死んだ少女の亡霊
四月十六日、野間雪奈死亡
五月十日、田端強史死亡まで四十一日
仕事から帰ってきた夫の顔がこわい。
出迎えた娘を黙って睨んでいる。しばらくして、
「千華の髪、切ってやれよ」
と抑揚の無い声で言う。
不機嫌の理由がわかり里美はほっとする。娘の量の多い天然パーマの髪は肩の下まで伸びて、確かに、見た目に暑苦しい。
このマンションに引っ越してから勝也は変わった。笑顔が減り、些細な事で険しい顔つきになる。通勤時間が長くなり、ローン支払いの為に節約は余儀なく、小遣いも無いに等しいのが不満では無いかと、里美は常に夫の顔色をうかがっている。
肉の少ない、パン粉で嵩高くしたハンバーグも嫌なのかも知れない。
勝也は、座るなり箸を付けた。腹が減ってたまらない、何でもいいから早く口に入れたい、飢えた犬のように食べる。テレビのニュース番組も見てはいない。肉の少ないハンバーグとポテトサラダ、オニオンスープをおかずに三杯目のご飯を、ようやくゆっくり口に運んでいるのを見計らって、里美は話しかけた。
「髪切るの、すっごい、嫌がるんだよ。痛くないって言っても大騒ぎなんだから」
千華はもうすぐ四才、お喋りは舌足らずで年齢のわりに頼りないが、大人の話はかなりわかる。
「さんぱつ、いや、トマトもいや」ベランダで育てたミニトマトも嫌がる。飽きているのだと分かっているから叱れない。
ぐずる娘、黙っている夫、ちっとも楽しくない食卓だった。
「あ、そういえば今日ね、」
勝也が聞いてくれそうな話題を思い出した。
「自転車の、後に乗ってる子がね、寝てたのか、ありえないくらい横に傾いてるの。髪がすごく長くてね、顔すっかり隠れてて、不気味だったよ」
「なんだそれ、ホラー映画か」
勝也は興味をしめした。里美は、どうでもいい話に勢いをつけて喋った。
「違うよ、そういう子が居たの。長―い髪が、ダラーって顔に掛かって、量が多くて重そうでね、固まって地面につきそうなの。すっごく怖くて、ブレーキ踏んだんだよ」
実際には、ちらっと見ただけだった。
「お前、大げさに言ってるだろ、」
勝也は笑った。だから、もっと機嫌をとろうと、里美は簡単な絵に描いて見せた。
「これ、上半身が直角に折れてるぞ、尻が固定されてるんだからあり得ないだろ。髪の毛が、地面に付いてる。それも真っ直ぐ。普通、なびくだろ?下手な絵って、それだけで怖いよなあ」
馬鹿にして笑う。そのくせ、この怖い絵を気に入って、捨てるな、という。勝也が笑ってくれる、里美は単純に喜んだ。
その夜、風呂場で千華の髪を切った。
狭い風呂に初めて3人で入った。
おもちゃで遊んでる隙に里美が身体を拘束、「イヤダー」と暴れる頭を勝也が、左手で押さえながら、右手でザグザク、素早く適当にハサミを入れた。
短くしたらウエーブが強く出る。揃ってないのは目立たない。天然パーマと大きな丸い目は父親そっくりで、丸顔で小柄なのは母親似だった。勝也は上機嫌で携帯電話で娘を撮った。
「すっとしたね、助かったよ。ありがと。今日は早かったね、やっぱ。電動自転車だと違うのかな。カッちゃんが早く帰ってきてくれるだけで嬉しいんだよ、千華も私も」
千華が寝た後の夫婦だけの静かな時間、一日一缶と決めた発泡酒を飲んでいる、機嫌の良い勝也に言ってみた。
「おれイクメン」
大きな身体を揺すって勝也が笑う。珍しく上機嫌だったけれど、布団に入ったとたんに高いびきで寝てしまった。マンションに着てからずっとそうだ。千華が寝てからの夫婦だけの時間は無い。寂しいが仕方ない。夫の太い腕に唇を寄せて里美は、話したかった言葉を呟く。
「今日はね、駅へ行く途中にあるショッピングモールへ言ってきたの。広いね、って千華喜んでた」
何も買わなかったし、有料の遊具にも乗せなかった、食料品を少し買ってきただけ。それでも楽しかった。自分に言い聞かせるように一日の報告をして眠るのが習慣になっている。
