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砂漠の蝶  作者: Akka
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夜の帳

 夜も更けた頃、レイヴスは何時間にも及んだ調査の結果を手に廊下を歩いていた。灯りは殆ど落とされ、月の明るさが廊下を照らす。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った王宮はまるでただの容器いれもののようで、そこで動く人間のことなど知らないように存在感さえ消している。

 自室の扉の前まで来て、レイヴスはらしくもなく足を止めた。

 ショウコに何と言うべきなのか自分の中ではっきりと分からなかったからだ。だがどんなに辛い現実だろうともおそらくショウコは事実を望むだろう。ぼやかされた言葉など聞きたくない筈だ。

 寝ずの番の女官の前を通り過ぎ、そのまま奥へと足を向ける。慣れた部屋だ。灯りがなくとも不自由はない。

 静かに寝室へと続く扉を開け、寝台に歩み寄る。

 月明かりに照らされたショウコの枕元には、きっかけとなった手紙が無造作に置かれたままだ。泣き腫らしたとはっきりと分かるショウコの寝顔を見て扉の前で固めたはずの決心が揺らぎ、窓際で月明かりを頼りにもう一度手紙を開いた。


『また性懲りもなく手紙を書く私を許してね。叶わないとは分かっていてもどうしようもなく貴女に会いたい。

 こちらは厳しい季節になりました。でも今年も庭の寒椿はとても綺麗に咲いているわ。

 出来ることなら春の桜も夏の雲も秋の虫の音も貴女とともに感じたいのだけれど…せめてその便りだけは送らせてね。毎回毎回こんな手紙を送ることで、貴女と過ごした時間を思い出しています。

 そちらはあまり四季の変化がないというけれど、身体は大丈夫?貴女は病弱と言うわけではないけれど、辛いと素直に言えない性格だから、気遣ってくれる人が側にいるか心配だわ。

 できればその人の側で貴女が幸せであることを願います。貴女が笑っていてくれることを祈ります。

 私にはそんな資格はないけれど、貴女がこんな私を面倒だと思えるくらいに日々が満ち足りていますように。

 便りがないのは良い便りだというのに、それでも10年も手紙を送り続ける馬鹿な姉を笑って頂戴。

 貴女は今私の手紙を読んで笑っているかしら。それとも怒っているのかしら。

 こんな手紙を書くことで許されるとは思っていないわ。でも、もうすぐアヤコ様の…伯母上の10回目のご命日だから、その時にはなんでもいいから言付けをお願いできないかしら。内親王としてではなく娘として、伯母上を悼む言葉を。

 この10年、貴女を思わない日はないの。ただ空を見上げるしかできない自分が恨めしい。ただ貴女の犠牲の上に成り立つこの平和を無碍にはしないことだけは、変わらず貴女に誓います。

                                               ユウコ

 誰よりも愛しい私の妹へ                                                   』


 一度読んだだけでも十分に分かる。

 この10年間何度も手紙を送り、返事がないにも関わらず変わらず親愛を示し続けた姿がありありと思い描かれる。

 本来であればふれる事が出来た優しさを、ショウコは10年間奪われ続けていた。

 そして知ることが出来たはずの訃報を知らずに、ただ生きていると信じていたのだ。母親のことを。

 それはあまりに残酷な仕打ちに思われた。

「…陛、下?」

「目が覚めたか」

 ぼんやりと月明かりに照らされた顔はやはり痛々しい。レイヴスが手にしている手紙を見て

更に痛ましげに顔を歪めた。寝台に広がるぬばたまの黒が、同じ色の瞳に生気がないせいで酷く残酷な色合いに映った。

「手紙は…ドーブへ送られていた」

「……そうですか」

 つまり手紙が消えたのはドーブの町の中かあるいはその道中か。流石にそこまで調べ上げることは出来なかったが、王宮内にショウコにあからさまな悪意を向ける者がいないことは分かっただけでも収穫だ。

 しかしそんなことは関係が無いだろう。事実は事実として動かないのだから。

 レイヴスは窓際から寝台に移動して静かに腰掛けた。顔を背けるようにショウコが身じろぎしたが、構わず白い額に掛かった髪を払い除ける。

「保管室にはドーブに発送した記録と…ここに来るまでに文字が滲んで届け先が不明になった手紙が一通出てきた。確認のため開封してしまったが……読むか?」

 正直レイヴスには多くの疑問があった。何故ショウコは自分から手紙を出そうとしなかったのか、何故故国からの使者に会おうとしなかったのか。

 しかし今はそれらすべての疑問を飲み込む。

 ショウコは疲れきったように手を伸ばしてその手紙を開封する。

 それは姉のユウコからではなくオースキュリテ(くに)からショウコ内親王に宛てた手紙だった。

『アヤコ様崩御』

 簡潔すぎる一文と日付が入った手紙を見て、ショウコは両手で顔を覆った。

 怒りではなく悲しみでもない。ただ悲しむには時を失していて、やりきれない感情ばかりがはけ口を求めて渦巻く。

「……ショウコ」

 レイヴスは震える手を除けることなく、ただその髪を撫でる。

 それさえ邪魔になっているのかもしれないが、捨て置くことは出来なくて。

「……独り言を…言ってもよろしいでしょうか」

「ああ」

「あの方は…あの方と私は母娘らしい触れ合いなど、もったことがありません。あの方よりも私に近しい者は沢山いました。他人よりも遠い関係で……だから…悲しくなどないはずなのに」

