寄り添う
千華は、出生時もその後の健康診断でも心臓の異常を指摘されたことはない。
勝也は納得しなかったが、成長後に、こういう不幸の後になって発見されるケースは珍しくないと、初老で物腰の柔らかい当直医は丁寧に説明してくれた。
千華は穏やかな顔で眠っていた。
汗に濡れて、髪の毛がカールしている。
里美は手櫛で整えて、愛らしい頬にそっと触れた。
「可愛らしいなあ。頬はふっくらしてピンク色だよ。元通りになってる。千華だよ、俺の千華だ」
勝也は何度も言った。
里美は呆けたようになっていたので、夫の言葉にひっかからなかった。
娘の姿が、ある時点……雪奈が死んでいたブランコから落ちてから変貌しているのを自分だけが知らなかった。
千華は明らかに病的に青黒く皺が増えていったのだが、里美にだけは……有りのままには見えていなかったのだ。
……千華が死んじゃった。
里美は現実を受け入れるために、今自分が置かれている場所をしっかりと、見つめた。
……此所は救急治療室なんだ。
ベットを、小さな千華を取り囲みように、
白衣のドクターと薄いピンクのナース服の二人いる。
ナース二人の間に、
背の低いのが一人いた。
おかっぱ頭で、ピンクに白いウサギのプリントのTシャツにグリーンのハーフパンツ、どっちもリサイクルショップで買った色あせたブランドもの……見慣れた格好なのは、まさか、千華か?
いや、違った。
醜い顔、青黒くて皺だらけ、目も鼻も深い皺に埋もれてる。大きな目玉は異様に見開かれ、魚の目のようだ。
そこだけが生々しい厚みのある唇が……里美の視線に答えるように開いて、真っ赤な穴を見せた。
ソレは昨日までの千華に似ていると、里美は知らない。
だから幻覚と思い、目を逸らせた。
千華の確認時間は八月二日午前二時。
午前五時に病院が手配してくれた葬儀屋の車で千華をマンションに連れて帰った。
葬儀屋は小柄で小太りで色の白い四十代の男で、田中と名乗った。
古くからの友人か、親戚だと錯覚させるほど、自然に、気がついたら側にいた感じだった。
腑抜けのような勝也と里美は、田中に指示されるままに、千華の布団の場所を変え、 ご飯を炊いた。他に何もしなかった。田中が一人で動いた。
いつの間にか、千華は白い布を顔にかけて安置され、枕飾りも置かれている。
田中はろうそくに火を灯し線香を立てた。
白い一本の煙は千華の方へ流れていく。
「お嬢ちゃんの、告別式なんですが、どうされますか? 旭が丘セレモニーホールでよろしいですか?」
あのセレモニーホール……。
里美は身震いした。
田端強史の葬式を思い出したのだ。
「そうか、葬式出すんだ。と、言うことは親父に……知らせなきゃあ、いけないんだ」
勝也は、ひとりごとのように、呟いた。
「アタシも、母さんに電話しなきゃあ……でも、何て言えばいいんだろう。千華が死んだって、言うわけ? どうしよう。母さん信じないよ、きっと。困ったなあ。メールで知らせた方がいいのかなあ……」
里美の呟く声は勝也より小さく、田中の耳に半分届かない。
……この夫婦の頭は、まだ現実に追いついていない。
田中は時計を見た。
さっさと終わらせたいが、それほど時間が経ってもいない。
すっかり慣れた仕事でも、子供は、正直イヤだった。
遺族は普通の精神状態では無い。相手をするのは神経がすり減る。
(それに、なんか、いるし)
玄関に入ってすぐに、家の中に一人居る気配を感じた。
他に家族が居る雰囲気では無いので、親族か近所の人かと、思った。
でも、姿を見せない。
そのくせ、見られてる感じはする。
生きた人間の気配ではない、とわかってきた。
これも初めてのことではないが、
どうも、漂える霊魂では無さそうだ。
もっと、たちの悪い、何かだ。
「この暑さですからね、二晩は置けないんですね。今日が、お通夜で、明日が式が宜しいかと……忙しなくて心苦しいんですが、どっちにしても午後には会場に、お運びさせていただく事になるんです。……近くにご親戚はいらっしゃいますか? 親しくされてるご近所の方とか」
「僕ら、四月に越してきたばっかりで近所に知り合いがいないんです。会社に友人はいますけど、仕事休んで来てくれとか言えないし。実家は遠いし、俺の兄貴は北海道で、コイツは一人っ子だし……」
そういう背景なら無理して葬式出すこともないか、と、田中は判断した。
「まだお小さいですから、斎場の中にあるお部屋で、お別れされても宜しいんじゃないですか。いわゆる家族葬ですね。ちなみにお父様の御実家は仏壇ございます? 神棚でしたか? それともキリスト教とか、他の宗教とか、分かれば教えて頂きたいですが」
「……秋田の実家は、仏壇ありました。爺ちゃんが死んだとき、坊さん来てました」
宗派を聞かれたが勝也は答えられなかった。
知らないのだ。それが恥のようで肩をすぼめた。
「仏壇の中に、過去帳がありましたか? ご先祖様の命日が書いてる手のひらに載るくらいの……」
勝也は、それならあった、子供の時、触って叱られたと、答えた。
「それでわかりますよ、大丈夫です。では、そうですね、午後三時にお迎えに参ります。円光寺の住職も一緒に、お連れしますから」
田中は、夫婦に見送られ靴を履きながら、
この家に居るモノは坊主では祓えないだろうと、ちらりと思った。
「かわいいね」
「綺麗な、ちっちゃい指だな」
夕べ一睡もしないから頭は朦朧としているのに、何処が冴えていた。
「おい、田中さんだっけ、三時に迎えに来るんだ、俺たち喪服着て……そうだ、千華もパジャマじゃ駄目だよ」
「そうだね、あれ、誕生日に母さんに貰ったワンピース着せよう。あれが一番上等の服だからね」
お人形のように可愛らしい千華の着替えを、まるで産院から退院した日のように 夫婦で緊張して協力して着替えさせた。
「可愛いねえ」
何度も、それだけが口からこぼれる言葉だった。
悲しみもが大きすぎて、異様にハイになっていた。
「お姫様、お迎えに来ましたよ」
田中が、奥の金歯まで見せて、千華に笑いかけている。
もう一人黒いスーツの痩せた男と、若い僧侶がいる。
短い読経のあと、田中と痩せた男は小さな白い棺桶に千華を、入れた。
里美は、三人がいつ来たのかも分からない。
突然現れた気がする。
夢の中で行動しているようにフワフワと途切れ途切れの思考で、夏用の黒いワンピースをきて、化粧をし、勝也なのか田中なのかもわからない声に促され、千華を載せた霊柩車の後を、田中の黒い車で、付いていった。
斎場の中にある座敷部屋で通夜と葬式をした。
里美と勝也の二人だけで。
骨になって白い壺の中に収まった千華を抱いて、勝也は警察に出頭すると言い出した。
里美は、反射的に、まず「トマト」 を返しに行こう、と提案した。
早々に二人でカレンへ詫びるため、千華の死を報告するために出向いた。




