キヴェイト-ラス-トルン
周囲を木に囲まれた広場で、水の音に気をやりながら、彼女はそれを見上げていた。ずっと昔に死に別れた女性。人よりもずっと長く生きた彼女はしかしあの別れだけは昨日のことのように思い出すことが出来る。安らかな死に顔だった。それはまるで笑顔のようで、甘美な死に抱きしめられてどこか別の世界に旅立っていくかのような表情だった。
「でも何でユナイテッドさんは……」
彼女は自分と同じ事が出来た。手を見る。ずっと生き続けてるのにしわ一つ無い手のひらが目に入る。それから、目の前にある石像に目をやる。彼女の面影がそこにはあった。さらにその向こうに月が目に入る。ずっと過去のことだ。わたしが分かるのに何百年もかかることに母は百年もかからずにたどり着いていたと知ってうなだれる思いをしたのを今でも覚えている。それから母の最後に残した書物であるデストレイルに一文を付け加え修正した。人は死ぬことが出来る幸福と一つになるとかそんな文章だったと思う。もう読み返していないから分からない。ルクスは右ポケットに手をやった。得体の知れない何かがそこにはあった。直感的にそれがなんなのかは分かったが、触ってみてやはり実感する。これは卵だ。じっと、彼女よりじっと、辛抱して孵化する時を待っている。
ルクスはもう一度石像を見上げた。月に照らされたそれは今にも動き出しそうだった。否、今の彼女ならそれを動かすことすら可能だった。
「でも何でユナイテッドさんは……」
先ほどと同じ言葉を反芻する。左手にはかすかなやけどの跡があった。どれだけ巨大な力を得てもこの傷跡は消す気にならなかった。棺の中に手を突っ込み半ば無理矢理取り出した杖。不思議と彼女が触れると青い炎を起こし、ルクスの左腕を焦がした。炎と共に伝わってきたものがある。鏡の指輪はただ同じ風景だけを映していた。繰り返し、繰り返し映していた。
「何で、それが出来るのに……」
簡単なことだ。彼女はディアナと一緒に年老いていく方を選んだ。それだけの事なのだ。思えばユナイテッドに教えを請い始めてから無意識に自分の身体の成長自体を止めていることに気付くべきだった。自分は小さな体つきなのではなく子どもの状態で止まっているのだと。
「生命自体を歪めることで生きながらえることは出来た」
ねえ、ユナイテッドさん。小声でささやきながら月を睨み付ける。満月だった。
「あなたはせめて母さんの最期を看取ってから自分が死ぬくらいの事は簡単にできた。わたしはもう何百年生きたか分からない。多くの家族と出会い、多くの家族を失った。友達も出来ては無くし、ひたすらそれを繰り返してきた。ただ生きながらえても得たのは孤独、それだけだった。ねえ、わたしは間違ったことをしてるの? トレイシーの姓を捨てクラウディアの姓を名乗り永遠を生きようとするのは間違ったことなの? もう二度とグレートブランクを起こしてはならない。わたしが証人になる。そしてわたしが……」
満月を見上げる。数え切れない年月を刻むうちにようやく気付いたことがある。そうだ、まだ終わっていない。本当に最後の最後。この卵を孵化させ、杖を本来の持ち主に返す。エコー=クラウディアが天才的な文才で表現した妖精族に。未だこの世の森羅万象を支えている人間以前の最初の種族に。
「そう、それが本当の始まりだった」
ルーン=フィン=エルファース記念公園。かつてここはそう呼ばれていた。彼女はここの呼び名を変えた。ユナイテッドサンクチュアリ。全てはここから始まりここで終わる。我ながら何という驕りだろう。考えているだけで笑いが出る。本当の聖域、かつて誰もが不可侵に終わり、それ以降も誰も調べようとすらしていないところがあるではないか。こればかりは人間を遥かに超えた年月を生きる方を選んだ、そう、生命をねじ曲げてでもこの世界に居座る方を選んだ、間違いだらけの、汚らわしい人間にしかできない。
「循環海流の中。まあもっとも循環海流ももう無いんだけど」
ふと、誰かが右肩に触れる気がした。左肩にも。気のせいだ、気のせいに決まっている。誰も、わたしと一緒に来る人なんか誰もいない。彼女は左手に杖を、右手に剣と鏡の指輪をつけ、自分自身がひそかにが南の果てより持ち帰った虚無の卵を携え、空に飛び上がった。翼なんてなくとも風を自由に操る術を身に着けた彼女にはそれは容易だった。
でも何でだろう。本当の風ではない、魔法の風を身に纏いながら彼女は思う。歩き、船を作りともかく自分の力で歩もうとした母とは違い、自分は全然違う方法で歩みを進めている。ディアナが狂気を世の中に見いだしながらもそれを相手にすらしないことを選んだのに対し、わたしはそれに対峙し、手を入れ、容赦なく扉を開き、正しいものに修正を加えるだけでは飽きたらず自分の思い通りにねじ曲げようとすらしている。
「違う……」
誰にも見られていない星空を飛びながら彼女は呟いた。