「ああ」

「亡くなって10年もたつのですから…喪に服するにも今更過ぎて。私は多分今混乱していて……どうしたらいいものか少し悩んでいるみたい…」

「……思うがままにしてみればいい」

 その言葉に顔を覆ったままのショウコの手がぴくりと動いた。

 思い切り嘆き悲しみたい衝動と、しかしそれはもう10年も前の出来事なのだという理性とが鬩ぎ合い感情の捌け口が見つからないのだろう。普通であれば泣き崩れても何らおかしくはないのに、この国で肩肘を張って生きてきた間にそういった感情を殺す術を身につけてしまった。

 それがレイヴスからしてみれば哀れだ。つい先日まで王宮から離れ守られていたはずの異国の姫はその実全く心安らかに安穏としていたわけではなかったのだ。

 弱さを人に見せることに強い抵抗を感じるのはレイヴスとて同じだ。それは人の上に立つ者として当然のことと言えるだろう。しかし抑圧し続ければ人間らしい感情の発露を忘れてしまう。それは痛いほど自覚のあることだった。

「思うが侭……?」

 鸚鵡返しに呟いた後、ショウコはそんなこと出来ないと自嘲した。そんな自分は目指すべきものではない。


「ご母堂は…どのようなお方だった?」

「わかりません」

 唐突な質問にショウコは考えることなく即答していた。分からない、と答えるほかになかった。

「本当に母娘らしい接触はなくて…私には何故私を産んだのかも分からない」

「では、この国に来ると決まったとき、ご母堂は何と?」

「それ、は」

 ――辛かったら、死になさい。

 異国に嫁する娘に贈る餞の言葉としてはあまりに残酷だ。

 故国を出るとき、辛くはなかった。むしろこれまで邪魔者でしかなかった自分が役に立つことが嬉しかった。そして何よりこれで母を苛むことがなくなる。そのはずだったのに。

 辛かったら死ねと言い残して、どうしてそれから解放された筈の母が死ぬのか。

 ショウコが消えたことは何の意味もなかったのか。それほどまでに追い詰めたのか。

「私がいなくなれば…楽になるはずだったのに」

 ショウコは自分が話しすぎているという自覚があった。こんな話をして出生に疑問を持たれたりしたら故国オースキュリテのためにならない。

 しかしショウコが国を出た一番の理由――母を楽にすることが潰えてしまった今、何のためにここに居るのか分からなくなってしまった。

 この国に来て初めて地盤が固まると思っていた矢先に、これまで依拠してきたものがなくなってしまった。

「……楽になる、というぐらいだったなら、何かあったのだろう。

 本当になかったのか?ご母堂はお前を娘と認めなかったと?」

 何度も繰り返される問に、封じていたはずの思い出が蘇る。愛情に満ちた環境ではなかったと思う。触れることができない温かさに憧れることはあっても、それが当然で不当だとも思わなかった。

 でも、側に置いてもらっていた。

 母の力を以ってすれば生まれてすぐに離れることも、或いは殺してしまうことだって出来ただろうに。むしろ周囲はそれを望んでいたはずだ。

 それでも母は守ってくれていた。他が手を出せないように、自分の箱庭に囲うことで。母自身がそれを否定することで内親王としての価値を落とすことで。

「嘘……」

 思わず漏れてしまった呟きは、取り返すことは出来なかった。それに対する返答はなくても、流れ出した言葉は止まらない。小さなほころびからさらさらと零れ、いつしか中身が空になってしまうまで。

「嘘なの。本当は知っていた。気付いてた。

 ただ…拒否されるのが怖くて」

 長じてから母の考えには気が付いた。

 でも本当はそれ以前から、共に暮らしていたときから分かっていた。

 風邪を引いた晩に、寒い廊下に立って中をうかがう気配に。時折感じる優しい視線に。

 母は不器用な人だったのかもしれない。娘を扱いかねていたのかもしれない。しかしそこには形容し難い温かさが確かにあった。

 

 顔を覆ったままのショウコの手から涙の筋が零れだす。やがて喉からか細い嗚咽が漏れ出すと、レイヴスは身をかがめてショウコの額に口づけを落とした。そのままの動きでショウコの手を掴み、手を除ける。

