そして火蓋は
第二皇妃の帰還を祝う宴の日。その後に予定されている御前試合も相俟って後宮は静かな熱気に満ちていた。
今日の席を字面通りに受け取るものなど一人もいない。今日の席で次に皇后の席に座るものが決まるのだ。つまりそれは後宮の女主人となる者が決まるということ。
ここに暮らす者の中で誰一人として無関心な者などいるはずもなかった。
「やはりこちらのお衣装がお似合いでしょうか」「でも皇妃様は肌が象牙色でいらっしゃるもの、薄い色も映えるのではなくて?」「だからこそ濃い色が肌の白さを引き立てるのよ」「でも御髪の色も考えなければね」
賑々しい会話の中で、その対象であるショウコは既に疲れきっていた。
自分にとってはこれからが本番だというのに、衣装合わせにこれほど体力を使って、今日一日もつのだろうか。一抹の不安が頭をよぎる。
「さ、皇妃様こちらにお着替えください。お色を見ますわ」
当然のように差し出された新しい衣装に、ショウコの顔は凍りついた。
「…もう、どれでもいいのではなくて?」
「まあ!」
控えめな主張に返されたのは、この世のすべてを嘆くような声と表情だった。
「そのようなことではいけません!美しさは女性の武器ですのよ?使わないでどうします」
「私ごときでは使いようがないわ。どうでもいいのよ、本当に」
げんなりと呟くショウコに対して、侍女たちは顔を見合わせた。
「皇妃様は…何か勘違いをなさっておいでです」
「勘違い、とは?」
「皇妃様はとてもお美しいですわ。きめの細かな象牙の肌も、神秘的な瞳と御髪も。どうして卑下なさるのですか」
「……ありがとう、うれしいわ」
淡々と紡がれた言葉に、侍女はかくりと首を折った。
「信じていただけませんか…。鏡に見えるままをお伝えしているのですが」
そうは言われても、ショウコはそれを素直に受け取ることが出来るほど自惚れているわけではない。
自分の身体はリュミシャールの人間のものと比べて小さい。国ではそれほど小柄なほうではないだろうが、そもそも骨格からして違うのだから話にならない。
二国間では美醜の基準さえ違うのだ。こちらでいう女性の美しさが自分に当てはまらないことはよくわかっている。
「さぁ、出来ましたわ。皇妃様、お立ちいただけますか」
促されて立ち上がると、この国独特の薄い生地が身体の線に沿って流れた。むき出しになった背中や腕はやはり違和感を伝えてくる。
「お美しいですわ、皇妃様。あちらに決して引けを取りませんわよ」
「……胸元、もう少し上げられない?」
「いけません。鎖骨からお胸元の線を隠すなんて、もったいない」
最後の悪あがきも一蹴され、ショウコは諦めのため息と共に内掛けを羽織った。
せめて部屋を出るまでは問題ないだろう。
「……。あら?」「まぁ」「これは…」「意外ですわ…」
ぽつぽつと呟かれた言葉に顔を上げ、とてつもなく後悔した。
何故世の女性はここまで服や貴金属、化粧に拘ることが出来るのか。
「皇妃様!!」
がしりと肩を掴まれて、反射的に一歩引く。
「私ども迂闊でございました。これほどあちらのお衣装との相性がいいとは夢にも思いませんでしたの!」
「アオ様、皇妃様のお召し物を出してくださいな」
「腰紐も取りましょう。あちらのお衣装を羽織るなら、帯…だったかしら?そちらのほうが素敵だわ」
「では中の色も薄いものに変えましょう。まぁ、この刺繍と染めは見事ですわね。なんて鮮やかな」
「金糸と銀糸の艶やかなこと…。まぁ、迷ってしまいますわね」
思わぬ発見に盛り上がる侍女たちにああでもないこうでもないと散々に弄り回されて、ショウコの仕度が終わったのはぎりぎりの時間だった。
「姫様、そろそろお席に着かなければ…」
「アオ…っよくも見捨ててくれたわね……」
非難をさらりと受け流され、いつになく乱暴な所作で歩き出す。
「だいたいなんでこんな格好!混ぜればいいってものでもないでしょう!」
苛立たしげではあるが、それでもショウコは歩き出した。
「姫様、お召し替えなさいますか?」
「……いい」
僅かな逡巡の後、それを拒否する。
遊ばれていた感は否めないが、それでも仕度を手伝ってくれた労を労うのなら着替えをするのは憚られる。
