意識することから始まる恋
「和生、おはよう」
朝の通学路を気球のようにフラフラと漂いながら歩いていると、同級生の三崎京介が後ろから声を掛けてきた。
声を掛けてから背中を叩けばいいものの、背中を叩いてから声を掛けるものだからハッとする。
振り返った俺-八鳳和生の顔が余りにも蒼ざめているものだから、京介は気遣う。
「和生、どうした?具合でも悪いのか?」
「いや、別になんともない」
自分でも驚くくらいの力のない声は、何かがあることを判然と示していた。
「おいおい。俺ら親友だろ。何かあったら話せよ」
京介の心遣いはありがたい。
八鳳真白ファンクラブ会員が男子人口の8割を占める我が高校では、俺は嫉妬と逆恨みの対象として四面楚歌状態だった。その中で、京介は数少ない俺の味方だ。俺と対立するよりも俺の親友のポジションにいる方が真白と接触を図れる回数が増えるという京介の下賎な思惑は知っているが、それでも京介の存在はありがたい。
しかし、昨晩の俺に何があったかについては、その親友にだって恥ずかしくて話すことができない。
そういえば、今朝は珍しく真白に会っていない。
何か学校の行事があって早めに家を出たのだろうか。真白は一人で無事に通学することができたのだろうか。いや、まあ、たしかに家から学校までは300メートル程の距離しかないのだが大丈夫だとは思うが、なんか気になる。
そういえば、最近真白はリップを変えたよな。キラキラとした艶やかさが増していて、悪くないよな。あ、たしか駅前に新しくシュークリームの店ができたんだっけ。真白に買ってあげたら喜ぶだろうな。
「おい、和生」
「なんだ京介?」
ゴンッ……
「電柱にぶつかるぞ」
京介が俺に目前の電柱の存在を教えてくれてのは、俺が電柱に頭突きした後だった。
真白が俺の腫れ上がったおでこを見たらどういう反応をするかな。バカにして笑うかな。それとも、心配して手当てしてくれるかな。
そういえば、真白が中学生の頃、真白が階段から落ちて足の骨を折ったことがあったけ。お袋がカンカンになって、「段差を真白の歩幅に合わせないとは何事か!」とかイチャモンをつけて、階段を設計した会社を潰したんだよな。
あ、今思い出したけど、今日は水曜日だから真白のクラスは体育の授業があるよな。だいぶ暑くなってきたが、まだ体育館でバレーボールかな。水泳の授業はまだかな。
「今日の和生、絶対にオカシイぞ」
そんなこと、俺が一番よく分かっている。
今日の俺の脳内はどうにかしている。
今日の真白も相変わらず可愛かった。
後ろで一つに束ねられた髪の緩やかな流線形が美しいし、うなじもとても綺麗だ。白い肌は蛍光灯の光を反射してハレーションを起こしそうですらある。あの頬っぺたはマシュマロのようにふわふわなんだよな。
制服もとても似合っている。我が校の制服の基調となっているスカイブルーは落ち着きのない明るい色であり、とりわけ夏服は「セーラーマー◯ュリー」と他校生から揶揄されるくらいの派手さがある。現役のJKが着てもコスプレ感全開なのである。しかし、真白はそれを完全に着こなしている。まるで一人だけアニメの世界からそのまま飛び出してきたかのようである。
真白の胸の慎ましい膨らみは、見る角度によって消えたり現れたりするホログラム。
というか、真白、勉強に一切興味がないように見えて、授業は真面目に受けているんだな。視線は黒板へとまっすぐに注がれている。横顔が綺麗だ。思わず見とれてしまう。
突然、目の前の景色がスライドした。
教室のドアを開けたのは、俺が高校1年生のときにお世話になった数学科の主任教諭だった。
「おい、八鳳、お前、そこで何をしてるんだ?」
「……え?いや、その、久しぶりに先生の授業を聞きたくて、その……見学していました」
「お兄ちゃん!」
俺の声に反応した真白が席を離れ、廊下の方に駆け寄ってくる。
真白が一歩近づくにつれて早まってくる胸の鼓動に合わせて、俺の頭の中は真白になっていった。そう。真白で真白になっていった。もう理性で抑えられる気がしない。
助かったような、残念なような、俺と真白を繋ぐレールは、数学科主任教諭の巨大な身体によって遮断された。
「お前ら、兄妹仲が良いのは分かったが、ここから先は家に帰ってからやってくれ」
「いや、別に俺は真白とイチャコラしたいわけじゃないんです」
「え、違うの!?じゃあ、なんで廊下からずっと私のこと見てたの?」
「え、見られてるって気づいてたのか!?いや、その、なんというか……真白のことが気になって気になって仕方なくて……」
「嬉しい!毎日廊下から視線を送るのは今までは私の役目だったけど、ついに攻守交代だね!!」
え?今まで毎日、俺は授業中に真白から見られていたのか?衝撃の新事実だぞ?
