素直になることから始まる恋
私-八鳳真白がこれから潜入しようとしている場所は、まさしく日本社会の暗部だった。
企業向けの博覧会を想定して作られた巨大な会場に足を踏み入れた途端、私は「ロリコン大国日本」の抱える闇の深さを目の当たりにした。
中年男性を主成分とする人の塊が、途切れることなくホースのように蛇行し、長方形の空間を四隅まで余すことなく埋めている。
列の終着点にいるのは是非とも彼らを裁く閻魔大王であって欲しいが、違う。そこで彼らを握手と笑顔によって捌いているのは、僅か齢11のジュニアアイドル-めいりんなのである。
ここは「国際展示場」と銘打たれた施設であるが、幾ら何でも外国人にこんな恥ずかしい光景は見せられない。
お兄ちゃんの出没するところにはなるべく出没するようにしている私だったが、めいりんの握手会に来たのは初めてだった。
お兄ちゃんが私に隠れてコソコソと出掛けていたから、ということもあるが、何よりお兄ちゃんがめいりんに鼻の下を伸ばしているところを見てしまったら、私の愛器が火を吹きかねないからである。
しかし、この前のダンジョンでのお兄ちゃんのカミングアウトによって、お兄ちゃんが本当はめいりんには興味がないことを知ったため、もう私の嫉妬が爆発することはない。
だから、本日の私のワンピースの胸元に仕込まれている相棒は、銀色のトカレフではなく、媚薬の入った茶色いビンだった。
さて、この会場のどこかにお兄ちゃんがいることは間違いない。
とはいえ、この人ごみの中でお兄ちゃんを探すことは不可能だ。ただ一人、実の妹である私を除いて。
私は目を閉じ、試験官の中の劇薬の匂いを嗅ぐときの要領で、鼻に空気を集めるようにして平手で仰ぐ。
会場全体を覆う加齢臭の中から、私は見事お兄ちゃんの匂いを見つけ出し、その発生源へと向かった。
「お兄ちゃん、こんなところで何してるの?」
「え!?真白!?どうしてここにいるんだ!?」
お兄ちゃんは握手列の最前付近にいた。
お兄ちゃんがたった今あげた悲鳴が耳に届くくらいの距離にめいりんがいる。
「真白、どうしていつも俺の居場所が分かるんだ?もしかして俺の体にGPSでも埋め込んでいるのか?」
お兄ちゃんは知らない。妹という生き物は、1000億倍に希釈したお兄ちゃんの匂いですら嗅ぎ分ける能力を生まれつき備えているということを。
「っていうか、真白、ちょっとだけ待ってくれ」
「なんで?」
「そろそろめいりんと握手する番なんだ。3時間も並んだんだから、頼むから邪魔しないでくれ」
「でも、お兄ちゃん、この前、ブスりんみたいなブスな子供のことを好きになるわけないだろ、とか、ブスりんのポスターにキスをすることは吐き気との戦いだった、とか言ってなかったっけ?」
「おい!!ここで大声でブスりんブスりん言うな!!めいりん本人に聞こえたらどうするんだ!!!」
お兄ちゃんは相当焦っている。
その証拠に、「ブスりんブスりん言うな!!」というお兄ちゃんの声こそが一番大きくて、確実にめいりんの耳に届いている。
「ほら、そろそろ握手だから、さっさとあっち行け!!あとで構ってやるから!!」
私は徐に自分の胸元に手を突っ込んだ。
列に並んでいる周りのめいりんヲタク達から感嘆の声が上がる。
「すげえ貧乳。めいりん並だわ……」
一瞬disられているのかと思ったが、おそらくはJSに群がる彼らが述べる「貧乳」の2文字は最大の賛辞なのだろう。あまり良い気はしないが、私がここでカッときて彼らの誰かを蹴飛ばしでもしたら、彼らのような変態にとっては「ご褒美」になってしまうことが明らかだったので、グッとこらえ、私は茶色いビンをそのまま胸元から取り出した。
「お兄ちゃん、このビンの中に入ってるものを飲んでくれたら、私、お兄ちゃんがめいりんと握手するの邪魔しない」
「分かった。飲む」
お兄ちゃんは私の手から媚薬を分捕ると、そのまま一気に口に運んだ。ビンに巻かれた濃い緑色ラベルは如何にも毒々しかったが、お兄ちゃんはそれを気にしている暇すらなかったようで、ビンの中身を飲み干すやいなやめいりんの眼前へと向かった。
「ああ、クロウ・クルワッハさん、今日も来てくれたんですね!!」
めいりんは見た目よりもさらにあどけなくたどたどしい喋り方で、お兄ちゃんに挨拶をした。
…ん?クロウ・クルワッハさん?