「本当に正しいものが、まだ足りない」
ゆっくりと風景は動いていった。
「わたしが取り戻すんだ」
ぐらりと世界が歪んだ。彼女の手の傍にまるで卵形の水がヴェールに包まれて存在するかのように、ルクスの右手を通すと世界が広がり、あるいは縮まって見えた。
「これは?」
やっと集めた仲間の一人が言った。経験豊富な中年でこれを最後に隠居するつもりだという。
「虚無の卵。これを孵化させようと思う。方法は全く分からないけれど」
「不老不死の秘密を聞きに来たのに今度ばかりはお手上げね」
「そう言わないの、フェイ。でもこれが出来たらフェイも不老不死にしてあげるよ。でも、わたしはそうなるには少し若すぎた」
ルクスは言いながら右手を前後左右に動かした。その度に視界はめまぐるしく変化した。しかしルクスの右手にあるものそれ自体を視認することは出来なかった。若すぎた。自分の言葉が脳内に響く。虚無の卵に映る自分の姿。どう贔屓目に見ても十五歳かそれくらいにしか見えない。立ち上がってもヒューイやフェイ、それにジンとは頭一つや二つは軽く身長も違う。彼女はため息を吐いた。
「で、方法はあるの?」周囲を見渡してから、フェイが続けた。ルクスもまたゆっくりと周囲を伺いながら答えた。
「今まで生きてきた限りでは見つけられなかった。でも……」
これはわたしが見つけたんだ。という言葉を自分の頭の中でだけ繰り返した。そうだとしたらきっと。
「わたしに課せられた使命は……ううん、そんな安っぽいものじゃなくて……」
「グレートブランクを埋めるだけでも相当なものだと思うが」ああそうそう、オレンジジュース一つ、と言いながらジンが言った。
「あ、わたしもオレンジジュース。みんなは?」
「俺は甘いのはいらないよ。フェイもだよな?」
「私? そうね、いつも通り今夜は寝かせてくれなそうだからコーヒーを貰おうかな」
呼び鈴を鳴らしウェイトレスに注文を言う。それからルクスはちょっと待って、と言い、鈴に魔法をかけてハーモニーを生みだした。雑多な会話に塗れていた店内は一気に静かになり彼女の奏でる音楽が辺りを調和した。
「えっと……それから何か食べたいものある?」
「じゃあピザを貰おうかな」フェイが言った。
「俺は何でもいい、ヒューイが決めてくれ」
「じゃあシーフードドリア。大皿で出してくれ」
ふと自分の分の注文がないことに気付き、ルクスはやや悩み言った。
「わたしはいいや。それに少し考えることが出来たみたい」
しばらく食事を続け、他愛もない会話を繰り返し、すっかり夜も更けた頃にルクスを先頭にして一行は店を出た。丁度ガドールから今日最後の船が出たところだった。灯台の光が全員を照らした。
宿に戻り、どうやら船からやって来たらしい人たちと談話室でひとしきり話し、殆どの人が部屋に戻った後に彼女はようやく眠ることにした。レセプションにお休みの挨拶をして、自分の部屋に入る。しかしいるはずのフェイはいなくて部屋はがらんとしていた。また夜遊びしてる、とルクスは思ったがそれよりも眠気が勝ったので戻ってくるのを待たずに眠りについた。
翌朝、目覚めると既に昼近くだった。朝のすがすがしい光は消え去り、代わりに日中の鈍い光が部屋を照らしている。ルクスが目覚める前から既に仲間たちは集まっていたようで、起きて意識をはっきりさせるとすぐにジンやヒューイの姿を確認できた。
「あら、今日は男友達連れ込んでないの?」
寝起きにどうぞと紅茶を差し出してくれたフェイに言う。
「私が連れてくるのはルクスに興味がある人だけだって。変な意味じゃなく」
「また無茶苦茶言ってる。大体わたしは……」
続けて何かを言おうとしているルクスをジンが静止した。
「今日の予定は?」
「それから昨日言ったことの方法くらいわかってるんだろうな」ヒューイが手を揉みながら言った。
ルクスはしばらくうつむいたままじっとして、それからやっと顔をあげて全員の顔を順番に確認してから答えた。
「今日の予定はコーデリア本家へ行く。再建されたとはいえ、ユナイテッド=コーデリア以降、後を継ぐ人が出てきてないし」本当はわたしが継ぐべきだったんだろうけどと付け加えたいのを彼女は必死にこらえた。「それから虚無の卵を孵化させる方法は分からない。けどきっと何かあるはず。上手くいくかどうかは分からないけど」それから心の中でだけ付け加えた。それが出来ればわたしの、不老不死の女の子の永遠に続く物語は終わりを告げる。
