一人目が死んだ
里美は十一階に行った。
親に文句を言うとか、具体的な目的はなかった。ただ腹の虫を納める為に、何でもいいから行動を起こしたかった。雨が続き千華と二人で二日家に籠もっていて、陰鬱な気分が怒りを呼び覚ましたのかもしれない。
エレベーターの反対側、階段から二番目、九号室に田端の表札があった。
田端真弓・強史
……ツヨシか。これで名前はわかった。
里美はにんまりした。恨めしさは名前を知ったことで鮮度を増した。
どれくらいドアの前に立って居たのか……千華は廊下に置いてあるスケートボードをしゃがんで眺め触っていたが、それにも退屈する時間がすぎ、
「オカアタン、テレビ始まるよ」
夕方からの幼児向け番組のことを、まだ三時なのも知らなくて口にした。
里美は表札を睨んでいた。「強史」の文字を……直接はき出すつもりの無い恨みを込めて気の済むまで、ただ睨んでいた。それだけで気が晴れた。只のささやかな儀式だ。実体に関わるつもりも仕返しする気も全く無かった。
気が済んで、去ろうとした。がちゃがちゃ音がした。気配に気づかれたのかと千華の手を引いて階段を数段降りて身を隠して廊下を覗いた。
強史が出てきた。
廊下に人が居ないのを確認する動作、左右を何度か見て、廊下の塀に両手をかけた。上ろうとしている。高さは大人の胸、強史の背と同じ位で1メートル三十センチ程度。
強史は飛び上がって片足を掛けようとした。つま先がひっかかったが滑って外れた。コンクリートの塀は表面が滑らかだ。何度も挑戦してはため息をついている。禁じられた遊びなのだろう、見つかって叱られるのを恐れているのか何度もエレベーターの方を見る。里美と千華のいる、反対側は見遣ったりしない。強史は、エレベーター側に顔を向けたまま、飛び上がってコンクリートの柵に片足をかけようと奮闘している。何度も。もう少しのところで足が外れるので見ていてイライラする。
里美は、底のすり減ったスニーカだから滑るのだと、気がついた。
だから、アドバイスした。
「靴、脱いだらいいよ。裸足でやってごらん」
ツヨシは里美の声が聞こえたようだ。声の主を探しはしなかったがスニーカを脱いだ。靴下も脱いだ。
飛び上がる。今度は、上手く足がかかった。軽い身のこなしで、ふわりと塀に馬乗りになった。嬉しそうに「やった」と呟き、ゆっくり両手を離した。
その時、エレベーターの扉が開く音がした。
直後に金切り声が聞こえた。
「ひいー、な、何やってるの、ツヨシ、ばか、降りろ、降りろって」
母親の田端真弓だ。
廊下に荷物、スーパーのビニール袋二つを投げ出し、掴みかからん勢いで息子に迫っていく。
ツヨシは母親の剣幕に慌てた。
急いで降りようとした。左足の方へ体重をかければ二秒で廊下に降りたのに、塀の外側の右足をまずひっこめて、胸の前で抱えた。その体勢で腰を浮かした。同時にふり返って、後ろに迫る母親を見ようとした。塀に幅は二十センチ程しかない。膝が揺れ、頭が大きくく右へ揺れた……母親が伸ばした手は間に合わなかった、ツヨシは片膝を抱いた姿勢のまま、するっと塀の向こう側へ消えた。
里美は千華を抱き上げて、階段を下りた。
「キぃーえああー」
真弓の悲鳴は警報のように大きく長く、響いていた。
里美は家に入るなり、全てのカーテンを閉め、テレビを付け、音量を上げた。
外で何が起きているか、見たくなかった。これから何が起きるか知りたくなかった。
心臓が、飛び出しそうなくらいどきどきしてる。
落ちた、あの子落ちちゃった……。アタシのせいじゃない、悪意があって声を掛けたんじゃ無い、母親が驚かせたからよ、アタシのせいじゃない。関係ない、誰も見ていなかった。
「オカアタン、あのね」
千華がテレビがうるさいので大きな声で話しかけてくる。
……千華は見ていたんだ。誰かに、勝也に話すだろうか?
