風、変わらずとも
「すべては姫様と国の御為に」
常とはまるで異なる静かで怜悧な空気を纏って、目の前の女はそう言った。
すべての答えを知っていて、また答えを知っているということを知られていると分かっていて、それでもその表情は揺るがない。
僅かに上がった口角は、笑みではない。
すべての問に対する、拒絶だった。
金の鳥籠。
旧王都時代の終末期に使われた至上の牢獄。
「これが…金の鳥籠」
呆然と呟いた言葉はごく小さかったがシンレットの耳に届いていた。
「はい。説明は不要でしょうか?」
ショウコは首を横に振り改めて決して開くことの無い扉を見つめた。
金の鳥籠の存在そのものは知っていた。
旧王都時代の終末期には絹の縄を使った絞殺は行われなくなった。その代わりに使われたのが金の鳥籠と言われる牢だ。そこに囚われるのは皇子であるから、当然に生活は贅をこらしたものであり食事や衣服は勿論、子さえ残さぬならば愛妾を持つことも許された。
絞殺が行われなくなったのは風習そのものが嫌われたのではなく、皇位継承権者がいなくなることを恐れたためと言われている。当時は戦が多く皇帝が戦場で命を落とすことも考えられた。皇帝が子を成していない場合を考えて、その兄弟が残された。血統の維持という一面だけを見ればそれで十分だが、その制度は多くの問題を孕んでいた。
「これが我が国最大の歴史の汚点です」
吐き捨てるようにシンレットは言う。
それは説明するというよりは、初めて目にした実物を前に怒りを押さえきれないからだろう。
「正常な頭で考えれば明白だ。物心ついてからこんな部屋で過ごした人間が、統治者になりえるはずが無い。目論見通り、傀儡の出来上がりだ」
与えられるものをただひたすら享受してきた人間に、突然国のことを考えろと言ったところで無理がある。そこに付け込んだのが増長した近衛軍と後宮に暮らす女性たちだった。そのせいでこの国は一時存続の危機に立たされたことがある。
「……それで」
ショウコが国政に携わると言ったときの年嵩の大臣たちの拒絶反応はここから来ているのだろう。また国が傾くのではないかと危惧していたのだ。
リュミシャールの最大の汚点。
今でも口にするのは憚られる歴史の澱。
だからこそ仮想最大敵国の内親王であるショウコには触れる機会がないと思っていた。それがこうもあっさりと。
「……シンレット殿?」
気配を窺うようにゆっくりと振り返ると、シンレットは怒りを湛えるでもない真剣な表情をして立っていた。
「レイの指示です。
皇后陛下が望むならば一切を隠し立てするな、と。この国の影も知った上でどのように判断するのかはすべて皇后陛下次第だと」
言葉の端々から、その態度の一つ一つから、シンレットがそれに同意していなかったことは明白だ。おそらく他の者もそう判断するからこそ、シンレットは従者を連れずにショウコをこの場に導いたのだろう。シンレットとて、皇帝からの命令であれば大臣として抗弁を行ったはずだが、友人からの頼みとして引き受けたのだろう。
胸が詰まる。
これほどのことをしてくれているのに、自分何か一つでも返せているだろうか。
何一つ語ることが出来ず、己の中に閉じ込めたままだというのに。
せり上がってくる想いを押さえ込み、ショウコは自分でも酷い出来だと分かってしまう泣き笑いを浮かべた。
こんなときに出来ない作り笑いの練習なんて、なんの意味も無いのかもしれない。
そんなことを考えていたら、声までが震えた。
「……シンレット殿。暫し、一人にしていただけませんか?」
シンレットは一切の理由を問わず、小さく頷いた。
「わかりました。お声の聞こえる範囲におります。…裏手に回っていただければ、世話係のための出入り口がございますよ」
去っていく背中を見送り、ショウコは所々風化し崩れた壁に沿って裏手に回った。粗野な出入り口から覗いてみても、奥は薄暗く判然としない。それでも何かに招かれるようにショウコは薄暗がりの中に踏み込んだ。
