前世のせいで今世がハードモードな件
長いです。
ある時、神様の声を聞いた覚えがある。
「お前は生まれながらにして悪。前世の業を持っておる。その業、その罪を償うのがお前だ。お前は幸せにはなれない。苦しみ、悲しみ、何度も心を引き裂かれる程の出来事がお前を襲うだろう」
まだ、物心がつく前。話の半分も理解出来て無かった俺は、無邪気に聞きかじった知識で色々聞いた記憶がある。
「でも、じごくってとこがあるからだいじょぶなんじゃないの?」
「人間の作り出した宗教観など、知らぬ。天国も地獄もない。ただあるのは魂の輪廻の流れのみ。穢れや徳などは魂に加算され、次の生に引き継ぐのだ。それが、死後の世界で無くなるなど、傲慢。生き物は生まれながらに平等ではない」
「じゃあ、ダメなひとってずっとだめなの?」
「そこまでは知らぬ。我が決めるのは最初だけ、その後など見てられぬわ」
「だったら、いいや!がんばればよくなるんでしょ?なら、ぼくはよくおかあさんにがんばってるねっていわれるもん!」
そう言って、無邪気に笑ったと思う。その後、神様の声は聞こえなくなった。物心がつく前の記憶など覚えている人など少ないだろうが、何故かこの記憶だけは鮮明に思い出せる。
今思ってもアレが何だったのかはわからない。ただ、わかっていたのが、いわゆる神の言っていた事が次々と本当になっていくことだった。
「ありがとうございました…」
そうして俺、高橋 政が最後の母のお葬式の最後の人を見送った。
歳は20際。親戚もいない中、母を失い完全に天涯孤独となった。
「これも、神様の罰ってやつなのかね」
そう、自嘲げに呟き残った仕事を片付けに戻る。まさか、こんなに若くして母の喪主を務めることになるとは思わなかった。
神の罰、と言ってしまえばそうなのだろう。母の突然死だけではない、全てが理不尽で良い事など今まで生きててあまり無かった。
顔も不細工、運動神経も悪い、力も無い、身長も低い、もうハゲの前兆が見える、物覚えも悪い、人とも上手く話せない、何より陰気で暗い。
これほど、褒めるところが無い人物など今までいただろうか?これが、神の罰の結果なのだろうか?
「そうさ、そうに違いない。俺は、何やったってダメな男にされた…」
高校は一応卒業した。地元で一番の底辺高校だ。小学校の時からイジメられ、毎日の昼飯代すら取られた。家だって金持ちじゃない、それどころか貧乏な所だ。母が忙しく働いているため、弁当を作ってもらえないから貰っているお金。
父は生まれた時から知らない、祖父や叔母の様な人ともあった時はない。何かあって、絶縁したのだろう。なので、母の葬式にも来たのは母の友人や同僚のみであった。
低い身長を更に屈めて歩く、下を向いて歩く。他人の目が怖い、誰かが何か喋ってたら自分の悪口だと思う。被害妄想、なのだということは分かっている。それでも、そう感じてしまうのだ。
「ねぇ!そろそろお昼にしようよ!私、お腹減った!」
「ふふ、そういうと思って。ここら辺の美味しいお店、調べてるよ」
「さっすがぁ!たかくん大好き!」
カップルの声が聞こえる。随分大きい声ではしゃいで彼氏に抱きついている女性。容姿に恵まれて、さぞかし人生楽しいだろう。
「クソが、死ねよ。クソが!うるせぇんだよ、ちくしょう」
小声で、聞こえないように悪態をつく。
「ちくしょう、ちきしょうっ………」
俺だって、神の罰さえなければこんな容姿にも性格にもならなかったはずだ。もっと、それこそ彼女だって出来たはずなのだ。
あいつらは前世でどんな事をしたのだろう?どんな、いい事をすればあんな今世を送れるのだろう。
「みんな、全部、神の野郎が悪い。悪いんだ…」
背中はもう、完全に猫背になった。
「お前!いい加減にしろよ!これで何度目のミスだよ!バイトだからって甘えてんじゃねぇぞ!」
「す、すいません」
ある、お菓子屋さんのバイト中、二つ年上の正社員の田中さんに怒鳴られた。
「お、俺。物覚えが悪くて……」
「物覚えが悪いんだったら、人の倍努力すりゃいいだろうが。んなもん、言い訳にはならない!工場長は許してくれたけど、出来ないんだったら辞めちまえ!迷惑だ!」
「ちょっと、山田さん。高橋くんも、反省してるしこのくらいに」
「チッ!新名さんに免じてこれは許してやる。もう、ミスするなよ」
そう吐き捨てて、持ち場に戻る田中。
「…………………っ」
ギリッと怒りを抑え込むように唇を噛む。なにが、努力すればだ。今まで甘々の人生を生きていて、ちょっと頑張るだけで報われるお前らとは違うんだよ!俺はやるだけ無駄なんだ、ならやらない方が賢いだろ!俺に言うんじゃなくて神様に言ってくれよ!
