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博士は初恋の夢を見る

作者: 涼暮月

 彼は栄耀栄華を手に入れた。

 彼の功績は最大限の称賛を以って迎えられた。莫大な富も手に入れた。

 しかし――本当に欲しいものは手に入らなかった。


 天才とは早熟である。

 若干十八で博士号を手に入れた彼もその例にもれず、そして彼自身もそのことをよく知っていた。だから、彼は天才性を失う前に自分の研究を完成させなければならなかった。

 天才が早熟であっても、だからといって年老いれば研究ができなくなるわけではない。代わりに豊富な経験が武器になる。しかし、彼が求めているのはそれでは駄目だった。

 天才は多才である。

 彼の専門は一応人工知能ということになっていた。しかし、彼はそれに限らず、機械工学、材料工学から果てには文学、芸術に至るまで、専門家としての技術と知見を手に入れていた。彼を知る者は、彼は人間を超えた何かであると囁き合った。それは称賛であり、畏怖であり、そして誹謗であった。

 多才なことは彼にとって幸いだった。彼がやりたいことは、到底一分野の専門家では成し遂げられないことだったし、彼が追い求めることを他の人が容易に賛成してくれるとも思えなかった。


 彼が行っているのは人工生命の研究だった。人工生命といっても怪しげなオカルトの研究ではなく、端的に言えばアンドロイド、自律型機械人形の研究である。研究というよりも製作と言った方が早いのかもしれない。

 人間同じ反応をする人工知能、外見は全く人間と同じボディ、エネルギーは人間と同様食糧から接収し、水分を摂取する。

 見た目だけではない、反応も、行動も、あるいは知覚に至るまで、完全に人間と一緒のそれを作ろうとしたのだった。

 違うのは、母親の胎内にいたことがないということと、成長しないということ、そして人間よりもずっと寿命が長いことだろうか。

 彼は十六歳の冬に、それを自分の手で作り出すことを決意したのだ。

 そして、二十三歳の冬、彼はそれに成功した。


「博士」

 世界でもっとも有名な博士になった彼は道行く中でそう呼ばれる。彼はそれにうんざりした。それだけではない、数多のメディアの取材も、様々な一流の大学や研究機関からの招聘も、多くの巨大企業からのビジネスの打診も、すべてがうんざりだった。

 彼は山奥に広大な土地を買って邸を構え、そこに隠棲してしまった。彼が作りだした機械人形の生産ライセンスをいくつかの信頼できる企業に与えて、自身は最初に自らの手で作り出した機械人形以外の全てを捨てて、若くして世捨て人になったのだった。


「僕が作ったものは人間と代替できるものではない。人間より上位な存在、経済学の用語を使えば上級財だ。代替財だなんて、過小評価も度が過ぎる」

 彼は邸に引っ越してきた最初の日に、たった一人の知的な存在である、彼が作りだした機械人形に対してそう言った。

「それは私が人間より上位の存在だということでしょうか」

 機械人形の彼女は首を傾げて問いかける。それはひどく人間らしい仕草だった。

「そうさ、悠夏。君は老いない。それだけでも僕より素晴らしい」

「しかし、博士は私よりずっと素晴らしい存在であることを、私が知っています」

 彼はその言葉には答えず、ただ目前としてグラスに注がれた葡萄酒に口をつけた。


 世界で初めての自律型機械人形である彼女を、様々な研究機関、あるいは好事家が譲ってほしいと彼に申し込んだ。中には一千人の人間が生涯かけて稼いだ額に匹敵するような金額を提示した者もいる。しかし、彼はそれに対してかたくなに、決して、首を縦に振ることはなかった。

 彼が欲しかったのはまさしく彼女だった。十六歳の冬に決意したのはその実自律する機械人形を作ることではなく、たった一つの存在を作ることだった。それを達成した彼にはもはや目標は存在しない。彼女と共にゆっくりと生き、そして彼だけがゆっくりと老いていくことを希望した。

 彼が自律型機械人形の製法を独占しようとすればあるいはその態度は大きな軋轢を生んだだろう。しかし、彼が望んだのは、彼が残した業績と比較してかなりささやかなものだった。彼一人が一生をかけても使いきれないような金額は、しかし、この自律型機械人形が生み出す価値と比べれば、一握の砂にしか過ぎない。


