痴れ者 2
長い袖を風に翻して、鮮やかな色彩を撒き散らして。
蝶が舞い降りたのか、と。
オースキュリテの姫に再会してからというもの、退屈を感じることが無い。
以前は慢性化した病のようにレイヴスに付きまとっていたものが、すっと消え失せた。
信じられないほどの気分の高揚。
物珍しさからでも側に置くのも悪くは無いと思っていたのに。
あの時心底肝が冷えた。
躊躇い無く手摺を越えて、空中に身を躍らせた姿に。
何故、お前が動く。
ぎりりと奥歯を噛みしめた。
危機を知らせた。それだけで十分なのに。
何故、この場で最も守られるべきお前が動く。
走り去る馬の背に叫んだのは、驚くほど余裕の無い声だった。
「―――っショウコ!!」
慌しくしかし迅速に周囲に人の壁が作られていく。
それが必要なことだとは分かっているが、身動きの取れない状態に思わずレイヴスは顔を歪ませた。
次々に指示を飛ばして近衛軍を動かしながら、レイヴスが感じたのは抑えきれない苛立ち。
それは後先を考えずに飛び出していった愚か者に対してなのか。それとも即座に動くことが出来ない不自由な身の上に対してなのか。
「考えられる場所はすべて押さえろ!皇后の安全を最優先し、痴れ者の生死は考えなくていい!」
細かな采配は部隊長に任せ、馬に飛び乗る。
「シンレット!!」
喧騒の中にも関わらず、検問の警備指示をしていたシンレットが振り返る。
「この場の指揮を任せる!動きがあれば狼煙で知らせろ!」
「御意っ!!」
普通であれば圧倒的に足りない言葉も通じる間柄というのは心地よい。次に相手が何をするのか手に取るように分かるから、全体の予測も出来る。
しかしそこに不確定分子が一つ加われば。
ふざけるなと思う。
予定調和を乱して楽しんでいるのか。
しかしそれ以上に。
無事でいろ、と切実に願った。
願いは届いたのか、それとも届かなかったのか。
レイヴスは、頭の無い身体から吹き出る鮮血を浴びて立つショウコの姿を形容する言葉を持たない。
哀れ、でもなく。
強くも無く。
惨い、とも言えない。
ただ己の命を守るために当然の行為の結果を受け止めているだけ。そう見えた。
ふとショウコが歩き出した。
一部の者は倒れるのではないかと案じて歩み寄ろうとしたが、その足取りは確かでその雰囲気は近寄ることを許さない。
しかし次の行動には多くのものが息を呑んだ。
転がった首のすぐ横に膝をつくと、何か小さく呟き、首を切り落とした手と同じ手で優しく見開かれたままの瞼を下ろす。
それは間違いようも無く、死者の冥福を祈る行為。
はじめは小さかったざわめきが水面に広がる波紋のように、徐々に大きくなっていく。
象牙色の肌は赤く染まり、緑なす黒髪が地に付くことも厭わず。
その姿は敬虔であり残酷だ。
次第に温かさを失っていく首に何を思うのか。
「皇帝陛下のお命を狙った痴れ者に…」「皇后陛下は一体何を」「まさか…」「あちらの差し金なのか?」「いやしかし…」「首を取ったのは陛下ご自身だぞ」
だんだんと大きくなっていくざわめきに、レイヴスはため息をついてから声を上げた。
「道をあけろ!」
弾かれたように人並みが割れる。それを機にまた周囲は静寂に包まれた。
歩み寄るレイブスにショウコは顔を上げると、すっと略式の礼をとる。
「申し訳ありません。生かしたまま捕らえることが出来ませんでした」
「構わない。どちらにせよ自白するような甘い訓練は受けていないだろう。
それにしても…随分派手な顔になったな」
言葉も震えていない気丈な様子に苦笑して手を伸ばすが、それはショウコに拒まれた。
「……。いけません。御手が穢れます」
それが言い訳に過ぎないことは分かっていたが、レイヴスはそれ以上問い詰めることをせず、骸に向き直った。
「何か言っていたか?」
「いいえ」
早すぎる否定はそれ以上踏み込むな、と暗に告げている。
「ならばいい…。皇后に聞くことはもう何も無い」
「分かりました。何かありましたらご報告いたします」
そう言ってショウコは踵を返す。
髪に付いた血が固まると厄介だ。早く洗い流さなければ。
歩き出した背中に明らかに時を狙った声が掛かった。
「もう一つ。この者はどうする?」
「……っ」
震える心を押し殺す。
ここで崩れるわけにはいかないのだから。
「この者は国家に対する反逆者です。死んだからといってその罪が赦されましょうか?」
血に染まった顔を上げて、周囲を見渡す。
お前たちは君主に対する反逆を赦すことが出来るのか、と視線で兵士たちに問いかける。