二ヶ月前まで親子三人、都内の千葉に近い街で暮らしていた。古い賃貸マンションだった。里美と勝也は職場で知り合った。里美は勝也の勤務先の化学工場の社内食堂で働いていた。長身で整った顔立ちの勝也は大勢の工員の中でも目立った。明るい気さくな人柄で人気者でもあった。
勝也の冗談半分の軽い誘いから、付き合いが始まった。すぐに里美が妊娠し、入籍した。悪阻が重かったので結婚式も新婚旅行も諦めた。里美は憧れていた勝也と結婚できて幸せだった。千華を保育園に預け仕事に復帰しても家事を怠ることは無かった。大切な夫と娘の為に頑張った。中古だがマンションも買って、もっと幸せになれると思っていた。
ところが里美が仕事を辞めたことで経済状態が悪化した。予想外に転勤を命じられたのはマンションの頭金を払った後だった。転勤先はこのマンションから通える距離では無かった。栄養士の資格があるからと楽観して退職したが幼児を抱えての職探しは難しい。勝也は「専業主婦でいいよ、もう働くな」と言う。でも勝也の給料だけではローンの支払いは厳しい。里美は仕事を探しながらも、生活費を切り詰めた。勝也は車を処分し、通勤用に中古の自転車を買った。 行きは下り坂だが帰ってくるのが辛い、結婚して里美が作るご飯をきちんと食べて太ったからだと笑った。どんな時でも愚痴を言わない性分だった。
それが四月の始めに、電動自転車で帰ってきた。リサイクルショップで、自転車を売って買ってきたという。車体は赤、サドルとハンドルが緑の「トマト」だ。値段が安いのとデザインの可愛さで人気がある。町でよく見かけるし、マンションの駐輪場にも数台あった。
里美は、自転車の荷台で異常に傾いてる長い髪の子を、また見た。今度は顔もちらりと。その顔が、普通の子供の顔では無かった。皺だらけの老婆の顔だった。
怖かったと勝也に話した。
「どこで見た、本当に前と同じ子か」
重大なことのように問い詰められた。布団の中にいて、里美の身体に触れていたのを中断し、明かりを付けた。
前に描いた絵を出してきて、色を塗れという。見た日時も正確に書き入れろと。
「赤い自転車で、水色のワンピース、同じ子だと思う。前はスーパー行く途中でしょ。今日は帰り道、公園の前」
何かのテストのように里美は絵を仕上げ、勝也の質問に答えた。
「おまえ、やっと公園へ行ったのか」
二遊間前、マンションから一番近い公園で痛ましい事件があった。
椅子型ブランコに子供の遺体が置かれていたのだ。乗ったまま眠ってしまったような格好で発見された。衣服に車の塗料が付着していた事から轢き逃げ事件とされている。被害者は小学五年生の女の子だ。
事件以来、里美は公園に行くのが怖かった。
「ゴメンナサイ。行ってないよ。向かいのコンビニに行った」
「そうか、まだ公園が怖いんだな」
勝也は吐き捨てるように言い、絵を破った。
「未だに公園に行かないの、お前だけだって。皆遊んでるじゃ無いか。死んだ子の幽霊出るとか思ってるんだろ。怖いと思うから普通の事が曲がって見えるんじゃないの?全然知らない子をちらっと見て不気味とか怖いとか、云うお前の方が気味悪いんだよ」
何で咎められなきゃいけないのか、嘘を付いてるみたいに言うのか、里美は珍しく勝也に反論した。
「あれから、たった二週間だよ。まだ犯人も捕まってないのに平気で遊んでる方が信じられないよ。アタシの方が神経まともだって。不気味な子のことも大げさに言ってない。ホントだって。今度見たら写真撮っとくよ」
そうは言ったが、また見るなんて無いと思っていた。それが明くる日……ショッピングモールキララの駐輪場で、すぐ前に現れた。
赤い自転車は「トマト」だった。水色のノースリーブのワンピース。黒いサンダル。自転車をこいでいる、お母さんらしき人の後ろ姿もしっかり見た。金色に近い明るい茶色のショートヘア、紫と黄色のボーダーのTシャツ、だった。