ルクスは朝食を兼ねた昼食を、他の三人は昼食をとり、それからやっと街を出る。相変わらず止まない風が吹き荒れている草原だった。ところで今は夏だっけ? 冬だっけ? 悠久の時を生きるうちにそんな感覚はすっかり麻痺してしまった。虚無的な感覚。ここにわたしがいるという実感を抱けずに、ただ単に惰性的に生きながらえるだけ。思えばそれが分からなくなったのは何時からだろう。こうして今歩みを進めているのに、自分が動いているのかあるいは世界の方が動き回っているのかが把握出来ない。もしもここに立ち止まっていたら勝手に景色が移り変わってどこか別なところに行けるのではないか。それに例えばこの赤い花は何時から六枚の花弁を持つようになったのだろうか。ずっと昔は八枚だったような気もするし、四枚だったような気もする。これが間違いなくこれで、更に明日もこれであるという保証なんてどこにもないのだ。昨日のわたしと今日のわたし、グレートブランクを埋めたわたしと今のわたしが同じであるという保証はどこにもない。考えながらルクスはいつの間にか鏡の指輪を目にしていた。そこにはルクスの表情が浮かんでいた。何でだろうな、何かが変わらず不変であるという、何の根拠もないことにどこかで信頼を寄せていたかつての自分が憎らしかった。そんな事がありえないからこそグレートブランクが起きたのではないか。その隙間を埋めるということは。
「ただのわたしのエゴだったんだろうか」
ルクスは口に出していた。
「何が?」隣を歩いていたジンが言った。
「何でもない。何となく、ね」
それからやっとルクスは顔をあげ、目の前に広がる青空に目をやった。
正門で呼び鈴を鳴らしても誰も出てこないので仕方なく彼女たちは裏に回ることにした。しかし裏口も特殊な魔法で閉ざされており、ルクスですら開けることが出来なかった。仕方なく、もう一度表に戻り、呼び鈴を鳴らしたり門を叩いたりするが誰の返事もなかった。
「珍しいこともあるもんだな」ヒューイが一歩下がった位置から言った。
「そうね。普段は誰かいるものなんだけど」フェイも言った。それを聞いてルクスの脳内に嫌な予感がよぎった。
「何とかして中に入らないと」
こんな大きな家で誰も残さず全員が出てしまうというのはあり得ない。いくら家督権を持ってるものがいないとはいえ、彼女が知っている限り例えばレイとリリーの孫はここで働いていたはずだし、ルクスのルーテクスでの知り合いだって何人かこっちに来ているはずだった。麻痺している感覚を呼び戻すために空を見つめる。太陽の光が目に入る。それからもっと見えないものを見つめようとする。この家の中はどんな様子になっている。廊下。誰もいない。近くの扉を開けて部屋に入る。誰もいない。何か事件が起きている雰囲気はないか。そんなものもない。じゃあ誰がどこに行った。ふと、誰かがルクスの肩に手をあてた。
「ジン、何なの」
「塀を乗り越えて入ることは出来ないのか」
「無理。魔法の結界だから普通の方法じゃ入れない。わたしなら別だけどわたし一人で入ればいいってものでもないし。それに鍵の魔法が解けないからわたしが中から開けるってことも出来ない」
ルクスはゆっくりと右手を前に突き出した。鏡の指輪を身に着け、虚無の卵を持っている手だ。高い音を立てて空間が歪んだ。
「仕方がない、こうやって中に入りましょう」
彼女たちは光の粒を残して家の中に転移した。
一歩足を踏み入れた瞬間それは失敗だったと分かった。おぞましい感覚が身を貫く。身体と心がばらばらになるような、そんな違和感が。そういえばずっと昔、これと同じ感覚に襲われたことがある。自分が不老不死になっていると気づいた時だ。経験を重ね老いていく精神と、それに反して少女のままで成長を止めた身体が乖離を起こししばらくの間耐え切れず寝込んだことを思い出す。ユナイテッドと母ディアナが立て続けに死んだ後だったから余計にダメージも多かった。でも、今この場所にあるのは。外界と自分自身の乖離。ここにいてはいけない。特にわたしのような悠久の生命を持ったものではなくて、死の定めに囚われたものたちは。
「みんな下がって!」
ルクスは叫んだ。
「ここは汚染されてる!」
何かが溶ける音がした。錬金術に没頭してた時に誤って硫酸をかけてしまったのを思い出す。ルクスは気配に気を配った。早く仲間たちの安全を確保しなければ。再び転移して表に出る? 駄目だ。この汚染は恐らく身体を蝕むだけではなく、生命自体にも歪みを与えるもの。原理的にはルクスの不老不死に似ていた。じゃあ……。ルクスはあるだけの力を集めた。悲鳴が聞こえる。人間のものとは思えない声で、それが誰のものか分からない。慌てて完成させた魔法が制御しきれず辺り一帯に充満する。かなり強力な結界を張り、侵食してくる汚染を取り押さえるのだ。ルクスがようやく振り返ると、背後にいた仲間たちは全員が服をぼろぼろにして、肌はまるでケロイドのようになっていた。ルクスは火傷の跡が残っている方の手を仲間たちに向けた。
「ごめん……わたしがもっと早くに気付いてれば……」
返事はなかった。ヒューイもジンもフェイも身振りで何かを伝えようとしているが、想像を絶するダメージを負った身体がまるで言うことを聞かないようだった。実際皮膚はただれ、表皮がはげて赤い筋肉がむき出しになっていた。治療はほぼ不可能に近かった。