足元に注意しながらゆっくり進んでいくと、時期に目が暗さに慣れてきた。
様々なものが散乱し、荒らされた跡が残っている。
あまりに歪んだ空間だった。
これでまっとうな精神が養われるはずが無い。
この国の退廃は故国にとっては歓迎すべきことなのかもしれない。金の鳥籠という制度が継続していれば、二つの大国が肩を並べるような状況にはなり得なかっただろう。何もせずとも国はその中心部から腐敗していくのだから。
こんな考えは故国に対する裏切りだろう。内親王として持ってはいけないとは分かっていても、今だけは。
汚れた床に膝をつき、ゆっくりと頭を垂れた。
この国が過去に賢明な選択をしたことに感謝を。
あの方の気質がこの様な場所で奪われずに済んだことを素直に嬉しいと思える。
その祈りはショウコの不在を知ったケンが探しに来るまで、静かに続けられた。
「明日の昼には王城に戻れます」
晩餐の席でシンレットは幾分緊張を緩めたように言った。
晩餐と言っても旅の宿である以上質素なものだ。それでも王都を離れたからこそ素朴な味が舌を楽しませてくれる。
席についてるのはショウコとシンレットの二人だけだ。皇后と食事を共にするには貴族でも高位の者に限られる。
ショウコもこの国の礼儀作法を徹底的に叩き込んだが、シンレットの振る舞いは自然に身に付いた無駄の無い優雅さがある。平生はレイヴスと馬鹿をやっているので忘れがちだが、シンレットも大貴族の子息なんだと急に思った。
「皇后陛下?」
「……。はい」
「間がありましたね。お疲れですか?」
揚げ足を取るのか心配するのかどちらかにして欲しいと思うのは我侭だろうか。
「いいえ。私など楽なほうでしょう」
ショウコが疲れているなどと言ったら、あまりに申し訳ない。
警護に当たる近衛兵の疲労など極限だろう。
「私はそういう話をしているわけではありません。他の者と比較するのではなく、陛下ご自身の体調を把握することは今回の責任者である私の仕事でもあります」
「そうですね。申し訳ありませんでした。
私の疲れてはいません。残された行程も予定通りで結構です」
シンレットは一つため息をつくと、酒の杯を傾けた。ショウコにとっては喉が焼けるほどきつい酒をこの国の人は水のように飲む。
「陛下は気配りが過ぎます。もっと自分勝手になさってよいのですよ?」
「自分勝手…ですか」
「そう。行き過ぎは困りますが、あまり気を回されると距離を見誤る者も出てくるでしょう」
「……難しいことを、おっしゃる」
「まぁ諦めてください。偉そうにするのも陛下のご公務ですよ。その点、レイは完璧ですね」
最後の言葉にショウコは思わず噴出した。
偉そう、というよりは実際に偉いのだが、それが嫌味なくあそこまではまる人間も珍しいだろう。
「あのようになるのは、私には無理です」
「それは勿論。むしろあそこまでいかれては困ります。少しでいいのですよ。そうすればレイと陛下で釣り合いが取れるでしょう」
あれが二人となれば国は回りません、とシンレットは冗談めかして言った。
それを想像して思わずショウコは笑ってしまった。確かに面倒な事態になりそうだ。
「シンレット殿。皇帝陛下を肴に笑うなんて、不敬でしてよ?」
「陛下が秘密にしてくだされば、ばれませんよ」
ショウコはシンレットとこんな時間を過ごしたのは初めてだった。いつもシンレットと話をするときは、それが雑談であろうともどこか緊張していた。
「シンレット殿もたまには王城でこの様に振舞ってくださればよろしいのに」
「何の得になりますか」
「少なくとも、アオが怯えません」
予想外の答えに、シンレットにしては珍しく間の抜けた声が出た。それを隠すようにわざと不機嫌な声を出す。
「……どういうことですか、それは」
「陛下よりもシンレット殿が怖いようです。何をしました?」
