葬儀の夜
突然の死から1週間後、国葬により正妃であった女は冥府へ送られた。
久々に見たその顔に死化粧が施されていたのは皮肉であったのだろうか。薬の中毒で変色した顔色を白粉で隠し、赤すぎる紅で死という事実を塗り隠す。
自分にはこの女が本当に自分の正妃であったのかもわからない。もし仮に正妃が男と蒸発したことを隠すための身代わりだとしても、それはそれでよいとさえ思う。
誰か一人でもこの豪華で堅牢な鳥籠から逃げ出すことが出来たのなら、それはそれで良いことだ。
他愛もないことを考えながら、棺の中で眠る女を見下ろした。この女は明日霊廟に納められる。冷たく暗い霊廟は、歴代の王族の罪も恨みも押し込めて、新たな罪をまた飲み込む。
父や兄弟らが眠る横に、この女もまた眠る。いつかは自分もそこにいくのだろう。そう考えるとあまりの醜悪さに反吐が出る。
不幸な女であったと思う。せめて穏やかな眠りについてほしい。
葬儀は常に生きる者のためにある。気持ちに区切りをつけるためか、あるいは罪悪感を拭い去るためか。死が解放であると思うほど悲観論者ではないが、何某かの救済ではあるのかもしれないなとふと思った。
皇帝のプライベートな空間の一画を抜けて、奥への扉をくぐる。
正妃が死んだといっても、後宮はいつもと変わらない。むしろ次の女主人はどのような人物であるかと言う話で活気ついているようだ。現金なようだがそれが世間と隔絶されたこの空間の実情だ。
皇帝も皇后も所詮形代でしかない。必要なのはその席を埋める者の存在だ。
今晩訪れた目的は女と閨を共にするためではなく、新しく迎える正妃の居室を確認するためだ。それは前正妃の居室を明け渡せと言うことに他ならない。
他の人間はともかくとして、前正妃に長く仕えた者にとっては酷なことであろう。
今だ死から一週間。悲しみに浸ることが許される時であるし、そうあるべきだ。しかし明日にはドーブへかの姫を迎えに行く事になっている。早ければ3〜4日中に、新たなハーレムの女主人がここに君臨することになるだろう。
しかも今回は非常に気を使わなければならない相手だ。やってきたときに部屋の準備がされていないなど、許されることではない。
両国の和平を維持するために、ただ一人の女の機嫌を伺うなどおかしなものだ。また、それほどまでに重いものを背負わされた姫にも同情を禁じえない。
「陛下のお越しです」
長らく立ち入らなかった、後宮で最も広く贅沢な歴代正妃の居室。ここは『母の部屋』ではあったが、『自分の正妃の部屋』ではなかったことに苦笑せずにはいられない。
その間取りに覚えはあるが、内装や染み込んだ香り、そこに居並ぶ者には馴染みはない。
部屋には何人かの女官が控えていた。
「今回の事は、突然の不幸であったな」
「はい。ですが盛大な式で冥府の王の元へ送られ、こうして陛下がお越しくださったこと、ライラ様もお喜びでしょう」
「…そうであるといいが、な」
ライラという名前であったのか。
そんなことさえ忘れていた。死者はどのような葬儀でも分かりはしないし、自分が今ここにいるのは死を悼むためではない。
涙ぐむ者には悪いが、その悲しみを分かち合うことは不可能だ。口先だけの言葉ならいくらでも出てくるが、それは死者に対する冒涜以外の何者でもない。
可能なのは、この者たちがこの先の生活に困らぬように次の仕事の世話をするくらいのことだ。
「この部屋は3日のうちに空けて、次の者の荷物を運び込む。そのつもりで動いてほしい。それが済めば前皇后付きであった者は城から出て行くように。次の仕事が決まっていない者は侍従長に相談しろ」
以上だ。そう言って立ち去ろうとすると、年かさの女官から悲鳴じみた声がかかった。
「陛下、3日とはあまりに……!」
「気持ちは分かるが決定事項だ。変更はない」
「では、城を出ろとは!」
「悪いが」
一旦言葉を切って、女官たちを見回し、縋る女官を一声の元に切り捨てる。
「悪しき前例を知る者を、残しておくことはできない」
多くの者の顔が強張る。この者たちはどうやら、正妃の密通がばれていないと信じていたらしい。
先代皇帝の所業を見ていれば、そう考えるのも当然か。裏を返せばこの者たちは己が断罪される危険を犯してまで皇后に仕えていた忠義者といえるのかもしれない。あるいはただ単に考えが甘いだけか。いずれにしろ既に関係の無いことだ。
「以上だ」
今度こそ、部屋を後にする。
あの者たちは必死で仕事を片付けるだろう。密通の手助けをしていたなど、いつ首が飛んでもおかしくない。王城以上の仕事を見つけるのは不可能だが、己の命には代えられないはずだ。一刻も早く城から出るためには夜通しの作業さえ厭うまい。
「陛下」
「陛下」
「皇帝陛下」
ハーレムの中庭を歩いていくといたるところから声がかかる。媚びた声に艶やかな仕草。そんなものでこの空間はあふれている。
目指す場所はハーレムでも最奥に近い場所にある、側室の部屋だ。
