蝶の戦場 3
身体を清めて少し休むつもりが、思ったよりも長く眠っていたらしい。目が覚めたのは夕方になってからだった。大きく切り取られた窓から、茜色の夕日が覗く。
ぼんやりとする頭でこれからの予定を立ててみるが、所詮寝起きの頭はまともな働きをしてくれない。それにここはドーブとは違い、行動は大きく制限されざるを得ない。
「姫様、お目覚めですか?」
「たった今ね。……寝すぎたみたい」
「いろいろと急なことでしたから、お疲れが出たんですよ。お体の具合はいかがですか?」
アオが差し出した水を飲むと、その冷たさに頭が幾分覚醒してきた。
「大丈夫、心配ないわ」
「ご無理はなさらないで下さいね。それで、ご来客なんですけどどうしましょう?」
暗に断るべきだと告げるアオにも一理ある。
シンレットの機転で事なきを得たが、後宮はショウコを認めていない。あんなことの後だけに不穏なものを感じずにはいられないのも仕方が無いことだろう。
しかし、こちらに害意を持つ者がわざわざ敵の陣地に来るだろうか。
「……お会いするわ。どなた?」
「陛下のご側室、シュー様とおっしゃる方です」
ため息とともに、アオが答えた。
「突然ごめんなさいね。でも挨拶がしたくって」
ショウコが身支度を整えて居間に入ると、妖艶な女性はそう言って笑んだ。
「貴女は…先程の……」
ショウコを訪ねてきた人物は、挨拶の場で発言した黒衣の女性だった。
「陛下の側室のシューよ。よろしくね、お姫様」
椅子に腰掛けたままの相手にどう反応するべきか。先程の感謝の意は伝えなければならないが。
何の気なしに壁際に視線を走らせると、後宮付きの居並ぶ侍女たちが一様に渋い顔をしていることに気が付いた。
「少し庭に出ない?私このお部屋に入るの初めてなの」
確かに皇后の居室には専用の小さな庭が付いているが、所詮は壁に囲まれた小さなものだ。それほど手入れがされていたわけでもないらしく改めて見るほどの価値は感じないが、ここには居心地が悪いということなのだろう。
頷いて小さな庭へ歩き出すと、すぐに横に並ばれた。
「お姫様は小さいのね。私とも顔半分以上違うもの。陛下と並んだら顔一つ、いえもっとね。陛下は背が高くていらっしゃるから」
「私も国ではそれほど小柄なほうではないと思うのですが、リュミシャールの方々とは体のつくりが違うのでしょうね」
食生活や生活習慣も大きく異なりますから。
庭の椅子に腰掛けながらそう言ったが、返された言葉はひどくあっさりしたもので拍子抜けした。
「そんな難しい話に興味は無いわ」
「……。ご用件を伺いましょう」
「あら、そんなに怒らないでよ。挨拶しに来ただけよ?
そういえばさっきは凄かったわねぇ。いきなり大臣がやってくるんですもの、皆大騒ぎ。それであの荷物でしょう?貴女に嫌がらせしてやろうとしてた人たち、悔しがってたわよ。『シンレット様に取り入るなんて、手が早い!』って」
一方的に展開される話には所々看過できない箇所があったが、相手にはそれをさせないだけの押しの強さがあった。
「あれ、陛下がって大臣は言ってたけど、嘘よね。陛下は女に気を使うような方じゃないもの。あの方そういったことには関心が無いのよ。あ、そうは言っても国のこと以外に何に関心があるのかはわからないけど。ひどい方よねぇ」
皇帝に向かって随分な言い様だ。しかしその中に何か親しみが込められているのを感じたので、ショウコはあえて何も言わないことにした。
ここで不敬だと言う自分は相当無粋だろう。
「陛下に何か期待しちゃ駄目よ」
その言葉はこれまでの話の流れからはそれほどかけ離れたものではないが、声音は大分違っていた。
「それ、は……」
「今までもいろいろな女が陛下に切り捨てられてきたから。結構いるのよね、自分なら陛下のお心をって女。亡くなった皇后だって始めは自信満々だったもの」
ショウコは何を言えばいいのか分からなかった。自分はここで皇帝を弁護できるほど、かの人を知っているわけではない。そもそもそれが必要であるのかも判断できない。
「貴女は身分が飛びぬけてるし、勿論国益のことがあるら表面上は大事にされるかも。でもそれ以上を求めたら傷つくだけよ」
「それは…、私が判断することです。ですがシュー様のご忠告は確かに受け取りました」
何とかそう言うと、知らず知らずに握り締めていた手が包まれた。