「あら、大丈夫?唇から血が出てるわよ」
「だ、大丈夫です。マスクするので、それにこのくらいすぐ治ります…」
「そう?無理しないでね?私戻るけど……あの子はいい子なんだけど、言い方がキツイ時があるのよ。あんまり、気にしないでね。ミスなんて誰でもするんだから」
新名さんは、ここで長く働いているパートさんだ。いつもニコニコとしているおばさんで、母が亡くなったと聞いてから親身になってくれている人だ。
「い、いえ。気にしてません」
「ならよかった。頑張ってね」
そう言って持ち場に戻っていく。
「はぁ」
前の仕事は辞めた。自分に合わなかった。そう言って前のバイトもやめた。これも、自分に合いそうにない。
神など信じない無神論者が日本には多いという。馬鹿な奴らだ、神はいるのだ。証拠は俺。神がいなければこんなに不幸な目に合ってない。
バイト終わり、背を丸めて歩く。駅前で人通りが多く色んな人とすれ違う。
要は皆、神の存在など知らなくても大丈夫なくらい恵まれているのだ。俺は違う、何をしても何をやってもダメなのだ。そう、神が決めた。
「馬鹿め、恵まれているだけの奴らが、馬鹿め、何にも知らずに浮かれてやがる。馬鹿……」
この世の真理を知っているのは俺だけなのだ。俺だけしか知らない。他の愚民は、知らずに愚かな努力をするのであろう。馬鹿め。
視線は下に、もう前も見えない。
「イテッ!チッ、なんだテメェ。喧嘩売ってんのか?前見て歩けよ、コラッ」
突然、前を歩いていた人にぶつかり胸ぐらを掴まれる。髪を金色に染めて、チャラチャラした服装のいかにもなヤンキー。
「ん?お前…。高橋じゃねぇか。いい所に来たな…、ちょっとこっちに来いや」
「えっ、いや!助けて!」
そう叫ぶも誰も助けてはくれない。皆目を逸らし、足早に立ち去っていく。
「へっへっ、高校の時と同じだな」
思いだした。こいつ、高校の同じクラスだった俺をイジメていたヤツの1人だ。思い出した瞬間、身体が震えだし、声も出なくなった。
胸ぐらを掴まれてそのまま人目のない、路地裏に連れてこられていわゆる少し前に流行った壁ドンで威圧してくる。
「俺ちょっと金が必要でさ、わかるだろ?ほら?ボコられる前によこせよ」
底辺野郎が!カツアゲなんてまだやってるのかよ。クソックソッ!
「お金なんて無い!今日はもってない!」
「高校の時からそれだな、テメェを脱がせば分かることだ」
「やめっ‼」
今日は給料日だ。15日払いで現金支給。これを取られたら今月生きていけない。
「おっ!なになに?この封筒?中はァ…ひぃふぅみぃやぁ!もっとあんな。いやぁ、助かる。じゃ、貰ってくぜ」
「お願いします!それだけは!それを取られたら今月、生きていけない!」
「知らねえよ。勝手に死ねや」
その一言で、絶望に染まる。
膝から力が抜け、崩れ落ちるようにうずくまる。本当にあれがないと生きていけない。家賃だって滞納してるのだ。今月もってなったら確実に追い出される。第1、明日から何を食べればいいのだ?もう、100円も無いのに。
「あぁ」
もう、死のうかな…。今まで生きてきたけど、何もいいことなんて無かったし、これからもそうだろう。この1ヶ月乗り切ったとして、何かある訳じゃないし。
「これも、全部。何もかも!全て!神のせいだ!死んでやる!くそがァ!」
誰もいない路地裏。頭を抱えて、絶叫。コンクリートの地面を何度も何度も何度も殴りつけ、血が出ても続ける。
「死んでやる、ちくしょう。ちくしょうがっ…」
そう、呟きながらアパートに帰る。結局その日は死ぬ事など無かった。
次の日は日曜日。昼近くに目が覚めた。腹が減って冷蔵庫を開き見てみる。消費期限が過ぎた牛乳。ネギが1本。白米も無い。昨日全部食べきった。
所持金は87円。これで、この1ヶ月乗り切らないといけない。
