風は変わらず
往路三日。
復路三日。
旧王都滞在時間実質一日足らず。
貴人の移動とは思えない強行軍だ。前例に従うのならば全行程合わせて20日以上が費やされるが、それには物見遊山が加わってのこと。そういったものを排除して、やるべきことを最低限の労力でと考えるのなら、これ以外の日程は受け入れられない。
どうせ形骸化しているのだから無駄は徹底的に削ぎ落とせというレイヴスの号令のもと組まれた日程に、ショウコは全面的に賛成した。
「だからと言って…こうなるのね」
げんなりと広くはない空間でショウコはため息をついた。薄い帳が下りているので外の様子を窺うことは出来ない。ただぼんやりと影が動いていることを知れる程度だ。しかしショウコの視線は正面を向くことなく意思を持って外に向けられている。
舗装された道を走る車の乗り心地は決して悪くはない。難点と言えば車を引く馬を頻繁に交換しなければならないところだろうが、人間にも休息は必要なのでそれは大きな問題ではないだろう。
「馬は駱駝に比べて体温調節が下手ですからね。どうしても長い距離を走ることはできません」
その後にたっぷりと休憩を取らせても半日が限度だと言う。加えて車を引いているのであれば余計にその消耗は激しいだろう。
「そうでしょうね…ですから車の数が多ければ無益に馬を疲れさせるということは分かります」
「その先はお言葉にせずとも結構です。……従うほかないでしょう。陛下のお言葉なんですから。私の事はお気になさらず」
気にするなといわれても無理がある。
分乗は無駄だと判断したのだろう。それは正しい。全く正しい。
しかしだからといって仮にも皇后を、己の正妃を、歳の近い異性と狭い空間に放り込むのは如何なものか。それを全幅の信頼と言ってしまえばそれまでだが、ショウコは兎も角シンレットの居心地の悪さは想像するに難くない。自分に非があるわけではないが、謝るべきなのかと真剣に考えた。
二人は視線を絡ませることなく、ため息をついた。
「シンレット殿。時間の有効活用を提案いたします」
「意義はございません。では、始めましょうか。まずは我が国の歴史の概略から」
本来ならば途中途中の休憩時間に予定されていたが、こう気まずい沈黙が続くよりは余程ましだ。おそらくこれも脚本の内なのだろう。
「これから向かう旧王都は、先々代皇帝陛下の御世までこの国の中心でした。現在の王都に移ったのは先代皇帝陛下の御世からです。それを更に発展させ、政治機能のほかに文化・商業・軍事の拠点としての機能を抱かせたのは今上皇帝陛下です。旧王都の歴史は古く……」
「質問があります」
シンレットの話を遮って、ショウコはつと手を上げた。
それに対してシンレットが軽く頷く。
ショウコは学舎に通ったことがないので勿論意識した行動ではないが、それはまるで教師と教え子のようだ。
「皇帝陛下なのに王都とは、これ如何に?」
実は前々からの疑問であった。
皇帝・皇后と呼び習わすにも関わらず、王族・王都という名称がまかり通っている。しかし皆が当たり前のように使っているので、質問することも憚られて今日に至っていたのだが、今をおいて聞く機会は無いだろう。
しかしそれを受けたシンレットの反応は至って冷淡であった。
「陛下。失礼ですが、歴史を学ばれたことは?」
いつもより数段低い声に、ショウコは自分がよろしくないものを刺激してしまったことを知った。
ショウコがシンレットについて知っていることは多くはない。
つぼに入ると笑いが尾を引く。レイヴスの腹心。皮肉屋。最年少大臣。
いまからここに知りたくない情報が一つ加わることを覚悟した。
「当然ございます。ですが、歴史書は最新の物でも20年前までしか書いておりません。つまり先代皇帝陛下の御世がまとまっていないことはご存知ですね?」
「確かに。先代皇帝陛下の時代は関係国で戦が多く、未だ正確な数字が把握できていないため、公式の発表は遅れています。ですが、一通り学んだのでしたら推測することは出来るでしょう」
当然のようにいうシンレットに、ショウコはまだまだ互いに理解が足りないと感じずにはいられなかった。