「どうしよう。怪我を治さないと」
生命力自体を活性化させることでなら治療する自信があった。しかしその代償は。
「わたしに治せるんだろうか……」
異常促進した生命活動は本来定められた生命自体の活動限界である寿命そのものを大幅に消費してしまう。さらにそれだけでは済まされず。
「ごめんなさい。リスクが多すぎるから治せない……」
痛みに耐えるあまり身動き一つ取れない仲間を見て可哀想だと思ったがそれは出来なかった。何故なら。
「多分この怪我を治す方法はみんなを不老不死にしてしまう事だけ。でもそれは永遠に生きることではなくて死を失うこと。そんな恐ろしい目に会うのはわたしだけで充分。死ねないというのはただの悲劇。どれだけの喜びを得ても満たされないしどれだけの悲しみを得ても逃げられない」
ルクスは沈黙した。
「ただの怪我なら皮膚再生で治せるんだけどここの汚染された空気は生命活動を歪めてる。歪みを更なる歪みで上書きなんてしたらもうみんな原形をとどめなくなってしまう。わたしにはそれは出来ない」
かすかに、ジンの唇が動いた。必死にそれを読み取る。大丈夫。そう、よかった。
「分かった。そろそろ結界が切れるしここから出ましょう。それと痛み止めの薬草が沢山いるね。じゃあ……」
先ほどと同じように全員を光が包んだ。目をあけるとそこは周囲を木々に囲まれたどこかの山奥だった。色とりどりの花が辺りに沢山散らばっていた。天然のハーブだ。これで痛みを取って、それから傷を保護する特殊な材質の服を編んで。でも。
「顔だけはどうする事も出来ないか……」
顔の筋肉を動かすと痛むからだろう。何も口に出来ない仲間たちがしかし心の奥底では何の恨みも述べないことがルクスには一番辛かった。
覚えている限りではあれが最初の悲劇だった。空を一直線に飛びながらルクスは思った。
「そう、それは悲劇だった。だって」ルクスは調停する杖イフィトラスディアを無意識に力をこめて握りしめていた。
「わたしさえいなければ彼らはもっと普通の人生を全う出来たんだもの」
ルクスは一息ついた。
「そして第二の悲劇は起こる。これもまた」
瞬間、強風に煽られルクスはバランスを崩した。海に激突しそうになる間際で追い風を起こし再び舞い上がる。拒絶されてるな、と彼女は思った。この呪われた運命を、真の意味において終わっていないグレートブランクを、この世のあらゆる現象が始まりそして終わるということを、これをなしてしまえばもはや何物も幸福からは遠ざかることを、しかしこれから成し遂げることは真実に至るための最後の一歩だということを、そしてそれ自体が禁忌とされあらゆるものが自分を否定しにかかっているとルクスは思った。ここから先、わたしは進むことが出来るのだろうか。ユナイテッドサンクチュアリと対をなす場所、クラウディアサンクチュアリとでも呼ぶべき場所に。
半年後、彼らの容態がようやく落ち着いてからルクスは単身、コーデリア本家に向かった。汚染の原因とそれが内部にとどまるのか否かを調べなければいけない。そして他の人がどうなったのかも。
「こんなおぞましい死に方はしたくないな」
言いながら、前にやったように中に転移する。移動した瞬間に相変わらず抱く違和感。それはこの空間が通常の認識世界と何らかの意味合いにおいて共通要素を欠いているからで、それこそが汚染と感じさせるものの所以に他ならなかった。ルクスは上下左右一通り目視してから前に向かって進み始めた。魔力の供給は恐らく絶たれているにもかかわらず宝石は光を灯していて、窓越しに射し込む太陽光は微妙な凹凸が施された壁にぶつかり、複雑な屈折をして位置や時間で変化する虹色の映像を浮き上がらせていた。誰もいないにもかかわらず絨毯には埃一つない。ルクスは曲がり角で立ち止まり、息を思い切り吸ってみた。呼吸は出来る。そうだとしたら。
「わたしが言うのもおかしいけど……」
結論を下すのはもう少し調べてからだ。まずは生前にユナイテッドさんが使っていた部屋に行こうと思い、彼女は足を動かした。
ゆっくりと音も立てずに扉は開いた。そう言えば鍵を一切かけない人だったな、とふと思い出した。麻痺した記憶から引き出される、まだ自分が生きていた頃の記憶。もうあの頃のようには歩めない。そして、もう心が激しく躍ることもない。だけどわたしはそれを思い出すことが出来る。未来への歩みを止めてしまったとしても過去を探索することが出来る。ああ、でもそれも――グレートブランクを埋めることも終わらせたんだった――じゃあわたしはどこに向かって歩めばいいの。
「ねえ、ユナイテッドさん」
彼女が没して以降、その部屋には銀髪の若い女性の等身大の肖像が飾られていた。ルクスはそれが何なのかを見るまでもなく思い出すことが出来た。
「老いて尚若く見える人だった」