数学科主任教諭の説教から解放された後も、俺の脳内は真白一色だった。
英語の自由英作文を作る授業では、俺の作った文章の主語は必ず「Mashiro」だったし、古文で光源氏を読んでいるときも、紫の上も藤壺の宮も空蝉も、光源氏の愛した女性の全てが真白の姿形で再現された。
昼食時ですら、俺は真白の影に苦しめられた。
「おい、和生、さっきからアスパラをじっと見てるけど、そのアスパラがどうかしたのか?」
「いや、特に。ただ、なんとなく真白の指に細さが似てるなって……」
「は?」
京介は飲んでいた味噌汁を吹き出した。
「あと、この明太子は真白の唇に見える」
「じゃあ、このデザートの桃は真白のなんなんだ?」
今度は俺が鼻血を吹き出す番だった。
「京介、変な想像をさせるのはやめてくれ!」
「お前が勝手に変な想像をしてるだけだろ!!」
「お兄ちゃん、おかえり!!」
ヘトヘトで帰宅した俺を、真白は玄関まで迎えに来てくれた。
今の俺ならば、真白の普段との些細な違いに気付くことができる。
化粧が僅かだが濃い。もっといえば、リップやグロスは間違いなく帰宅後に、改めて塗り直している。そして、ほんのりとボディークリームの良い香りがする。着用しているエプロンも、真白が所有している中でもっともセクシーなレース柄のやつだ。
食卓に牡蠣や鰻をふんだんに使った料理が居座っているのはあまりにも露骨であり、俺は真白の狙いを全て悟った。
「おい、真白、昨晩遅く、俺に何をした?」
「え?何もしてないよ?」
「正直に言え。就寝前のホットミルクにまた変な薬を混ぜただろ」
「おお、さすがお兄ちゃん、勘がいいね!媚薬その2『意識することから始まる恋』。薬と一緒に私の髪の毛1本をお兄ちゃんに飲ませることによって、お兄ちゃんは24時間私のことを意識せざるを得なくなるの。私のことで頭がいっぱいになっちゃうの」
「なるほどな……」
「好きな人に四六時中想われてるのって幸せよね。お兄ちゃんも楽しかったでしょ?」
「いや、最悪の1日だったよ」
「でも、今のお兄ちゃんだったら、欲望に抗えないでしょ?」
真白はニタリと笑うと、俺に飛びついてきた。
そして、そのままソファーに俺を押し倒した。
真白の身体が俺を押しつぶすように密着する。すごく柔らかい。
俺の頭の中は真白で何も考えることができない状態だった。
そうだな。もう欲望に身を任せることにしようか……
「あれ?お兄ちゃん?」
真白は和生の身体を横に大きく揺さぶったが、和生は一切反応しない。
まさかドキドキし過ぎて心臓が破裂して息絶えてしまったのか、と不安になった真白だったが、和生のスヤスヤという寝音がその不安をぶっ飛ばした。
「え?お兄ちゃん、まさかこんな大事なときに寝ちゃったの!?」
どうやら和生は、真白のフワフワした柔らかい肌が掻き立てる欲望ではなく、フカフカの柔らかいソファーが掻き立てる欲望に正直になることを選んだようだ。
無礼な兄の顔面を思いっきりはたくために手を振り上げた真白だったが、和生の寝言を聞いて気が変わった。
「ふにゃふにゃ……真白、もっとギュッと抱きしめて。真白、真白……」
媚薬の影響で、和生の夢も真白一色で染まっているようだった。
和生を夢から目覚めさせてしまうのはあまりにもったいない。
それに今日の和生が目の下に大きな隈を作っていることに、真白は気が付いていた。きっと、昨晩にホットミルクを飲んだ後、真白のことで悶々として一睡もできなかったのであろう。
「まあ、いいか。使える媚薬はまだ5つもあるし」
真白は和生の横で添い寝をすることにした。
「意識することから始まる恋」
この媚薬を飲んだあなたの意中の人は、何をしていてもあなたのことを意識せざるをえなくなります。食事をしていても、お風呂に入っていても、たとえあなた以外の誰かとの情交の最中であっても、あなたのことで頭がいっぱいになります。ただし、媚薬にあなたの髪の毛を1本混ぜることを忘れずに。それを怠れば、意中の人は自分自身のことで頭がいっぱいなナルシストとなってしまいます。あなたの意中の人は、あなたが心の中を占める割合の大きさに驚き、そこから二人の恋は始まるでしょう。