「久しぶり、悠夏」

 彼女がこの世に生を享けて――尤も厳密には生きていると言えるのかは分からないが――初めて聞いた言葉はそれだった。

 彼女の中の記憶は、久しぶりという言葉が初めて合った人間には使わないことを教えてくれた。

「いいえ、はじめまして」

「いいや、久しぶりでいいんだよ、悠夏」

 そう言って、彼がそっと肩を抱きしめた時、彼女の記憶はこれが愛情表現であることを教えてくれた。しかし、それに対して、自分がどうすれば良いか、ということまでは教えてくれなかった。

「十六の冬以来だ。やっと会えた、悠夏。もう僕は君を離さない」

 彼は困惑する彼女を意にも介さず、誓いの言葉を口にした。悠夏という言葉を、噛みしめるように。

「僕は君のことが大好きだったんだよ。今もそうさ。僕は君のことを忘れたことはないし、決してこれからも忘れない」

 彼は彼女に話しかけながら、しかしどこか虚空に向かって話していた。

 それが彼女の初めての思い出だった。そして、それからしばらくしない内に怒涛の群衆に晒され、そしてその後すぐに山奥に引っ越すことになるのである。


 彼女の外見は十五歳ほどであろうか、少女と呼ぶのにふさわしいものだった。

「君は僕の恋人だったんだ」

 山奥に引っ越してからしばらくして、彼は彼女にそう言った。

「正確に言えば、君のモデルは、かな」

「その人はどうなったのでしょうか」

「……死んだよ、僕が十六の冬に」

「申し訳ありません」

 本当に申し訳なさそうに、心なしか背中を縮めて、彼女は謝った。どこまでも人間らしい挙措だった。

「いや、いいんだ」

 彼はそう言って彼女の肩まで伸びる髪を指で梳かした。

「君は優しい娘だね、悠夏。君は悪くないよ」

 優しく、いつくしむように、彼は彼女の髪を撫でた。


「タクは頭いいし優しいし、私の自慢、誇りなんだ」

 かつて彼の大切な人はいつもそのようなことを口にした。そして、それを女子相手に言う時には、いたずらっぽい笑みを浮かべて、片目を閉じて付け加えるのだった。

「だから渡さないよ」

 彼とその人は幼いころから共にいて、いつの間にかお互いを意識し始めて、共に人生を歩むことを決めたのだった。

 表情がころころ変わる娘だった。すぐに笑い、すぐに泣き、すぐに怒り、すぐに悲しむ。

 一生懸命生きる娘だった。小さなことは懸命に、大きなことはもっと懸命に。

 歌がうまい娘だった。彼女の歌声はさながら大聖堂に響き渡る天使の声のよう。

 なにより――恋に全力な娘だった。等身大の自分を、彼にぶつけてくる娘だった。

 はにかむ顔が好きだった。笑った顔が好きだった。怒った顔も好きだった。真面目な顔も好きだった。

 泣いた顔も、悲しむ顔も、愛らしくいとおしかった。けれど、彼は好きではなかった。

「君がいない人生なんて、プレゼントのない誕生日だよ」

 分かりづらい表現をして、その人は照れ笑いを浮かべていた。

 彼はその気持ちに応えるように、そっと優しくその人の頬に手を差し伸べた。やわらかでなめらかな頬に軽く触れ、そっと唇を重ねた。


 十六の冬、彼は喪失を経験した。彼の知らないところで、大切な人が冷たい骸になっていた。

 伝えたくて伝えられない想いというものがあった。葬式の日に、その人の想いを手紙の形で受け取った。懸命に書いて、消して、また書いて、そういった苦労が見えた手紙だった。手紙は渡すために書くものだけど、それは渡そうと思っても渡せなかったのかもしれない。

 ずるいな、と彼は思った。自分にだって、言いたかったけど言えなかった想いがある。その人は、それをきかずに、自分だけ言葉を遺して、もう会えないところに行ってしまった。

