時の萌芽
足元が崩れる。
否、崩れたのはこれまでショウコが依拠してきたもの。依拠していると信じてきたものかもしれない。
何のために。誰のために。
見えていたはずだったのに。分かっていたはずだったのに。
それらはすべて幻想だったのだと突きつけられたようで。
「ショウコ!」
がくりと重心を失った身体は床に落ちることなく、腰に回された腕に支えられた。
その衝撃にショウコは自分が今いる場所を思い出した。ここは誰が通ってもおかしくない王宮の表だ。こんなところで醜態を晒すわけにはいかない。
「申し訳ありません…大事ありません」
そう言って回された腕をやんわりと押し返すが、それはより強い力によって拒否された。
「大事無い、という顔色ではないな」
シェーンが廊下の端で人払いするのを確認し、レイヴスはショウコが握り締めたままの手紙に目を落とした。腕も手も震えているというのにしっかりと握り締めたままなのがらしいと言えばらしいが、その気丈さが今は不憫だ。
「私が読んでも問題ないか?」
「……はい」
依然青白い顔を上げることなく、ショウコは小さく頷いた。
自分で動かなければならないことは分かっているが、おそらく何も出来ないだろう。結果的には助力を請うより他にない。
冷静であろうとする頭ではそう考えていた。
しかし誰かに縋りたいと願う心は、甘えたいと考えていることを自覚している。
少し離れた場所でケンが瞠目していることには気付かなかった。
ただ一人では立っていられないからそばにいる人に縋ったのか、それともレイヴスに縋りたかったのか。
以前なら間違いなくショウコを支えるのはケンだった。しかし今ケンはショウコの横にはいない。その場所は望む望まないに関わらず、もうレイヴス以外が立つことは非常に困難になっていた。
手紙を一読したレイヴスはそれを元のように折りたたみ、襟元に差し込んだ。
そしてショウコを安心させるように強く抱き寄せると、その仕草とは打って変わって皇帝の声で命令を下す。
「シェーン、ケン・ショート」
やるべきことは既に頭の中にある。
「お前たちは引き続き後宮の仕事に当たれ。今日中に退去を完了させろ。立后の儀は明日だ。日程の変更はありえない」
「御意」
当たり前のようにシェーンは頷くが、ケンにとっては看過できる内容ではない。
「ショウコ様、一体何が書かれていたのですか」
「あ……」
顔を向けようとしたショウコの行動を阻みレイヴスはショウコの額を肩口に押し付け、ショウコに変わって当然の様に口を開いた。
「今お前に話せることは何もない」
「しかしっ」
「わきまえろ」
それ以上は許さないという、人を従えることに慣れた威厳を以ってケンの抗議をねじ伏せる。
「時期がくれば話もあるだろう。今この件についてお前に出来ることは何もない。
理解できたらやるべきことをやれ」
身分、地位、あるいは権力。
それがすべてを隔てている。ケンには出来ないことがレイヴスには出来る。それは個人の資質の差ではなく、それを比較する以前の問題だ。
「……御意」
それを受けてレイヴスはショウコの背中と膝の裏に腕を回して抱き上げると、その場を離れていった。どこに行くのかと問うことさえ出来ない。
リュミシャールに来て10年。
守りたいと願うものを守れない己の無力さを。
近くにいるのに側に在れない歯がゆさを。
10年暮らしたドーブがいかに小さな箱庭であったかを。
それらをケンは初めて痛感した。
巨大な王宮でショウコが生きると決めたとき、側にありたいと願ったのは真実だ。
しかしその本当の意味を、今始めて突きつけられた。これまでと同じではいられないと知っていたからこそ、ショウコはあの時強制しなかったのだろう。
この国で生きていくための力が欲しいと、初めて願った。
「ケン殿。参りましょう」
「…はい。ショウコ様の御為に、出来ることを」
突然足が床から離れたときは、ついに倒れたのかと思った。しかしそうでないと気付いたのは一層強まった麝香の香りがあったからだ。
自分は気も確かだし病人でもない。こんな扱いをされるような状態ではないはずだ。
「陛下…下ろしてください。歩けますから……っ」
「断る」
「…皆がっ……おかしく思いましょう」
必死の抵抗にも逞しい腕はびくともしない。それが尚ショウコを絶望的な気持ちにさせた。
こんなことで弱くなるはずがない。もっと辛いことがこれまでにもたくさんあったのだから。
「自意識過剰だ。静かにしていろ」
どこに向かっているのかもわからないが、いつ人目についてもおかしくない状況だ。そういう場では常に自分を律しているべきで、そうでなければならない。
「私は…何ともありませんからっ」
「分かっている」
その言葉が包み込むような優しさに彩られていて、ショウコは思わず顔を上げた。微妙に色が異なる二色の瞳からは、ドーブで再会したときのような冷たいという印象は受けなかった。
ただ、労りと優しさがあるばかりで、不意に泣きたくなった。
「お前はこれしきのことで崩れるほど弱くはない。ただ、今回は昨日からの疲れが重なっただけだ。誰が見ても無理を重ねてきた。少しくらい休んでも何ら落ち度にはならない」
じんわりと心にしみこんで、ゆっくりと温かさを取り戻していく。
口にしてしまえば泣き言になるのは分かっているのに、それでも声に出さずにはいられなかった。
「……オースキュリテを背負ってここにいるのにっ」
「ああ」
「この国の……皇后なのに」
「十分、良く努めている。案ずることは何もない」
「……っ」
今だけ。この時だけ。
そう言い訳をしてレイヴスの首に腕を回した。