悲しいことにショウコには基本的な知識がどうしても欠落している。それは子どもが周囲の大人から自然に吸収したり、童話やわらべ歌などでいつの間にか覚えているようなものだ。10でこの国に来て早々に腰を落ち着けたドーブでは、最初は完全な腫れ物扱いで、それが過ぎればショウコに気遣ってかこの国の歴史や風習を必要最低限以上に教えようとする者はいなかった。
押し黙ったショウコにため息をついて、シンレットは慣れた様子で語りだした。
「我が国は民族・文化・宗教の同一性を以って一つの国の形を成しているのではありません。究極的に言えば大国であることの利便性を求めて、地理的に近しい地域が国を形成していると言えます。
現在の状態に至るまでは各地に『王』と呼ばれる者が多数おり、それぞれが狭い範囲でその地を治めていました。そこから徐々に力を持つ王が現れ徐々に周囲を飲み込んでいき、いつしか広大な土地を管理統括するようになりました。それが現在の王家の祖先です。
その王は他の王と己を区別するため、『皇帝』と名乗るようになりました。権力の所在をより明確化するため『皇』という文字は歴代皇帝及び皇后、そして今上皇帝の妃と子にのみ用います」
「つまり…」
複雑な話を整理しようとショウコは平易な言葉を捜した。
「昔はたくさんの王がいたので、それらと現在の王家を区別する称号が、皇?」
「平たく言えばそうなります。現在でもかつて支配していた土地に戻れば小王と呼ばれる者たちもいますよ。勿論、ただの名残ですが」
ショウコは話を聞きながらも違和感を隠せないでいた。
ひどく限定的な名称の変更の裏。それを考えずにはいられない。
「……ごく最近なのでしょう?」
「何がでしょう?」
「国が積極的にその名称を普及させたのは、極最近なのですね。そうでなければ皇帝のおわす城は皇城、皇都が自然」
ふとシンレットは無表情になった。しかしそれも一瞬で、すぐにいつもの掴み所のない表情に切り変わる。
「陛下は少しばかり……。いえ、では、理由はどのようにお考えですか?」
「オースキュリテとの関係なのでしょう。故国では皇族の血を引く者たちを王と呼びます。意味するところが違っても、訳してしまえば音は同じ。それでは釣り合いが取れないというところかしら」
シンレットはご明察ですと目を細めた。
しかしショウコはそれに対して僅かに眉を顰めるより他に対応が無い。シンレットはどう考えても話し過ぎている。嘘を言っているようにも見えないが、それの意図するところは分からない。
「右手に見えますのがかの戦いの舞台となった高台です。あの場所で第4代皇帝陛下は…」
「シンレット殿」
「何でしょう」
「見えませんが?」
休息のための急ごしらえの天蓋で、ショウコは僅かに被っていたベールをずらして外を確認した。見えないのはやはり視界が悪いせいではない。
レイヴスの厳命により女官たちの最重要任務となったベール着用は、今のところ守られている。肌を晒すな・焼くな・荒らすな。明らかな暴行の跡でもなければショウコの容色如何で国交に問題が生じるとは思わないが、一度拒否したときの女官たちの青ざめた顔には同情を禁じえない。
「そんなことはありません。見えますよ」
飄々と答えるシンレットにショウコは何の謎掛けかと頭をひねる。
緑の少ない荒涼とした大地は、砂埃さえ静まれば地平線が望めるのではないだろうか。それのどこに高台が。
「トリスバール様」
見かねて控えていたケンが声を上げた。
「うん?」
「高台までの距離はいかほどでしょう」
「そうだねぇ」
ケンの厳しい声をものともせず、シンレットは可愛らしく小首をかしげた。
「馬で一日とちょっとかな」
「…………。」
「………………。」
思わず言葉を失い顔を見合わせる二人にシンレットは快活に笑いかけた。
「心の目で見てください。両陛下が物見遊山として切り捨てなければ現地でご説明できたのですが、そうも言っていられないので。
貴族の中にはこういった歴史に触れることこそこの旅の目的と考える者も多いのです。私としても陛下とそういった方々との板ばさみと言いいますか、ね」
皮肉な言葉にショウコは作り物めいた完璧な微笑を浮かべた。それこそ、一切の反論を許さないような。
「精進なさい」
当然ケンは他の誰の横暴に対しても意義を申し立てるが、主の強権には何一つ口を差し挟むことは無い。
苦みばしった顔をするシンレットを横目に、ショウコは先程も感じた疑問の答えを模索する。
