Jump 7
八月六日。からりとコンピューター室の戸が開く。
「あら」
窓際に座っていた楓はそちらを振り返り、ふ、と表情を緩めた。教会の鐘が、十二回目の音を響かせる。入ってきた飛翔は、ゆるく唇を噛んだまま、楓の隣に座った。
鐘の余韻がなくなって、楓は頬杖をついて窓の外に視線を投げる。茂った桜の葉と、耳障りなほどのアブラゼミの声は、夏はまだまだこれからだと言わんばかりだ。痛いほどに眩しい外を眺めたまま、しばらく二人は黙っていた。
秒針が二周してようやく、楓が口を開く。
「分岐点、過ぎたわね」
飛翔は黙ってうなずいた。
「……あなたは、どうして彼女を助けなかったの?」
「怖かったんだ」
ぽつりと、呻くように飛翔は答える。
「もう死にたくないと言った彼女を、次は止めるという自信がなかった」
「……それでも、助けるほうを選んだのね。世のため人のため、なんて耳障りのいい大義名分を背負って」
楓は飛翔を見上げ、意地悪く笑った。
「ねえ、リーダー?」
飛翔は、くたびれた笑顔を返す。飾り気のないパーカーにスラックス、あごには無精ひげといったその風体は、まさか、レジスタンスを率いるリーダーには見えない。しかし、彼こそがタイムトラベル理論の提唱者であり、偽史を偽史たらしめた張本人である。
「……ああ、そうだよ。楓、あんたは過去の俺を見てるから分かるだろう?」
飛翔は、コンピューター室を振り返って目を細めた。
「あいつ、バカなんだよ。バカで単純で、そのくせ諦めが悪い。自分が原因だと分かってるくせに、それでもタイムトラベル理論を完成させずにはいられなかった」
「……ほんと。たった一人の女の子のために、世界全部巻き込んじゃうんだから。最低最悪の馬鹿男よ、あなたは」
楓は足を縮め、足首を掴んで椅子を回す。
「そしてついには、不可逆のタイムトラベルに身を投じちゃうし」
「……結局、俺が原因なら、最後まで、俺が身を粉にしなきゃいけなかったってところだろう。バグばっかりのくせに、この世界はそういうところ、律義だ」
「……全部の記憶を持ってるのはあんただけ。聞かせてもらえる? あんたが分岐点から脱獄するまでの話」
「ああ、いいよ。ここが偽史だと分かる未来は十年後だ。少なくとも十年は、俺達に時間が残ってる」
飛翔は立ち上がり、パーカーのフードを降ろして伸びをした。
「先生と、俺に見つかる前に出ようか。……仕事と家が見つかったら、嫌ってほど聞かせるよ」
分岐点を過ぎた今、飛翔と楓に、自分達の世界が正史か偽史かを知るすべはない。ループを繰り返した長い四日間は終わり、時間はまた直線的に進みだす。
十年後。ものの数日で十年分老けた自分達を見て、仲間は何と言うだろうか。
「……まあ、前途は多難だが」
懐かしい昇降口から出て、飛翔は母校を振り返った。
「二回目の今日を楽しみながら、祈ろうじゃないか」
「そうね」
飛翔が軽く掲げた拳に、楓はこつんと自分の拳を当てる。
「信じましょう。この世界には、もう決まっている終わりがあるって」
楓は眉根を寄せて、寂しげに笑った。
「どこか、もう交われない歴史では、きっと、未来に希望があるんだって」
偽史は本来的に、存在そのものがバグな世界だ。ゆえに終わりがあり、綻びがあり、それに付け込んでタイムトラベルの道をこじ開けられる。
タイムトラベルによる過去の書き換えで、そんな歪んだ世界が正史になってしまったら。本来正史だった世界はどうなるのか。綻びがある世界が正史になって、どんな未来が描けるのか。
それは、飛翔と楓には知る由もない。ただ、自分達が手を伸ばせば、正史が守れるならばそれがいい。
たとえ、結果、自分達の世界に終わりが来るとしても。
「……暑いなあ、アイス買う?」
「学生気分に戻ってるわよ」
校門外の並木道を歩きながら、楓は木漏れ日に目を細めた。
八月の頭、まだまだ外は暑い。自分自身でループした間も、高校生の飛翔がループしている間も、楓はコンピューター室にいた。クーラーのきいた部屋から日向に出るのは、ずいぶん久しぶりに感じられた。
頬から顎へと伝う汗を拭って、楓は口の端を上げた。