彼女は自分の手のひらに目をやった。小さな手のひら。何かを掴むことが出来そうにない。汚れ一つない肌。ただ火傷の跡だけはわたしが生きた実感を与えてくれる。それは身体に歩んできた道筋が、しかしそれ以降は刻まれていないと言うこと。
「これを描き始めたのは母さんが行方不明になったと聞いた後だったか」
でもその直後、ディアナから最後のメッセージを受け取ったのを覚えてる。あたしはここで待ってるからと。わたしの中で何かのバランスがおかしくなってる。その記憶に触れた瞬間、彼女の空色の瞳は涙に溢れた。母さん、ごめんなさい。わたしはそこには行けない。もう、一歩たりとも自力では進めないんだ。
「大丈夫」
懐かしい声がした。ルクスは顔を上げた。丁度太陽が回り込んだのだろう。ユナイテッド=コーデリアの肖像は太陽光を受けて、まるで彼女がそこにいるかのように立体的に浮き出していた。
「こんな時に何て挨拶すれば良いんだろう。久しぶり?」
波立っていた心が急速に穏やかになっていくのを感じる。
「久しぶりね。ルクス」
「わたしは間違ったことをしてしまったんだろうか。この地に居座るのはいけないことなんだろうか。それにこの場所で起きていることは……」
ルクスが言葉にするよりも早くユナイテッドは答えた。
「私には正しいかどうかは分からない。その代わりだけど、私は多くの足跡を残せた。自分自身にじゃない。誰とも結婚しなかったから家族だっていない。だけど私が間違いなくここにいたというのは他ではないルクスの中にはっきりと存在してる」
わたしはそれが出来ない身体になってしまった。わたしは誰にも干渉できない。また心がバランスを崩した。言葉を形作ることが出来ない。
「じゃあ誰がここの異変を調べるの? もしもルクスが不老不死じゃなかったとしたらここはどうするの?」
太陽の位置のずれが大きくなったのだろう。見えなくなりかかったユナイテッドに合わせてルクスはいつの間にか足を動かしていた。
「わたしはただ……」
「良かった。ルクスはやっぱり私の思ったとおりだったみたい」
細い腕を前方に向かって伸ばす。やめて、いなくならないで。もっとお話ししたい。もっと。ああ、一人は、一人は嫌だ。違う、多くの死を踏みつけながら自分一人だけが生きながらえるのがどうしようもなく嫌だ。
「そうじゃない……わたしは……」
光はいつの間にかルクスの方向に向かって伸び、彼女の目を金色に染めた。
部屋の様子を確かめて特に異変がないことを確認した彼女は次に行く先を決めあぐねた。何だかどっと疲れが出てきた。そうだ、今日は図書室に行って終わりにしよう。それから思う。
「生命感のない場所でもわたしなら生命を維持できる、か」
既に自分の生命自体が人間のそれから離れているという現実を突きつけられ、どうしようもない悲しみと孤独感がルクスを襲った。
「まあでも」
おかげで死んだ人に会えたのは幸運かも知れない。多くの同胞を先に失う中、逝ったものにもう一度会えるのがどれだけの安らぎを与えてくれるのか。戻ることの出来ない過去ではなく、ここにある現在にその人が現れる。
「じゃあわたしはまだ孤独じゃないのかも知れない」
変だな、と図書室に入る前に思った。自動的に閉じるように設計されている両開きの扉が片側だけ開いている。バネが切れたのかと思い、動かしてみるが扉は正常に左右が連動して動いた。ここに溢れている違和感が急速に現実味を帯びて襲い掛かってくるような気がした。何だろう。怖い。ヒューイもジンもフェイも皆身体の皮がはげて肉がむき出しになって想像しがたい苦しみを味わった。そうさせるだけの何か。ボールを投げ入れると停止することなく転がっていき壁にぶつかり跳ね返る、そんな乱れが極限まで達したかのようなものがここにあった。
「誰かが扉を開けてここに入った後、閉まらなかった。あるいは逆に閉じた扉が何かの拍子に右側だけ開いた。バネを壊さずに。ということは」
言葉を発している理由は単純に恐怖からだ。
「開きっぱなしの本がいくつかあるけどそれを見ていけば……」
ルクスは閲覧室にならんだ机を一つ一つチェックしていった。他愛もない本からルクスでも理解できないような本まで色々と散らばっている。グレートブランクで失われた記録をよくここまで一代で再現したなと今更ながらにユナイテッドを褒めたくなる。
一瞬、余りにも自然すぎて見過ごしそうになった。その本は大部分が黒茶色になっていた。殆ど消失した断片を拾い上げ、表紙を目にする。赤い表紙。いや、本当は何色だったんだろう。何だろう。これは。ゆっくりと内容を確認する。文字の形に見覚えがあった。誰の字だっけ。そう、そしてこの文章も既視感がある。沸き上がる思いを何とかかき分けてやっと言葉が出てくる。
「これはわたしの書いた本だ」
そう、そうだ。
「グレートブランクを埋めようと書いた、歴史空白を埋める記録の再構成。これが再び消失するとすれば……」
