蝶の戦場
敵の侵入に備えて複雑な造りをしている表に比べて、後宮は比較的単純な造りをしている。厳重な扉を隔てて最も皇帝の居室に近い位置に皇后の部屋、そこから更に中庭を隔てて皇后の居室と向かい合う形で皇妃の部屋がある。その奥は側室の部屋やそれらに仕えるた者の部屋が並んでいる。
その他に共有空間として広間があり、何かあるときはここに集まることになる。
後宮に足を踏み入れたショウコがまず通されたのも、その広間であった。
その光景は少々異様ではあったが。
「これ、は…」
横に控えるアオが声をなくすのに対して、ショウコはまぁこんなものだろうと醒めた思考を廻らせる。
第三皇妃以下がショウコの立后に反対している。
その事実しか知らされていなかったが、それだけで十分でもあった。それさえ知っていれば説明がつくし困惑もしない。
第二皇妃の帰還のために設けられた席を、皇妃として正式な地位を持つ者全てが欠席した。
これだけ露骨なことをされれば、逆に覚悟も出来るというものだ。
「ショウコ様、いかがいたしましょう?」
暗に皇帝に告げるかと訊ねるアオを制して、ショウコは側室達がひれ伏す前まで進んだ。後宮はその性質上規律が乱れやすい。それをどうにか抑えているのが厳然たる地位による区分だ。今回も皇妃の席と側室の席の間には広く隙間が設けられていた。
「どうぞ、顔を上げてください」
どこまでも柔らかく声をかける。
一応この場に出席している者たちでさえ、決して自分を認めている訳ではない。
大方の視線が自分に向いたことを確認して、ふわりと微笑み礼をとる。流れる髪の一房の動きにまで注意を払い、最大限の効力を。
「お初にお目にかかります。ショウコ・リーデル・オースキュリテでございます」
空気が僅かに変化したことを肌で感じる。
側室たちもそれに従う女官たちも、まさか第二皇妃が自分たちに礼をとるなど考えもしなかったのだろう。あっけに取られたような顔が並ぶ。
言葉の通じない異国で、人々の仕草や視線、僅かな表情の変化から空気を読み取ることは幼い頃の処世術だった。
「長きに渡り留守にしておりましたが、今回皇帝陛下とともにこちらに戻ってまいりました。皆様、どうぞお見知りおきくださいませ」
態度は柔らかく友好的に。しかしただ単に下手に出るのではなく、オースキュリテ内親王という血統と皇帝に認められた存在だということを相対する者の意識に植えつける。
制度は人を飼いならす。
ならばこの後宮の制度は、地位と血統。そして皇帝。
使えるものは使って、何が悪い。
言外に示されたものによって、向けられる視線に若干の変化が生じたことを確認して、ショウコは一応の手ごたえを感じた。
「女官長、部屋へ案内していただける?」
流石に移動で疲れたと続けると、この言葉にはじかれるように年配の女性が前に進み出てきた。
「至りませんで申し訳ございません。私が女官長を勤めさせていただいております、ダフレと申します」
平伏して謝罪を口にする女官長に対して、ショウコは内心苦笑する。
身体を清めてとりあえず休みたいのだが、その意図を汲み取ってもらえないのだろうか。
長々と続く謝罪に疲れも相俟っていい加減苛々してきたとき、側室たちの列の最後尾にいた女性が立ち上がった。
「女官長様、皇妃様はお疲れのご様子。いまは取りあえずお部屋にご案内してはいかが?」
妖艶な微笑を浮かべた黒衣の美女が、豊満な胸を持ち上げるように腕を組んで立っている。匂い立つ様な美しさは毒と知りつつも口に含んでしまいたくなる蜜のようだ。
その姿を認めた女官長の顔が嫌悪に歪むのを、ショウコは見逃さなかった。こちらへ、と歩き始めた女官長に頷きながら、黒衣の女の口が「またね」と動くのを視界の隅に捉えた。
案内されたのは、第二皇妃の居室だった。
ここは様子を見るべきか、それとも仕掛けるべきか。逡巡して、遠くからこちらを伺う気配に態度を固めた。
「どうしてこちらのお部屋なの?」
「…、と、申しますと?」
「確かに今の私は第二皇妃ですけれど。近日中に立后の儀があることは決まっておりますもの。何度も引越しをするのは面倒ですから、あちらのお部屋に入りたいわ」
あくまでも無邪気を装って、ショウコは皇后の居室を指した。
「それは…、あちらはまだ調度品が整っておりませぬゆえ」
「細かいものはいらないわ。近く届く手はずになっているの。大まかなものさえあれば十分よ」
そう言ってショウコはアオを引き連れて歩き出した。
明らかに慌てた様子の女官長に、心の中で謝罪する。ここで弱腰の態度を見せるわけにはいかない。
