物語の胎動
『砂漠の真珠』
そう異名を取るほど、ドーブは美しい街だ。
オアシスに栄えた街なのだが、街の外からはそれをうかがい知ることは出来ない。街全体が白い壁で囲われている。
貴族や裕福な商人が良く訪れるので街に入るための検問が厳しく、治安の良さは帝都以上と言われている。高級住宅街は更に高い塀で囲まれており、立ち入りには厳格な身分審査が必要とされる。
しかし吟遊詩人が謳うこの街は、決して美しいだけの街ではない。帝都から程近い砂漠の街の白壁は、変事になれば『貴婦人のベール』と呼ばれる美しい塀を強固な砦に変え、要塞の役割を担うのだ。
幸いにして時の皇帝が街に塀を築いて以来、その本来機能が使われたことは無く、多くの人はそのことを知らずに暮らしている。
そんなドーブの高級住宅街の中でも群を抜いた一等地に建つドーブの離宮は、この街を象徴する美しい城だ。『真珠』と呼ばれる所以は、街の外から見たときにこの城の塔の屋根が描く優雅な曲線にある。
貴人が暮らす館の朝は早い。
主人が起きる前に使用人は全員起床、全ての準備を整えて快適な一日の始まりを提供する。
今は第二皇妃が暮らす館で働く人間の数は、決して多くはない。定期的に訪れる庭師などを除いて、この館に使える者は両の指で足りるほどだ。
今日もアオはいつものように、階段の上り口を守る衛兵に挨拶し主人の目覚めを促すべく塔の最上部へと続く階段を上る。
「おはようございます、姫様。お目覚めのお時間ですよ」
窓を開けると、商業区の一画でも朝の競りが始まったらしく賑やかさを僅かに伝えてくる。風と同時に窓から流れ込んでくるのは朝独特の人々の生活の活気だ。
「……。…うん」
蚊帳の中の寝台で、もぞもぞと動く気配がする。
「今日もいいお天気ですよ。」
「……」
ショウコは朝が苦手だ。もっとも本人は隠しきれているつもりでいるので、アオはそれを指摘するつもりはまったく無い。
寝台の中でショウコがゆっくりと身体を起こし、腕や背中、首を伸ばしていく。その仕草はまるで眠りから起きた猫のようだ。
その様子を観察するのは、アオの密かな楽しみだ。
この国に来てから、自分の主人は「隙が無い」ことを自分に課している。親しみやすい一面は、そう作り出したもの。
何が変ったと断言できるわけではないが、何かが変わったことは明らかだ。そんな中でも流石に朝は別物らしく、この時間のショウコは限りなく素に近いと思う。
ゆっくりと髪をかき上げれば、覚醒完了だ。
「おはよう、アオ」
かすれた声を聞くことが出来るのは今のところアオだけの特権だ。
「おはようございます、姫様。お召しものです」
寝台から出てきたショウコが、服に手を伸ばしかけた手を止めた。
「今日は、こちらではないわ」
「?」
「今日は陛下がいらっしゃるもの。オースキュリテの服では失礼よ。リュミシャールのものを着なければ」
「…忘れてました。ですがリュミシャールの礼服ですと…」
アオが言いかけたことを察知して、思わずショウコも顔をしかめた。
「とりあえず…、こちらの衣装に着替えるのは陛下がいらっしゃる直前にしましょうか…」
そうつぶやいていつものように着替えをはじめたショウコに、アオはこくこくと頷いた。
「おはようございます、皇妃さま」
「おはようございます」
居間に行くと今日も食事の準備が整っていた。
「おはよう、少し寝坊してしまったわね」
いえいえ、とこの城の一切を取り仕切る恵比寿顔(といっても彼には通じないだろうが)の老人がショウコを席に促した。彼はもともと王宮の内務に携わっていたが、引退してドーブで暇をもてあましていたときにショウコの世話を引き受けることになった。それから10年の付き合いだ。
「あのね、デデ」
