蝶の戦場 2
「なっ!何故笑われなければならないのですか!」
笑い転げるシンレットに最初はただ目を丸くしていたが、あまりそれが続けば流石に気分が悪い。
「ははは、は…。あ〜、痛い、笑いすぎて腹筋が。くくっ」
「失礼にも程があります!シンレット殿」
「うん。いや、はい申し訳ありません皇后陛下。せっかくのご心配を……」
「そうではありません。心配など、したいから勝手にするのです。それに感謝していただけないから怒るなんて、筋違いと言うものです。
いえ、そうではなく!」
「確かにこれらが皇帝陛下からというのは偽りですが、許可証は本物ですよ。ですから陛下も私が何をする気かはお分かりでしょう。それに」
言葉を区切っていたずらっぽく微笑むシンレットが続けた言葉は、少なくともショウコにとっては予想外のものだった。
「男に一度出したものを引き下げろとは。そちらのほうが余程残酷なお言葉ですよ、皇后陛下」
一瞬虚を突かれたような顔をして、それから花がほころぶようにふわりと笑った。
「皇后陛下、貴女は本当に不思議な方だ」
「そういったご感想を頂くのは、初めてです」
どこがでしょう、とでも言いたげにぬばたまの黒がさらりと流れる。
「陛下はやんごとなきお生まれで、人に傅かれて生活なさるのが当然のお方です。この国にいらした後も、不自由な生活は送っていらっしゃらなかったはず。
それなのにどうして他の姫君とは違うのでしょうね。これらの調度品だって、いやそれ以前に後宮での待遇からして耐えられるものではないでしょう。
そのご気性は、陛下が異国に嫁がれたということにより獲得なさったものでしょうか」
穏やかなだけではないし、優しいだけでもない。聡いことは確かだが、そうだと思えば先程のようなことを真顔で聞いてくる。
精神の釣り合いが取れていないような、何か核となる部分が揺らいでいるような。それが魅力的でもあり、危うくも恐ろしくもある。
「……。」
「申し訳ありません、お気を悪くされたのなら…」
慌てたように首を振る。そのたびに結われていない髪がさらさらと音を立てた。
「そうではないのです。……あの、シンレット殿。お時間はございますか?」
「皇后陛下?」
「その呼び方、変えていただけませんか?勿論、私の立后に反対している方々への牽制というのは承知しておりますが、この場ではあまりに堅苦しいわ」
困ったように微笑むショウコが話をそらしたことは分かっていたが、あえて追求できるほど親しいわけでもない。
「陛下が私のことを呼び捨てになさると言うのなら、私も考えましょう」
そうでなければ釣り合いが取れませんと続けると、それは無理と即答された。
「でもお茶くらいはご一緒していただきたいわ。よろしいでしょう?」
真新しい椅子を勧めるショウコに、シンレットは頭の中で予定の組みなおしをしながら頷いた。
もう少しだけ、この妙な人間と話をしてもいいかもしれない。
シンレットが去った執務室で、レイヴスは一人まとまらない思考をもてあましていた。
第二皇妃であるあの姫を正妃にし、立后させることは政治的決定事項だ。大局をみればそこから得られる利益は莫大であり、瑣末な反対があろうとも変更するつもりはない。
しかしその他は避けようと思えば避けられる事項だと分かっている。
面倒な貴族の対応までして何もあの姫を国政に参与させる必要などないが、それに踏み切れないのは少しでも興味があるからだ。
しかしその興味が具体的に何であるのか、将来的にどう変化するのか。それは全く見えない。この件に関してはシンレットの立場も不明確だ。
自分の苛立ちの原因も分からないまま、レイヴスはくしゃりと髪をかきあげた。
「失礼します、陛下」
「…入れ」
静かに入室してきた近衛兵の手には、大きな箱があった。
「こちらの鷹ですが、いかがいたしましょか。外傷が大きく剥製にすることも難しいと言うことですが……」
「……開けてくれ」
「しかし、不浄のものですので……」
躊躇う様子に構わないと仕草で告げた。
死が不浄というのならば生こそ不浄だ。そこに向かっての旅路でしかないのだから。
兵士が恐る恐る机においた箱を覗き込むと、そこには既に事切れ見事な羽を血で染められた鷹が横たわっていた。
その胸には恐ろしいほど的確に、一本の矢が深々と突き刺さっている。無残な姿に意識せずに眉根が寄った。
この鷹が従ったのはただ一人。それは自分ではない。
力なく横たわるその姿に、何故か過去の面影がだぶる。
「……捨てておけ」
そうでなければ、囚われる。
面影が実像を結ぶ前に、見えないところへ。
「しかし…。よろしいのですか?」
「構わない。犬の餌にするなり竈にくべるなり、好きにしろ」
「お言葉ですが陛下、この鷹は」
「くどい!」
投げやりな皇帝の様子に食い下がった兵も、流石に言葉を失って退室していった。
再び一人になった部屋で、レイヴスは倒れるように椅子に腰を下ろした。久しく感じなかった頭を締め付けるような痛みが、唐突に襲ってきた。
