砂漠の蛹
「嘘でしょう……?」
思わず赤い口唇からこぼれた呟きは、乾いた熱とともに風が押し流した。
皇后が若くして亡くなったことは知っていた。葬儀も確か3日前に行われたはずだ。
しかしそれが自分にこのような形で関わってこようとは。
時の皇帝の第二皇妃である女は、送られてきた書状を読んで思わず眉をひそめた。
こんなときに倒れられるほどか弱くできていない自分が恨めしい。一時でも現実から逃げられれば楽なのに。
普段は強くあることを望んでいるくせに、身勝手なものだと自嘲する。
「姫様、どうかしましたか?」
「皇帝陛下からの書状よ」
そう言って一番の親友で筆頭女官であるアオに渡す。先程書状が届けられてから、常とは違う様子を心配してくれていた。
「姫様、私にはこちらの言葉は読めません」
「ああ、そうだったわね」
しゃべることは出来るのに、と続ける。祖国から私と共にやってきたこの友人は、決して読み書きを覚えようとしなかった。
それはいつか祖国に帰るのだという彼女の信念のようで、少し寂しい。
アオはいつでも帰ることが出来るし、その場合は引き止める心算は無い。ただショウコは帰りたいと願うことさえない己を恥じ入り悲しく思うだけだ。
「陛下がいらっしゃるみたい。私が次の皇后ですって」
「……。…はぁっ?!」
アオは叫んだとたん、あっさりと気を失った。前置きも無いあまりに突然な話に、頭がついていかなかったのだろう。
思わず苦笑せずにはいられない。きっとこれが、一般的な淑女の反応なんだろう。
「ケン、入ってきて頂戴」
鳴らされた手の音に、扉の外に控えていた衛兵が入ってくる。
「……またアオは倒れたのですか」
低い声は決して不機嫌なわけではない。それが分かるまでは苦手な相手だったが、彼もまた国を出てショウコに従ってくれる一人だ。その武人としての実力はもちろん、その人柄も信頼している。
何も知らなかったショウコに根気強く言葉を教え、様々な知識を押し付けることなく教えてくれた。幼いショウコには常に厳しくも尊敬できる師であった。
「申し訳ないけど、アオを長椅子に運んでもらえるかしら。私は冷たい飲み物でも貰ってくるから」
「仰せのままに。……ショウコ様、原因はコレですか?」
ケンはアオが握った書状を指した。書状の押印は間違いなく皇帝のもの。聡いケンがそれに気が付かないはずが無い。
「読んでいいわよ。どうせ言わなきゃいけないことだし」
言い置いて部屋を出た。
人工的な緑が生い茂る中に優美な装飾に飾られた廊下を歩きながら、思考をまとめる努力を放棄する。
自分に出来ることなど何もない。与えられた役割を拒否することなど出来るはずもないのだ。
ただ諾々と従うのみ。
「皇后か……。」
皇帝に会ったのは、華燭の日のみ。それ以来10年間、儀礼的な時候のやり取り以外は一切の接触をしていない。
時候の挨拶さえあちらは毎年同じ文面、同じ品だ。文だって当然代筆だろう。
10年という歳月で人はどれほど変わるだろうか。
10年前は皇太子だったかの人物について覚えているのは、温度を持たない赤と紅の瞳だけ。本来冷たさとは対極にある色に、触れてはならない冷たさを感じた。
その男の正妃になり、この国の皇后になる。
この十年間ですっかり見慣れた、どこまでも青い空。
祖国の空を思い出すことは、今はもうない。雨に打たれる感覚を、もう覚えていない。
わが身を嘆くことはすまい、そう決めてこの国で生きてきた。
部屋に戻るとケンが難しい顔で書状を眺めていた。その奥の長椅子にはアオが横たわっている。彼が自分に同行することになったのは、彼がリュミシャールの言葉を読み書きできるからだ。
博識であったことがこんな不幸に繋がるなど、思ってもいなかったことだろう。
わが身を嘆くことはないけれど、彼らは明らかに自分の被害者だ。
「私、それを読むまで自分が第二皇妃だって忘れてたわ」
より正確に言うのなら、自分が既婚者だという感覚さえ持っていなかった。頭で知っていることと心で感じることはまるで別だ。
「……お戻りでしたか」
気付いていなかったらしい。武術全般に長け人の気配に敏感な彼には珍しいこともあるものだ。それほど文の内容が衝撃的だったのだろう。当事者であるショウコでさえ未だに半信半疑なのだから。
「驚いた…わよね?」
「ええ、流石に。押印に間違いはございませんか?」
「多分、ね。一応確認してみましょうか」
冷たい茶の入った茶器を置き、机の引き出しから文箱を取り出す。
繊細な金細工鍵がついたの文箱には鍵を掛けてはいない。自分と皇帝の間のやり取りには守るべき機密が存在せず、厳重な保管を要するものはすべて国で保管がなされている。
それだけの関係、それだけの信頼度。
そんな男の皇后になるのか、と一瞬適当に選び出した文を持つ手に力が入った。
「ショウコ様?」
「…これね。やっぱり押印は同じみたい」
僅かに皺のよった文を受け取り照らし合わせたケンが呟く。
「確かに押印は同じものですが…筆跡が大分異なるのでは?」
「う〜ん…。多分、今回来たほうが陛下の筆でしょうね」
「……ショウコ様」
目を眇めたケンからつと視線を逸らす。
言いたいことは痛いほどよくわかっている。これまで軽んじられてきたという事実が明るみになってしまったのだ。故国のためにここにいるケンには決して気分のいいことではないだろう。
「軽く見られているのは私個人であって、オースキュリテという国ではないわ。大げさに騒ぎ立てるほうが見苦しいというもの」
