その者は
正妃が死んだ――。
それはレイヴスにとって『他の者を立てなくてはならない』というだけのことだ。
長い間まともに顔も見なかった女。儀式のたびにベールを被った姿は横にあったが、それが本人だったのかはわからない。
気位ばかり高くて可愛げなど欠片もない、形だけの正妃。最後に閨を共にしたのはいつだったか、思い出すことも出来ない。
それでも血統は申し分なく、実際に彼が求めたことはそれだけだった。
国が正妃に求めたものも又、それだけだった。
愛したことはないし、相手もまた然り。自分に愛情を持ったことなど無かっただろう。
所詮は政略結婚だ。初めて華燭の儀で顔を見た相手に、愛情など持てるはずもない。
だからあえて黙認した。
正妃が他の男と楽しむことを。薬に溺れていくことを。
閉鎖的な後宮の中で、そのくらいの楽しみを与えることはそれほど罪ではないはずだ。籠の鳥の運命ならば、せめて籠の中では自由にすればよい。
他の男と子さえ成さなければ、それでよい。
死因が薬の中毒であったとしても、責める気になどなれなかった。面倒なことをしてくれた、生家に何と伝えるべきか、頭をよぎったのはその程度のことだった。
正妃の死を迎えて感情がまったく揺さぶられない自分にため息をつく。
感情さえも頭で制御できるようになって、どれくらいになるだろう。最初は、便利だからそれを覚えた。次第に切り替えが出来るようになり、いつしか切り替える必要性を感じなくなった。
「陛下、お疲れのようですよ」
「……シンか」
「お休みになられてはいかがですか?皇后陛下の葬儀の準備も終わったことですし」
「まだ仕事が残っている」
ばさりと書類の束を卓上に投げ出す。その投げやりな様子が『皇帝』から『レイヴス・シャルディア・リュミシャール』個人へと変わったことを告げている。
近頃はどんどん私人として過ごす時間が短くなっている。いつかレイヴスという個人がいなくなるのではないか、時にそんな危機感を覚えることがある。
しかし国はレイヴスそれを求めている。少なくともそう感じている。
だからせめてシンレットはそれに歯向かう。幼い頃からともに育った友人を失くさないために、レイヴスが個人として振舞うときには名前を呼びかけるのだ。
「ひどい顔だぞ、レイ。見れたもんじゃない」
「お前に言われたくはない。そっちも徹夜続きだろう」
「まぁ……ねぇ」
気安い会話を続けながらも、皇帝の疲れが肉体的なものではないことはわかっていた。
褐色の肌に金の髪。ルビーの赤と血の紅の瞳を持つこの国の若き皇帝の体力は並ではない。
必要となれば軍隊の最前線で戦う者が、この程度でこんなにも疲れるはずはない。とすれば、この疲労は精神的なものだろう。
「面倒な仕事なんて、大臣に押し付ければいいのに。但し、僕以外で」
「面倒と言う程でもない。ただ、気が重いだけだ」
「なら余計に、僕なら誰かに押し付けるね」
「最年少大臣の名が泣くな」
こんなことを言いながらも、この幼馴染で今は政治的な右腕でもあるシンレット・トリスバールが有能な政治家であることは間違いない。口で軽薄なことを言っても頭の中では常に冷静な状況判断が行われていると知っている。
きっと今も、自分が疲れている原因を探っていることだろう。自分でも明確でないことが、意外と他者から見ればあからさまなのかもしれない。それは恐ろしいことではないだろうか。
「で、レイ。残ってる仕事って何?」
「次の正妃を定めて、立后の儀を執り行なう」
「なんだ、そんなこと?」
呆れた様子でシンレットは続ける。
「あのねレイ、君何人の皇妃がいると思ってるのさ。側室合わせたら僕にも把握できないよ?順当に第二皇妃が立后すればそれで済む話でしょ。それとも何?身分の低い側室を皇后にしたいとか言い出すの?」
まさか君が。と当たり前のことを子供に諭すような調子で口にする。
そのまさかがあれば面白い。
慣例に逆らってまでレイヴスが欲しいと思うモノがあるのなら、自分は何を差し置いても望みを叶えようとするだろう。
しかしそんなことはない。レイヴスは何も欲しがらない。
「そのまさかだ……と言いたいところなんだが、違うな。その『第二皇妃』が問題だ」
「第二皇妃?」
予想通りの僅かな落胆を隠して誰だっけ?と首をかしげる。後宮の内部事情はあらかた把握しているつもりだが、個人の顔まではさすがにわからない。彼女たちは皆、『皇帝の所有物』だ。他の男の目に触れるなど、原則あってはならない。
「……オースキュリテの、姫だ」
「オースキュリテの………『忘らるる姫君』」
オースキュリテ。
このリュミシャールと世界の勢力を二分する大国。海を越えて遥か東の、水と闇の国。
熱と光の国と言われるリュミシャールとは、長い間覇権を巡って穏やかでない関係が続いていたが、10年前に先代が交わした約束によりその不和は少なくとも公には解消された。
その約束こそレイヴスとかの国の姫君の結婚。そしてレイヴスの弟とかの国の姫君の結婚だ。レイヴスの弟は海を渡ってオースキュリテへ旅立っていった。
レイヴスの弟も、この国へやってきた姫君もいわば人質。その価値は計り知れないだけに扱いにも気を使う相手だ。
しかしその姫がこの国で脚光を浴びたことはない。
思い出してみれば十年前の婚儀こそ華々しく行われたが、『存在してさえいればよい』姫がその後どうなったかは関心を払っていなかった。
今となっては一年に数度、相手国の大使を迎えるときに名前が上がる程度。
ついた通り名が『忘らるる姫君』
「そりゃまた面倒な。でもお姫様を飛ばして第三皇妃を立后させるわけにはいかないね。オースキュリテからどんな文句が飛んでくるかわからない」
思わず吐き出すように笑った。
和平が成ったといっても、それが恒久的なものと考えるほど誰の頭も目出度く出来ていない。現在の和平は二人の人間の上に危うい均衡で成り立っているに過ぎないと言うことは、誰の目にも明らかだ。
だからこそ危険をはらむ可能性があるものは、虱潰しにしていかなければならない。
「そんなことはわかっている。だから『気が重い』と言ったんだ。近々迎えに行かなければならないな……」
「後宮にいるんじゃないの?」
「ドーブのオアシスに立てた離宮にいるはずだ……逃げ出してさえいなければだが。この国に来てからずっとな。この城の奥にいたのは最初の数日だな」
「そりゃまたなんで」
「『面倒』だ。習慣も宗教も文化も言葉も全てが異なる。共に生活すれば衝突は避けられない」
それに、と続ける。
「オースキュリテの帝が出した要望の一つだ」
「随分と愛されたお姫様だねぇ」
あきれたように嘆息する。
普通、皇帝との子をなして自分の血て相手国を支配したいと願うだろう。それなのにかの姫君はその責務を負わされていない。それがどれほど守られ甘やかされていることなのか、その姫君は把握しているのだろうか。
「で、レイどうするのさ」
「あくまで『要望』だ。無視するさ。あちらも代替わりしているからな、今も先代の意思が生きているとは限らないだろう」
「妥当だね。で、お姫様の名前は?」
レイヴスは極めて事務的な、何の感情もこもらない声でその名を告げた。
「ショウコ・リーデル・オースキュリテ」