その羽を休めるもの
ぱらぱらと軽く目を通すつもりが、内容が内容だけに途中で引っ込みがつかなくなってしまった。もっともそのことに気が付いたのは、見るに見かねたアオに「眉間のしわが取れなくなりますよ」と半ば強引に元凶を取り上げられてからのことだったが。
しかしアオの言葉で自分が以外に疲れていることに気付き、用意してもらったお湯を使ってお茶の用意を始めた。
「なんですか、これ。お夕飯の後からずっと難しい顔でお読みになってましたけど…」
リュミシャールの言語を読むことが出来ないアオは首をひねった。
「いえ、文章自体は難しくないの。ただ内容がね……」
一言で言えば、酷いものだ。
特にこれが皇帝への建白書だと言うのだから涙が出てくる。しかし建白書という手段を使うくらいなら、その理論の出来不出来は別として相手は理論武装してショウコを攻める用意があるのだろう。ならばまだやりやすい。一つづつあるいは一息に切り崩せばいいだけだ。
「内容は分からないですけど、この文字なんですか?私見たこと無いですけど」
書類を縦に横にしながらなじみの形を探すアオは、なんとも正直すぎる感想を漏らした。
「なんだかミミズが這ったような。そうでなければ絡まった髪の毛みたいな感じですね」
「……あんまりな感想だけど、否定は出来ないわ。あちらで言う草書体みたいなものだけど、それに加えて所々に旧書体も混ざってる。
こんなもので教養をひけらかすべきではないのにね」
「全くだ。それが公式文書なら読む以前にそいつの職を解くのだが」
建白書では微妙なところだ、と扉に寄りかかる人物は続けた。
「陛下!」
その後ろでは侍女たちがおろおろと中の様子を伺っている。それだけでショウコは事態のおおよそを理解した。事前の連絡も無く、かといってこちらの準備が整うのも待たずに部屋に入ってきていたらしい。
「いらっしゃるとご連絡いただければ、こちらでも用意がありましたものを」
「…お前は馬鹿か」
「は?」
その言い草はなんだ、と気色ばむ。一言あれば侍女たちもこれほど気まずい思いをせずに済んだものを。
「何故夜に自分の後宮に来るのに、いちいち断りを入れる必要がある」
「……。………!」
「何か反論はあるか?」
「……ござ…い、ま…せん」
ここは後宮で常に皇帝はすぐ近くに居るのだということに、まだ慣れることが出来ない。しかもここは後宮で、夜毎皇帝が訪れるのは何の違和感もないことだと頭では理解しているが、正直実感が全く伴わないのだ。
ああ、これは。正直相当恥ずかしい。
皇后になることや後宮に入ることは考えても、それに伴う夫婦として生活には全く頭が回らなかった。だって十年も離れていて今更とかそもそもこの人は自分をそういう対象にはしてないような気がするしとか、いろいろと言い訳はあるがつまりは怒涛の展開に頭がそこまで回らなかった。考えがそこまで行き着いていたら、二の足を踏んだような気がする。
「会話の相手を放置して思考に沈むのはやめてもらおうか」
「え?あ、はい。いえ、そんなことは」
明らかな狼狽を示すショウコの頤を捉えて、皇帝は意味深に微笑んだ。
「随分な対応だな、オースキュリテの姫。何も知らぬわけでもあるまい?それらしくしてみたらどうだ?」
続いて耳朶に吹きかけられた言葉と変貌著しい態度にショウコは対応できなくなった。
なに。これ。こういうの、耐性ないのに――。
「随分な対応はどっちですか!姫様から離れろ!じゃ無くて離れやがれ!!」
手近な陶器の置き物を振りかぶって攻撃態勢に入ったアオを、先程までうろたえていたはずの侍女たちが羽交い絞めにした。
「まぁ、アオ様!いけませんわ野暮ですわ」
「私たちとご一緒に参りましょう?」
「陛下、どうぞごゆっくり」
貴方たちのどこにそんな行動力が。
呆然と見守るショウコを尻目に、侍女たちとそれに連行されたアオは扉の外へ消えていった。
「相変わらず、面白いものを飼っているな」
進められる前に椅子にかけた皇帝は、キャンキャンとわめく仔犬でも見たかのようにこぼした。
「…それはあまりにアオが不憫なおっしゃりようです」
「ほう?飼っていることは否定しないのか?」
「それは言葉の彩と……」
そこまで会話してまじまじとショウコは皇帝を見上げた。
