浮遊する思い
明けましておめでとうございます。
今年も砂漠の蝶をよろしくお願いします。
疲れた身体を引きずって貴賓区画までやってくれば、そこでは廊下にまで少々元気すぎる声が響いていた。普段は顔を見なくても生活できる相手と壁一枚隔てるか或いは同室で過ごすのだから、諍いや思わぬ意気投合があるのは当然かもしれない。
しかし疲れた身体にはそれを微笑ましいと受け流す体力は残っていない。
色々ありすぎてもう眠りたい。しかしこの場所ではそれは叶わないだろう。
突然方向を変えて歩き出したショウコに女官が驚いて声を掛けた。
「皇后陛下、お部屋はこちらにご用意しましたが?」
「別の場所を使います。ちょっと色々無理だわ」
「ですがもう部屋は…」
一杯なのだろう。それは分かっている。
「大丈夫」
後宮には当然戻れない。
しかしここでは休めないとなれば、選択肢は一つ。
「陛下のお部屋を使います」
意外なことに皇帝付きの女官たちは何も言わずに部屋に通してくれた。何か言われると思っていたが、ショウコが把握していないだけで後宮から女が来ることは多いのかもしれない。
それについては色々と思うところはあるが、疲れた足を引きずってショウコは寝台に倒れこむ。
僅かに感じる、麝香の香り。
寝台の横の机には水煙草。
昨日までここで生活していたことは明らかなのに、その人だけがいない。
思わず繻子の布を握り締めると、そこを中心に寝台に波が寄った。
寂しい、のだろうか。
アオがいてケンもいる。シンレットやロイもいて、ドーブにいた頃よりもずっと身辺は賑やかなのに。
普段それほど一緒にいるわけでも話をするわけでもないというのに。
それでも心の中で物足りないと思ってしまう。
この感情に名前をつけることが出来ればいいのに。
「……最低」
レイヴスが危険な状態にあるといった心配は無い。あれは絶対に愉快犯だと思う。
だからこそ、心と日常の隙間を持て余してしまう。
思わず緩みそうになる涙腺を叱って、ショウコは枕に額を押し付けた。
眠りに落ちる瞬間に、誰かが頭を撫でたような気がした。
「木材の搬入?」
翌朝の執務室で受けたロイの報告は些細なものだった。
正直もうこれ以上の面倒は御免だと思っていたので、そんなことかといった思いが強い。
「専門家じゃないから分からないけど、基本石組みのはずだよね?」
「私も分からないけど、業者はシンレット殿が信頼できるところを選んでいるのだし大丈夫でしょ」
それに一切を今後宮の改修を取り仕切っているのはアオだ。そこで働いている分今までの不便も分かっているので、ショウコが陣頭指揮を執るよりもいい。
「まぁそりゃそうだけど。ぱっと見高そうな感じだったから、一応報告しといた」
報告したロイもあまり興味はないのだろう。既に視線は他に移っている。
「でさ、ショウコちゃん。昨日の晩、どこにいたの?」
「へ?」
間抜けな声を出してしまった。頬杖をついていた顔を上げてロイを見ると、苦笑して空いた手に焼き菓子を一つ乗せてくれた。
木の実を練りこんで焼き上げた菓子は、一つでも結構な満足感がある。
「食べてね」
「何?賄賂?」
「違うよ。こんなんで買えると思ってないから。朝食食べに来なかったから、お腹空いてるかなと思って。ほら、食べないと頭回らないよ」
はしたないとは思いつつも執務机に向かったまま齧る。噛むほどに木の実の味がじんわりと口の中に広がって美味しい。
「で?どこにいたの?」
「……っ」
油断した。
食べ物にほだされて気が緩んだところを狙っていたとしか思えない。
喉に詰まりそうになった欠片を飲み込んで、じとりと下から睨みつける。
「答えないの?食べたよね?」
ロイの笑顔には全く隙が無い。否、敢えて隙を作っている笑顔だ。そこに付け入ろうとすれば見事な返り討ちに遭うだろう。
「……やっぱり賄賂じゃない。卑怯者」
詰る声と表情を物ともせず、ロイは益々口角を吊り上げて笑う。
何。この凶悪な笑顔。
朝だというのに背筋を冷たい汗が一筋流れ落ちる。
この感覚には既視感がある。
「……ショウコちゃん?」
気が付いたら追い詰められていたような。
それに気が付いた後はじりじりと距離を詰められるような感覚。
「陛下……」
繋がった、と思った瞬間思わず口も動いていた。
「ロイ、陛下に似てるわよ」
何てこと、とショウコが呟いている間に、ロイの顔がみるみる不機嫌に歪んでいく。
「それ、すっごく不愉快なんだけど」
「そう。じゃあこの話は終わりにしましょう。ね?」
ひらひらと手を振って退出を促す。
絶対にロイの顔を見てはいけないことは本能が告げていた。
暫しの無言の戦いの後、覚えておくよと言葉を残してロイは出て行った。
広い背中を見送った後で、ショウコは机に突っ伏した。
距離感を図りかねているのは自分だけだろうか。
間違いなく今仕事でショウコの一番近くにいるのはロイだ。その優秀さには舌を巻く。
しかし筆頭執務官というのはどこまで近くに置く存在なのだろう。
昨日イルとのことを強固に反対され、今日は昨晩の居場所から朝食のことまで把握している。
それが不愉快なわけではない。
だがこの国の皇后で曲がりなりにもレイヴスの正妃であるショウコとロイの距離はこれで適正なのだろうか。
「――――様、ショウコ様?」
はっとして顔を上げると、入り口近くにケンが立っていた。
「申し訳ありません。何度かお呼びしたのですが……」
「ごめんなさい。少し考え事を」
きっと扉の外で何度か在室確認をしたのだろう。注意力散漫な自分の方こそ申し訳ない。
「何かあった?」