そういうことか。と彼女は愕然とした。誰がやったのかは分からない。何がどうなっているのかも分からない。だけど、もう一度発生しかけたグレートブランクはここで止まった。誰がこれを燃やそうとしたんだろう。そして誰が止めようとしたんだろう。わたしがグレートブランクを埋めようと何てしなければこんな悲劇は起きなかったのだろうか。ルクスはその場に座り込んだ。身体が言うことを聞かない。立てない。しばらくはこのままでいいや。涙も出てきやしない。
数回計画されたヒューイの皮膚移植手術は全て失敗に終わった。馴染む皮がなかったのだ。適当に見つけてきた花を纏めたものを持って彼をお見舞いした帰り、何の慰めも思いつかない自分を浅ましく思いつつ、見知った看護師を見つけ声をかけた。
「ちょっと暇ある?」
「あるわけないだろ。何だよ……ってルクスか」
「ネーター、すぐ終わるから。こっちへ来てくれない?」
ネーターを連れ、空き部屋に入る。小部屋にはテーブルと椅子が配置されていて談話や会議に使えるようになっていた。大きな窓から表の景色が飛び込んでくる。山奥に設置された、終末医療機関。基本的には助からない患者がここには大勢いる。
「さてと。すぐ終わるから立ったままで大丈夫よ」
言いながらルクスは自分だけ座った。それからネーターが反応するのも待たずに右ポケットに手を突っ込みナイフを取り出す。刀身を保護しているカバーを外し、刃をむき出しにする。鏡のように磨かれたそれに自身の姿が映る。それから左手首を覆い隠している上着をめくり、右手でそれを握り、刃をあてがう。
「ちょっと待て、何をする気だ」ネーターは慌てて、テーブル向って右側に座っているルクスに手を伸ばす。音も立てずに刃が宙を飛んだ。ルクスの左手は一切傷つかず、それどころか逆にナイフの方が壊れた。
「……」ルクスは何も言わなかった。
「どうなって……」
「わたしが年を取らないのはこういう事なのよ。もう傷つくことが出来ない。わたしが負うはずだった傷は誰か別な人に擦り付けられ、それはこのナイフの刃がそうであったように、相手に致命傷を与えてしまう。今、刀身は窓側に向かって飛んで行ったけど」ルクスは言いながらテーブルの上に落ちた刃を目で追い、それからネーターに目をやった。「もしもこれが逆に飛んで行ったら? わたしが傷つかないだけならまだ我慢が出来る。だけど、ネーターにまで被害が及ぶんだとしたら? わたしはもう誰かの代わりに傷つくことが出来ない。それどころか……」
いつの間にか俯いていた顔をあげてもう一度ネーターを見つめる。
「せめてジンだけは救ってあげたかった。恐ろしい傷を肩代わりしてあげたかった」
「何とか、治す手段を見つけよう」
ネーターの言葉にルクスは頷いた。それから不意に何かに思い当たる。そうだ、何で気付かなかったんだろう。もう失われた三つの宝珠なら奇跡だって起こせるのではないか。
思い出せないはずの記憶を掘り起こしてる。身体全体で風を、大気を感じながらそう思う。もはや過去も未来も失われた空虚な生を何かで満たすために。そしてまた目の前の景色は一変する。かつて見つめた、灰色の世界に。
あの後どうしたんだったろうか。フェイは数回の治療の失敗の後、夜中にこっそりと倉庫に入って毒を飲んで死んだ。彼女はよく、会いに来る友達が日に日に減っていくのが悲しいと言っていた。多分それが原因だろう。どんな傷も、どんな痛みも孤独感、それも自分が窮地に追いやられたときに追い立てられてたどり着いたものには敵わない。それからヒューイももう一度家族に会いたいと言いながらその願いは未だに叶わないままだった。彼も結局は怖いのだ。もはや人間離れした外見で自分の大切な人に会うのが。その気持ちはルクスにもよく分かった。彼らが年老いていく中、彼女だけは若いままの肉体を保つ。ルクスは一緒に老いることが出来ないのが辛かったが、逆に年齢を重ねていく側もまた、身体の衰えと無縁なルクスに嫉妬して離れていくのがしょっちゅうだった。
「でも、臆病なだけだから。物語の中ではよく不老不死の人間は出てくるけど……勿論実際に会ってしまったら当然彼らは怯えるに決まってる。そして自分と比較して、容赦なく見せつけられる。少しずつ運命が足音も立てず迫ってくることを。……でも……」ルクスは目を閉じた。月光に照らされた夜空は暗闇の中に青い光が踊っていた。しかし彼女の瞼に映るのは宵闇を象る情景ではなく、死に彩られた灰色の世界だった。否、そこには死すらない。生と死の調和により成り立っている現実世界とは根本が異なる、不均衡の中に既にわたしはいる。
「みんな、これに気付くんだろうな。わたしを見て怯えるんじゃなくてわたしのいる場所に怯えてる。どんな色も失われた」勢いが落ち、急に身体が落下を開始する。ルクスは海面すれすれで何とか持ち直し、また上昇を開始した。夜の海は月と星の光を吸い込み、波も一つ立てず輝いていた。