「そうではなく…ショウコ様、私は貴女がそのような扱いを受ける謂れは無い、と申し上げたいのです」
悔しさのにじみ出る声音はどこまでも優しい。
「ありがとう…だから私はいつまでたっても自立できないんだわ」
際限ない甘さに溺れてしまうのではないかと思う。それぐらいケンとアオはショウコに優しかった。
「十分ご立派です。これ以上強くなられては剣を捧げた意味がなくなってしまいます」
「貴方の剣は…私はひとまず預かったと思っているわ。貴方の剣を錆付かせる心算はないの」
だから縛られること無くいつでも好きなときに国に帰っていい。依存することで束縛しないよう、これは常に自分に課してきた鎖だ。
「いかがなさるおつもりですか?」
これまでに幾度となく繰り返されてきた会話を打ち切り、ケンは単刀直入にショウコに問を投げかける。乏しい中にも複雑な表情を浮かべていることがわかるくらいには、長い付き合いだ。
「どうしようもないわねぇ」
我ながらあっけらかんとした声が出た。
杯にお茶を注ぎケンに渡すと、アオの額に水で絞ったタオルを乗せた。これはアオが倒れたときの儀式のようなもので、なくてもいずれ目を覚ますことはわかっている。
「拒否なんか許されないわ。陛下にしたって私を選んだわけではなく、それが適当だと判断されただけでしょう。
それが分かっている以上、こちらだけ義務を放棄するわけにはいかないもの」
「……。不本意では、ありませんか」
搾り出したようなケンの声に、苦笑する。
「大丈夫よ。私は10年前ほど弱くは無いから。ね?」
安心しなさい、とそう言うことが出来た自分に内心驚いた。なるほど、少しは強くなったらしい。
「明日陛下がいらっしゃるから、詳しい話はその時だけれど。多分王宮に移ることになるわね。貴方はどうする?」
本音を言えば、一緒に来てほしい。でも、彼の意思を尊重したい。
「私は姫様とご一緒します!!」
いつの間にか目を覚ましていたアオが叫んだ。
「私もご一緒します。お一人には、いたしません」
不覚にも、二人の言葉に声が詰まる。
ありがとう、と言ってしまいそうになるがとどめることが出来た。言ってしまえば、二人を頼っていることが分かってしまう。いつかオースキュリテに帰る二人の足かせになることはしたくない。
「では…、そのように」
そう言ってお茶を一口流し込む。一緒に高ぶった感情も、冷たいお茶が冷ましてくれた。
「姫様、街に出ましょう!」
アオが顔をほころばせて提案する。
「だって王宮に行くことになるかも知れないのでしょう?そしたら気楽に外になんか出れませんよ!ね?」
「お前はまた…っ!ショウコ様をダシにするな、自分が遊びたいだけではないかっ!」
「えぇ〜!ケンはいっつもそうやって怒ってばかり。行きましょう、姫様。きっと楽しいですよ」
二人の会話につい笑みがこぼれる。
アオの意図は明らかだ。励まそうとしてくれている。
ケンも分かっているから、行くなとは言わない。
「そうね、行きましょうか!いいでしょう、ケン」
それでもまたしても押し負けたという思いが強いのだろう。その呟きはどこか疲れている。
「…。お供いたします……」
心なしか下がったたくましい肩を、ポンと叩いた。
街はいつもの活気に包まれていた。ショウコがこの国にきて驚いたことに一つが、これである。
この国は、王族が崩御したとしても、たとえそれが皇帝であったとしても経済が止まることはない。いつも通りの取引が行われ、市場が活気を失うことはない。
国民にとって皇帝がどのような存在であるのか未だにショウコは掴み切れないでいるが、オースキュリテとは違った捉えられ方をしていることは間違いない。
ショウコやアオの風貌は、この国の人が持たない色だ。黒い髪に黒い瞳は雑踏の中でもはっきりと目立つらしく、声をかけてくる人は少なくない。
「姫さん、美味しい果物だよ!」
「焼きたてのパン、持っていきな!」
「ショウコ様、俺を助けると思って、コレ買ってくれよ」
いつの間にか顔なじみの人がたくさん出来た。果物屋の若旦那、いつも焼きたてをくれるパン屋の奥さん。
彼らはショウコをオースキュリテ出身の姫と知って、声をかけてくれる。
最初は不思議で仕方が無かった。少し前まで直接戦争こそしていなかったが、覇権を巡る対立をし幾度と無く代理戦争をしていた国の皇族など、どうして迎えてくれるのか。
もちろんそうでない人もいたけれど、それほど多くはなかった。
傷つくこともあったが、それ以上に温かかった。
「姫さんの国と貿易やって、あたしたちの生活はずっとよくなったんだよ。それはこの国に来た姫さんと、姫さんの国に行った王子様のおかげだろ。感謝してるんだよ」
そう言って焼きたてのパンを渡してくれた。あのときのことをきっと生涯忘れない。
あのまま故国にいれば、宮の奥深く御簾に遮られた世界の中で生きていただろう。生涯外の風を見ることなく、安全で傷つかないけれど変化の無い中で生きていたはず。
街の中を歩くことなど考えられなかった。
おそらく自分が存在している意味など考えることも無く、ただ存在していたに違いない。
リュミシャールに来て失ったものもある。しかし得たものもある。
ドーブの街の人たちの笑顔もその一つ。
自分が海を渡ってきた意味は、確かにここにあったのだと教えられた。
お姫様、登場です。皇帝との対面はもう少し後になる予定です。
助走段階のお話ですが、感想などいただけるととてつもなく喜びます。