「ハハハッ、無理だろ。一日だって持たないよ」
笑うしかない。全く笑えないが、笑うしかない。
「死のうかな……」
ポツリと呟く。高校の時からそう思った時は沢山あった。その時は、母の存在がブレーキとなって結局死ねなかったがもう、それもいない。
死ぬ方法など腐るほどある。どうせなら、腹に爆弾巻き付けて沢山の人がいる所で死にたい。そして、沢山の人を巻き添えにして死にたい。どうせ、それによって穢れた魂にが苦労するのは次の人。そこに、俺はいない。
「フ、フフフ」
そう、考えると愉快でたまらない。この世界に何の影響力の持たない、俺が無知で傲慢な奴らを沢山殺せるのだ。そう考えるだけで、笑えてくる。
なんど、高校を爆破してやろうと思ったことだろう。なんど、刺殺してやろうと思ったことだろう。俺をわらった奴を一人残らず殺して殺し尽くしてしまいたいとなんど、妄想した事だろう。
底辺だ。この社会のヘイトを一心に集める底辺。所詮ピラミッド構造、下に負担がのしかかるはあたりまえ。
上等だよ。サリン事件でもなんでも、やってやるよ。もう、ブレーキなんて無いんだ。やってやる。
心が本当に黒く染まって行くのが分かる。そんな中、アパートのドアからコンコンとノックの音がした。
「……誰だ?」
この家には母が死んで以降、誰も来ていない。友人も皆無な為にアパートに来るなど大家さんくらいだ。その大家立ってつい先日来たばかり。新聞かNHKかどちらかだろうか?わからない。ウチのアパートのドアには除き穴が無いので誰か分からないのだ。
また、コンコンっと音がする。
もしかしたら、昨日のヤンキーかもしれない。住所など知らないだろうが、嗅ぎつけてきたのか?まぁ、誰でもいい。どうせ、取るものなどもうなにも残ってないのだ。
ガチャとドアを開ける。そこに立っていたのは。
「よう。忘れもんだ。お前のだろ?これ」
昨日奪われた給料袋を持った田中さんだった。
「へぇー、結構殺風景な部屋だなぁ」
「あの、本当にありがとうございました」
そう言って、小さい卓袱台に座る田中さんにお茶を出し、深々と頭を下げる。
「何言ってんだよ。バイトとはいえ同じ職場の仲間だ。困ってるのを見たら助けるだろ」
その一言に、涙が溢れる。母がいなくなってから初めて人に優しくされた。形容しがたい感情を抑えることが出来ず、涙を手で拭うこともせずに肩を震わせる。
「お、おい。大丈夫か?昨日のヤンキーに殴られた所とかあるのか?」
「ち、ちがっ、ます、す、ません」
「……そうか?うーんと、そうだな。あれだ、お前は溜め込み過ぎなんだよ。嫌な事があったら俺に相談しろ。そのくらいなら、いくらでも聞いてやる」
涙は止まらない。早く泣き止まないと、と思うがよけい涙が溢れてくる。田中さんは、なにも言わない。約2分。ようやく落ち着いた政に微笑みかける。
「落ち着いたか?」
「…はい。もう大丈夫です」
「…二つ年上なだけだけどさ、人生、生きていれば嫌なことなんて沢山あるよ。勿論、それが多いか少ないかは確かにあるけど、でもそれに負けて下向いて歩いていたら余計、不幸に狙われるぞ。虚勢でもいいから前を見て歩け、お前は1回騙されたと思ってやってみろよ」
何故だろう。今の田中さんの一言には、苦労も知らねぇでだとか、愚民の戯言だとかという反発が生まれて来なかった。今までに無いくらいストンと胸に落ちた。
「…うん」
「そうか!よし。長居してもしょうがねぇからな、俺は帰るぜ」
「あ……うん」
正直もう少しいてもらいたかったが、何かあるわけでなし引き止めることはできなかった。お茶を一気に飲み込んだ田中さんが勢いよく立ち上がり玄関に立つ。
「あの、今日は本当にありがとうございました」
