【競演】今年もまた、雪が降る
第八回競演参加作品です。テーマは【雪景色】
楽しんで頂けたら幸いです。
妻が亡くなったのは、ちょうど五年前の今ごろだった。そのとき私は三十二、妻はたった二十六だった。
その日も妻はベッドで寝ていた。
妻は先天性の心臓弁膜症だった。生まれつき心臓が悪く、弁がうまく働かないのだ。そのせいで血液が循環せず、それどころか逆流を起こしたり、心臓に余計な負担がかかったりする。
一般的にはその弱い弁を人工弁に置換することで治療するのだが、妻の心臓の組織はもろすぎるため、その手術も難しかった。成功する確率は決して高くはない。失敗すればそれで終わりだ。
妻はそれでも手術を受けようとした。やらないで後悔するよりやって後悔する方がいい。それが妻の口癖だった。
私は妻を止めた。手術を受けなければ、余命を延ばすことはできないが、縮めることもない。
正しい判断だったのかは今でも分からない。話し合って、妻も手術を受けないことに同意してくれた。
それから半年が経っていた。そして余命宣告された日数も、ちょうど半年だった。
その頃私は朝から妻の元へ行き、隣にずっと座っていた。
妻がいなくなるのが、今日かもしれない、明日かもしれない。残り僅かな時間を妻と共にいたかった。妻は長い入院生活で痩せこけて、話す体力すらあまり残っていないようだった。
無機質な部屋、無機質なベッド、無機質な点滴台。妻がその一部として、無機質な存在として馴染んでしまっていることに、どうしようもない虚しさを覚えた。
それでも妻は私が来ると、まだ元気だった頃のように他愛ない話をしたがった。
今日は今年で一番寒いらしいよ。ちゃんと防寒しなきゃだめだよ。あ、明後日と明々後日は雨なんだって。明後日はスーパーの火曜市なのに、大変だね……。
そんな、病院から出られない妻には、およそ無縁なことを話したがるのだ。
しかし妻はまた元気になりたいと思っているわけではなかった。自らの境遇を怒ることも、嘆くこともしなかった。現実に起こり得ないことを望むには、妻は病院で多くの時間を過ごしすぎていた。妻も私も、とうにその境界線を越えてしまっていたのだ。
諦めて、受け入れた。いや、受け入れざるをえなかった。
要するに、しょうもない話をするのは妻は単に気を紛らわしたかっただけなのだ。ストレスも心臓にはよくない。いつ死ぬか、なんて考えることは避けたかったのかもしれない。
妻は身体が体力が落ちすぎるのを防ぐために、散歩もよくしていた。もちろん院内と屋上くらいしか歩けるところはなく、楽しくともなんともないのだが、妻は地道にそれを続けていた。
もっとも、それを続ける体力が残っていたのは三ヶ月ほどだけだったのだが。
なぜ妻がそこまで身体に気を使い、少しでも生きながらえようとしているのか、私は妻に聞いたことがあった。
すると妻はこう言った。
今年も雪が見たいの、と。
私たち二人が生まれ育ったこの地方では、毎年十一月ごろには初雪を迎える。いつ雪が降ってもおかしくない時期だった。
午後は降るかな、夜は降るかな、明日は降るかな……。
小さな子どものように、そう待っていた妻は、その日にーーそれはちょうど初雪の前日だったーー短い人生を終えた。
私は五年経った今でも、息をひきとる間際の妻の言葉が忘れられない。
あなたと一緒に、雪、見れなかったね。
ごめんね。
そのときの妻の穏やかな、それでいて諦めきったような表情は今も鮮明に思い出すことができる。
今年もあと数日で雪が降るだろう。
妻があれほどまでに見たがった雪を、私は去年と同じように、何の感動もなく見ることになるのだろう。
私はなぜ生きていられるのだろう。
私はなぜ、雪景色を眺めていられるのだろうーー。
*
昨日東京の方に住んでいる兄から電話があった。
明日、つまりは今日、実家に帰って来るのだそうだ。
兄はこの辺りの大学を卒業すると、就職のために上京し、そこで子どもを設け、居を構えた。一方私はここに残り、実家で両親の世話をしながら暮らしていた。
さて、そろそろ兄が駅に到着する時間だろう。
私は車を出し、最寄駅まで向かう。今日は嫁は仕事があるから、娘と二人で来ると言っていた。
