戦場のその裏
砂漠は一日の寒暖の差がとても激しい。昼は肌を焼くようだった太陽も風も、夜には驚くほど冷え込む。
ドーブの町を出たのは太陽の昇り始めた時刻だった。
とても皇帝と皇妃の出立とは思えないほど、静かな、そして小さな隊列が用意されていた。 ショウコ様は白い息を吐きながら外套の前を掻き合せて、しかし毅然と用意されていた輿に乗ることを断った。
「陛下が馬で行かれるのに、どうして私が輿になど乗ることが出来ましょう」
「ならばどうする。歩くとでも言うつもりか?そのほうが余程こちらは面倒だ」
呆れたようにショウコ様を見下ろす皇帝を、一瞬おかしく思った。権力者は時に傲慢で無知だ。あるいは自分に都合の悪いことは消去する頭が出来ているのか。馬に乗る技術はもともと我が祖国オースキュリテで発達したもの。馬術でリュミシャールに後れを取るはずが無い。
ショウコ様も考えは近かったらしく、苦笑しながら愛馬の「時雨」に鞍を付けるよう兵士に命じられた。
「最近はあまり乗っていないのですが、おそらく身体は覚えているでしょう。ご迷惑はおかけいたしません」
「……勝手にしろ。足場が悪い。無様に落ちるなよ」
「ご心配頂いて、恐縮ですわ。陛下」
そう言ってショウコ様はひらりと馬にまたがった。様子を確かめるように数回時雨の首を叩き、久々に主を乗せたことを喜ぶ馬を静められる。
「皇妃様が馬を操られるとは、意外ですね。これならば荷物はともかく我々は予定よりもずっと早く王都に戻れるでしょう」
そう言ったのはおそらく銀の髪の大臣だっただろうか。興味の範囲外のことなので不確かだ。
「行くぞ」
そう言って黒毛の馬首を返して皇帝が駆け出した。それを大臣とショウコ様が追い、その周りを少数の兵士が囲むように走り出す。私も後ろにアオを乗せてショウコ様の横を走った。
異常が現れたのは、少し走ってからだった。
突然、昨日王都からの文を運んできた鷹が暴れだし、鷹匠の制止も聞かずに脚に巻かれた紐を切って飛び立った。
鷹匠が叫ぶ声に皆が止まり空を見上げると、鷹は時折苦しげに羽をばたつかせながら比較的低い空を旋回していた。
「見て!おっきい鳥だよ!」
その無邪気な声に反応したのは、人だけではなかった。空を旋回する鷹もまた、その小さな存在に気付いたのだ。
普段ならば訓練された鷹は人を襲うことは無い。
しかし暴走した鷹であれば。凶暴な猛禽類の野生が目覚めているとすれば。そうであれば子どもなど簡単に鋭い爪とくちばしの餌食になる。
「厄介な…っ!」
小さく毒づき皇帝が子どもたちのもとへ馬を駆った。数人の従者がそれに習う。
しかしその間に鷹は空を滑り降り、狙いを定めていた。皇帝が速度を上げるが、足場が悪く急な加速は難しい。
「ケン!落として!!」
ショウコ様が叫ばれるまでも無く、私は弓に矢を番え狙いを定めていた。
確実に仕留められる距離まで、もう少しというときに、残っていた従者が私を羽交い絞めにした。
「何を!」
「あの鷹は先代皇帝陛下が飼われていたもの!弓など当たったらいかがするっ!!」
「……愚かなっ!」
もみ合いの邀撃に耐え切れず、後ろに乗っていたアオが落馬する。
「どきなさいっ!」
その声に振り向くと、ショウコ様が弓を構えていらっしゃった。腕の力が劣る分狙いは地面近く、子どもたちの頭上。
放物線の間には、皇帝。
「皇妃様っ!!!」
―弓が放たれた。
「あぁ、ここにいたんだ」
逆光を浴びて馬小屋に入ってきた人物に目を細める。
「シンレット…様でしたか」
「あぁ、『様』はいらないよ。君はどうせ皇后陛下以外に仕える気なんか無いんだろ?皇后陛下の飼い犬に手を出すほど馬鹿じゃないからね、安心していいよ」
聞いているのかいないのか黙々と時雨の世話を続けるケンに構うことなく、シンレットは話を続けた。
「皇后陛下には驚いたよ。あの場で弓を射るなんて、まっとうな精神じゃない。もし皇帝に当たったら間違いなく戦争になる」
―刹那
ケンが腰に佩いていた細身の刀が、狙いをたがわずシンレットの喉元に突きつけられた。
「……白銀の刀身に僅かな反り。オースキュリテの刀だね」
「異常な精神はそちらでしょう、砂の国の大臣。この国では子どもの命よりも鷹が優先されるのか?貧民街の人間は数にも入らないと?」
淡々としてはいるが蔑みと敵意が込められた声音は、よけいに空恐ろしいものがある。
「……君がどんな人間か、少しは分かった気がするよ。
刀を納めてくれないかい?生憎僕は文官でね、そっちは全く駄目なんだ」
「……試しましたか、私を」
刀を鞘に収め改めてシンレットを見るが、その顔はやはり飄々としていて掴み所が無い。
「悪かったね。まぁ仕事でもあるんだよ、君は皇后陛下の護衛候補だからね」
「ショウコ様は後宮に入られたはず。護衛の必要など…」
言いながらケンは鼓動が早くなるのを感じた。
もし、自分の手の届かないところで何かあったら。守るべきときに傍にいることが出来なかったら。
「そんなに差し迫ったのもじゃない、安心していいよ。でもね、後宮はある意味表の何倍も恐ろしい。箍が外れればどうなるか予想もつかない」
「……後宮へ入る方法は?あるのでしょう?」
「一時的なら簡単だよ、皇帝の許可があればいい。急迫した事態なら僕でも許可は出せる。でも常に皇后陛下の護衛につくならそれじゃ足りないね。
皇族の専属護衛になるには、騎士長クラスに実力を認められなければならないはずだ。しかも場所は限定されてる」
面白がるような様子に内心で毒づき、仕草で先を促す。
「御前試合だよ」
「では可能な限り迅速に、用意をしてください」
そんなことか、といった思いが強い。そんなことであの場所に戻れるなら拍子抜けするほど容易いことだ。
「君ねぇ、簡単に言ってくれるけど…」
「貴方も高貴な方の犬に噛まれたくはないでしょう」
呆れた様子のシンレットにそう言って、ケンは馬小屋の外へ歩き出した。刀の手入れなど、準備は整えておかなければならない。
「あ、そうだ」
のんびりとした声が追ってくる。何のことはない、世間話でもする風を装って。
「まだ何か?」
「あの鷹だけどね、おそらく遅効性で強力な興奮剤を飲まされていたって話だけど」
「……」
「君は、何か知っているんじゃないのかな?」
「お役に立つことは、出来ないようですね」
物語の終着を知らない役者たちは、ただ己の役をこなすだけ。
しかしその刹那の間、些細な動きが複雑に絡み影響しあう。
既に端緒は開かれた。
しかしそれを知る者は、まだいない。
10月24日「砂漠の蝶」に「皐月のけやき」を投稿するというミスを犯してしまいました。せっかく読んでくださった方にご不快な思いをさせてしまったことをお詫びいたします。また、このミスを知られてくださった方、本当にありがとうございました。今後はこのようなことの無いよう、きちんとした管理を行っていきたいと思います。