりどりの春の花が植えられている。それら一つ一つに丁寧に水やりをしていると、塔の中から物音が聞こえた。彼が起きたようだ。

 それはまるで、絵本の中から飛びだしてきたような塔だった。やせっぽちで外壁はボロボロ、その細さと言ったら大人を五人ほど用意すれば、周囲を腕で囲えてしまえるくらいだった。

 立てつけの悪い扉を開き、中に入る。かわいらしい雑貨の置かれた玄関を通りすぎ、居間へと進む。広々とした空間に、柔らかな日差しが差し込んでいた。テーブルを挟むように一対のソファが置かれ、その片方に男がうつぶせで寝っ転がっている。

「おはようございます」

 男の体がぴくっと動き、また止まった。

「起きてください、今日こそはきちんと仕事に励むと仰っていたではありませんか。」

「だるい」

 くぐもった声が答えた。

「コーヒーを持ってきてくれなきゃ、動きたくない」

「魔法使いなんですから、もう少しそれらしくしたらいかがですか」

「それらしくって、なんだい。魔法使いなんだから、もう少し眠っていてもいいってことかい」

「だめです」

 放っておくと、どんどん怠惰な生活をしようとするので、ぴしゃりと言う。

彼は顔を少しだけ上げて、黄色い瞳をのぞかせたかと思うと、再び突っ伏した。

 仕方がないのでキッチンでコーヒーを入れる。

「お待たせいたしました」

 カップを机の上に置くと、彼はさっと体を起こした。一口飲んで「おいしい」と嬉しそうにする。さきほどまでの様子が、うそのようだ。きっとコーヒーが血のかわりなのだろうな、と思う。

「朝はこれに限るね」

 満足気な彼を尻目に、再びキッチンへ戻る。今朝、市場で買った卵とベーコンを棚から取りだし、フライパンを火にかける、オイルをひいてベーコンを落とす。

「ねえ、隣の国の王様がまた死んだって。代替わりしてから、まだ一年もたっていないよね?」

 彼が居間から話しかけてきた。

「正確には前回の代替わりから、十一か月と十二日ですから、もう少しで一年でしたね」

「そうだっけ。なんにせよ、かわいそうだねえ」

 ぱらり、と新聞がめくられる音を聞きながら、ベーコンの調子を確かめる。端が焦げてきたので、皿に盛りつけて塩を振った。

 居間に戻ると、彼はなにやら思い悩んでいるようだった。

彼の前に皿を置くと、「いただきます」と挨拶をして、かごの中のパンを手に取る。キルケも席に座り、勢いよく食事をする姿を眺める。

「そろそろここも離れ時なのかなあ」

 ふと彼が窓の外を見た。よく晴れた空が、レースのカーテン越しにのぞいている。

「ここ、とは」

「この国。もう二百年近くもいるし、なんか飽きてきたよ」

「そうですか」

この話題は十年前からもう三十一回も聞いていると思ったが、それは言わないでおいた。かわりに、いつもどおりの言葉を返す。

「しかし、ここを出るなら、この塔はどういたしましょうか。取り払いますか?」

 ベーコンを一口で食べようとしていた彼は、びっくりしてフォークを落としそうになった。

「そんな! それは無理だよ。この塔を手放すくらいなら、退屈で死ぬほうがマシだ。引っ越すなら、塔ごと引っ越すよ」

「それは大変そうですね」

「たしかに、そうだね。やっぱり止めておこう」

 あっさりと引き下がると、手早く食事を終えた。

キルケが皿を片づけている横で、彼は机の下から、とんでもない厚みの冊子を取りだした。表紙に手書きで帝国民名簿と記されている。

「いい人は、いらっしゃいましたか?」

 片づけを終えて、隣に座る。彼は「そうだねえ」と呟くと、ページをぱらぱらとめくった。

「この人なんてどうかなあ。職業は家事手伝い。趣味は人間観察で、特技が人の嫌いな物をあてることだってさ。二十年くらい熟成させたチーズみたいなにおいがしそうじゃない?」

「つい先日、この類の人を選んで、大変なことになりましたよね?」

 言葉尻に批難をこめるが、当人は思いだした途端に、けらけらと笑い始めた。

「パンツ脱がせ放題だっけ? あれは面白かったね」

「きちんとした方を対象にしたほうがよいと思いますが」

 ひきつけのように笑い続ける彼の手から本をとり「この人なんていかがでしょう」とすすめる。

「職業、帝国銀行事務員。趣味は読書。特技が五けた以上の数式の暗算って、ただのそろばんと変わりないじゃないか。こんなのつまらないよ」

「きちんとした生活をしている人こそ、報われるべきだと思いませんか」

「思わないね」

 名簿をひょいと取りあげると、意地の悪そうな顔をする。

「案外こういう奴のほうが、業が深いものだよ」

 そのあと、結局キルケの案が採用されることになった。面白さで選ぶのは、不平等ではないかと彼女に諭された結果である。

「ぼくはべつにいいけどさあ。キルケ、絶対後悔すると思うけどなあ。経歴が普通の人間のほうが、いざってときに、やらかすことは普通じゃないんだよ」

 ぶつくさ言いながら、身支度を始める。コートをはおり、靴を履いた時点で足が止まる。

「あーあ、なんか面倒になってきた。やっぱ今日は止めておいて、家でお菓子作りでもしない?」

 またそんなことを言いだしたので、背中を押す。

「あなたは食べる専門なのですから、お菓子作りなどという行為を家でする必要はありません。それよりも早く行かなければ、夕飯に間にあいませんよ」

「分かったよ。キルケは真面目なんだから……それじゃ、聞くよ。どこに行きたい?」

「帝都五番街トロープ通り、帝国銀行前に行きたいです」

「はいはい、了承しましたっと」

 大きな手が扉のノブをつかみ、思いきりよく引いた。すると、目の前には雑多とした人の流れがあった。あくせくと動き回る人々にぶつからないように、外に出る。後ろをふり返ると、今出て来たばかりの扉は影も形もない。

二人の目の前には、ひときわ目立つ建物があった。ツタの這うレンガの壁に、金のプレートで『帝国銀行』とかかっている。入口に立った守衛が、唐突に現れた二人を怪しむような目で見た。

「居た」

肩で風を切り中へと入っていく、その人を目で追う。

「キルケ、お願い」

「私とあなたを、あの人以外に気づかれないようにしてほしいです」

「了解」

 守衛の視線が二人から外れる。きょろきょろと周囲を見渡し、首をひねって仕事に戻る。

「行こうか」

彼がにこりと笑った。キルケはこの表情が好きだ。

 建物の中に二人が入って行くのを、誰も気にとめない。

あっという間に背中は扉の向こうへと消え、建物の前には忙しそうにする人々だけが残った。










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