それに結局のところ服装なんて最低限の基準を満たしていればどうでもいい。
こういう主人の関心のなさがより侍女たちの執念に火をつけるのだが、それには気付かないほうが双方にとって幸せだろう。
「宝石の細工師はあと少しで来るそうですが、お時間の都合で待つことは出来ません。あとでお席にお届けします」
「そう…急な依頼だったもの。何とか間に合ったと言っていいでしょうね」
淡々と言葉を紡ぐ主人を見て、アオはゆっくりと礼をとった。
10年前に共にこの国に来てから、常にショウコはアオの期待に応え続けた。おそらく本人もそうとは自覚しないまま、当然のこととして。
「御武運を、姫様。アオはここでお待ちしております」
また新たな場所へ歩き出す主人に向けて、全幅の信頼と絶対の忠誠を。
ショウコは軽く顎を引いてそれを受けると、ゆっくりと歩き出した。
10年前のショウコを覚えている人間は殆どいなかった。
その人質としての価値は認識されていても、個人としては忘れられたも同然の存在であったと言える。
しかし少女が10年の時を経て、再び舞い戻った姿を目にした者は思わず息をのんだ。
この国にあっては異質な容貌は、決して俯くことはなく並み居る貴族たちを睥睨する。
緩くまとめた髪を揺らす風さえ、すべて計算された芸術品を作るためのよう。
そこにはかつて怯え震えていた少女の面影はなく、しなやかさの中にも強さを秘めた静謐の瞳が場を支配する。
数多の視線を集めながらゆっくりと皇帝の前に進み出た。
差し出された大きな手にするりと白い手を重ねて、皇帝に向けて舞の一部を切り取ったかのような優雅な礼をとる。
「本日は」
高くはない、落ち着いた声音が耳に心地よく流れ込む。異質な容姿の人間が紡ぐとは思えないほど、くせのない発音。
「このような席を設けていただき、大変嬉しく思います」
「オースキュリテの姫君。よくこの皇宮に戻ってきた。あなたの英断に感謝しよう。
これから共に国を治める者として貴女を得たことは私の治世においてこの上ない財産となるだろう」
「ご期待に沿えますよう、鋭意努力いたします。御世の支え、両国の友好の礎となることを御誓い致します」
そして皇帝に促されゆっくりと顔を上げると、手を引かれるままに異国の姫は段に足をかけた。
すなわち、皇帝と同じ高さに。
その僅かな高さの差が何を意味するのか、わからない者はここには一人もいない。
先程の会話とあわせて考えれば、わかるのは皇帝がこの姫を強く望んでいるということ。
リュミシャールは専制国家ではない。基本的には皇帝と元老院の大臣たちが議論で以って国政を担っている。
しかし普段はあまり積極的に行使されることがないので忘れがちではあるが、皇帝には大臣の罷免と皇后の選定に関して強い権限が与えられている。それはすなわち、人事に関して殆どすべての権限を持っているということ。すべては皇帝の気分しだいで、盤石と思われていた地位さえ簡単に覆る。
権利を行使しないということは、有していないことと同義ではないのだ。
「皇帝陛下に、敬礼っ!!!」
低い声が響き、鎧が発する硬質な音が重なる。
警護に当たっていた軍が一斉に礼をとったのだ。
武勇を尊ぶ国民の中から選びぬかれた兵士たちを掌握しているのは、かつて共に戦場に立った皇帝。
共に苦難を味わい理解した者として、軍が皇帝に寄せる信頼は計り知れない。
オースキュリテとの戦争に参加した者の中にはわだかまりの大きい者もいるだろうが、皇帝に対する軍の忠誠はそれらを超越している。
一人、また一人と居並ぶ貴族たちが顔色を無くしていく。
これまで若輩と侮っていた皇帝がどれほどの存在かを思い出して。
敬礼の姿勢のまま微動だにしない軍部と、青ざめて震える貴族たち。
息苦しいほどの沈黙を破ったのは、激昂した女の声だった。
「ふざけないで!!」
周囲が呆然と見守る中、第三皇妃は血走った目を二人に向けた。本来ならばショウコと皇后位を争う場で、皇帝が次の皇后を断定してしまったのだからその怒りはもっともだ。
「陛下もどうかしておいでだわ!この女は敵国の者ではありませんか!!本来ならば後宮に入ることさえ叶わないというのに、挙句立后など…!