「千華、お兄ちゃん塀に登ってたの見た?」
まず聞いてみた。
「うん」
「それからどうなった?」
「居なくなっちゃった」
「居なくなっちゃったの?おうちに帰ったのかも知れないよ」
うん、と答えて欲しかった。
「おうちに帰ってないよ」
「そうかな、おかあさんはおうちに帰ったの見たよ」
「おかあさん、嘘をついたら駄目だよ、おにいちゃんはおうちに入らないで落っこちたんだよ」
ごまかせないなら口止めするしかない。誰にも言わない約束を守れるだろうか?
「あのね、千華とお母さんだけの秘密にしようか。お兄ちゃんが、その、消えるのを見た事。約束守れるかなあ」
「守れるよ」
嬉しそうに指切りゲンマンを催促する。無邪気な笑顔。この子の為にも、無かったことにしよう、だって私のせいじゃない、罪悪感は今更何の役にもたたない。
「あのね、オカアたんも約束守ったねって、言ってるよ」
意味不明、まだ難しい表現はできない、と里美は思った。
「うん、守るよ、絶対内緒にするよ」
「違うよ、三人殺せって約束のことだよ」
「はあ?三人殺せ、って今言ったの?」
訳がわからない。テレビかなんかの話かと聞いてみる。
「三人殺すって約束したでしょ。ちゃんと一人殺したね」
殺すなんて、言っては駄目よ…あれ、三人殺せって、聞き覚えがある。そうだ、あのとき、公園でも確か……。
「オカアタン、何でもするって約束したでしょ、だから三人殺すんだよ」
何でもする、確かにあのとき、思い出したくも無い千華がブランコで頭を打って意識を失い……祈った。
千華が死んでしまったと誤解して、助けてくれるなら何でもすると……この子、聞いてたんだ。それで夢でも見たのか?
でも不気味すぎる。三人殺すなんてアタシは言ってない、子供が口にするには恐ろしい言葉だ。幼い頭で勝手にこしらえて、意味も解らず言ってるんだろうが……。
そこまで考えを巡らせて、今更のように、田端強史は、死んでしまった、と気がついた。全身にぶるぶる寒気がした。
十一階の高さから落ちて、助かるはずは無い。廊下の下には植木も、でっぱりも無い。なんて事だ、怪我で済むはずはないのだ。
「おい、知ってたか、男の子が落ちて、即死だってさ、さっきエレベーターで聞いたんだ」
勝也が帰って来るなり言う。
里美は驚いた演技をする。涙がこぼれたのは演技ではない。
「見てないのか、それは良かった。千華に見せたくないよなあ。見た人、結構居たらしいよ。頭から落ちて、グッチャ、だってさ。エントランスの前に血の跡がまだ残ってたよ。瞬間を見たってオバサンがエレベーターで一緒だったんだ。晩ご飯食べられないってさ」
その話はもうやめて欲しい、千華が怖がるから(私がこわいから)と頼んだ。
「寝てるじゃないか」
千華は隣の部屋で寝ていた。
娘の寝顔を見に行った勝也が「あれえ」と妙な声をあげた。
「何よ、起きるじゃ無い」
「照明のせいかなあ」
とぶつぶつ言ってる。
「何?こっち来て言ってよ」
「千華、えらい顔色悪いぞ。病気じゃないのか?」
里美の視線も娘の顔へ……
「気のせいよ、すごい元気よ。日に焼けたから違って見えるだけよ」
勝也は納得しない。
「顔色だけじゃなくて、目の下に隈できてるし」
「カッチャン、全然普通だよ、酔ってるんじゃないの?」
里美は上の空で答えた。
その夜、強史が落ちる瞬間が何回も鮮明に浮かんできて、一睡もできなかった。
六月二十二日、 田端真弓死亡まで十六日。