これは私にとって少しばかり頭の痛いことだった。兄は帰郷すると、当然両親と近況やら何やらを話すのだが、そのときに娘を側に置いておくのを異常なまでに嫌がるのだ。妙な意気地だ。
いつもであれば兄嫁さんがその娘の相手をし、遊ばせているのだが、今日はその兄嫁さんが不在ということだ。畢竟、私が面倒を見ることになってしまうのだろう。
端的に言えば、私は子どもが苦手なのだ。
あの、なんと言えばいいのか、絶対的に自己中心的な存在が、如何ともできず近寄り難いのだ。もちろんそれは幼さ故のどうしようもないことは百も承知なのだが、どうにも友好的になることができなかった。扱いづらさから恐怖を感じることさえある。
つまり、私は子どもという人種と二人きりになる状況が憂鬱なのだった。私はそんな暗い気分を紛らわそうと、ラジオをつけた。
するとタイミングよくニュースが流れてきた。
講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告ーー。
それを聞いている間だけは少しだけ意識が逸れたが、ニュースが終わり、その内容をすぐに忘れると、私はまた陰鬱な心地に包まれるのだった。
最寄駅に着くと、既に兄と姪が待っていた。
姪のりんなちゃんは以前見たときよりも随分と大きくなっていた。満面の笑みで、迎えのおじさんを待っていた。
「久しぶり」
「遅いぞ」
「許してくれ、こっちだって忙しいんだ」
もちろん忙しくなどない。面倒がって出るのが遅かっただけだ。それに大して遅れていない。
私は二人が乗ったのを確認すると、車を出発させる。
「奥さんは、仕事か?」
「ああ、上手く休みが取れなくてな」
「そりゃあ残念」
「おい、俺のだぞ」
「いや、そうじゃなくって」
主に面倒見的な意味で、だ。口には出さないけれど。
軽口を叩いていると、すぐに家に着いた。
兄は礼も言わずに実家の方に向かい、私もその後を追った。
兄は例の如く両親と喋り始め、私に意味有りげな視線を送ってくる。それは私が予期していた通りの状況になってしまったことを意味していた。
こういうとき、弟という立場は好ましくない。兄の優越だ。
私はしぶしぶ重い腰を上げ、りんなちゃんの元へ向かった。
「りんなちゃん」
「なに?おじさん」
「おじさんと、お外に行かない?」
「パパは?」
「パパはおじいちゃんたちとお話があるから」
「じゃあ、私もここにいる!」
「お外の方が楽しいよ?」
「でも……」
それからも私とりんなちゃんの攻防は続いた。ともすれば私の方が根を上げそうになってしまう。りんなちゃんとしてはあまり知らないおじさんと外に行くというのは相当に嫌らしく、必死の抵抗を見せてくる。
私も側からみれば変質者としか思えないような発言を繰り返し、なんとか説得を試みた。こちらも必死だ。
しかし最終的には兄の「りんな、外で遊んでこい」という一言で全てが決したのだから、私が顔をしかめるのも致し方ないことであろう。
私はさっそくこの役回りに嫌気が刺し、うんざりとした気持ちで家を出た。出掛けるといってもこの辺りにはショッピングモールもなければ、公園すらありはしない。あるのは田んぼと畑と、少しの家だけだ。しかも冬だからか外に出ている人は少なく、アスファルトの敷かれていない道路は閑散としていた。
私は子どもの相手をする気も起きないので、適当に逍遥することにした。
それでもりんなちゃんにしたら普段とは違う景色がおもしろいのか、それともただ気を紛らわしているだけなのか、走っていって私を手招きしたりしている。それに一々付き合わされるこちらの身にもなってほしいものだが、子どもにそんなことを言っても仕方ない。
私はこっそりと大きな溜息を吐き、従順にそれに付き添った。
しばらく歩いた先によくやくアスファルトが現れ、数台の車が見えるようになった。駅に行くときに使った道に出たのだった。存外遠くまで歩いていたものだ、と感心する。
すると突然、りんなちゃんが声を上げた。
「あれ、ヘンな形してるよ?」
りんなちゃんの目線の先には、なんの変哲もない信号機があった。それを興味深そうに角度を変えて眺めている。
聞こえなかったフリをしようかとも思ったが、それはそれでより面倒にことが運ぶ危険性がある。泣かれたりでもしたら敵わない。
私はしぶしぶ口を開いた。
