故に重なる 2
王宮で『表』と言われる政治が行われる区画の一室を陣取って、ショウコは渡された書類に目を通していった。
一人でやろうと思えば何日掛かるか分からないが、ロイはショウコが思っていた以上に優秀な官吏だった。端的に言ってしまえば、それは情報の取捨選択が巧であるということになる。関連するであろう事項すべてを網羅している膨大な書類から、判断の決め手となるべき情報を抽出する。それを信頼しすぎることは極めて危険であるということを意識していれば、ロイは恐ろしく優秀な官吏であると言えるだろう。
「ロイ、これ抜け番?」
「いや、それは皇室典範との関係が薄いから別枠で処理できる」
「そんな時間はないはずよ?同じ枠で処理して、処罰だけ変更するのは法的に問題がある?」
「法的な問題はないけど、前例がない。踏み倒す?」
「言わずもがな、よ」
殆ど顔を見ることなく手を動かし続けながら飛びかう会話に、シンレットから手伝いを申し付けられた新米の官吏たちは青くなった。
自分たちにも同じ能力が求められるとすれば、まず勤まる職場ではない。
極めつけはショウコの横に気配を消して控えるケンだろう。勿論気配を消してというのは対ショウコであって、他の人間に向けては警戒心をむき出しにした冷たい視線が投げかけられている。それはあたかも仕事が出来ないのなら出て行けといわれているようで居心地が悪いことこの上ない。
かなり大き目の机を用意したはずが、その上は既に法令と書類の山が築かれていた。長身のロイはともかく、座ったままの小柄なショウコは時折腕や頭が除く程度という惨状だ。
「〜〜っ!陛下はご側室が多すぎるわよ!後何人いらっしゃるの?!」
言葉だけ聞くならば皇后の愛妾に対する嫉妬とも取れなくはないが、この場にいる全員がそれは違うと理解していた。そんな甘さはどこにもない。
「ショウコちゃん、これ分かる?」
「…話をしたことはないと思う」
問題は資料だけでは裁けない人間が意外なほど多いことだ。
時間がないので万全を期するというわけにはいかないが、少なくとも間違いはあってはならない。
しかしショウコはつい最近までドーブに引きこもっていたし、ロイは大貴族出身というわけではなく、二人とも社交には疎い。ショウコが数日で詰め込んだ知識も繊細な問題に応用できるようなものではないということは、本人が一番分かっていた。
「家系図のようなものってどこかにあるのかしら」
「公式のものなら資料室にあるけどねぇ…庶子だったり家同士の繋がりまで網羅してるやつは……」
ロイは言葉を濁したが、そんなもの存在するはずがない。
貴族の繋がりは高度に政治的な思惑が絡み合っている。それは公の場に出てくるものから裏で繋がっているものまで様々で、しかも簡単に移ろう性質のものだ。それを完璧に中央政府が管理できているはずがない。
「あのっ……!」
突如上がった声にショウコとロイは弾かれたように顔を向けた。もっともショウコの場合積み上げた本が視界を遮っていたので、正確には声の発せられるほうにあたりをつけたに過ぎなかったが。
「因みにどこのご息女でしょう!?」
「……アンタ誰?」
何でここに居るんだと言外に伝えるロイの冷たい声にたじろぎながらも、緊張して張り付く喉を叱咤する。
「はっ!シンレット様からお手伝いするようにと言われて参りました。
先程件、私がお役に立てるのではないかと思いまして」
今求められているのは個人名ではなく身元が確かだと証明すること。そう考えての返答にロイは満足して目を細めた。
しかし次の言葉は容赦ないものだ。
「じゃあこっち来て。説明を。
……因みに、君の家の利害とか考えて悪意で間違ったこと言ったら、それなり以上の処罰を用意するよ?くれぐれも注意してね?」
寒風吹き荒ぶ言葉に色を失くす新米の官吏に、ショウコは淡々と付け足した。
「曖昧なところはそう言えばいいし、分からないところはそう言ってもらえればそれでいいわ。それを判断するのは私の仕事だから」
励ますでも脅すでもない言葉に、官吏の顔が引き締まる。
