ぞんび
里美は暗い気分を変えたくて、朝からショッピングモールキララへ行った。
日曜日ということもあり、暑さを逃れる家族連れで一杯だった。
「ぞんび」
すれ違いざまに、そういう声が聞こえた。
子供服売り場で、また「ぞんび」と。
フードコートでも、あたりから「ぞんび」と声がする。
「なんだろう?」
声だけじゃ無い、視線を感じる。あたりを見回す。
隣のテーブルの親子連れが、こっちをみている。里美と目が合うと急に携帯電話を取りだした。
「どうしたの、オカアたん?」
黙り込んだ里美を不審がって、可愛らしい顔で千華が見上げている。
「ぞんび」
また聞こえた。
幻聴?
ショッピングモールに居る間中声は聞こえた。
マンションに戻った里美を、勝也が出迎えた。
「ゴメン」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、カレーを作って待っていた、里美が出かけたのと入れ違いで帰ってきたという。
「あのひき逃げ事件の犯人、自首したな」
昼のワイドショーで見たと勝也は言う。里美は知らなかった。
……当日は午後六時頃から突然激しい雨が降った。
公園横の横断歩道を渡っていく赤い自転車、ビニール傘をさした中年の女、後ろ向きに乗っている男の子、を被害者が追いかけ、男の子に取りすがってるのを犯人は目撃したと言う。
信号が青になったので、アクセルを踏もうとした時、横断歩道を渡りきった女の子がはじかれ、トラック右前方に接触し、街路樹の植え込みに倒れた。
犯人はすぐ車から降りた。被害者は出血はなかったがぐったりしていた。声を掛けたが反応はなかった。
周りには誰も自分を見ている人は居なかった。途方に暮れてふらふらと前の公園に入っていった。土砂降りで誰も居なかった。ブランコに放置して、その場を立ち去った。
家族の或る温厚な男で、罪の意識に耐えられず出頭したのだという。
なんか可哀想だな、と勝也は、犯人に同情していた。
田端真弓は,精神科に通院していた事実があり、錯乱状態での自殺で処理されたと、教えてくれた。
雪奈の母親に会ったとだけ報告したが、勝也は、犯人が自首したのなら雪奈ちゃん事件は終わった。雪奈のコトも田端親子のことも忘れよう、と言った。
里美は、やっぱり田端親子だ、本当に雪奈の亡霊が復讐するために現れたんだと、勝也に言えなかった。
せっかく帰って来てくれたのに機嫌を損ねたくない。
でも、ショッピングモールで「ゾンビ」という声が何度も聞こえた事はつい喋ってしまった。
勝也は一瞬不快な表情を見せ、里美には答えず、
「千華、沢山食べて元気になれよ、顔色悪いぞ」
とだけ言い、自分が作ったカレーの自慢話を始めた。
「ゾンビ」と次の日も、マンションのエレベーターの中で聞こえた。
高学年の女の子が二人と、赤ん坊連れの若い母親が乗っていた。声の主を探してそれぞれの顔を睨み付けてしまっていた。……だめだ、アタシ、絶対病気だ。
次の日はコンビニで、また「ゾンビ」と聞こえた。
勝也にはもう云わなかった。
お前は精神を病んでいると、夫の空々しい態度と哀れむ目つきが云っていた。
「千華を病院に連れて行ったほうがいいんじゃないか」
千華は顔色も良く元気なのに、時々云うのは、里美を病院に行かせたいからではないだろうか。
家の中で「ゾンビ」と聞こえることは無かった。声は側に誰かが居るときに聞こえる.
里美は外出を避け、最低限の買い物は早朝、客の少ない時間に行き、エレベーターも無人を待って乗り、誰かが乗ってきたら降りて、階段を使った。
「千華、今日はどこへ行った?」
勝也は毎日聞いた。
家に居たと知っても里美を咎めはしなかった。ただ、ため息をついた。
八月一日、 山本千華死亡。享年4歳。
千華が外にいきたいと駄々を捏ねた。
それも、美容院のおばちゃんに会いたいという。
里美は途方にくれた。
どうして、あの人に会いたいというのだろうか。子供の気まぐれ、取り合わなかったら諦めると思っていたが、千華は「おばちゃんのところに行く」と言い続けた。
「家にいたくない、カレンがいい、おばちゃんのところがいい」
朝から何回も言う。
「うるさいよ」
イライラして怒鳴ってしまった。千華は上目遣いで睨む。
「駅の向こうでしょ、遠いんだから、行けないって行ってるでしょ。自転車で行けないの、無理なんだって」
「……わかった」
にっこり笑って、出て行った。慌てて後を追う。廊下に千華は居ない。そして隣のドアが開いていた。
千華は、亮に頼みに行ったのだ。
「今からなら、いいよ、夕方から仕事だから」
亮とは、カレンに行った日以来、マンション内でも会わなかった。里美は、若い青年に頼った自分を恥じていた。それなのに、また、娘が厚かましい頼み事をした。不快だった。亮の方は千華にとても優しかった。
「そうか、あのおばちゃんが好きなのか」
「この車も大好き。おうち、車ないんだもん。また乗りたいよ」
「いいよ、こんなボロ車で良かったら、乗れよ」
すすんで助手席に乗った千華は亮にだけ話しかけた。




