目隠し鬼
「俺があの子の自転車を盗まなかったら、あの子は死なずに済んだんだ。でもまさかあんな結末思いも寄らなかった」
勝也は喋りながら、発泡酒の缶を開けていく。もう4つ目。
里美は夫がこんなに飲むのを見たことが無い。
「俺、最低だよなあ。みじめだよなあ」
里美は呆けたように布団の上に座り込んで、開いたドアの向こうを芝居でも眺めるように、夫と娘を見ていた。
側に行けない。身体が動かない。掛ける言葉がない。
「おとうさん、おまわりさんに、つかまるね、かわいそう」
千華が慰めている。
「防犯証はすぐ取った。『トマト』ってだけで疑われるはずは無い。マンションだけでも数台乗ってるんだから。絶対バレないと思ったんだ。でも警察が調べたらわかっちまうさ。……ごめんな。でも俺、あの日、もう一歩も歩けなかったんだ」
勝也は泣いていた。
「ね、おとうさん、お願いがあるの」
千華は勝也の背中に抱きついた。
「ねえ、肩車して。ね、してよ」
言うなり、勝也の背中に登ろうとする。
「おい、おい、」
思いがけない娘の行動に、崩れていた勝也の身体に少し力が戻った。
「さあ、早く、早く立ってよ」
父が泣いているのに容赦なくわがままを全身でぶつける。
千華にしては珍しく強引だ。勝也は観念してふらふら立ち上がった。
(危ない)
里美は声に出さず、止めもしなかった。
「目隠し鬼、しよう。鬼はオカアタンだよ。オカアタンを捕まえるの」
千華は両手で勝也の目を塞いだ。
「うおおお」
勝也が泣いているのか笑っているのが分からぬ奇声を上げ、身体を揺らす。
「鬼は、オカアたんは、手を叩いて」
「違うでしょ、そっちが鬼でしょ、」
鬼さんこちら、って手を叩くんだ確か、
千華があんまり楽しそうにいうので、里美は反射的に立ち上がった。
だから、そっちが鬼よ……でも千華、こんな遊び知らないでしょ……。
長い怖い物語が終わろうとしているのを里美は悟った。
きっと救いの無い結末であろうけれど、もういい、終わらせたい。
終われ、もう終われ、
投げやりな心は平和な日常に踏み留まる努力を放棄した。
もうすぐの終焉へ向って千華が舵をとっている。
今夜、決着を付けようと娘は企てていたのか。
なんでもいい
「三人殺せ」から解放されるなら。
里美は手を叩いた、勝也はふらふら近づいてくる。
千華の視線は寝室の奥、ベランダで止まった。
「開けたら」と指図する。
開けてどうする?
酔っ払ってる勝也の動きは予測が付かない。
もし里美がベランダに出て、手を叩いて「鬼はこっち」と声を掛けたら、千華をのせたまま走ってくるかもしれない。
「はは」
もうどうでもいい。
夫が窃盗で逮捕される人生など要らない、酷すぎる。
いっそ自分がベランダから飛び降りて、この嫌な世界から離脱しようか。
……それくらいなら、あの二人を落としてしまってもいいじゃないか。
二人の生命保険でマンションのローンを完済できるし……。
里美はベランダに出た。
外は暗い。
暗くて静かだ。
手を叩く。
「あっち、あっち」
千華の声にふらふら揺れながら勝也がくる。
千華は笑っている。
勝也がベランダに出てきた。肩の上の千華はぶらんぶらん、揺れている。
「鬼は、どこだ、どこだ、どこだ」
勝也は止まって、小さい声で何度も何度も呟いている。
里美は勝也の足元にあるプチトマトの赤い実を見つける。
長方形のがプランタンが二つ。……重ねたら、丁度良い踏み台だと気がつく。
「此処を登って、ほらしっかり足上げて」
千華が前のめりになってる。
だから、落ちるかも。
勝也の肘を持ち誘導する。
慣れ親しんだ男の臭い……死ぬ間際に見るという人生の走馬燈さながらに、初めて出会った日、プロポーズ……愛の時間が蘇る。
大きな身体、大きな目、大きな声の、初めて愛した男。
この人は……雪奈事件の看板をどんな思いで見たのだろう。
自分が見た長い髪の不気味な少女にどれだけ怯えただろう……。
そして田端親子の死も、私より、ずっとずっと怖かったのだ……。
……もう、充分罰を受けているじゃないのか。
「だめ」
里美は勝也の身体にしがみつき、引き戻した。
勝也は「なに?」と、振り向いた。
大きくぶるんと。
「あれ、里美、おれ今何してるんだ」
丸い目が覗き込む。
肩の上に、千華が、居ない。
「え、そんなあ……」
ベランダから下を見る。暗くて何も、全く見えない。
「おい、どうしたんだ?」
「あ、ああ、千華が、落ちて、死んじゃったよ」
里美は千華が死んだと分かった。
もう不安も恐怖も無かった。
絶望を受け入れた。
「ホントだ。息してないよ。千華、千華、起きろよ……駄目だ、心臓の、音してない、里美、救急車、救急車だ」
「えっ?」
勝也がベランダにいない。
部屋の中から呼んでいる。
そして千華は、布団に横たわっていた。
今、目の前で勝也の肩の上から消えた。
下の駐車場に落ちたはずだ。
なのに、此処にいるのだ。
勝也が泣きながら心臓マッサージして居る。
……肩車して、闇に消えた千華、あれは違う、本当の千華じゃなかった。
冷たい娘の身体に触って、分かった。
里美の目から止めどなく涙が溢れる。
「うん、救急車呼ぶよ」
千華はその夜に死んでいた。
救急車で搬送された病院で、突然死の原因は先天性の心臓病だと、医者は言った。