ありがとう、ありがとう、そのくらいしか言えない自分に腹が立つ、この感謝の気持ちをこの程度の言葉でしか伝える事が出来ない自分の語彙力の無さ、頭の悪さに。
「いいよ、明日もよろしくな」
「はい、よろしくおねがいします」
「………………………なぁ」
そこで急に黙った田中さん。急に頭を下げる。
「この前は悪かった!ついカッとなって怒りすぎてしまって……あんときはイライラしてて…本当にすまん!」
「えっ!え!いや!田中さんは何にも悪くは無いですよ!ミスしたのは僕ですし!頭を上げて下さい!」
「……本当はすぐに謝ろうと思ったんだが、中々言い出せなくて…。昨日お前の後をつけてたんだ。結局、謝れたのは次の日だ。情けないよ。…ずっといても邪魔だろうからもう帰るな」
「いえ!田中さんならずっといてくれも構わないです!」
「フフッ、ありがとうな。また明日!」
「はい!また明日!」
その挨拶を最後に田中さんが帰っていく。あれほど田中さんを憎いと思っていた感情が綺麗に無くなり、黒く染まりかけた心も元に戻った。
「仕事……もうちょっと頑張ってみようかな」
そう呟いたその顔は母が死んでから初めて笑っていた。
「お、おはようございます!」
「おう、おはよう。今日はミスをするなよ?」
「ハハ、頑張ります」
「お、珍しい。お前が笑うの初めて見たな」
「そう…ですか?」
「あぁ、お前笑わねぇもん。陰気だしよ。嘘でもいいから笑っとけ。人生楽しくなるぞ」
「ハ、ハッ………こうですか?」
「プッ、なんだそれ!顔ひきつってるだけだろ!ハハハッ!あー、おかしい。まぁ、あれだ。要練習だな」
「…そんなに笑わなくても」
「悪い悪い。おっと、そろそろ時間だ。今日も頑張るぞ!」
そして、今日もお菓子作りが始まる。いつもは陰気な顔で入ってくる政に話しかける人など誰もいないか、今日は違う。田中さんとの会話で無意識に表情が緩んでいて話しかけやすくなっていた。
「政くん今日は機嫌がいいね」「政くん!それ取って!」「高橋!これも頼む」
「はい!はい!」
おかしい、今日はいつもより忙しい。声をよくかけられていつもの倍は働いている気がする。それに、何だかミスも少ない。そう、思っていたが理由は分かっていた。
いつもはどうせこんな仕事、意味なんてないと思って真面目になどやらなかった。いつも上の空で、ミスするのはあたりまえ。だけど、今は違う。強ばった肩の力が抜けて、表情も生き生きとして、集中している。
それに、田中さんの言う通り顔を上げたら色んな事が見えてきた。
「おい、高橋!」
ビクッと肩が震える。田中さんがこちらに近づいてくる。マスクをしているから顔がわからない。もしかしたら、何かまたミスをしたのではないかと思い出してくる、
「お前!もう休憩だぞ、一緒に食べようぜ?」
肩を優しく叩かれ、そう言ったのだった。
「今日のお前はよかったな!」
「あ、ありがとうございます」
「あー、いいよ、敬語は。年上っても二つしか違わないし、なんかムズムズするんだ」
「は、はい。分かりました」
「…まぁ、慣れるまででいいよ。どうだ?やってみた感じは?楽しいだろ?」
「は、はい。時間が過ぎるのが早かったです」
「そりゃいい。集中している証拠だ」
そう言って快活と笑う田中さん。手作りだと言うお弁当を頬張りながらニコニコと話してくれる。今まで田中さんとはあまり喋らなかったけれども、田中さんの事を誤解していたようだ。
「ま、最初からやれってことなんだけどよ。これからも頼むぞ?」
「はい、頑張ります」
「あぁ、頑張れ頑張れ。というか、何でお前ってそんなに暗いって言うか、悲観的なの?昔なにかあった?」
「…いや…」
神の事を話したら田中さんは、どう思うのだろうか?危ない奴だって敬遠するだろうか?言い訳するなって怒るだろうか?