 しばらくして、心が喪失を受け入れた時、そのことに気付いた。

 きっとまさにその時だろう。彼がその人にもう一度会うためにその後の人生を全て捧げると決めたのは。


 彼女はかいがいしく働いた。彼女を作りだした彼が驚くほどにしっかりと働いた。

 邸の掃除、彼と彼女が食べるための料理、庭仕事、そういった彼と彼女が暮らしていくためのありとあらゆることを行った。

 その人と全く同じ容姿をした彼女は、しかし、彼にとっては全く別の人に思えた。

 問えば答える。触れれば驚く。

 しかし、そのたびにその人とは別の存在なのだと思ってしまう。

 人は神にはなれない。彼はそのことを痛いほど思った。彼も神ならぬ人の身だ――死んだ人を生き返らせることはできない。


「アンドロイドに仕事を奪われた人たちが各地で暴動を起こしています――」

 テレビのニュースは彼の罪を報じていた。しかし、彼にとっては関係のないことだった。

 彼のことを恨む人は多いはずだった。だが、彼は平穏無事の生活を彼女と共に享受していた。

 山奥の邸にわざわざ誰が来るだろうか。既に彼の名前は半ば忘れ去られていた。

 隠棲した人の名前を覚えていられるほど、社会は緩慢ではなかった。変化は急激で、すぐに以前のことは忘れてしまう。

 彼は世間の激流を尻目に、本を読み土と戯れ彼女と語った。彼が思い描いた幸せとは程遠かったけど、しかし、彼は自分の心を慰めることはできた。

「悠夏」

 彼は大切な人の名を呼ぶ。

「はい、なんでしょうか博士」

 大切な人とそっくりな、しかしどこかが決定的に違う彼女がそれに応える。


 世間の流れがどうなったかは分からない。たまに聞くテレビを総合すると、人々は働かずに、自律型機械人形が働く世の中が来たらしい。革命がどうの、資本の国有化がどうの、という話もしていた気がするし、破壊された街が画面に映ることもあった。

 しかし、彼の研究がどのような結果を招いているのか、彼は全く興味がなかった。

 気づけば老いていた。しかし、彼女はかつてと全く同じ姿で彼に微笑みかける。彼女が彼に話し、語り、笑み、触れるたびに、彼は彼女が最も自分が欲しいものではなかったことに気づく。

 人は神ではない。全てを思い通りにすることはできない。大切な人を自分で作ることはできないのだ。

 紛い物と共に生きる安寧。しかし、彼はそれもまた良しとすることができた。

 本物が絶対に存在し得なければ、紛い物こそが本物になれるかもしれない。

 しかし、それでも怖いのは、紛い物を本物だと間違えてしまうことだった。

 彼は決して彼女に名前を呼ばせることはなかった。ただ博士と呼ばせていた。それもきっと、紛い物を本物と間違えないようにするためだったが、杞憂だった。

 結局、彼女とその人は全く違う。外見は同じでも、あるいはどこまでも挙措が一緒でも、どこか何かが決定的に違う。

 自分はきっと十六の冬で本当は死んだのだ、と彼は思う。それ以降の人生は、箱庭で見る小さな初恋の夢なのだ。

 比翼の鳥、連理の枝。片方を失ってもう片方が生きていけるわけがない。

 彼がそう気付いたのは随分老いてからだったかもしれない。

 しかし、きっと心の奥底のどこかでは、十六の冬の時に気づいていたのだろう。

 若い身空では気づきたくなかっただけだ。


 箱庭の小さな初恋の夢。

 箱庭の外でどんな嵐が吹き荒れていてもその中は温かく平和だった。

 本当に欲しいものは手に入らなくても、箱庭の小さな夢は彼に小さな満足を与えた。

「僕が死んだら故郷の僕の墓に入れてくれ。既に先客はいるけど、その人は僕の大切な人だから遠慮はいらないよ。それが終わったら君は自由だ。ここで暮らしてもいいし、他のところにいってもいい。いろんな人と話していろんな経験をして、悔いのないように生きなさい」

 彼は彼女にそういうと、静かに瞼を閉じた。

「ああ、来てくれたのかい。随分待たせたね……いや、君が言った通りさ。君のいない人生はプレゼントのない誕生日よりもひどいものさ……」

 彼は弱々しくそう言ったきり、瞼を開けることはなかった。

 医者が脈、瞳孔、呼吸を二回確認し、彼がもう会えないところに旅立ったことを告げた。

 彼女は静かに頭を垂れた。その頬には一筋の雫が流れていた。

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