少し離れた場所では馬の取替えが終わり、出立の準備が進められていた。
旧王都にはゆるやかだが確実に退廃の空気が流れてた。
特に最近では現王都を中心にした交通網が整備され利便性が向上したために人口の移動が起こり、旧王都に暮らす人間は最盛期の三分の一までになったという。
それでも離れられない人間もいる、とシンレットは言った。国民性として合理的が挙げられるこの国でも、そう簡単に割り切れるものだけではないのだろう。少なくともベール越しに見た街は、愛され手をかけられていると分かった。
「ショウコ様」
コツコツと小さく外から車の壁が叩かれ、馴染んだ声がした。
「何か?ケン」
「これから旧王城に入りますが…少々道が悪いので中が揺れるかと。ご注意ください」
ショウコがそれを理解して内装の一部の取っ手を掴んだすぐ後に、車が大きく揺れた。
「ぃたっ…!」
ショウコは勿論間に合ったが、普段身体を動かし慣れていない文官のシンレットは間に合わず思い切り壁に頭をぶつける羽目になった。
「大丈夫ですか?車輪が穴に落ちているようですね」
がたがたと大きく揺れる車の中でショウコは平然と話し続けるが、シンレットはそれどころではなかった。ぶつけた頭を抑えれば身体を支えきれずまた他の場所を強打する。こんな状況で話などしたら舌を噛むに違いない。
「馬には乗れるのでしょう?同じ要領で揺れを殺せばいいのです」
「……っ!止めろ!」
らしくない荒れた声で命じるとシンレットは頭を押さえたまま扉に手をかけようとするがそれは叶わず、外から扉が勢いよく開けられた。
「如何なさいました、ショウコ様!」
慌てた様子のケンと対照的に、行き場をなくした手を彷徨わせた後シンレットは疲れたように呟いた。
「君は…本当に皇后陛下のことしか考えてないね」
シンレットはケンを押しやってそのまま馬車を降り、納得したように頷くと馬の用意を命じた。
「陛下。申し訳ありませんが僕は馬を使わせていただきます。この揺れは耐えられません」
「シンレット殿?」
突然何を言うのかと身を乗り出し、ショウコは目を疑った。
美しい町並み。歴史溢れる街道。吹き抜ける風は花のにおいを運んでくる。
しかしそれらと相反するように、旧王城へ続く石畳の道はひどい状態だった。
「これ、は」
寸分の狂いも無く敷き詰められたはずの石畳は所々陥没し、そこに車輪が嵌ることにより大きく揺れたのだろう。手入れを放棄された石畳の端からは逞しく草が生えている。
「自然な腐食ではありませんね」
屈みこみ石畳を検分したシンレットは事も無げに言い放った。
「かつてこの城へと続く道は二色の石が使われた美しい姿をしていました。しかしそれも遷都が行われてからは、生活のため或いは抵抗の意思表示のために失われたと記録されています」
これほどとは思っていなかったとシンレットは続けた。周囲を見渡してみても随従してきた者たちは一様に驚きを隠せないでいた。
一時は国政の中心経済の中心として栄えた街の現在の姿はそれほど衝撃的であった。
「この分だと王城もどうなっているか。まぁいずれにしてもあと少しです。行きましょうか」
シンレットはショウコを車の中へと促すが、意識する前にショウコはそれを拒んだ。
「歩きます」
どうせ王城まではそれほどの距離は無い。
「陛下?」
「歩かせてください。お願いします」
それは警護のことや今後の予定を考えての謝罪であったが、譲る気配は全く無い。
ショウコは風に流れる長い髪を押さえて、まっすぐに道の先にある王城を見据えた。
権力の象徴。
華やかなりし面影を湛えた美しい要塞。
しかしそれが持つ力はあっさりと人々の生活を変えときにひどく歪ませる。この道はその象徴だと思った。
そうであるならば受け止めなければならない。その立場にある者として、逃げてはならない。
その様子に何か感じるところがあったのだろう。シンレットは小さく頷いてショウコに手を差し出した。レイヴスよりもケンよりも幾分細い手に手を重ね、慎重にゆるやかな坂道の一歩を踏み出す。
ケンの響く声が警護の変更を告げた。
基礎は頑丈で当時の美しさを物語るが、それに施されていたであろう装飾は見る影も無い。正門をくぐり、まず入った場所はただただ広い空間だった。