そう思う一方、田中さんなら大丈夫だという直感の様な物があった。
「実は…………」
子供の時の神の記憶、その神の予言の到来まで全て語った。
「ふーん、神様ねぇ。確かに、奇妙な話ではあるよな」
「……」
こんなこと、初めて人に言った。どんな反応が帰ってくるだろうか、やっぱり気持ち悪いと思われて終わりだろうか?不安が押し寄せる。
「ま、色々あったし、確かに不安になるような話だけどさ、それから神様の干渉や妨害みたいなのあったの?」
「いや、それは……無いです」
「じゃあ、いいじゃない。それに神様だって、言っているんでしょ?その後の事は知らないって。なら、その後の事は全部お前次第だろ」
「……そう、かも」
「なら、気にすんなよ。ポジティブにこうぜ。お、もう昼休み終わるな。午後もがんばれよ」
そう言って、一足先に休憩室から出ていく田中さん。
「分かってはいるんだよ……。言い訳だってさ…。でも、今さら…。ふぅ、午後も頑張ろ。顔上げて、ニコニコと」
ひとり、呟く。とりあえず、やりきってみよう。そう、初めて思えた時だったかもしれない。
そして、1年の月日が流れる。この1年、田中さんの言っていた事を忠実に守り職場の人との関係もかなり良くなった。
この頃から、少しづつ政に笑顔が増えていき性格も元より明るくなった。また、真面目に集中して仕事をしている姿が評価されてこの店でずっと働かないかという話も貰っている。
「今までの事を考えると信じられないくらい良いことが沢山あったな…」
そして、ようやく自分の心の弱さを素直に認めるだけの余裕が出来た。神の記憶は本当にあった、辛い事も沢山あった。けど、物覚えが悪いのは人の倍やれば人より上手く出来るようになった、不細工だったり、運動神経とかはどうしようもないかもしれないけど、それを言い訳に諦める職種でも無い。
要は全てが言い訳なのだ。今までの自分にかかる不幸は、やりようによってはどうにかなったかもしれない。何もしてこなかった自分は、何かのせいにする資格すらなかったのだ。
もう、黒い考えに染まることもない。もはや、俺には神はいないのだ。後は自分次第。
顔を上げて、背筋を伸ばし、胸を張って歩く。全身に幸福を受け付けるように、不幸をはねとばすように歩く。
もう他人の目など気にしない。気にしてもしょうがない。俺の人生にはなんの影響もしない有象無象どもだ。そう、思ったらとたんに気が楽になった。
「ん?あれ……田中さん?誰かと話してる?」
遠目に誰かと言い争っている田中さんがいた。相手は高身長で筋肉質な金髪のヤンキーっぽい見たみの男の人。
夕暮れ時、人通の少ない道。急に田中さんの腕を引っ張り路地裏に連れ去られていく。何故か、背を丸めて震えながらろくな抵抗も出来ずに引っ張られていく田中さん。
その横顔と目が合った。助けてとは言わなかったが、恐怖に震えるその顔で何が言いたいかは分かった。
「ッ!」
無意識に身体が動いた。合理的に考えればあんな筋肉質な身体をもつ人に勝てるはずが無いし、助けに入るだけ無駄なのかもしれない。
それでも動いた。前助けた時の恩返しとは違う、別の感情で動く。
上着が脱がされて胸の下着が見えていた。その光景を見た瞬間ブチギレる。
「てめぇえええええええ!」
「なんだ、お前?邪魔すんなよ!」
一旦、田中さんから離れてこちらに向き直る。勢いのつけた突進も態勢を崩すことも出来ずに終わり、膝で腹に攻撃を貰う。
「ガハッ」
「お楽しみ中を!何してくれてんだよ!てめぇ!」
身体を丸めて蹴りから顔を守る。
「に、逃げて!逃げて!田中さん!」
その一言に、ハッと顔を上げて上着を持って走り去る。
「あ、まて!………この野郎」
俺を蹴ることを中断し田中さんを追いかけようとするが、足をつかみ走れないようにする。そうしているうちに田中さんの姿が見えなくなる。
「テメェ……覚悟出来てるんだろうなぁ?」
「…………………」
その時の俺の気持ちは、これからくる暴力の嵐への畏怖ではなく、田中さんが無事に逃げれたことによる安心感だけがあった。
「オラァ!クソが!」
抵抗も無駄なため頭を守りながらずっと耐える。約5分間、蹴られ続けてそのうち意識が消えていった。
消える寸前、田中さんの必死な声が聞こえたのは俺の都合のいい耳の幻聴なのだろうか?