どうしてもこの女を皇后にとおっしゃるならば、私は後宮を辞す覚悟でございます!」
それは思わず耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びだった。
第三皇妃が自分を嫌っていたのは権力闘争などではなくて、もっと個人的なものだったんだろう。それを自分に向けることが間違いであるということはおそらく彼女も気付いている。その上でどうしようもないのだ。
「馬鹿が…」
ショウコにしか聞き取れないくらいの小さな声で、皇帝が呟いた。
「何がですか」
同じく小さな声で返す。
声音は限りなく冷ややかであるが、傍目には睦みあっているようにしか見えないだろう。
「お前がだ。まさかあの程度で終わると思っていたのではあるまいな?」
「まさか。流石にそこまで楽観的ではありません」
ただ、強いて言うなら周りが第三皇妃を止めてくれることを期待しただけだ。しかしそれももはや期待できないだろう。一度発してしまった言葉は消えてなくなることはない。
「ならば事態を収拾しろ。どうせいずれはやらなければいけないことだ」
軽く背を押され、第三皇妃と向き合う。
周囲は恐ろしく静かだ。第三皇妃の生家はうろたえるばかりで娘を止めることなどできはしない。
ただ一人、皇帝だけが座に直り獲物を検分するように目を細めた。
「第三皇妃、アルグリア様ですね?」
苦手だな、と思った。まっすぐ過ぎる怒りは受け止められることを拒むから。
「先程陛下がおっしゃったとおり、私の立后は陛下のご意思です。それに歯向かわれるというのは、お仕えする者として思い違いをなさっているのではありませんか?
また、私自身にご不満があるというのであれば、御気の済むまでお相手いたします。もっともこれは……」
一旦言葉を切り、居並ぶ貴族たちを睥睨する。何を言われるのか察して目線を逸らした者が数名いるのを確認して、目を細めた。
「陛下に建白書をしたためた方々にも、同じことを申し上げましょう。あなた方にご憂慮いただくような存在ではないと、証明すればよろしいかしら?
私の立后に様々な意見が出ていることは承知しています。意見がある者はこの場で聞きましょう」
言えばいい。
自分の見解に自身と確信があるのなら、怯むことなく口にすればいいのだ。
己を傷つかぬ高みにおいて、傍観者を気取るような真似が通じると思っているのか。その意味では第三皇妃は己が傷を負うことを覚悟の上で声を上げている分、好ましいとさえ思う。
安全圏から人を見下し遊戯の駒を進めるように人を貶める人間は多い。
そんな真似を許すものか。
匿名の建白書なんて手段を用いなければ、己の意見を表明することもできないくせに。
「仮面を被ったままで、いられるとでも思っていらした?」
しっかりと相手を見据えたまま、ショウコは嫣然と微笑んだ。
「狸共、顔面蒼白。いい気味だね、レイ。
お姫様もよくやるねぇ。お人形じゃない証明には十分だ」
いつの間にか一段下で横に控えていたシンレットが喜色満面で呟いた。
確かに面白い。
所詮は異国の姫と侮っていた連中が、揺れる様は面白いとしか言いようがない。
しかしそれ以上に興味深いのは、もともとショウコの立后に賛成していた者たちだ。嬉しい誤算、とでも言うところだろうか。笑みを深くした者もあれば、驚きを表す者もいる。
「確かに面白い…だが」
そして誰よりも事態を楽しんでいるのは自分だ。
退屈な日々の中に降って湧いた興味の対象。
助ける心算はない。甘やかす心算も。
アレが己の力で咲き誇るのを見たいだけ。
「……これからだ」
やっと更新できました。なにやら用事が立て込んでいまして、遅れてしまったことをお詫びいたします。
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