策略に揺れる
ショウコは離宮の謁見室で、皇帝の訪れを待っていた。離宮で働く人間の多くとロイもその場に控えている。
意識過剰だとは分かっているが、普段は隠されてさらすことの無い首筋や腕に、視線が突き刺さるようでいたたまれない。
オースキュリテでは高貴な女性が家族や極親しい人以外に顔を見せることさえ、はしたないことだと考えられている。普段は幾重にも重ねた服の下に隠された肌が晒されることなど、無いに等しい。
流石に10年で顔を隠す癖は消えた。隠しても隠さなくてもショウコの外見はこの国では目立ち過ぎるのだ。
しかし国にいることの比べて遥かに軽装になったとはいえ、肌が晒されることにはいまだ強い抵抗がある。
奇妙な沈黙が支配するその空間の中で、ショウコは久々の息苦しさを感じて、細く息を吐き出した。
「失礼します」
部屋にいる者全てが、後ろを振り返った。
開いた扉は、皇帝が入ってくるはずの上座ではなく、下座のもの。
入室した人物は皆の視線にたじろいだ様子だったが、ショウコに礼をとり口上を述べた。
「皇妃様にはご機嫌麗しゅうございます。私は今回陛下の御幸に随行させていただく者です。陛下からのご伝言をお預かりして参りました」
場の空気が張り詰める。皇帝は先ほど街に入り、ここに来るはずではなかったのか?
「……。ご苦労。して、用件は?」
「はっ。陛下におかれましては、ドーブの執務官方の歓待を受けられております。こちらへいらっしゃるのはその後となる旨、ご伝達に参った次第です」
「……っ!」
「冗談だろ、そんなこと!」
皆が驚きに目を見張る中、ロイが非難の声を上げた。それに反応するように、ざわめきが広がっていく。
頭を殴られたような衝撃。けれど、あのころに比べれば些細なものだ。
あの生き地獄に比べれば。
片手を上げて静寂を促し、改めて使者に向き直った。
「……わかりました。下がりなさい」
その声がかすかに震えたことが、ひどく情けなかった。
使者が退室した後の謁見室は、重い沈黙に包まれた。
それにしてもこれほどに、軽んじられるとは思わなかった。
特別な扱いをされたいと望むわけではない。だが自分の存在は皇帝の中で、執務官よりも後回しにされる程度のものだと突きつけられた。
このような形で突きつけられ、皆の前で蔑まれるとは。
誰もがその沈黙を破ることをためらい、部屋の中心にいる主人に目を向ける。
何かを言わなければいけないのは分かっている。
それなのに言葉を紡ごうとした唇が、凍ったように動かない。
この10年で強くなったつもりだったが、思いのほか優しい日常に慣れていたのか。
「ショウコ様、お部屋にお戻りください」
思わずすがるように声の主を見る。ケンがゆっくりと近づき、ショウコの手を取って退室を促した。指先が白くなるほど力が込められた手を、ゆっくりと包む。
「アオ、ショウコ様をお部屋にお連れしろ」
その声に反応してアオが歩み寄り、むき出しにされたショウコの肩にショールをかけた。
案ずる視線に励まされ、何とか気持ちを落ち着けることに成功した。目を閉じて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。その声はもう震えてはいなかった。
「部屋に戻ります。皆も下がりなさい」
「皇妃様!」
部屋を出る直前に、後ろから声がかけられた。
「陛下は決して、あのようなお方では…!」
「……デデ、分かっているわ」
何が分かっているのか、本当はそれが分からない。ただそう言わなければならないと思っているだけだ。
「きっとなにか事情があるのです!どうぞご理解を!」
「……。陛下がいらっしゃったら、知らせて頂戴」
そのまま振り返らずに部屋を出た。
デデが悪いわけではない。彼は皇帝と皇妃の仲を案じてくれているだけだ。
しかしショウコにも、譲れない一線はあるのだ。
皆が散った謁見室に残ったのは、ケンとロイの二人だけだった。
「…やってくれましたね」
「何のことかな?ケン」
「ふざけないでください。庁舎に歓待の指示を出したのは貴方でしょう」
ケンの言葉に、ロイがやれやれと息を吐いて本来皇帝のために用意された椅子に腰掛けた。
「君は少し聡すぎるね」
「貴方が何をやっても、それは俺には関係ない。但し、ショウコ様を傷つけることは許せない!」
武人としてのケンは非常に優秀だ。そのケンが発する殺気を、ロイは正面から受けて歪んだ笑みを浮かべる。
「頼もしいね。けど君に何が出来る?君の言うとおり、僕はショウコちゃんに傷付いてもらいたいんだ。傷ついて、レイを憎んで、嫌悪してほしい。…決して愛など持たないように、ね」
「ショウコ様の、不幸を望むと?」
「まさか!幸せを望むよ。誰よりもね」
この男がショウコに向けるのは、好意に他ならない。だからこそショウコはその歪みに気が付けない。この狡猾な男は、決してショウコに悟らせないだろう。
「貴方の思いは歪んでいます」
唾棄すべき思いを抱えて、この男はその歪みさえも肯定する。
「知ってるさ。でもどうせレイはショウコちゃんを愛さない。なら僕が彼女を思うことを、どうしてためらう必要がある?それに」
歪んだ笑みが深くなり、残忍な色を帯びていく。
「君にだけは、言われたくないね」
口調は全く変わらないのに、その一言は深く突き刺さった。
その日、皇帝と皇妃が10年ぶりの再会を果たしたのは夜も深まった時刻だった。
当初予定していた歓待も無く、穏やかな空気もそこには無く。
その場を支配するのは、絶対的な静寂ばかり。
ショウコがふと微笑んだ。
それは名工が手がけた宝石細工のような、触れることを躊躇う微笑み。人から賞賛される為だけにある、決して手に入らない孤高の至宝。
「お久しゅうございます、皇帝陛下」
完璧な作法で礼をとる。
砂漠の夜のような黒髪が、オースキュリテの衣装から流れて揺れた。