「何だ?まぁいい。これで皇帝と皇妃が10年間不仲であったという噂は消えるな。あの手合いは反応が読みやすくて助かる」
つまり、芝居だったと。
そうであったなら他にやりようというものがあっただろうに――。
「陛下…」
「何だ、先程から」
「私が思いますに、貴方は少なからず最低ですわ」
「……意味がわからんな」
心の底かららしい言葉に、説明する気も起きない。ただ深々とわざとらしいため息をつくに留めておいた。
「そちらの物言いに裏づけを与えてやったつもりだが?昼間は随分と好き勝手なことをしたらしいな」
そこを突かれると非常に痛い。確かに皇帝の名前をちらつかせて威圧のような真似をした事は否定しがたい。
「…え?」
小さな呟きからショウコの疑問を正確に読み取ったらしく、その答えはあっさりと与えられた。
「『耳』も『目』もそれなりに優秀な者たちだ。妙な考えは起こすなよ」
つまり後宮内部の一見皇帝の目が届かない場所にも変わりに目を光らせ、委細を報告している者たちがいる。
「では、ご存知なのですね」
第三皇妃以下が出迎えなかったことも、皇后の部屋が破壊されていたことも。
しかし今日ここについたばかりの自分には、何も言う資格はない。言おうとした言葉を飲み込んで、違う言葉を吐き出した。
「陛下、御酒でもいかがですか?」
立ち上がってグラスを用意するが、返ってきたのは気のない返事だった。
「いや、構うな」
「ではこちらを。お口に合うか分かりませんが」
嫌がるものを無理に勧める趣味は無いが、皇帝を前にして自分だけと言うわけにはいかない。先程用意していた茶を差し出した。
独特の小さな茶器で入れた茶は少々冷めてしまったが、あまり気にしないことにした。
「……錦上添花か」
「ご存知でしたか。こちらではあまり飲まれていないものとばかり」
一見すると茶葉の塊にしか見えないが、お湯を注いでしばらくすると小さな花が三つ茶器の中に咲く。数ある工芸茶の中でも最も美しいものの一つだ。
「…母上がお好きでな。よく飲んでおられた」
「皇太后様が…。初めて伺いました」
もしよろしければ珍しい茶葉などを差し上げたい。そう言いたかったが、皇太后のことを過去形で語る皇帝には言い出しにくく、結局口を閉ざすことにした。
「陛下にお願いがございます」
「欲しいものがあるのなら好きにしろ。皇后と皇妃には国の財政から支出が……」
どうやらその手の「お願い」に慣れている様子の皇帝に苦笑しつつ、首を振って否定する。頼みたいのはそんなことではない。
「第三皇妃様方をお招きして、私の帰還を祝う席を設けていただきたいのです」
「ほう?」
「いえ、皆様にお集まりいただければどのような席でも結構です。ご歓談の席と、そうですねお耳汚しですが楽器や歌などを楽しむような」
できれば表の方々もご一緒に。そう言うとショウコの意図を察して眉をひそめた。
この方は今日後宮で何があったのかすべて御存知だ。ショウコの挑発的な態度も皇后位を譲る心算の無いことも。
この方の本心は分からないけれど、それはきっとお互い様。ただ現状で分かっている目的が同じなら、そのことについて協力は惜しまないだろう。
根拠は無いがそう信じられる。この方は私の邪魔にはならない。多分その先に全く別の目的があるから。
「…容易ではないぞ、あいつらにしても己の利益が絡んでいる。正攻法で攻めきれるか」
「あら」
極上の微笑に、ほんの少し共犯者の色を落として。
「負け戦はしない主義ですの。どうせやるなら完膚なきまでに、と教わりましたから」
「はっ」
皇帝は呆れたように息を吐き出す。しかしその瞳にはどこか面白がるような色が浮かんでいた。
「……誰に教わった。そんなものを。まさかデデではないだろうな?ロイか?あいつならあり得るか……。
まぁいい。誤った教育方針であるが、その心意気を買ってやろう。ついでにその席に花も添えてやる」
「花、ですか?」
「ケン・ショートが騎士団長達に喧嘩を売ったらしい。いつでもいいから勝負しろ、と。
随分甘く見られたものだと、鼻息を荒くしていたな」
それは事実とは若干異なるのだが、間に事態を面白がる人間を挟むと事実が歪曲されて伝わるのは仕方が無い。