レイヴスは比較的人通りの少ない道を選んで私室にやってきた。
驚いた顔の女官に扉を開けさせて、何も言わずに中に入る。ショウコの外見はどうしてもこの国では特徴的だ。口にせずとも誰なのかはわかるだろう。
今後宮は上へ下への大騒ぎのはずだ。そんな場所でショウコがじっとしているとも思えなかったし、そんな場所へ今は帰したくなかった。
部屋に入った後も何枚か扉を開けて一番奥の寝室に入ると、視線だけで女官たちを下がらせる。腕の中のショウコは廊下でのやり取り以来ずっと静かだが、気を失っていないことは回された腕の力で知ることが出来た。
身をかがめてゆっくりとショウコを寝台に下ろすと、それに従うように滑り落ちた腕が縋るようにレイヴスの服の裾を掴み、そしてすぐに弾かれたように放される。
その何気ない仕草から、これまでもそうしてすべてを飲み込んできたのだろうと察しがついた。それ自体は立派なことだ。だが、一体いつその張り詰めた糸を緩めていたのか。
「…今はここが一番静かだ。片がつくまでここにいろ」
ショウコは腕を顔に渡して目を隠したまま、小さく頷いた。
今どんな顔をしているのかは分からない。それを心配だからと無理に暴くことは出来なかった。
「手紙は枕元に置いておく。……この部屋には誰も入らせない」
その言葉にショウコの手が僅かにぴくりと動いた。
誰にも知られることはない。だから泣いてもいいのだと通じただろうか。
側にいてやりたいと似合いもしない良心が疼く。しかしそれは独善的で、おそらくショウコが望むものでもない。
そしてきっとショウコは一人にならなければ泣けないだろう。
寝台が僅かに軋んだことでレイヴスが立ち上がったことが分かったのだろう。ショウコが何かい言いたげに少し口を開き、結局言葉は出てこなかった。
女官たちにショウコには構うなと言い置いて部屋を出た。ついでにショウコの代わりにロイを後宮に向かわせるよう言付ける。
予定になかった仕事だが優先順位は第一位だ。
早足に廊下を歩きながら、どうしようもない怒りに拳が震えた。
誰が。
何の目的で。
あれほど酷なことをした。
忘らるる姫君と言われ存在していることだけが必要とされていた10年間に、どうしてあれほど明確な悪意をぶつけたのか。
どんな理由があるにせよ、許せる話ではない。
華やかな区画を抜け、どちらかと言えば質素に作られている区画に入る。
ここはいわゆる華やかな外交や緻密な権力闘争の舞台裏となっている場所だ。日々の政務の記録を保管する、地味ながらも欠かすことの出来ない役割を担っている。王族の私信の類も一度ここに集められる。ショウコに宛てた手紙も王宮を経由していれば必ず一度はここで記録に残っているはずだ。
重い扉を押し開いて、紙の臭いが立ち込める空間に踏み入った。
「陛下!わざわざお越しとは…一体どのようなご用向きで?」
「至急の用件だ。すぐに全員をこの場に集めろ」
「全員、でございますか?」
「作業の中断を厭わず、全員だ」
くどいほどの言葉に事の重大さを感じたらしい官吏が足早に動き出す。
官吏が揃うまでの時間レイヴスは久々に立ち入る部屋を見渡した。
部屋というよりは王宮の図書館の書庫に近い。床から天井まで棚が固定されており、間の狭い通路に立つと押しつぶされそうな圧迫感がある。ここには歴代の外交の記録や国の財政の情報などが集積し、それが定まった順序によって整然と並んでいる。ただひたすら情報を溜め込み吐き出すことは滅多にない。そもそも重要な情報であれば各担当の大臣がすぐに調べられるよう手近に写しを保存している。
この場所の存在意義はいわば歴史。その目に見えないものを形にするためだけにここはある。
それを無意味だと断じるのは容易い。しかしその重みを知る者にとっては、ともすれば自分自身が押しつぶされそうなほどの強制的な力を感じるだろう。
「……或いは、恨みか辛み、嫉み、妬み」
あまりに自虐的な考えに自嘲し頭を切り替える。やらなければならないことがあるのだから。
「陛下」
「揃ったか」
「御意」
ずらりと並んだ官吏を見渡して、レイヴスは細くため息をついた。この中に悪意を持ってショウコにあのような仕打ちをした者がいるとは考えたくない。しかしそれをはっきりとさせるためにも、調べ上げるべきことは調べなければならない。
「これから全員で、過去10年分の私信の調査に当たってもらう。対象はオースキュリテより送られて来たもの。それが正しく届けられているのかを調査する。
絶対の精度を求めるため、一つの資料につき二人で同時に調査を行うように。かつそれを別のものが再度調べ上げろ。一切の妥協は許されないと思え」
あまりに合理的でない命令に一瞬場がざわついた。つまりは四人がかりで一つの資料を調べていけ、と。
それを見越してレイヴスは衣擦れの音さえ威厳をもって言葉を続ける。
「私はお前たちの働きには信を置いている。しかし10年という長きに渡って書状が行方知れずになっていると言う事実は看過できるものではなく、またお前たちの職務上の信念にも反するものであろう。
……徹底的に調べ上げろ。これは国の威信の関わる問題だ」
そこまで言われて場が引き締まらないはずがない。
全員が深く頭をたれたのを見て言い放つ。
「これより作業が終了するまで、この部屋への一切の出入りを禁ずる。そして余計な手間は増やさぬよう、決して一人では行動しないよう各人慎重に。
では…かかれ」
ざっとそれぞれが動き出す。
対象は10年分の膨大な資料の山だ。しかし誰一人としてそれに不平不満を言う者はなかった。