故に重なる
「…疲れているようね?」
朝の挨拶も早々に、ショウコはケンの顔を見てそう呟かずにはいられなかった。
ケンは少なくともショウコが覚えている限り前日の疲れを残すようなことはしないし、それを悟らせることもない。しかし今朝はやつれていると表現するのが正しいような憔悴ぶりだ。
「……申し訳、ありませ、ん」
歯切れの悪い言葉も珍しい。
相手はケンだとわかっていてもついつい心配になってしまう。
「もし体調が悪いのなら、今日は休んでいてもいいわよ?」
深くは考えず熱を測ろうとして伸ばした腕を、ケンはあからさまに拒絶した。
「……ケン?」
「…申し訳ありません。少しばかり距離をあけていただきたいのです」
「………。」
ショウコの機嫌が降下したことを察して、ケンが慌てて付け加える。
「ショウコ様に、ご不快な思いをさせてしまいますから」
どういうことだと訪ねようとしたとき、弱い風が吹いた。
その風に混ざる匂いはあまり得意なものではない。
「…お酒?」
ケンが昨晩の顛末を簡単に話すと、ショウコはふわりと微笑んだ。
「友人が出来たことは喜ばしいわ」
「いいえ!!」
あまりに早い否定に目を白黒させていると、ケンが小さくしかし怒涛の勢いで話し出した。
「あれらを私の友人と呼ぶことはおやめください。私の品格の問題であると同時にショウコ様のご安全のためでもあります。そもそも今日が非番だからといって記憶を失うほど酔うあの堕落した精神を私はまったく認める気にはなれませんむしろ全面的に否定しましょう。己の酒量もわきまえずにあるものをあるだけ口に入れるとは、人間ではなくむしろ獣の行動ではないでしょうか。いやこれは獣に悪いですね。野生の獣は蓄えるということも知っていますから。兎にも角にもあれらが友人などといった高尚な存在ではないことはご理解いただきたく存じます」
「…『嫌いだ』と言っても側にいてくれる友人は大切にしなければならないわね」
にっこりと微笑み、それ以上反論を許さない。
ケンは同年代で同性の友人と言うものをこの国で持たなかった。今更青臭い青春を楽しめと言ったところで無理はあるだろうが、手に出来なかったからといってこれからも諦める必要はないだろう。
これから様々変化はあるだろうが、王都に出てきたことはケンにとっても正解だったのかもしれない。
うんうんと頷くショウコにため息をつき、ケンは仕事に取り掛かった。
「ショウコ様、本日のご予定は?」
その言葉にさっとショウコの顔に陰りができた。
「…陛下から呼ばれているの。……昨日の件で」
昨日のショウコの行動はケンからみても若干無謀と言わざるを得ない。しかしそれが結果的に国内で強力な力を持つ軍部を味方につけることに繋がったのだから、目をつぶろうと考えていた。
「報告はお済ではなかったのですか?」
「済んでるわ。皇后としては。今日は…個人として伺うの」
ショウコとて今日の話が明るいものでないことは察しがついている。
女官たちからの報告でも昨日今日のレイヴスの機嫌が芳しくないとは聞いていた。
「ショウコ様…」
口を開いたケンを制して、ショウコは耳を塞いだ。
「わかってる。分かってるから言わないで。これからたっぷり陛下の正論とシンレット殿の皮肉に耐えなきゃならないんだもの。ケンくらい私を甘やかして頂戴」
「生憎ですが、それはアオの役割です」
その言葉にショウコは力尽きたように机に突っ伏した。続ける声にもいつもの張りがない。
「アオが…昨日一番怖かったわ」
昨日部屋に戻ってからのあれこれを思い出して遠い目をするショウコに、ケンは何も言えなかった。何があったのかは勿論聞いていないが、過去の事例を参照すればショウコの言い分も分かるような気がした。
アオを怒らせると怖い。これはショウコとケンの共通見解だった。
「そういえば、昨日有耶無耶になったけど、結局ケンの立場はどうなったのかしら。何か聞いている?」
「いえ、何も。そこもはっきりさせておかねばなりませんね」