「ヘンって信号機が?」
「うん。縦になってる」
「……ああ」
私は少し考えて、納得した。私はずっとここで育ってきたから違和感がないのだが、彼女は都会育ちで、北の方には来たことがないのだろう。
そんな当たり前の事実をどこか面白く感じて、私は言葉を続けた。
「あれはね、信号機の上に雪が積もりにくいようにしてるんだよ」
「へー!」
「横だと、雪の重みで信号機が折れちゃうこともあったんだよ」
「えっ!折れちゃうの!?」
「うん」
彼女はまたしばらく興味深そうに信号機を眺めていたかと思うと、ポツリと私に尋ねた。
「雪は、降らないの?」
「もうちょっとしたら降るんじゃないかな。今年はちょっと遅いみたい」
「ふーん」
私は努めて平生を装って返事し、彼女はそれを聞いてつまらなさそうに頷いた。
私は多少の緊張感をもって尋ね返してみた。
「りんなちゃんは、雪、降ってほしいの?」
「うん!」
「どうして?」
「なんか、楽しいから!」
りんなちゃんは私の方に振り向いて、元気よく両手を上に上げた。小さな手を目一杯広げて、身体が張り裂けてしまいそうなほど、胸を張っている。
「そっか」
私はその答えにほっとして、笑ってみせた。
「それにね、雪ってあったかいんだよ!」
その言葉で、私は心臓が鞭打たれた気がした。
りんなちゃんは両手を上に上げたまま、くるくると回り出した。もしかしたら雪乞いをしているのかもしれない、と思う。
「あったかい?」
「うん。触ると冷たいんだけど、溶けたらあったかくなるの。ほわー、ってなるの」
ずいぶんと、詩的なことを言う。
雪は冷たい。冷たいのだ。
「そっか……」
会話がなくなると、途端に寒くなった気がした。寒いと認識するとより寒く感じられる。
今から引き返せば、ほどよい時間に帰宅できるだろう。
そろそろ帰ろうかと彼女に提案しようとした、そのときだった。
「あっ!ゆきっ!雪だっ!」
私もその声につられて空を仰いだ。
空からは、真っ白で、細やかな雪が降っていた。
「本当だ……」
りんなちゃんはくるくると回りながら、器用に飛び跳ねた。
「ゆっきゆっきゆっきだー、ゆーきでーすよー!」
そして、そのまま妙な歌詞に妙な節をつけて歌い出した。
私は彼女の歌を聴きながら、しばらくぼんやりと雪を眺めていた。
「ほら、おじさん!」
りんなちゃんが両手で作った器に、水溜りを作って差し出してきた。
「雪、あったかいでしょ?」
私はあえてそれには同意せずに、りんなちゃんと同じように両手をぴったりとくっつけて器を作った。
そこに、ひとつふたつと雪の欠片が迷い込んでくる。その雪は私の体温ですぐに溶けてしまって、水になった。次第に水溜りになって、その水溜りの上にも雪が降りてくる。
気付けば、私の頬に涙がつたっていた。
次から次へと、まるで溜まっていた涙が身体の外に流れ出すように、止め処なく溢れてきた。
妻の言葉を思い出す。
今年の雪が見たかった、と。
そしてやっと今、その理由が分かった気がした。
「どうしたの?おじさん、泣いてるの?」
「いや、なんでもないよ……大丈夫だから」
私はりんなちゃんの目線まで腰を落として、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「雪って……あったかいんだね…………」
その温もりで、妻が感じていたその温もりで、妻がいなくなった時から凍てついていた私の心が、溶けていく気がした。
*
兄は夕飯を食べたらすぐに帰るというので、私はまた車を走らせた。結局りんなちゃんは私が泣いた後、その理由も聞かなかったし、兄に言うこともなかった。
私は彼女の聡明さに感謝した。
二人を送り、また寂しくなった車内で私はラジオをかけた。そのニュースひとつひとつをじっくりと聞き、沈黙を埋めた。
程なくして、私は赤になった縦型信号機で止まった。その上には、少しながら雪が降り積もっていた。
きっと明日の朝にでもなれば、屋根の上にでも積もりに積もって、また雪掻きが日課になる日々が訪れるのだろう。やがて春が来て、雪解けを迎えるのだ。
そのことを思うと、私は心が満たされる心地がして、笑みがこぼれた。
今年もまた、雪が降るーー。
ご覧いただきありがとうございました!