ショウコは努めてにっこりと微笑みかけた。
「はい、なんでしょうか」
「驚かないで聞いてくれるかしら。皆も」
その言葉に仕事をしていた者も手を止めた。その様子をいぶかしんで料理人までも顔をのぞかせる。結局殆どの者が揃ったところで、ショウコは爆弾を投下した。
「今日、ここに、陛下が、いらっしゃるの」
ショウコはしつこいほどに言葉を文節で区切った。
アオとケン以外の者が、言葉を消化するまで数秒。
その短い間にアオは耳をふさぎ、ケンは顔を顔を背けて目を閉じた。
「「「はぁぁああっ?!」」」
「皇妃様?」
「ご冗談を!」
「「……!!」」
ついに着火した喧騒の中、いち早く自分を取り戻したのは恵比寿顔のデデだった。
「皇妃様、それは…」
「本当よ」
「いつ、ご連絡を受けられました?」
「昨日のお昼ごろかしら」
周りから、何故もっと早くなどの叫び声が上がる。あまりの驚きに、礼儀が少しばかり吹き飛んでいるようだ。
「何故、そのときに教えてくださらなかったのですか」
「昨日でも今日でも、出来るおもてなしに変わりは無いもの。事前に騒がせたくなかったのよ。特別なことをする必要は無いわ。館は綺麗だしお料理はいつも美味しいもの」
その言葉に女官と料理係りが落ち着きを取り戻した。
「することは陛下のお部屋を整えるくらいよ。陛下の書状にも気を使うなと書いてあったし」
書いてあったのは、「大げさな迎えは不要」だったが、このくらいは解釈の範囲内だ。
「お越しは今日の午後ですって。そのつもりで動いて頂戴」
その言葉にめいめいが仕事に戻った。残ったのはデデだけだ。
「皇妃様」
「…あなたにだけは、申し訳ないわね」
「いいのです。昨日分かっていれば私も含めて皆が慌てるだけだったでしょう。ここまで差し迫っていれば肝も据わろうというものです」
やっぱり少しは怒っているらしい。ショウコは苦笑するしかない。
「デデ、門番に伝えてもらえるかしら。軍隊用の大門を開けないと」
「陛下は軍隊など連れていらっしゃいませんよ」
「何故?皇帝陛下の御幸でしょう」
「多くて5人ですよ。私は幼い頃の陛下を知っていますが、そういうお方です。料理の者にもその人数を伝えます」
やけに自信ありげなデデの様子に、ショウコは首を傾げるばかりだった。
デデの予想は的中していた。皇帝の共は4名、皇帝本人を含めてたった5名の皇帝の御幸にしては異常な人数だった。
ドーブまでの道は巨額の予算を投じて前皇帝が整備したものだ。そのおかげで大分移動が楽になったことは事実だ。
「レイ、このさきの集落で馬を変るよ」
「わかった」
「しっかし、何でわざわざ馬。ラクダでいいでしょうに」
「時間の無駄だ。あれ行くなら私は宮殿で政務でもしていたほうがましだな」
「わがままなことを。レイが行かなきゃお姫様に失礼でしょうが」
シンの口調はかなり砕けたものになっている。なんだかんだいってもシンとしてもラクダは遠慮したいところなのだろう。慣れてしまえば馬は意思の疎通が容易だし、手練になればそれなりの速度でも会話くらいは出来る。
「離宮はきっと昨日から大騒ぎだよ。いきなり皇帝が来るーだもんね。何でもっと早く伝えなかったんだよ」
「……逃げる時間を与えろと?」
「逃げたりなんかしないと思うよ。そこまで愚かなら10年も大人しくしていない」
「どうだかな……」
オースキュリテの姫がどう動くのかは分からないが、可能性が低くても面倒は避けたい。それだけなのだが、どうやらシンは気に食わないらしい。
「愚かだろうがそうでなかろうが、選択肢を与えるつもりは無い。今回のことは決定事項だからな」
馬の脇を締めるとすっと速度が上がった。
風で舞い上がる砂埃を割って駆け抜けた。
二人の再会まであと少し。
物語が、動き出す。