「父上…、貴方は……」
やがてその言葉は広い部屋に滲み、そして消えた。
「皇后陛下は、弓はいつから習われたのですか?」
家具が揃ったばかりの応接間には、華やかな茶の香りが舞う。その湯気の向こうで手ずから侍女の空の器に茶を注ぐショウコに、シンレットは比較的当たり障りのない話題を振った。
正直、いろいろと聞きたいことはある。例えばどうして大臣と皇后(現在は皇妃であるが)が着いている席に、当たり前のように侍女が座っているのか。例えばどうして主であるはずの皇后が甲斐甲斐しく侍女にお茶を注いでいるのか。更には何故二人ともそれを当然のようにしているのかなど。しかしあまりに泰然とした侍女の様子に、何も聞くことが出来ないのだ。
「弓ですか?あれは…国にいた頃に少々」
「あちらでは女性も弓や剣を扱われるのですか?」
暗に、そういったことは聞いていないという声にショウコは苦笑した。
「いえ、弓は神事に使われることが多いので。私が斎宮様…国で神事を司る方のお傍にいたときに」
「では実践向けではないのですね」
少しがっかりしたような声に、それまで黙っていたアオが牙を剥いた。
「当然です!姫様に何をさせるおつもりですか?!」
子犬が飛び掛ってくるような様子に、シンレットは降参とでもいうように両手を軽く挙げた。人を馬鹿にしたようなその態度にアオが声にならないうなり声を上げるが、それは二人いよって無いものとして扱われた。
「滅相もない。ですが、よくそれで迷いもなく射ることが出来ましたね」
感嘆とも呆れとも取れるシンレットの言葉をショウコは笑っていなした。
シンレットの言葉にいちいち反応していては、頭がいくつあっても足りない。どうやら本人もすべてに答えを求めているわけではないらしいということは、話をしていて分かってきた。
「見事な鷹でした。どうして急に暴走したのか……」
「それについて詳しいことは分からないのですが、ドーブに知らせを持ってきたときは普段と変わらない様子だったと言うことです。特に年をとって耄碌としていたわけでもありませんし……」
「では、ドーブで何者かが遅効性の毒でも仕込んだのでしょうね」
あえて言葉を濁したシンレットだったが、その濁した部分をアオはあっさりと口にした。
「……そこまで物騒な話だとは思いたくはありませんが。
先代皇帝陛下が可愛がっていた鷹ですから、皇族に対する反逆とも取れませんし、事によっては皇帝陛下や皇后陛下に害が及んでいたかも知れません。はっきりとするまでは陛下も身辺には十分ご注意くださいますように」
分かりましたと頷こうとしたショウコを制して、アオが再び牙を剥く。
「でしたらケンを姫様の警護につけてください。気をつけろといわれても限界があります」
「…ここは後宮なのですが……」
「そうですよ。でもその後宮に貴方は今いらっしゃるじゃないですか」
「ケン・ショート殿は今のところ兵士として所属が決まっていません。そういった者を後宮の警護につけるには、それ相応の有事でないと難しい」
「後宮の警護ではなく、姫様をお守りするためです。彼は姫様の騎士です」
ショウコが口を挟む間もなく、会話はどんどん進んでいく。
「それに、私からすればこれは十分に有事です!立后を控えた方にこんなくだらない仕打ちをするなんて、何かあってからでは遅いのですから。
こんなことでは、リュミシャールという国の格が知れるというものです!」
「アオ!」
鋭い声に流石にアオも押し黙る。
ショウコはシンレットに向き直ると、非礼を詫びて頭を下げた。
「行き届かず申し訳ありません。私の不徳です」
「お気になさらず。陛下を思ってのことでしょうから」
「お恥ずかしい限りです。ご厚情にお頼みして、聞いていただきたいことがあるのですが」
「何なりと。ご意向に沿えるかは確約いたしかねますが」
「ケン・ショートは武術に優れた者です。お役立ちになることもございましょう。よろしくお引き立てください」
「我が国の兵も刺激を受けるでしょうし、本人の希望も聞いて所属を決めましょう。ご心配には及びません」
ほっとした様子のショウコに、シンレットは紙の束を差し出した。
「これは?」
「お読みいただければお分かりになることですから、お伝えいたしますが……。陛下の立后に異を唱えているものは少なくありません。これはそういったものたちからの皇帝陛下に当てた陳情書です。これらの者を納得させるのは、容易くはないかもしれません。
もちろん出来ることはすべてお助けいたしますが、後宮には手の届かない場所も多い。十分にお気をつけ下さい」
一応信頼できる女兵士を部屋の外に待機させておきます。そう言い残してシンレットは表へと戻っていった。
すこし前回から間が開いてしまいました。申し訳ありません。
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