それを見てロイはやれやれとため息を付きつつ資料を広げた。
「じゃあまずはここから。
第三皇妃様付きの女官は7人いる。ここの関係を分かる範囲で」
「…こちらの3名は内務大臣家との繋がりがある家です。内務大臣家はその中が2つの勢力に分かれていて……」
混沌が舞い降りた部屋の中で、ショウコは最後の書類を書き終えた。これがはじめて皇后として発する公式文書というのは、皮肉なのか何なのか。後世には間違った伝聞が伝わりそうだなとため息をつく。
「終わりだね?」
「ええ」
ロイの顔にも若干の疲れが見えるが、どこか晴れ晴れとしている。しかしショウコはこれからのことを考えると笑ってばかりはいられなかった。
正直に言えば、仕事をしている間も本当にこれでいいのかという思いは尽きなかった。
法を遵守すること、秩序を回復すること。
それが重要であることは勿論認識している。
しかしその理念だけでは解消しきれない、情があることもまた事実だ。特に、毎日意識はせずとも顔を合わせている相手を裁くとなれば尚更。
そんなショウコの迷いを断ち切らせるように、扉を叩く音が聞こえた。
ショウコが答えるよりも早くケンが扉にむかい誰何する。
「皇帝陛下より皇后陛下にお届けものです」
「…入りなさい」
やってきた年嵩の官吏は入るなり部屋の惨状に目を丸くし、しかしすぐに冷静な仮面を貼り付け、ショウコに深々と頭を下げる。
「………!」
「こちらを、お納めください」
差し出された小さな箱と文を受け取り、取り合えずショウコは文を開いた。
「〜〜〜っ!」
思わず口元を押さえて俯く。鏡があれば自分の顔が赤く染まっていることが分かるだろう。
「ショウコちゃん?」
「ショウコ様?」
「皇后陛下?」
周囲の怪訝そうな声にますますショウコは顔を伏せた。
これは嫌味か。
それとも昨日の無謀な行いに対する怒りがまだ解けていなかったのか。
どちらにせよ効果的であったことは肯定するしかない。
「ショウコちゃん、レイが何か?」
「駄目っ」
ロイが文に向けて伸ばした手をショウコはあからさまに拒絶した。
こんなものを読まれたら憤死する。
しばし気の重い沈黙が流れたが、使者としてやってきた官吏がわざとらしい咳払いをしたのちにんまりと笑って言った。
「皇帝陛下から皇后陛下にお言葉をお預かりしております。そのままお伝えするようにと言われておりますので、ご無礼お許しくださいますでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
この空気を変えてくれるのならば何でもいい。
しかし、では、と前置きして続けられた言葉にショウコは思わず拳を握り締めた。
「『立后の儀を明日の午後執り行うことが閣議決定した。よってその案件の引き延ばしは不可
』」
「な……っ!」
あまりのことの呆然とするショウコを尻目に、官吏は一呼吸置いてやけに力を入れて次の言葉を口にした。おそらくは忠実に再現したのだろう。
「『鋭意努力しろ』。とのことでございます」
そしてサイド深々と頭を下げると、静々と退室していった。
「ロイ……」
通常より僅かに低い声で呟く。
「後処理を頼むわね?私は鋭意努力してくるから」
ね?と微笑むショウコに思わずロイはたじろいだ。これほど感情をはっきりさせるショウコを知らない。
「……わかった。じゃあ、これに押印すれば公式文書としての効力が生じるから」
差し出された文書に首に下げていた判を手にして、ショウコの手がふと止まる。
「ショウコちゃん?」
「この判はこれまで使っていた第二皇妃の判なのだけれど…」
それを転用していいのだろうか。しかもこの判の意匠は皇妃たちの間でその序列に応じて変化をつけたものだと聞いたことがある。
考え込んでいるところを見るとロイにも判別付かない事柄なのだろう。気は進まないがシンレットかレイヴスに確認を取るしかないだろう。
「陛下のご予定を確認して参りましょうか?」
官吏の一人の申し出に頷き、贈られた小箱を手に取った。