「…いや、ぁ……」

 泣き腫らした顔が露になることを拒否するが、その抵抗を封じてレイヴスは耳元で囁く。

「ご母堂のために、泣け。その涙がなによりの弔いになる」

「…っあぁ」

 おそらくショウコは自分の感情のために泣けと言っても気丈に涙を堪えるだけだろう。

 泣くためには自分以外の人間のためという理由が必要だ。

「私はお前の顔を見ない。だが…こういう時に、一人で泣くことは許さない」

 そういうとレイヴスは肩口にショウコの額を押し付けた。

 肩口にじんわりと温かさが広がる。自分でない誰かのために流す涙は、こんなにも優しい。


 その夜、二人はただ互いのぬくもりを分け合うように寄り添った。

 婚姻を結んで10年で初めて共に過ごした夜は、それらしい艶も熱もなくしっとりとした優しさがあるばかりだった。










 日の光が目に刺さる。

 昨日は帳を下ろし忘れたのだろうか。

 気だるい空気が揺れ動き、さらさらとショウコに覚醒を促す。

 もう少し、このままで。

 ショウコは側にあるぬくもりに手を伸ばし、夜の欠片を感じようと深く息を吸った。

「――、――ろ」

 耳元の低音にいやいやと首を横に振り、ほのかな麝香の香りを堪能する。麝香は普段使っている白檀よりも夜の名残が残っているような気がして、惰眠を貪るべく細く息を吐いた。

 ―――麝香。麝香?

「朝だ。そろそろ目を覚ましてもいいだろう」

「!?」

 直接耳に注ぎ込むような声の近さに、ショウコは近年類を見ない速さで覚醒した。

 急ぎ身を起こし寝台に手をつくが、寝台に手が沈み平衡を失する。

「――っ!」

 しかし予想したような衝撃はなく、呆れたようなため息が聞こえた。

「まったく……朝から騒がしい」

 背中から首まで回された逞しい腕と、それに合わせて抱え込む形になったすべらかな筋肉がついた胸板にショウコは余計に混乱した。

 寝起きの頭をたたき起こし昨日の出来事を回想する。

 あのまま寝入ったのか。自分の図太さにあきれ返るばかりだ。

「あ、ありがとうございます。陛下」

 とにかく生身の身体を感じてしまうこの体勢から抜け出したくて身を捩る。寝ていたのだから当たり前だが、常よりもずっと簡素な服のせいで自分とは異なる異性の身体を初めて意識した。ケンやロイにも力の差というものは感じていたが、それ以前の生物としての差を感じたのは生まれて初めてだ。

「陛下?」

 一向に解放するそぶりのないレイヴスにショウコは途方にくれた。いつだか後宮の部屋で演じられたようなあからさまな雰囲気ではない分、余計にどうすればいいのか分からない。

「落ち着いたな」

「……はい」

 その確認が先程騒がしいと言っていたのとは正反対で、思いがけなく心にすんなりと収まった。情緒不安定が続いているのではないかと案じてくれていたのだと知れれば、この体勢も理解できないわけではない。

 ショウコの返答を受けて腕の力が緩み、そっとぬくもりが離れていく。

 それを一瞬惜しいと思ったのは、何だったのだろうか。

 ショウコの頬の涙の後をぬぐい、そのまま手を滑らせて顎を掴んで上を向かせる。この仕草にも少し慣れてきた。

「立后の儀は、問題ないな」

 それは疑問ではなく、依頼でもなく、ただの確認。

 その信頼というには不確かな何かに応えるべく、それをより確かなものにすべくショウコはいっそ傲慢とも言える様な微笑を浮かべた。

「はい」


 





 リュミシャール皇帝、レイヴス・シャルディア・リュミシャールの二番目の皇后は、立后の儀を以ってその名をショウコ・リーデル・オースキュリティア・リュミシャールと変えた。

 帝国史上初の名に二つの国を持つ皇后である。

 

 




 

 数多の視線を絡ませながら、第一部の幕が下りる。

 薄暗く湿った舞台裏、さざめく歓声を聞きながら、それでも役者は踊り続ける。


 複雑に絡んだ糸は解けない。

 自由に動けるはずもない。


 それを嘆くか嘆かぬか。

 舞台監督はいなくとも、舞台の裏も又舞台。





 

 

第一部終了です。取り敢えず立后したので、一段落かなと思います。本当は「時の萌芽」と「夜の帳」を一話にまとめたかったのですが、予想外に長くなったので断念しました(次回手紙の内容公開とか嘘ついて済みませんでした。苦し紛れに二話同時にアップしてみたりして)。


この先「雪待ちの花」を5話くらい更新してから「砂漠」に戻ってくる予定です。


ご感想、誤字脱字のご連絡お願いします。

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