今、めいりんはお兄ちゃんのことをクロウ・クルワッハさんって呼んだよね?もしかして、めいりん現場でのお兄ちゃんのファンネームってクロウ・クルワッハなの?たしかクロウ・クルワッハってケルト神話に出てくる暗黒竜だよね?お兄ちゃんってもしかして厨二病なの?
「ああ、今日も嫌々来てやったぜ。蕁麻疹が出るから、本当はブスりんとは握手したくないんだがな」
「え?」
めいりんは、熱心な追っかけであるはずのクロウ・クルワッハさんことお兄ちゃんの豹変ぶりに、まん丸の目をさらにまん丸にさせた。そこにあっという間に涙の水がたまり、あっという間に決壊して大洪水が起きた。
「おい。ブスりん、泣くなよ。化粧が落ちたらただのクソガキになっちゃうだろ」
「ヒ…ヒドイよおぉ、わあぁぁぁぁ」
めいりんはお兄ちゃんから逃げるようにして、握手ブースから走り去った。
会場がざわついている。
みんなの大切なお姫様を泣かせたお兄ちゃんに対しては怒号にも似た野次が飛ぶ。
さすがの私も、11歳の女の子に対して、面と向かってあそこまで暴言を吐くのは正直どうかと思う。
私は、床に転がっていた媚薬のビンを拾い、緑色のラベルに大きく書かれた文字を改めて確認する。
「素直になることから始まる恋」。
そのまま裏面の説明書き部分も確認する。
「この媚薬を飲んだあなたの意中の人は、偽りを捨て、本音を全て晒け出すようになります。奥手な人、天邪鬼な人にぜひこの薬を飲ませましょう。あなたの意中の人は、心の中でずっと燻っていたあなたへの想いを吐き出し、そこから二人の恋は始まるでしょう」。
この薬の効果が本物であることは、群衆からの降りかかる罵声に対して、「黙れ、ロリコンども」とすごんでいるお兄ちゃんを見ても明らかだ。
「俺らはロリコンじゃない。JSだけじゃなくて、JCもJKもイケるぞ」という群衆の誰かからの反論に対して、「それをロリコンって言うんだよ!」と鋭くツッコんでいることからはなお明らかである。
お兄ちゃんはめいりんに対しても、めいりんのヲタクに対しても本音を晒け出していた。
生でめいりんを見るのは初めてだったが、国民的アイドルだけあって、私ほどではないが、結構可愛かった。
さすが最年少で月9ヒロインを演じただけはある。小学生と消防士との純愛というかなりアクロバティックな脚本を書かせてしまうだけの魅力がめいりんにはある。
そのめいりんを捉まえてあれだけ容赦なく「ブスりんブスりん」言えるのだから、おそらくお兄ちゃんは私以外の女は全員ブスだと思っているのだろう。媚薬のおかげで一つ良いことを知れた。
ただ、「素直になることから始まる恋」が本領を発揮してくれるのはこれからだ。
この媚薬はきっと私とお兄ちゃんをベッドまで誘ってくれる。
ただし、今はそれどころではない。
私は今にも一騎当千でめいりんヲタク達と正面衝突しそうな勢いのお兄ちゃんの手を引き、会場の出口に向かって走り出した。
会場からだいぶ離れて、追っ手がもはやついてきていないことを確認した私は、本題を切り出した。
「ねえ、お兄ちゃん、これから私とホテルでエッチしよう?」
「嫌だ」
「え?」
一体どういうこと?薬の効果が切れるまでまだ23時間以上あるはずなのに。
「お兄ちゃん、私のこと好きじゃないの?」
「好きだ。大好きだ」
「じゃあ、エッチしよう?」
「それはできない」
「どういうこと?」
「真白、俺は例のダンジョンでも言ったはずだ。俺は真白を愛しているがゆえに真白を抱きたくない、と」
「それがお兄ちゃんの本音なの?」
「ああ、そうだ」
「私とエッチしたくないの?」
「したいけどしたくない」
「それが本音?」
「ああ、そうだ。めちゃくちゃしたい。でも、絶対にしたくない」
どうやらお兄ちゃんは「本音」そのものをだいぶ拗らせてしまっているようだ。
「でも、セックスレスの兄妹なんて、仮面兄妹だとは思わない?」
「言ってる意味が分からない」
「それ、本気で言ってるの?」
「ああ、『仮面兄妹』の意味が本気で分からない」
やはり我が兄は想像以上の曲者だった。
決して一筋縄では行かないようだ。
「素直になることから始まる恋」
この媚薬を飲んだあなたの意中の人は、偽りを捨て、本音を全て晒け出すようになります。奥手な人、天邪鬼な人にぜひこの薬を飲ませましょう。あなたの意中の人は、心の中でずっと燻っていたあなたへの想いを吐き出し、そこから二人の恋は始まるでしょう。