会話をしながらショウコはさらさらとペンを走らせる。
「あと確認すべきことは、後宮関係がいくつか…。これまでの短い期間だけど、あの場所は問題が多すぎるわよ。やっぱり多少異性の目というのは必要なのかも知れないわね。考えが偏るというか滞るというか…。叩けばいくらでもほこりがでそう」
ショウコが書き散らかした書類をざっと眺め、ケンはあからさまに難色を示した。
「これを、お一人で行うのは無理です」
「…やる前から断言しないで……」
「無理です。反発が大きいことは十分にお分かりでしょう。
後宮はおそらく最も旧弊が残っている場所です。他から手をつけるわけにはいきませんか?」
その言葉にショウコは天を仰いで目を瞑った。
「今私の手が届く場所は、後宮しかないの」
思わずケンは言葉を失ったが、ショウコは向き直ると快活に笑ってみせた。
「これから手を伸ばすの。とっても楽しみ。もともと何も持っていなかったんだもの。楽でいいわね」
「……ショウコ様は変わられましたね」
「そう…かもね。アオにも言われたわ。今の私のことを嫌いではないわ」
その変化を促したのは誰なのか、何なのかと尋ねる権利はケンにはない。
立ち上がったショウコに付き従い、その背中を見つめるしか術はなかった。
「昨日は随分もまれたようだな?」
開口一番レイヴスはくつくつと笑いながらそう言った。
「軍人って酒飲み多いですからね。給金の何割が酒代に消えるのか調べましょうか」
呆れたように言うのはシンレットだ。
「やめておけ。お前に言わせれば無駄金だ。給金を下げたくなるだけだぞ」
「……ええ。ああいう場で最後まで素面でいるのは損だと理解しました」
「潰したのか?酒豪だな」
「それはなかなかだね。そういえばオースキュリテの酒というのも乙だな。取り寄せようか」
感心したように言うレイヴスたちに、ショウコは頭に疑問符が浮かんだ。
「……そういうお酒の飲み方って、楽しいの?」
「皇后陛下は飲酒はなさらないのですか?」
「滅多に口にしないかしら。すぐに酔いが回ってしまうから。たまに飲むにしても和を作るためで…ケンのように競って飲むようなことはないわ」
後ろに控えていたケンが居心地悪そうに身じろぎする。
殆ど酒を飲むことがないショウコにしてみれば単純な疑問だったのだが、今回は相手と状況が悪かった。
「そうだな」
レイヴスが一見無邪気な表情の中にたっぷりと毒を塗りこんで微笑む。
「二階席から飛び降りたり単身敵を追いかけるよりは数段楽しいな」
ひくりとショウコの頬が引きつった。
やっぱり昨日で終わりのはずがなかった。諸事情を勘案すれば相当腸が煮えくり返っているに違いない。間違いなく薮蛇だった。
ちらりと後方を確認すると、ケンは我関せずといったようにショウコと目を合わせようとしない。シンレットが助けにならないのは自明の理だ。
「…陛、下?」
誤魔化すようにショウコが微笑むと、それ以上ににこやかな表情で着座を促された。それはすなわちこれから始まる苦行が短時間では終わらないことを意味している。
「私はドーブで言ったはずだな?『最低限の義務を履行しろ』と。まさかその優秀な頭だ。忘れたわけではあるまい?」
顔を引きつらせたままこくこくと頷くと、レイヴスの貼り付けた微笑はさっと消えた。
「それは重畳。
では自分の価値を理解していながらあの行動を取ったとすれば、それは両国の関係に不穏な分子であると認識しているな?私は確かに政治をやらせてやると言った。しかしそれはその身があってこその話。安全を確保できないようならその資格はないと理解しているだろうな」
反論などはじめから許す心算もないという言い方。まさか台本でもあるのではないかと疑いたくなるような淀みのなさだ。
ここは素直に謝るしかないと頭を下げるが、鼻で笑われ撃沈した。
曰く、簡単に謝罪するのは責任のない者のすることだ、と。
レイヴスは机の上に積みあがった書類を裁きはじめた。解放されるのかという淡い期待も虚しく、レイヴスは複雑な案件を処分しながらショウコを責めるという何とも無駄な才能を発揮したのだった。