「ごめんなさいね、こんなこと言って。でも陛下のご寵愛が特定の誰かに向くことは無いわ。……それはあの方がこれまで歩いていらっしゃた道を考えれば仕方が無いのよ」
包まれた手の暖かさに心がほぐれる。
ああ、そうか。
「シュー様は、私の姉様に似ていらっしゃいます」
唐突なショウコの言葉にシューは目を丸くしながらも、微笑んだ。
「そう?どのあたりかしら?年齢って言ったら怒るわよ」
「どこが、と言われると困るのですが。そう、姉様はよく私の手を握って……」
――『大丈夫よ、ショウコ。私がいるわ』――
「じゃあ、私たちはお友達になれるわね」
現実に引き戻したのは、弾んだ声だった。
「貴女のお姉様はお一人だけだから無理だけど、お友達にはなれるわ。素敵ね、この後宮でお友達ができるなんて」
そういってにっこりと微笑み、シューは部屋を出て行った。後には華やかな薔薇の香りを残して。
遅れて部屋に戻ると、いつの間にか女官長が来ていた。
「女官長、何か?」
この女官長もシンレットが言うところの撤収に協力していたことが分かり、ショウコとしては警戒せざるを得ない。
「第二皇妃様のお耳に、是が非でもお入れしたいことが」
「……聞きましょう」
強い意志を持ったその様子に、ショウコは改めて向き直る。
「あの女は…、シューはまともな人間ではありません。街の娼婦上がりの卑しい女です。どうか皇妃様の身辺からは遠ざけてくださいますように」
「生まれがどうであろうと育ちが卑しかろうとも、陛下が選ばれた女性です。私やそなたがどうこう言うような問題ではないでしょう」
内心、盗みや破壊に関わる人間は卑しくは無いのかと呆れるが、わざわざ更に深い溝を作る必要も無い。シンレットにあそこまで当てこすりをされれば反省もしているだろう。
「第二皇妃様は、この後宮について何もご存じない。私は皇妃様のためを思ってこそ、進言しているのです」
しかし女官長にショウコの手加減は通じなかったらしい。10年間皇妃としての勤めを何一つしてこなかったことは言い訳の仕様も無いが、流石にこの嫌味を聞き流せるほど今の精神に余裕は無かった。
「女官長の考えは分かりました。私とてほぼ初対面の人間を完璧に信頼しているわけではありません。…貴女を信頼しきれないのと同様に」
冷たい視線と声に凍りついた女官長に背を向け、今日からショウコ付きとなった侍女たちを呼び寄せた。
おそらく今のことで女官長は敵に回してしまっただろう。せめて生活を共にする侍女たちとは円滑な人間関係を構築したい。
そう決めて次の間に移動し静かに深呼吸をして振り返る。
意識した表情、意識した声音。計算された仕草に態度。それが嫌味にならない絶妙な匙加減で仕事を頼む。
仕事はショウコが休んでいる間に贈られてきた、第二皇妃の帰還祝いの品々の整理だ。大げさにならないように気をつけても、流石に王都に住む貴族は耳聡い。豪華な布や宝石は見ているだけでも楽しいらしく、箱を開けるたびに歓声が上がる。
「皇妃様、こちらはとても大粒ですわ」
「この生地、なんて刺繍が細やかなんでしょう。きっと素敵なお召し物が仕上がりますわ」
宝石や衣装に大した興味は無いが、主が自分の言葉に合わせて微笑めば悪い気はしないものだ。加えて気前がいいとなれば、それだけで酷い評価はされなくなる。
「この生地はとても素敵ね。でも衣装には派手かしら。皆で小物でも作っては?」
「素敵ですわ、皇妃様。揃いの髪飾りなどいかがでしょうか?」
「飾り紐にしても良いのでは?」
華やかな声に押されるように、ショウコは苦笑して立ち上がった。
「私はこちらの服装のことは分からないから、皆で決めて頂戴。でも完成したら見せてね。お礼状に書きたいの」
その言葉に特に若い侍女たちが色めき立った。どこから縁談がまとまるか分からない。こういった些細なことが意外な結果を生むこともままあるのだ。
あれでもないこれでもないと盛り上がる侍女たちを残して居間に戻ると、女官長は退去した後だった。
「……とりあえず、つかみは成功?」
ショウコが小さな声でもらした疲れは、暗くなり始めた空に溶けた。
もう11月になりました。列島の割と北のほうに住んでいるので、冬の足跡を感じます。前回の更新からこんなに時間がたったのか!と急いで真夜中にアップしました。
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