正確には、より得体が知れなくて気味が悪いと言っていたが、適度な脚色を施していく。
「何もっ!どういうことですか!」
「さぁ?ご自分でご確認ください」
会話を楽しんでいるうちに、食事もあらかた終わった。
ご馳走様でしたと手を合わせるショウコを興味深げに見て、シンレットも立ち上がる。
「皇后陛下。この後のご予定は?」
夜も更けて何も無いことをわかって聞いている。訝しがりながらもショウコは首を横に振った。
「もしよろしければ、星の読み方でもお教えしましょう。ここは王都よりも光が少ないので、小さな星もはっきりと見えますよ」
そう言われては断りにくい。ショウコは導かれるままにせり出したバルコニーに向かった。
滞在している館の周りは兵が囲んでいることもあり、警護は遠巻きについた。ケンが文句を言わないところを見ると、安全が確認されたのだろう。
砂漠の夜は本当に冷え込む。昼の暑さなど嘘のように、身体の芯まで冷気が染み入ってくる。
思わず身体を抱きこんだショウコに、シンレットは厚手の上着を差し出し、そのまま簡素な席に誘導する。そこには幾種類かの酒が用意されていた。
「陛下が好まれないのは存じておりますが、身体が暖まりますので一口だけでも」
そう言って注がれたのは黄金色の甘い香りを放つものだった。
「…頂きます」
恐る恐る口にすると、飲み口は意外なほど柔らかいが喉通りは焼け付くような強さだ。喉もとを押さえたのは無意識だった。
「まだ強いようですね。今度は割ってみましょうか」
「いいえ…もう結構です。これ以上は」
「では私も頂いてよろしいですか?」
「勿論」
シンレットはショウコには考えられない純度の酒をあおると、杯を置くと同時に向き直った。
「さて、私は酒で口が軽くなっているので。今なら陛下のご質問にお答えしますよ」
「は?」
その態度はまるで酔って口が軽くなったようには見えない。
むしろ真正面から切り込んできた。
「気になることがあるのでしょう?陛下も御酒を召し上がって酔われた。それでいいでしょう」
「……!」
「消化不良は良くないですから。但し今だけです。明日の朝にはお答えしたことも忘れます」
どうして急に、とか。
何か裏が、とか。
そういうことを考えなかったわけではないけれど、それよりもまず口をついて出たのは望まれたままの質問だった。
「皇太后陛下は、どういった方なのでしょう」
口が渇くのは先程飲んだ酒のせいではない。
本人がいないところでその秘するところを暴こうとする卑怯な行いのせいだ。以前レイヴスが話したがらなかったことを、人伝に知ろうとしている。
「リュミシャールでは代々後宮の最高権力者は皇后ではなく皇太后。妻は複数あれど母は一人だから…でしょう?それが変わったのは先代皇帝陛下が父を殺し母を殺し皇帝の冠を手に入れたから。その方の寵愛を一身に集めた方が陛下のお母上である皇太后陛下。その方が何故後宮を取り仕切られないのか」
シンレットの表情は変わらない。
それに急き立てられるようにショウコはなおも言葉を重ねた。酒のせいか、頭が働かない。口にしていいのか悪いのかを考える前に、言葉が零れてくる。
「思えば私は皇太后陛下のお顔を拝見したことがございません。御前試合のときも、立后の儀のときも、皇帝陛下のお隣は空席でした。公式の場にお顔を出されないのは、何故ですか」
手にしていた杯を置き、シンレットはぱちぱちと手を叩いた。
「非常に良い質問です。一つの問で多くの情報を引き出すことが出来る」
「それは…どうも」
褒められているのに観察されているような気分になるのはどうしてだろう。否、観察されている。
「先代皇帝陛下には数多の皇妃および側妾がおりました。その中で唯一御子を成したのが陛下の母君であられる皇太后陛下です。夭逝した御子も含めれば、その数は二桁になりましょう」
皇帝の寵愛を一身に受けた女性。