自転車を止め、携帯電話で写真を撮った。これで、勝也に証明できる。
ところが、一瞬遅かったようで、画面の中に関係ない人が映ってる。がっかりした。でもその後、マンションに帰る坂道で、三十メートルほど先に発見した。離れていても、長い黒髪は、はっきり分かった。
追いつこうと一生懸命こいだが差が付くばかり。あっちは電動自転車だから仕方ない。
どの交差点も曲がらず真っ直ぐに坂を上って行く。坂を登り切ればワイトレジデンス、つまり、同じマンションの住人だった。十一階建てで一階は正面のエントランスに郵便受けが並び、右は駐輪場になっている。左は管理人室があり、その奥、左端のエレベーターの前で会った。幅の太い黄色と紫のボーダーのTシャツ、ショートヘア、間違いない。でも長い髪の女の子はいない。連れているのは男の子だった。一年生くらいの、色の黒いやんちゃそうな子だ。
確かめたくて
「暑いですね」
と声を掛ける。誰?って感じの横目で見られた。
「私、八階の十号室の山本っていいます。始めまして」
慌てて自己紹介すると
「ほんとまだ五月なのに暑いわ。うちは、十一階。田端です」
気さくに答えてくれた。
千華が
「あついから、アイスクリームが食べたい」
話に入ってきた。
「女の子は可愛くていいね、うらやましい」
里美は
「あれ、お嬢さんいらっしゃいますよね、後ろに乗ってた」
髪の長い、水色のワンピース……。
その田端さんの笑顔が一瞬で不快な表情に変わった。
「ちょっと、気味の悪い事いわないで」
何でだか、逃げるように、後ずさりして、男の子の手首をつかんで、どっかに行ってしまった。エレベーター、を待ってた感じだったのに……、
「お前、馬鹿じゃ無いの」
勝也は、里美が話すのを途中で止めた。
「だって、間違いないんだから。確かに、あの人の自転車に乗ってたんだから」
「感じ悪いんだよ、そういう話は二度とするなって言っただろ、俺、そういう心霊っぽいの、聞いて面白がる方だけど、見える奴って気味悪いよ」
心霊?里美はわが耳を疑った。
「お前の話が本当なら、化け物か幽霊だろ?そうじゃなかったら怖いもの探してるから、錯覚したんだ、それも違うんだったら、幻覚見たんだよ。だいたい、怖くて公園に行けないなんて、ふざけんなよ、母親なんだから、しっかりしろよ」
五月に、一年で一番清々しい時期に外遊びさせないなんて、親子で毎日ショッピングモールでウロウロしているなんて異常だ、とまで言われる。
里美が、あの公園には行きたくない。そう感じたのは事件後だけど、女の子が死んでいたから気味が悪いとは全然思っていない。それなのに怖い。横を通るのも避けたい位、あそこは嫌だ……。何でだがわからない。わからないから勝也にうまく説明できない。夫の機嫌はすこぶる悪い。それが辛い。
子供の死体は椅子型ブランコで一晩揺れていた。
死因は脳挫傷。衣服に青い塗料がついていた。ひき逃げ後公園に放置された可能性が高い。肝心の事故の目撃情報は無い。午後五時過ぎに降り始めたゲリラ雨のせいだった。人々の視界を覆い、事故の跡も流してしまった。雨は明け方までが降り続いた。「雨降ってるのに子供が遊んでるって気味が悪かった」「朝早くから一人で遊んでて可哀想って思ってた」後になって多くの目撃証言があった。しかし午前六時に犬が飛びつくまで、死体だとは誰も気がつかなかったのだ。
公園の入り口、遊具に黄色いテープが張られ、立ち入り禁止だったのはほんの二三日だった。捜査が終わり公園が解放された後、人が少なかったのは数日の間だけだ。午前中は幼い子供とその母親達、午後からは小学生、日が落ちると高校生、事件の前と何ら変わりなかった。ニュータウンの中の唯一公園は貴重な遊び場だったので、ずっと避け続ける事はできなかったのだ。
六月一日、 田端強史死亡まで十九日