事の顛末というか、これらの事件の結果を簡単にまとめる。
監視カメラのようなものが無い路地裏だが、あきらかに暴行を受けたような政。それと、強姦未遂を訴えた田中さん。それらの状況証拠が揃っているので、田中さんが読んできた警察に御用となったようだ。
で、詳しい話を聞くと前に政のお金を取ったヤンキーAが田中さんにカツアゲ動画を撮られていて、お金を返すはめになったのに腹を立てて、ヤンキーBに復讐を依頼したようだ。
田中さんは立派な女性である。男っぽい言動と凹凸のない体から誤解されがちだが、それでも美人な女性である。
このヤンキーBは、どうも危ないヤツらしくて強姦事件をよく起こす事で有名らしい。どこからから、写真を入手しヤルことに決めたのだろう。とても、腹立たしいことに。
常習犯なので、これで完全に刑務所行き決定らしい。ざまぁない。一生入ってろ。
俺は今、病院にいる。幸い保険には入ってるのでなんとかなってるがそろそろ厳しい。バイトも長く休んでしまっている。もともと、規模が大きい所ではないのだ。一人休むだけで大変だろう。
「早く治さないと」
幸い後遺症はない。が、あちこちの骨が折れて全治1ヶ月らしい。正直1ヶ月もこんな所にいると破産だ。
病室に一人。コンコンと扉がノックする音が聞こえる。
「失礼するよ。よう!どうだ?顔色とか良さそうだな。痛むところとか無いよな?何か、欲しい物があったら言ってくれ!何でも買ってやる」
「何にも無いよ。お見舞いに来てくれるだけで嬉しいよ。ありがとうね」
実は田中さんは毎日お見舞いに来てくれているのだ。しかも、果物とかを持参で。横でいつもリンゴとか剥いてくれる。
「そんな……やめてくれ。俺なんて、何度お礼言ったって足りないくらいなのに…」
「たいしたことはやってないよ。結局やられっぱなしだったしね。田中さんが来てくれなかったら俺なんか死んでたかもしれないから。それに、俺なんていなくても田中さんなら逃げれていたかもしれないし」
もしかしたら、邪魔だったかもしれない。そんな思いすらある。いつも気が強くて、腕っぷしだって多分、政より強い。
しかし、田中さんは拳をギュッと握り弱弱しく首をふる。
「……私一人だけだったら絶対に逃げられなかった。怖くて身体が完全に言う事効かなかったからさ。だから、高橋が来なかったら……考えたくも無い。あの時の高橋の声で力が戻ったんだ、だから逃げれた」
「…昔、何かあったの?」
この話をするだけで肩が震え、顔も青い。手が微妙に震えている。気の強い田中さんを知ってる政からしたら尋常じゃないくらいのトラウマでもあるような反応だ。
「…………俺が高校の時、同じような目にあった事があるんだ。そん時は、女子高でもっとおしとやかだったんだぜ?…この前みたいに路地裏に連れて行かれ服を半分脱がされて……隙を見て逃げ出したけど……それから、男の人が怖くなって…でも、普通の人は悪くないから無理矢理トラウマを無くすために、口調を男にしたんだよ。そうしたら、普通に会話出来るようになったから」
なるほど、納得がいった。だから、あれだけ怖がっていたし、口調も男っぽいのも分かった。
「だから、だから、あの、私……」
思い出すだけで、恐怖で涙が止まらないのだろう。口調も俺から私に戻ってる。
「……………」
これに気の利いた言葉の一つでもかけれれば良かったかもしれないが、そんな言葉など一つも出てこない政は黙って震える肩を優しく撫でることくらいしかできなかった。
「……ありがと。だいぶ楽になった。私、もう帰るね」
「あぁ、今日はありがとな」
「お礼を言うのは私だっていってんじゃん」
ハハッと笑い、手を振って帰っていった。
その後、口調が政の前では素に戻っていることに気づき部屋の中で真っ赤になって悶え続けた事は、田中さん一生の秘密だ。
さらに2年が経った。アルバイトから正社員にランクアップし、前以上に生き生きと働き出す政。神の言葉はもう記憶に薄い。そんな、ものはもうどうでもよい記憶だ。人間というのはどうでもいい記憶は無くなっていく。そして、重要な記憶だけ残るのだ。
「ねぇ、政。ここどうする?」
「あぁ、うーん。そのままでいいと思う。けど、ここは……」
結局は、大事な大事な言い訳の記憶だったからずっと覚えていたのだろう。頑張ることもせず、何もしない自分の正当化の為に。もう、そんなものはいらない。そして、大事な記憶はずっと覚えている。つい、このあいだ一生忘れないだろう儀式をすませてきた。
「高橋さん!」
「「はい!」」
報告。田中さんは高橋さんになりました。そろそろ、家族が増えそうです。
完
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