今晩はこのまま居室に戻り、政務の続きをするつもりだった。しかしあの部屋の湿った空気を、そのまま自分の居室に持ち帰る気にはなれなかった。
訪問を告げてはいなかったが、先触れの者が来訪を知らせていたらしい。部屋の扉は開いていた。
「いらっしゃいませ、陛下」
嫣然と微笑む女のほかは、誰もいない。この女は街の高級娼婦上がりの側室で、愛情などを求めないし与えない距離のとり方が好ましい。お互いに利害関係が一致するだけの割り切った関係が続いている。
「なんだかお疲れのようですわね。新しい正妃様ですか?」
「お前に関係があるか?シュー」
疲れた身体を椅子に投げ出すと、思いのほか灯りが強く目に刺さった。
「ありませんわね。御酒などいかがです?」
諦めたように女が笑う。しかしそれさえ演技だろう。
何者にも囚われずに生きてきたこの女を、生活の安定と豪奢な暮らしを条件に後宮に上げた。利権も地位も関係なく、子を残すことを望まずに身体を重ねることの出来る相手が欲しかった。
王宮も娼館も、そこに真がなく虚飾に満ちているという点で何ら変わりはない。
「いらん。明日は早い」
「そうですか。私は頂きますわよ?」
余裕のない男を嘲笑うように、葡萄酒を杯に注ぐ。
名のある貴族の女であればこのように振舞うことはないだろう。しかし決して不愉快ではない。皇帝と言う名前だけに傅かれるよりも、よほど気が楽だ。
「第三皇妃様が大騒ぎですわね。あの方も事情がおありですから大変なんでしょうけれど、少々見苦しいことになっていますわ」
「知ったことか。まだ皇后の選定をした覚えはないな」
「あら」
葡萄酒に僅かに濡れた唇が歪む。否、笑ったと表現するのが正しいのかもしれないが、何かを含んだ表情は時として酷く醜悪だ。
「では、違う方をお考えですか?」
そう言って伸ばされる手を払い落とす。
危害を加えるために伸ばされる腕ならば切り落とす。つけ入ろうとするのならば無視すればいい。しかしただ触れ合うことを目的とした腕は拒否するより他に対処の方法を知らない。
「二度も言わすか?」
払われた手を擦りながら、シューは立ち上がり衣服を取り去っていく。元々男を誘うために来ていた衣服は、見事な身体の線を滑り落ち床に蛇の様にとぐろを巻く。
「いいえ、陛下」
一つ一つの仕草さえこれ以上ないほど扇情的に、生まれたままの姿になって嫣然と微笑みこれまで何度も繰り返してきた通りに男を誘う。
「抱いてくださいな。思うが侭に」
女を寝台に押し倒すと、寝台に染み付いた香が鼻を突く。一時面倒な現実から頭を休められればそれでいい。
女が男を誘うことが仕事であるように、自分にとってはこれも義務でしかない。
皇帝が子を成すことは、おそらく現体制を維持したいと考える者たちには急務であろう。先代のことがあればこそ表立って言われることはないが、自分が長く後宮を空けていたとなれば万どうな事態になることは間違いない。
自分が組み敷いた女は美しいがそれだけだ。豊満な肉体も、長い髪も、ただそれだけのものでしかない。
そこに何らかの特別な価値を見出すことなど、自分には出来ない。
ただ快楽を得るために事務的に首筋や胸に口づけを落とし、すらりとした脚を撫で上げる。
「陛下……っ」
高まった女が縋るように伸ばす手を拒否して頭の上でまとめて押さえつける。
所詮は欲求を処理するためだけに身体を重ねるのであって、人の温かみなど不愉快なだけだ。
身体が熱を持つのに逆らうように、頭がやけに冷えていくのを感じる。
女が達したのを冷静に確認して、腹の上に虚しい欲望の残滓を吐き出した。
「お姫様はどんな子かな〜」
シンは一人自分の執務室で、資料をめくる。両国の間に取り交わされた文書には、姫の情報は殆ど記されていない。ただ皇子と姫を取り替える旨だけが記され、膨大な資料の殆どは戦後処理や国境、中立地帯の設定などに関することばかりだ。
どちらにとっても何某かの事情があったと見るべきか、重要なことのために紙面を費やしたと見るべきか。それはおいおい判断していくことになるだろう。
「21歳ってことは、レイと僕より4つ年下か。こんなことでもなきゃ、忘れ去られた存在のままでいられたのに」
これから姫はどんなに抵抗しようとも政治の中心に引き出されることになる。たとえ本人が何もしなくても、周囲がその存在を疎み利用し搾取する。
忘らるる姫君はそれをどう受け止めるのか。
大きな窓から、折れそうな程細い月が見て取れた。
その形はまるで嘲笑う人間の口の形にも見える。嘲笑う相手は一体誰なのか。
「明日は新月かも、ね……」
出来ることなら、人質の姫がレイ個人を見ることが出来る人であってほしい。
全てを手に出来るのに何も欲しがらない、何かを欲することを忘れてしまった、孤独な皇帝。
長い間その虚空を埋めようとしてきたけれど、事情を知る自分には出来なかった。
「奇跡みたいなもんなんだよ……」
砂漠で花を見つけるような。その花が枯れずに生き残るような。
「でも…、ね」
そう願わずにはいられないから。