流れ者の帰還
ドーブの街に、皇帝の御幸が告げられたのは市場の朝の忙しさがひと段落着いた頃合だった。
皇妃の紋章がついた籠を持った者が、街中で内容を読み上げながら通達書の写しを配布していく。比較的富裕層が多く識字率が高いこの街では有用で、正しい情報が伝わるようにと用いられてきたシステムだが、以前は公文書を騙った偽の情報も少なくなかった。陽動や一部の商人の利益のために悪用され、信頼性が失われ始めていたのは事実だ。
その状況を見て、紋章を用いるように言ったのはショウコだ。紋章の管理は徹底しなければならないが、複雑で精緻な紋章を偽造することは容易くはない。
もちろん初めの頃は紋章の使用を躊躇う者や軽率だと非難する者もいたが、頑として譲らない少女に結局は押し切られる形になり、現在に至る。
初めてショウコに会ったのは、彼女がこの街に来た10年前。まだたった11歳の皇太子妃たっだ。街の執行官長の父に連れられて対面した彼女は、11歳という年齢以上に幼く小さな少女だった。リュミシャール風のものは全て拒絶し、時に激しい拒否反応を示していた。
当時は自分も幼かったために、それがショウコに出来た唯一の護身だと気付けなかった。今考えればなんて痛々しい姿だろうか。
その彼女が離宮の外へ目を向け、自分から手を伸ばし始めたのはいつからだっただろうか。
「こんにちわ、ショウコちゃん」
女官に促されて久しぶりに入ったその部屋は、いつもと同じ白檀の香りがする。
窓辺の彼女がゆっくりと振り返る。そこにいるのは21歳の臈たけた女性だ。
「相変わらず、元気そうで何より。久しぶりね、ロイ」
内気だった少女は、何とも艶やかに微笑むようになった。
「街の人は、混乱していませんよね?」
質問ではなく確認を向けられてロイは苦笑するばかりだ。
確かに市井の人々に混乱はない。街の人々にとっては皇帝の御幸も貴族が別荘を訪れるのと大差ないのだ。その上ショウコが気楽に街に出てくるおかげで、この街の人々は皇族や貴族に慣れているような気がする。
「街の人々はいつもどおりだと思うよ、ショウコちゃん。まぁ久々に帰ってきたからわけだから、断言は出来ないけどね。でも庁舎は上へ下への大騒動だったな。デデ様がいらっしゃらなかったら文官が何人倒れたか分からない」
「それは見物だったわね」
「皇妃様は冷たいなぁ。急務に対応した執務官に労いの言葉をいただけませんか?」
「あなたが来るまでに、この街の優秀な執務官たちが5人私のところにきたの。内容は判で押したように同じ『皇妃様の行動は軽率が過ぎるように思われるという意見がございます』よ」
疲労感をごまかすように、努めて拗ねたような声で言う。
「私だって『いかがいたしましょう』の話なら聞くわ。でも普段は何もしない人たちが、こんなときに私への不満を言いに来るのよ。しかも自分ではなく他の誰かが言っていたという形で。他にすることがないのかしら」
「……それは…、酷いね」
「でしょう?酷いのよ。この街は人手不足なのに、優秀な執務官候補は数年前から街を出て好き勝手にしているの」
「耳が痛いね。でも僕は優秀なんかじゃない。遊び歩いてるだけの不出来な次男坊だ」
「謙遜も過ぎると見苦しいわよ。でも私はあなたの生き方に容喙出来る立場じゃないわね」
彼女に対して本音を吐露してしまうことは出来ない。
だからだろうか。いつの間にか笑って誤魔化すことが多くなり、彼女はそれを許すようになった。
「ショウコちゃんはレイに会うのいつ以来になる?」
「…レイ?」
「……。」
ショウコの視線はふらふらと宙をさまよっていたが、ようやく思いたったらしい。
「皇帝陛下ね!お会いするのは10年ぶりよ」
「……一度も、会っていないの?どうして…」
ショウコはそれには答えず、ふわりと笑って首を傾げた。
一拍遅れて、ぬばたまの黒がさらりと流れた。
その表情と仕草はそれ以上の問を重ねることを阻む力を持っていた。
「ロイは陛下とは親しいのね」
「まぁね。僕とシンはレイの側近候補として一緒に育てられた時期があったからね」
僕はそこから落ちこぼれたんだよ、と続けた。
「シン…、とはどなたかしら」
「あ〜、あいつはね〜。うん、会えば分かるよ。きっと今日もレイについて来るから」
「意味深な言い方ね。女性に嫌われそう」
「いえいえ、僕になびかない女の子はショウコちゃんくらいだよ。それはそうとさ、ショウコちゃん」
「何かしら?」
「僕も対面に同席させてよ」
ロイが退席した部屋で、ショウコはゆっくりと息を吐き出した。
「姫様、お疲れですか?」
「大丈夫。ロイと久々に話が出来て楽しかったわ」
「皇帝陛下のお迎えの準備は整いました。庁舎のほうは…」
「大丈夫よ、ロイがいるもの。私もそろそろ準備を」
軽く叩かれた手の音に反応して、リュミシャールの女官が部屋に入ってきた。
そうしてショウコは、華燭の日以来初めてオースキュリテの服を脱ぎリュミシャールの正装に袖を通した。
肌の露出が殆ど無いオースキュリテの服とは異なり、リュミシャールの正装は胸元や腕が露になってしまう。加えてすその長いドレスは柔らかな生地で作られていて、動くたびに身体の線が強調されるような気がして落ち着かない。
加普段は殆どつけない装飾品を首や腕、足首に付けて髪も複雑な形に結い上げる。仕上げにいつもより濃く化粧を施して、皇妃の冠を載せて手には権威を示す杖を持つ。
長い時間をかけて仕度が済んだとき、街の入り口で皇帝の到着を知らせる華やかな音色が鳴り響いた。
様々な思惑絡んだ世界で、物語は産声を上げる。
一旦世に出てしまえば、それは人に褒められ貶されていくうちにいつしか姿を変えるだろう。それを止める術は無い。
作り手は創造主。
作り手は傍観者。
演じ手にはなりえない。