女性の最高位に上り詰め、わが子を皇帝にした幸運の人。
しかし皇太后の現在の振る舞いはそのような光を感じさせない。表舞台に背を向ける姿は、過去を否定しているようだ。
「皇太后陛下はレイシア殿下を片時も離さないほど愛しておられました。今は喪失の悲しみが深いのでしょう」
「レイシア…殿下」
ショウコがこの国に来た様に、海を渡ってオースキュリテに行った皇子。当然名前は知っているが顔をあわせたことは無い。
子を送り出した悲しみは理解できる。しかしそれは10年も前のことだ。
「皇太后陛下はレイを恨んでいます」
唐突な言葉に、弾かれるように顔を上げた。シンレットの瞳は静かな怒りを湛えていて、冗談を言っているようには見えない。
「どうして……だって、レイシア殿下のことは陛下には関係が無いはず」
国家間の決め事にたとえ皇太子と言えども子どもが口を出せる話ではない。
それにあのときはそれが最上の選択肢だったとショウコは思う。長じて己の立場を理解するために当時の文献や公的文書や密約の類を読み漁った。その上で姻戚関係を結ぶことが選択されたのは正しいと思っている。
「理由をお話しすることは簡単です。ですが、きっと聞けば陛下は後悔なさる」
それでもいいのか、と問いかけているというよりは、だからやめておけ、と言っていることが分かった。
「でも、陛下にならレイも話すかもしれませんね」
続けられた言葉は意外で、それが表情にも出ていたのだろう。シンレットは苦笑でもなく嘲笑でもなく自然に柔らかく笑った。
「そうでしょうか。私には……」
そうは思えません。と続けようとしたがシンレットはすっと人差し指を立てて唇に当てた。
「お付き合いありがとうございました。明日も早いですし、戻りましょう」
「そうですね。置いていかれては困りますから」
「は?」
立ち上がると僅かに身体が傾いだ。倒れこそしなかったが、足に来ているらしい。酒の良も慣れだろうか。少し飲む訓練をしたほうがいいのかもしれない。
支えようと腕を伸ばしたシンレットを制して、取り敢えず卓に手をつく。思いがけなく顔を覗き込むような体勢になったので、ついでににやりと笑ってやった。
「星の読み方を教えていただけなかったので。方角か分かりませんから王都に戻れないわ」
「王城に戻られましたら、夜を共に過ごす方にお聞きください」
結局はあれもこれもレイヴスに聞け、だ。
ショウコは秘密主義者の耳元でぱちんと指を鳴らした。まさか手を挙げるわけにはいかない。おふざけにはこの程度が関の山だ。
「王城に戻ったら、不敬罪の構成要件を調べるわよ?」
「物証がありましたら、応じましょう」
隙の無い答えはいつもと変わらない。先程の笑みが嘘だったのだろうか。
「おやすみなさいませ。皇太后陛下。
――――部屋までお送りしてくれ」
言われるまでも無くケンはショウコの側に来ていた。
「……御手を」
「それほど酔っていないわ。
シンレット殿、よい夢を」
「ねぇ、ケン」
ショウコはケンが用意した檸檬水を一口飲み、扉の横に立つケンに声を掛けた。明日の頭痛を回避するために最低一杯は飲めと言いながら、ケンは水差したっぷりと檸檬水を用意した。
ケンは部屋の奥に入ってくることはなく、特別な用事が無い限同席することはもう無い。
「はい」
王城に戻って日々に追われている間に、二人の間の距離感は大きく変わった。どちらが距離をとったというのではなく、そうすることが自然になったというだけだ。
「私はまだ内親王…よね?」
「当然です」
夜にまぎれてしまいそうな声にケンははっきりと応えを出した。
「ショウコ様は正当な第三皇位継承権をお持ちです」
「……そうよね」
ケンからは見えない角度でショウコは顔を曇らせた。
それは詰まり付随する義務も権利も失っていないと言うことだ。
惑う心を悟られまいと、ショウコは窓から夜の空を見た。