会うのならば確認しなければならないだろう。
良く見ると箱自体にも細やかな細工がしてある極上品だ。金属の細工は明らかにオースキュリテよりもリュミシャールのほうが上回っている。
かちりと蝶番を外し、中身を確認したとたん、身体に入っていた力が抜けた。
敵わないなと笑うしかない。
「陛下のご予定は確認しなくてもいいわ。解決したから」
「は?」
「お見通し、なのかしら。ねぇロイ、陛下は不思議な方ね」
苦笑して箱の中身を取り出す。
そこに入っていたのは真新しい判。
それを見てロイも僅かに瞠目する。
ショウコは判を洋墨につけると、初めて皇后として公式文書に押印した。
その意匠は繊細な羽を持った蝶。
細やかな彫りで複製が難しいことは容易に察せられる。これまでの判に通していた鎖を外し、持ち手に空いた小さな穴に鎖を通した。
しゃらりと涼やかな音が鳴り、レイヴスから貰った紅玉の指輪に重なった。
今まで使っていた判を軽く一度握り締めると、ケンに渡す。
「…よろしいのですか?」
「ええ」
一抹の寂しさをかみ締めながら。
周囲が何をするのかと見守る中でショウコとケンは互いに軽く頷いた。
「……では」
そういうとケンは小太刀を取り出し、手にした判を砕いた。
周りが唖然とする中で、ケンは屈んで砕いた欠片を集め手に残った判の柄とともに小さな布に包んだ。
「お手元に留め置きください」
「ケン」
「否定したくなるような使われ方はなさらなかったはずです」
そのはっきりした口調に思わずショウコは差し出された包みを受け取る。
悪用されるわけにはいかなかった。だから壊した。それが間違っているとは思わない。
しかしそこに思い出が詰まっていることも確かだ。
10年間過ごした街。そこで出会った人々。そこでケンとアオと過ごした時間。
帰ることはできないが、思い出すことは出来る。
「そうね…。ケン、ありがとう」
思い出は抱えたまま、次へと進むことが出来るから。
「じゃあ、ロイ、後はよろしくね?」
ショウコは出来上がったばかりの文書を掴んで立ち上がった。
「ショウコちゃん、やっぱり…僕も」
「駄目」
はっきりとした口調でショウコは申し出を拒否する。
理由は明白。
「後宮に陛下以外の男性が許可なく立ち入ることは大罪。今回はわざわざ許可を頂くような事案じゃないわ」
「でもさ…一応」
「問題ないわ」
「そうは言っても…。君も護衛官ならさ」
後半はケンに向けられた台詞だが、ケンはあっさりと切り捨てた。
「ショウコ様であれば、問題はないかと」
勿論いざと言うときに備えて扉の外には控えるというケンを、ロイは信じられないといった様子で凝視した。
「身の危険を感じたら実力行使も厭わないわ。そんなにお人好しじゃないもの」
ロイは残務処理をお願いと言い残して、ショウコはケンと連れ立って出て行った。
二人が出て行ったあとの執務室で、ロイは異様な空気を発しながら残務処理に勤しんでいた。
不快といえはいいのか、不満といえばいいのか。自分の感情を御しきれないのは久しぶりだ。
「あの…よろしいですか?」
「………。……何」
極寒の風が流れるのにもめげず、新米の官吏は話しかける。
「先程いらっしゃった方は……」
「流石にあの方は僕でも知ってる」
手を止めて背もたれに身体を預ける。ぎしりと僅かに椅子が軋んだ。
「王族中心派の筆頭。ガスバール様だろう。ショウコちゃんは気付いていなかったみたいだけど……。
官吏の真似事なんて似合わない真似までして、あの古狸何を考えているんだか」
暴言に慄く官吏たちを尻目に、ロイはゆっくり目をつぶった。どうせショウコの作業は午後一杯かかるだろう。ゆっくり片付けてもこちらは時間内に終わる。
単純にショウコの顔を見に来たとは考え難い。レイヴスはそれを命じるとも考え難い。
狸の思考を読むならば、狸の考え方をしなければならない。
「面倒だな……」
思惑が幾重にも交錯する。
これが王宮。
レイヴスが生まれてこの方生きてきた場所。
シンレットが選んだ場所。
ショウコが飛び込んだ場所。
そして自分が迷い込んだ場所。