そのあまりの迫力に一瞬言葉を失った輪の中から、ポツリと一言漏れ聞こえた。
「……晒せ」
それはきっかけに過ぎないものだったのだろう。しかし多くの者にとっては自らの代弁者のように映ったに違いない。
「そうだ!晒せ!」「晒せ!」「反逆者を赦すな」「その罪を思い知れ!!」
怒号のように響く声にショウコは一度強く目を瞑り、そしてレイヴスに向き直った。
「私も皆と同じ考えです」
―――ごめんなさい。
「反逆者にはそれに相応しい死に様を」
―――私では何一つ貴方の思いに応えられない。
「その骸は城外に晒し、…腐乱し崩れ落ちるまで、太陽が焼き尽くすまで、その罪を購い続けるべきです」
ショウコを後押しするかのように、一段と声は大きくなる。
レイヴスが軽いため息とともに了承の意を伝えると、表現しがたい歓声に場が沸いた。
―――謝る資格さえ、持ち合わせていない。
「あの時の皇后陛下を見たか!?迷い無く片刃の剣を振り下ろし、そりゃー見事に首を落とした!!」
「あの冷静なこと強いこと!皇帝陛下に危機を知らせただけでなく、御自ら馬に乗り敵を追い詰めた!なかなか出来ることじゃねぇ!!」
体臭と安い酒、そして味よりも量を重視した食事のにおいが立ち込める近衛軍の食堂のそこかしこで話されるのは、どこも同じ話題ばかりだ。
上官は酒どころではなく警備の甘さや情報の漏洩を話し合っている最中だが、それが末端に降りてくるのはもうしばらく後の話。今は皆が今日見たことを興奮気味に話し、どんどん広がっていく。
「皇帝陛下に進言するお姿の凛々しいこと!まさに俺が考えていたことを口にしてくだすった!!」
「…でもよぉ、なんか骸に祈ってたともいうじゃねぇか」
「そんな話聞いてねぇよ。それにしてもすげぇお方だ!」
小さな疑惑の芽は摘み取られ、話はどんどん膨らんでいく。
「あの陛下の横に立つにはああいうお人でないとなぁ!これから面白くなりそうだぜ」
「そういや、皇后陛下付きの護衛はどうなるんだ?志願してみるか?!」
わっと場が沸く。
王族付きとなれば大出世だ。普通皇后付きといわれれば、外出時だけの仕事となる閑職だが、今回ばかりは話が違う。
「御前試合は不成立だろ。もしかしたらあり得るぜ!」
「あいつを負かせばいいんだろ?よし、俺はやるぜ!で、ゆくゆくは王族付きだ!!」
「……それならこの場で相手になるが?」
酒の回った席に不似合いな冷静な声が響く。
壁にもたれたまま送る一瞥は呆れと冷たさと苛立ちが綯い交ぜになっている。
「お、お前!!」
「…相手になる、と言っている。剣を抜くか?」
言われた兵士はがたんと大きな音を立てて椅子から立ち上がり、大股でケンに歩み寄る。
ケンはそのままの姿勢で持っていた杯を机に置くと、腰に差した刀に手をかけた。
しかし兵士はケンの肩をがしりと掴むと、再び机に向かって歩き出す。
「…っおい!」
「いやー、いるなら声掛けろよ。飲め!」
「はぁっ!?」
「あの技妙だよな。なんて名前だ?今度教えろよ」
「おうっこっち座れ!!」
あっという間に輪の中に入れられ、次々と声を掛けられる。
「これ美味いぞ。食えよ」
「酒ねぇなぁ。追加すっか」
親しげに交わされる会話にケンは面食らった。
「………。」
「何だ?不機嫌だな」
「あ、あれだろ。さっきのはもうなしだ!」
「…どういうことだ」
「だってお前がここにいるって事は、近衛軍に入隊決まったんだろ?んじゃ仲間じゃねーか」
あっけらかんと言う一人に、他が同調する。
近衛軍がそんなに気楽でいいのだろうか。
「まぁあれだけ見せ付けられたら認めないわけにはいかねーよ。
というわけで食え!んで飲め!あとで宿舎案内してやるよ」
目の前にこれでもかと並べられた料理と酒にケンは思わず苦笑した。
歓迎の仕方としては何とも分かりやすく豪胆だ。
自国では有力貴族出身で、こちらに来てからもこういった団体生活とは縁遠い暮らしをしていたが、これから属する場所としては悪くないかもしれない。
「ケン・ショートだ。これからよろしく頼む」
そう言って杯を掲げる。
躊躇い無く同調する面々はこれまで接してきた人間とは人種が違うが、それもそれで悪くないように思った。
落ち着きのない喧騒の中での食事も、慣れれば気の置けないものになるだろう。
数時間後、飲みつぶれた面々を介抱するケンの姿が食堂にあった。
その顔はこれ以上ないほど不機嫌であり、明日からの立ち位置が見えた瞬間でもあったらしい。
予告より二日遅れのアップです。ごめんなさい。
誤字脱字ありましたらご報告をお願いします。