「はい。皇帝陛下の居場所についてです」
繕うようなショウコの様子を訝しがりつつ、ケンは職務に忠実に報告を始めた。
「厩舎から馬が消えていたのはこちらを撹乱させる目的でした。外に出たと思わせるためにわざわざ貴族の館に預けてありました。関所を通過した記録もありません。
よって最初の予測どおり王宮内のどこかに潜んでいる可能性が高いでしょう。近衛隊長はおそらくすべて把握していますが、皇帝直属の立場なので吐くとは思えません。現在王城の南端から近衛軍の一部を使って人海戦術であぶり出しを行っています」
精鋭ぞろいの近衛軍が人探し。
しかも対象が皇帝であるというのにこの緊迫感の無さ。
「……ごめんね」
何と情けない。
振り回される人間が哀れだ。
「いえ……近衛軍でも『皇帝陛下を見つけた奴は特務昇進』などと言われていまして……まるで遊びです。隊長が胴元になって賭け事まで始まっています。正直、近衛軍が真面目に捜索をするとは考え難い」
それはそうだろう。何といっても隊長に探す気がない。
「つまりそれは安全な場所にいることの証明よね」
「よろしいのですか?」
「仕方ないわ。個人的には思うところもあるけれど、王城にいるのであれば何かあれば出てくるでしょう」
近衛軍による捜索も終わりにするとケンに告げた。どうせ見つからない場所にいる。
切り替えたショウコに対してケンはやや不服そうな面持ちだ。
この生真面目な性格からすると、近衛軍の気風には合わないのかもしれない。ましてや職場で上司公認の賭け事など、想像も出来なかっただろう。
「そうですか。では見つからない、に賭けてきます」
「へ?」
「確実に勝ちは貰いました」
ショウコの指示が現場に届くのは昼過ぎ。今から戻れば十分に間に合う。
しかし。
「ケン…随分頭柔らかくなったのね」
しかもずるい。明らかに賭けの本筋からは外れている。
そうでしょうか、と生真面目な顔で聞き返すケンに、ショウコは思わずといった笑顔を見せた。
ずっと近くにいたドーブの頃とは違い、ケンにはケンの時間がある。変わっていくのは当然だ。
「いいことだと思うわよ」
「……私は変わりませんよ」
「そういうところは、変わらないわね」
ロイの変化とは違い、素直に受け入れれて喜ぶことができ、戸惑いは無い。この違いは何だろう。
「私も今度近衛軍の訓練を見に行こうかしら。楽しそうね」
ケンは暫し考え込むと、酷く深刻な顔で言う。
「では、安全が確認され駆逐作戦が終わり次第いらっしゃってください」
「ケンのご同輩に会いたいのに」
「やめてください。目が腐りますよ」
「辛口ね?」
「むしろあれらは異文化交流だと思ってくだされば結構です」
「面白そうじゃない」
軽口を交えた報告を終え、ケンはショウコの机の脇に重ねてあった本をまとめて抱える。
「……今日は少ないですね?」
「その代わり、続き間は戦場」
執務補佐官たちに昨日から担当分を増やすよう要請され、ショウコの机はいつもに比べて随分とすっきりしている。
時折うめき声も聞こえるが、仕事振りは確実だ。
「すべて資料室でよろしいですか?」
「上五冊は資料室。下四冊は図書館にお願い」
持ってくるときは餞別の必要もあり自分で行くが、返しにいくのはケンがやってくれている。
なんせ一冊一冊が相当厚い。ショウコの力では資料室は兎も角ほぼ王城の反対の位置にある図書館まで一度で持っていくことは出来ない。それを全部まとめて片手で持ちなお余裕があるのだから、やはり鍛え方が違うのだろう。因みに大方の執務補佐官たちも本の重さには涙している。
「では、失礼致します」
「待って。途中まで一緒に行くわ」
「どちらに?」
送って行くという意思表示なのだろう。
「そうね……」
事務仕事が減った分の代償だろうか。ケンに心配をかけない表現は――――。
「……異文化交流?」
「こんなしなきゃいけないほど、俺って要注意人物?」
庭の東屋にはささやかな茶会の用意と東屋の周囲には丹精込めて作られた見事な庭園。しかしその間にはずらりと近衛兵が囲んであり、四方八方隙なしといった風情だ。不敬な行いでもあろうものなら容赦なく斬り付けるとばかりに、腰には剣を佩いている。
その凄まじいまでの険しい視線に若干怯えつつも、イルはやってきたショウコに軽口を叩く。
「いえ?一切お気になさらず。皇位継承権第二位のお方をお守りしているだけですから」
上座の椅子に腰掛けつつ、ショウコは身体が柱の影にならないよう気を配った。
「白々しいよ。近衛軍って皇帝派なんでしょ?」
「指揮系統は陛下に属しますね」
さらりと受け流しつつ、ショウコは一枚の書類を差し出した。
「貴方が国に納めた宝飾品の鑑定額です。十二分に改修費用に足りました」
横目で様子を窺うが、イルは何も言わない。
はっきり言ってとんでもない価値だった。
それもそのはずで、その中の一つはある有力貴族がかつて戦勝の褒美に皇帝から下賜されたものだった。石そのものの価値も高いが、歴史的価値が付加価値として認められれば小国が買える。
当然、イルの一族のものではない。
では何故イルが所有していたのか。何故その貴族は何も言わないのか。
「イル殿。私は正直言って貴方の得体が知れない。
貴方は何故王城に来たのですか?」
真っ直ぐに瞳の強さを意識してイルを見据える。
ゆるゆるとイルが顔を上げて視線が合ったと思った瞬間、痩せぎすの身体が傾いた。
「――――イル殿!?」
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