「色の失われた? 違う、わたししかいないから誰も色を必要としない、それだけのこと。太陽の光は何も照らす必要はないし」ルクスは月を見つめた。「月光ももはや意味を持たない。昼も夜も存在せず、それどころか大気もない……」ルクスは自分の胸に手を当てた。あれ、心臓の鼓動を感じる。何だろう、ずっと自分の身体の事なんて気にしてなかったのに。ああ、その灰色の世界にいて尚身体はそのままだったんだ。
「中途半端な救いなんていらないよ。悠久の時が全てを葬り去るだけだから」
しかし右手から伝わる感覚はそんな長い時を経て消え去ることはないのだ。
ユナイテッドサンクチュアリでパン屑を蒔いて鳥を呼び寄せながらふと彼女はあの時のことを思い出した。ユナイテッドを鳥葬した事だ。もう誰の提案だったのか覚えていないけど、ともかく彼女は大地に、空に還っていった。ここにはまだ沢山の小鳥たちがいる。呼べば集まってくる。鳶が突然舞い降りてきて集まってきていた小鳥たちは散り散りになった。
「さてと」
ルクスは木に囲まれた場所で、上を見上げた。
「隠れてないで出てきなさい」
葉が多く茂っていて下からでは目視出来ないほどの木の上から男性がゆっくりと飛び降りてきた。
「登るのも大変だったけど降りるのも大変だな」
ルクスはため息を吐いた。
「だからってそのまま飛び降りないで。わたしが衝撃を緩和してなかったらエルは今頃大変なことになってたわよ」
「エルって誰だよ。俺はエーリだ。他の人と間違えてないか」
ルクスは面倒なので記憶を辿らなかった。
「あれ、エルじゃなかったっけ。エーリって誰?」
「エーリだよ、エーリ。間違えるな。それから歩きながら話そう。目指すは」
ルクスはユナイテッドの石像に向かって一歩進んだ。
「この先のレーラス山でしょ?」
「よく分かるな」
ルクスは頷き、それから準備無しで山を登るのもどうかと思うけど……と付け加えながらも先頭に立って進んだ。しかし彼の本当の名前は何だろう。エルじゃ都市名だし、エーリもやはり地名に近い響きだ。彼女は目の前に雲のかかったレーラ山を見据えながらずっと考えていた。結局膨大な記憶から正解を見つけることが出来ないまま、登山口にたどり着いた。
「どうしよう。何の準備もしないまま着いちゃった」
「大丈夫。ここのすぐ近くのロッジに仲間が控えてる」
だったら何で私を呼ぶのと言いたくなるのをこらえて、彼女はそこに向かった。
ロッジに入ってすぐに気付いたのだが、エーリがルクスを呼び寄せた理由は目的以外にメンバーにもあった。全員が全員ルクスのよく知った顔だった。
「あらみんな、久しぶりね。そういう訳だったの」
言いながら記憶の海とその人とを同定していく。不思議だな、普段ならカオスの中に消えていく実感がそこには沢山あった。どれも手を取るように分かる。そうだ、彼らはわたしの誕生日まで祝ってくれた。どうやって調べたんだろう、そんな昔の話を。
「わたしの誕生日パーティーの時に左足と右手のない人形を作ってくれたのは誰なの? 飾っておいたら窓を開けた拍子にカラスに取られちゃってそれっきりだけど。ろうはダメね。カラスはろうが大好きみたい」
今では母、ディアナ=トレイシーの事を調べることはかなり困難な作業になっていた。と言うよりもディアナの事を調べるのはともかく、トレイシーの姓を捨てたルクスをディアナの実の娘だと特定するのがそもそも難しかった。テイルズワンダーもデストレイルもディアナをよく知った少数の人に配布し、後はこっそりと歴史図書館に忍ばせてあるだけだった。配本はユナイテッドが亡くなった後に行われたから、ディアナと生前付き合いがあったごく僅かな人間にしか行き渡っていないし、それだってずっと前のことでどれだけが現存しているのかは疑わしかった。そしてルクスがルクス=クラウディアではなくルクス=トレイシーであると知る方法は――彼女の知る限り――殆ど有り得ないはずだった。そんな足跡は残していないのだ。精々マリンまで続いたクラウディア家と思い込まれるのが常だったし、実際ルクスの目的も彼女を継ぎ、それによって彼女によりもたらされたグレートブランクを埋めるのが目的だったのだからその考えが流れるに任せていた。
「誰だと思う?」
全員が彼女を見つめた。
「ええと……ファイン? ディー? ズェス?」
「ダメだダメだ! そうやって順番にやっていったら何時か当たってしまう!」
「降参よ。そもそもこの中にわたしの長らく忘れていた正体を調べることの出来る程の人がいるとは思えない」
ルクスは暖炉に目をやった。夜は冷える。燃える薪はパチパチと心地よい音を立て、火の粉を散らせていた。
「リリーって名前に聞き覚えがあるかい?」
ルクスの向かいに座っている人間が言った。
「ええ。随分と仲良くしてたけど」
「リリーは孤児院を経営していました」