「いえ、あの、ケンはですね。確かに気の短いところもありますが、基本的にはいろいろなことに無関心というか、達観したところがあるのでそういったことは今まで無かったはず…なのですが」
いまいちフォローになっていないショウコの言葉を聞きながら、レイヴスは確信を持ってその言葉は間違っていると思った。
あの男が『基本的に無関心』?極めて限られた分野において洞察力が無いにも程がある。
あの男の関心は一点に注がれているだけだ。
しかしそんなことを指摘してもどうにもならない。気付くときは勝手に気付くだろう。
「落ち着け、気を悪くしたわけではない。むしろ荒事を好む連中だ、面白がっているさ。
そういうわけで説明は省くが、シンレットが御前試合を企画しろと言ってきた。前と後、どちらが都合がいい?」
そんな物騒なことを面白がられては困る。出来れば説明も言葉も省かないで欲しいのだが、細かい事情はともかく省かれた言葉は推測できるのでとりあえずはよしとする。
「御前試合を、後にしてください」
迷い無くそう言いきったショウコに、皇帝の方眉が器用に上がる。これは完全に面白がられているな、と思うが仕方が無い。
「結果次第ではさぞかし白けた試合になるが?」
「負けませんから。私も、ケンも。陛下には極上の余興をお約束いたしますわ」
ここまで言い切ってふと思う。
皇帝にとって第三皇妃はどういった存在なのだろうか。愛情を持って接している女性であるのなら、その人の鼻を明かすような行為に加担させていいのだろうか。
――あの方に愛情を期待するな。
皇帝の瞳に特別な感情は伺えない。
シューが言っていたのはこういうことだろうか。この方は後宮に暮らす殆どの女性に、何ら特別な感情を抱いていない?
「明日からこれを極力目立つように身につけておけ」
そう言って皇帝は自分の指から大粒の紅玉の指輪を外した。それは大きさもさることながら、質も申し分ないと一目で分かるものだ。
「困ります、こんな…」
「あぁ、そうか」
何かに勝手に納得した皇帝はショウコの手を取ると、外したばかりの指輪をショウコの指に嵌めた。
「やはり大きいな。これでは親指にもつけられないか。明日加工の職人をよこすから、好きに台座を作りかえるといい」
確かに金の台座はショウコの指には大きすぎた。それ以前に紅玉自体がショウコの指より大きい。
問題はそこではないのに。どうしてこの方はご自分の都合を押し付けるのが上手いのかしら。
「陛下、このような過分なものは…」
しかし相手は既に扉の外へ消えつつあった。
追いかけようと立ち上がったが、その拍子に指を滑り落ちていく感覚に慌てて手を押さえた。
「いいか、落ち着くまではそれをつけるのを忘れるなよ」
念を押されてようやくショウコは皇帝の意図に気が付いた。
なんて分かりにくい。
でもそれは確かに届いた。
「はい。お気遣いに感謝いたします」
部屋の外まで見送ったが、皇帝が表へ戻っていくのをみてつい声をかけてしまった。
「これから、まだご政務がおありですか?」
「…生憎、いろいろと面倒が絶えないからな」
間違いなく面倒ごとの一翼を担っている自覚はある。しかもつい先程面倒ごとをまた増やしてしまった。しかしつい顔を曇らせたショウコにかけられた言葉は意外なものだった。
「責任はこちらにある。これからも何の憂いも無くとはいかないだろう。面倒をかけることになるな」
「…いいえ、陛下。私は感謝こそいたしますが、そのようなことは。
あまりご無理を為されませぬよう、お願い申し上げます」
皇帝は何故か意外とも不快ともいえないような、何とも表現しがたい顔をした。それに対して思わずショウコが怪訝そうな顔を返すと、ぽつりと上から言葉が落ちた。
「久しぶりに飲んだが、なかなか良いものだな」
懐かしかった。礼を言う。
決して大きくはない声であるが、確かに聞こえた言葉が自分でも意外なほど心に沁みる。
既に背を向けている歩き始めている相手に、ふわりと笑って礼をとった。
この二人を長々書くのは初めてでした。あれ、主役でしたよね?お二方。そんなことに改めて気付き、愕然。…反省します。
ご感想・コメントなど、よろしければお願いします。私の唯一貴重な原動力です。
拙い文章ではありますが、少しでもお楽しみいただければ幸いです。