「皇妃様、お待ちください!」
「それにね、女官長」
にっこりと笑って、振り返る。通路の奥で耳を欹てる人間にもよく聞こえるように意識した、明朗な声で。
「第三皇妃様方も、はやく引越しなさりたいんじゃないかしら?」
私がこちらに入れば、すぐに引越しが可能でしょう?第二皇妃の部屋に。そう言外に言い含める。
アオが諦めたように横でわざとらしくため息をついた。あとで美味しいお茶でも淹れてあげよう。これから先迷惑をかける分の前払いとして。
「姫様がご所望です。こちらの扉を開けてください」
一歩前に進み出たアオが毅然と言い放った言葉に、女官長はのろのろと従った。
一歩踏み込んだ室内を見て、流石にこれは予想以上だとショウコは唖然とした。それはアオも同じだったらしく、横で小さく「浅ましい」と母国語でつぶやいたのが耳に入った。
「これは、凄いわね…」
部屋の中には何もなかった。
小さな家具は言うまでもなく、備え付けのものまで。
取り外せるものは全て外し、そうでないものは壊した形跡がある。説明を求めるようにアオが振り返ったが、女官長は縮こまるばかりで何も話そうとはしなかった。
背後から聞こえる忍び笑いから、大方の展開は予想できる。おそらくは亡くなった正妃に仕えていた者たちが、形見としてあるいは報酬として小さなものを持ち去ったのだろう。そして大きなものは、悪意を持って壊されたとしか思えなかった。国の財産であるはずのものを、自分の主張を通すためにあるいは個人に対する嫌がらせで破壊する。それほどショウコの立后に反対しているのだという示威行為だ。そんなことが後宮ではまかり通る。
徐々に大きくなるくすくすという笑い声に、こみ上げる不快感をやり過ごそうとしていたとき、ここ数日で聞きなれた声がかけられた。
「ああ、撤収は終わりましたか?」
「シンレット殿」
後宮に何故、という疑問が顔に出ていたのだろうか。ひらひらと一枚の紙を手渡された。
「許可証?」
「ええ。この国の後宮は完全に閉鎖されたものではありません。皇帝陛下の許しがあれば昼間ならば男が中に入ることも可能です」
さて、とシンレットは室内を見渡した。
「他の部屋も撤収は済んでいますか?」
「……。おそらくは。まだこの部屋しか見ておりませんが」
そうですか、と満足げに微笑むとシンレットは明らかに聞かせる目的で声を大きくして礼をとった。
「皇帝陛下から皇后陛下に、お祝いの品として調度品一切が送られました。運び入れてよろしいでしょうか?」
加えてニヤリと人の悪い笑みを浮かべ、シンレットは振り返って言い放つ。
「後宮の皆様におかれましては、皇后陛下の歓迎のために撤収作業に自発的にご協力いただき、陛下も大変お喜びでございました」
たっぷりと毒が塗り込められた言葉が響く。
その言葉に何人かがばつの悪そうな顔をして去っていった。その中には女官長も含まれていて、それについては呆れてものも言えなかった。
そうこうしている間に、室内は清められて調度品が次々と運び込まれてくる。どれもこれも一目で最高級品だと分かるものばかりだ。
野次馬がいなくなったところで、シンレットが小さく謝罪を口にした。
「何がでしょう?」
「調度品一切というのは嘘なんですよ。大まかなものしか間に合いませんでした。それでさえ間に合わせものもですから、事態が収束したら職人をお呼びいたしますのでご自由になさってください」
「ということはやはり、皇帝陛下からというのも偽りですね?」
「……我がトリスバール家からのご帰還祝いということで、収めていただければと」
その気遣いはとても嬉しい。特に今は相手に付け入る隙を与えたくはなかったから。
しかし。
「どうしました?」
「とてもありがたく思っています。家具も、作り直す必要などありません。すべて使わせていただきます」
「では…?」
「このようなことをお尋ねするのは、シンレット殿に失礼かもしれませんが……。
罰せられはしませんか?先程シンレット殿は皇帝の名を騙られました。もし、少しでも危険があるのでしたら、私は構いませんので訂正をなさってください」
突然真剣な顔をして何を言い出すのかと思えば、そんなことを。
込みあがってくる笑いを押し留めなければ。そう思うのに。
だめだ。面白い。なんだこの女。
「…っ。はは、はははははは!」
舞台は後宮に移りました。どうなることやら手探りです。
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