「ここは近衛軍が皇帝の拝謁を給うための広間です。この都が退廃した原因の一つとして近衛軍が増長し、次期皇帝の人選にまで介入するようになったためと言われています。その証拠に王城には近衛軍のための食堂、宿舎、浴場、舞踏会場、賭博場などが多数あります。そのどれもが常軌を逸した豪華さです。それらを振り切るためにも遷都が必要でした」
その説明には控えていたケンも息を呑んだ。
今は皇帝直属のもと統制が取れている近衛軍からは想像も出来ない。
「ではこちらに」
そう言ってシンレットが歩き出したのは、明らかにわき道だった。
「シンレット殿。そちら…ですか?」
正面奥にはおそらく政治の中心であった閣議室などがあるのだろう。しかしシンレットはそれらには目もくれず、どんどん歩いていく。
「どうせ表は現王城と大した違いはありません。それよりも陛下にご覧頂きたい場所がございます」
身体ごと振り返ってシンレットは表情を緩めずに言った。
「どうぞ陛下。こちらがこの時代の我が国の暗部。後宮です」
王城内にしては狭い廊下を抜けてたどり着いたのはそれほど広くは無い中庭だった。現在の後宮にも中庭はあるが、その様子は大きく異なり、各部屋から中庭を望む窓は少なく装飾も極めて少ないように感じられた。
「ここは憩いの場ではありませんでした」
添えられていたシンレットの手はいつの間にか離されていた。
「ここの芝生は何十、何百と言う皇子の亡骸を受け止めてきたのです」
「亡骸……?」
ショウコは意識して手を強く握り締めた。そしてシンレットが手を離した意味を知る。
王城までの道を歩くと言ったときから問いかけていたのだろう。この国の過去も受け入れられるのかと。一それを知ったとき一人で立っていられるのかと。
「ここは処刑場です。新しい皇帝が決まるとその兄弟たちはここで絹の縄を使って首を絞められ殺されました。巨大な後宮では常に権力闘争が絶えなかった。皇帝の身にいつ危険が及ぶか分からない。生きていればいつ反逆の旗印として担ぎ上げられるか知れません。ならばいっそと考えたのでしょうね」
「それが……この場所ですか」
ショウコは四方を見渡した。
それほど広くは無い、壁の一枚向こう側には殺される皇子の母親も姉妹も暮らしているというのに。誰もが静かに死んでいったとは思えない。泣き叫ぶ者も助けを求める者もいただろう。その声が女たちに聞こえていないはずはない。或いは嘆き悲しむ母の声を聞きながら逝ったのだろうか。
空はただ高く青い。
過ぎ去った日を思ってショウコはきつく瞳を閉じた。
後宮の日々の生活を営む区画には大きな違いは無い。ただ部屋数が多い上に大部屋が多数あった。これは当時則妾として移民や奴隷階級から見目麗しい少女を選び育てていたためだという。人種が入乱れての集団生活ともなれば小さな諍いは絶えなかっただろうとショウコは当時の皇后に同情を禁じえない。
「あまりご興味を引かれないご様子ですね?」
シンレットの声にショウコは苦笑した。
むしろこの場所を面白がっているのは、通常であれば絶対に後宮に踏み入れることは無い随従の者たちだろう。かつては皇帝のみが立ち入ることを許された場所となればそれはやむを得ないかもしれない。
「興味が無いというよりは、あまり変わらないので。現王城の後宮のほうが小規模ですが」
「そうですか。では奥にはもっと面白いものがございますが?」
挑戦的な視線にショウコは一瞬怯むのを隠し切れなかった。
周りは物珍しい後宮に夢中で気付いた様子は無い。一声かければいいのだろうが、それは負けたようで癪だ。
忍ばせた懐剣の感触を確認し、すぐ近くだと笑うシンレットに続いた。
「ここは……?」
後宮よりも更に奥まった場所に広がっていたのは、損傷が酷い今でも当時の豪華絢爛な様子を思い描くことが出来る区画だった。
しかし窓という窓には尽く柵が埋め込まれ、出入りのための扉は漆喰で塗り固められた後がある。
その強烈な違和感に思わず漆喰の後を手でなぞった。劣化の具合から最近のものではなく、扉が出来た当時からつまりここが使われていたときから施されていたと判断した。
「陛下も一度は耳にしたことがおありでは?悪名高き、金の鳥籠を」
舞台は王都を離れ、そのせいでレイヴスなんて全然出てこない。あわわわわ。
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