リュミシャール皇后としての自分とオースキュリテ内親王としてもの自分のどちらを優先するべきか、ショウコはこの旅で見失ってしまった。
この国にいる第一の目的である母はもう亡い。これからどう生きるのかを決めることはショウコにしか出来ないことだ。そしてどちらを選んだとしても選ばなかった一方から、あるいは選んだ他方からも非難される。
故国の空を忘れた代わりに、この国の空を愛しく思う。
昼の抜けるように蒼い空を鮮やかに、夜の沁みるような漆黒を穏やかに思うようになった。
それは多くの人と知り合ったから。
ドーブの街で、王城で人の優しさも冷たさも知ったからだ。そしてそれらすべてを与えてくれた人がいる。
頭をよぎる、鮮やかな色彩。傲慢ともいえる表情。ときとして優しい手。
逢いたい、と思った。
逢えばきっと自分はオースキュリテ内親王としての人質の身分を思い出す。そしてリュミシャール皇后としての振る舞いをする。
変わらす狭間でもがくことになるにしても、ただ逢いたいと思った。
「ねぇケン。お姉様から手紙が届いたの」
「!?」
過去に届いていた分が紛失していることは言えない。それは高度に政治的な問題になり得るから、ケンを巻き込むわけにはいかない。
「驚いた?私、すっかり見捨てられたのだと思っていたの。それでいいと思っていたわ」
「そのようなこと…あるはずがないのはお分かりでしょうに。しかし…懐かしいですね」
懐かしい、のだろうか。
ショウコにはそれほど故国の思い出が無い。無論生まれた土地を懐かしむ思いはあるが、生まれ育った環境の特殊性と人との関わりが希薄だったため、郷愁という感情は薄いかもしれない。空の色の違いを感じることはあっても、それに起因する思い出はあまりない。
否、新しい生活の中でどんどん薄らいでいっているだけなのかもしれない。
「……帰ってもいいのよ?」
意識するより前に言葉が零れていた。
背後でケンが纏う気配が凍ったのに気が付いたが、一度口から出た言葉はなくなることは無い。
「ショウコ様?」
怒るのは当然だ。
来たくも無いのに無理に国の事情で付き添いを命じられて、異国の政治まで巻き込まれたのだから。
「帰れるのだから、帰ってもいいの。ケンは私とは違うのだから」
こちらに接触を図ろうとしているのだから、それなりに思惑があるのだろう。それと引き換えにケンとアオの帰国を願ってもいいはずだ。二人は人質の自分とは異なり、帰ることが出来る。国で待っている家族もいるだろう。
「ショウコ様!」
夜の空気を震わせる声にショウコは身をすくめた。ケンがショウコに対して声を荒げることなど数えるほどしかなかった。それくらい言ってはいけない言葉だった。
怒らせた。
最初の一言こそ意識したものではなかったが、続く言葉は結果を意図しなかったとは言えない。
ゆっくりと振り返って見たその顔は平生と変わらぬ様子だが、身体の横で握り締めた拳が白い。激情を堪える姿は数こそ多くはないが、見たことがある。この国にいる限り、感情を殺して生きていかなければならないのはあまりに不幸だ。
「私は申し上げたはずです。御側にあると。その心を違えようと思ったことなどありません」
搾り出すような声に胸が締め付けられる。
ケンが嘘をついていると考えたことなどない。アオも然り。それを信じられる位には長い付き合いだ。
でも。
ただ、自分がケンやアオの期待する自分でいられなくなってしまった。今は誤魔化せてもいつ気付かれ失望されるのか。
「……お疲れなのです」
それはケンが自分自身に行っているように聞こえた。だからこんな戯言は聞き流せと、言い聞かせるように。
「……ケン」
「ゆっくりとお休みください。私はこれで失礼いたします」
静かな音を立てて扉が閉められる。
立ち上がりかけたショウコは結局力を失ったように長椅子に座り込み片膝を抱えた。
空には幾千幾万の星々がきらめきを放つ。
旅の空は今晩で終わりだ。