そろそろ昼食という時間になって、滔々と文句を言い続けていたレイヴスが顔を上げた。これまでの時間執務室を尋ねてきた貴族たちからは哀れみの視線を向けられ、書類を抱えてきた官吏たちからは珍獣でも見るかのような視線を向けられ、精神的には非常に辛い時間を過ごした。
「結論だ。
予想に反してとんだじゃじゃ馬を野放しにしておくことは出来ない。今後は監視をつけることにした」
じゃじゃ馬と人生で初めて評されたことに反応すればいいのか、それともこれまで長々続いた一連の話に反応すればいいのか、あるいは監視という仰々しさに反応すればよいのかわからず、とりあえずショウコはぐったりと頷いた。今の自分に必要なのは監視役でも手綱でもなく緊張を解きほぐす一杯の茶だ。
「四季春高山茶をご所望かな?それともプーアールとメイクイをご一緒に?」
「…プーアールに菊花を」
ぐったりと肘掛に肘を置いて額に手を当てる。自業自得とはいえ、割りに合わないような気がする。
「まぁ今回は仕方がないよ。僕も昨日の話を聞いたときは肝が冷えた。大立ち回りだったらしいね、ショウコちゃん」
ここにもまた一人いたのかと思って頭を抱えそうになり、ふと気付く。
自分をちゃん付けなんて似つかわしくない呼称で呼ぶ人は一人しかいない。
「ロイ!」
椅子をがたんと揺らし立ち上がって後ろを向くと、そこにはやはり見慣れた顔があった。
「急に出発したって聞いたから驚いたよ。何も言わずに出発するほどショウコちゃんは薄情じゃないと思っていたのに」
その責めるような口調に思わずショウコは一歩引いた。
「色々、あったから」
「うん。聞いてる。
くだらない話だ。さっさと片付けてしまおうね」
主体性のあるような言い方に首を傾げる。
そういえばどうしてロイがここにいるのだろうか。
「もしかしてショウコちゃん聞いてないの?あ、レイが言うはずないか」
にやりと笑うとロイは服の裾を払ってショウコの前に膝をついた。
「本日付で皇后陛下の筆頭補佐官に任命されました。ロイ・ガードナーと申します。
……官吏になるのは吐き気がするほど嫌だったけどね…まったくどうなるか分かったもんじゃない。何はともあれ、僕がショウコちゃんの手足になるよ」
途中からがらりと口調を変えて、ロイはショウコの服の裾に口づけた。
「これで体制は整ったな」
レイヴスの声が静かに響く。
それだけで先程までの落ち着かない空気は一掃され、場に一筋の緊張が走った。
「リュミシャール皇帝の名においてロイ・ガードナーを皇后付き筆頭補佐官に、ケン・ショートを皇后付き筆頭護衛官に任ずる。各々その職責を全うするように」
レイヴスが目配せすると静かに横に控えていたシンレットがショウコに一抱えの書類を差し出した。
さっと目を通した表紙には『林檎園に関する覚書』。
「……これは?」
シンレットはショウコの問に答えることなく再びレイヴスの後ろに控える。
必然的にショウコはレイブスと向かい合う。
「下調べは済んでいる。後顧の憂いはなくしておくに限るだろう。すぐにかかれ」
余計な言葉など何一つない。
読んで分かること、調べれば分かることには一切答えない。
仕事を行ううえでは身分、性別、諸般の事情は一切廃し、そこには掲げた大儀があるばかり。
渡された書類を握る手に力を込め、ショウコはすっと頭を下げた。
「御意」
誰のためでもなく、自分のために。
この国で生きていくために、やるべきことをやるために。
「確かに、承りました」
ゆっくりと顔を上げると、怜悧な顔がまっすぐに見つめ返していた。
新たな役者を舞台に迎え、所狭しと役者は踊る。
客席からは見えぬよう、その調和を乱すことがないように。
されどその場は無限ではなく。
ましてそのときは光の如く。
奈落が口をあけて待っている。
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