へぇ、と思った。今ならあの頃の記憶が手に取るように思い出すことが出来る。まだわたしが輝いてた頃、まだわたしが生きていた頃の記憶。彼女は孤児だった。そうだとしてそれを紛らわす生き方を嫌っていたリリーがやっている孤児院とはどんなところなのだろう。長い年月生きてきて、親友のそんな一面を知ったのは今日が初めてだった。知り合ったのは何年前か思い出すことすら出来ないというのに。
「その孤児院はどこにあるの?」
「……」
彼は黙った。名前を思い出す。ええとウィルだったか。
「ウィル、どういうこと?」
「リリーが孤児院を経営するなんて本当にあると思いましたか?」
文字通り長い間、ぼやけていていまいちピントが現実に合っていなかった思考回路が急速に鮮明になっていく。まるで世界がゆっくりと動いているかのように、自分が早く動いているかのように。それは以前何かの間違いで崖から落下したときの感覚に似ていた。
「ちょっと待って。それを言うためにはわたしだけじゃなく、リリーのことも調べないといけない。わたしとリリーの仲が良かったと知らないといけない。レイと結婚した後、確かコーデリア本家に行って……」
ここまで口にして苦い記憶が蘇る。今はもう大丈夫になったがかつてあそこで恐るべき犠牲が発生したことを。
「ユナイテッドの考えを纏めるのに苦心したようですね。リリーの残した資料がずっと前に大量に見つかったんですよ。ちなみに見つけたのは僕なんかじゃありません」
何でこんな気心の知れない連中と仲良くしてたのかルクスは自分でも分からなくなった。
「本当に偶然だったんだ。サーニフ郊外にある空き家でパーティをやることになったんだ。場所はどこでも良かった。船が来るまでの暇つぶしに誰も住んでいない家を見つけてそこに入り込んだんだ」
彼女はまだ高速回転している頭で言われたことを整理していった。確かに自分の生家はそのまま整備もせず残してあった。だけど長い年月雨や雪に晒されて残るような建物ではなかった。それにそこで色々知ったとしてもここまではっきりと知ることも出来るとは思えなかった。
「面白い話ね。続きは?」
「随分と古い家だったが、どこもやられていなかった。そういう作りには覚えがあった。コーデリア本家だ。魔法で強化されていたんだ。本当に誰も調べていないらしかったので家捜ししてみたら日記を見つけた。名前はリリー。それから壁に絵が描いてあった。それはルクスによるグレートブランクの再構成そのままだった」
何と言うことだ。時間の流れに呑まれてすっかり消えてしまったと思っていた足跡がこんなにもくっきりと残っていたとは。
「そうだとして、よくここまで調べ上げたわね。わたしの母が片腕と片足がなかった話なんてそう簡単に見つからないはず」
「ユナイテッドの手記だよ。何度もしつこくそういう障害を抱えながら前向きに生きようする女性と、彼女を支えることに生き甲斐を感じる様が書いてあった。それから彼女の娘を預かったとも」
いけない、このままじゃ嗚咽してしまう。これから何を言われるのか殆ど見当がついた。
「リリーの手記にも、なのね」
全員が頷いた。
「不老不死の友人の話がしっかりと書いてあった。そして、先に死んでしまう自分を許して欲しいと。これから何年その人が生き続けるのかは分からないけど、その分だけ多くの幸せを掴んで、人を幸せにしてあげて欲しいと」
「ダメ。わたしは……わたしは……」
ずっと抑えていた感情が一気に爆発する。ああ、わたしはいるだけで人に不幸を巻き起こし、その不幸を糧に生きながらえるような災いなのに。そのわたしに対して幸せを掴み、それだけではなく人を幸せしろとは。何てことだろう。不老不死の結果たどり着いてしまった、誰かの幸せを奪ってしまう凍り付いた闇のわたしではなく、生命の熱が溢れ人を照らすことが出来る光であれとは。酷い。あんまりだ。もう枯れたと思っていた涙が出てくるのに任せて彼女はしばらく泣きじゃくった。
「ユナイテッドさんが死んだときにすら泣かなかったのに」
上手く言葉が話せず自分でも何を言っているのか理解出来ない。自分の停滞しきった感情にまだこんな激しい流れがあったんだと知って自分でも驚く。それから気付く。どこかで人を不幸にするような、無意味な、生を浪費するような生き方しか出来ないと決めつけていたのではないか、もっと別な生き方、何が何でも人の幸せを追求するような生き方もまだ出来るのではないか、そうだ、事実自分の感情は麻痺なんてしていなかった、それどころか意外な再会に涙することすら出来る、例え自分が不幸な道しか歩めないとしても、何とかして他者を幸せにするような、そんなことが出来るのではないか。
「リリー、こんな事ってあんまりだよ。わたしはこんなに大勢から幸せを奪ってきたのに……」
誰かが何かを言った気がした。
「ルクスと会えない方がよっぽどの不幸だった」
はっきりと聞こえた。彼女にしてみれば密度の薄い、一瞬だけの付き合いであっても、普通の人間からしてみれば充分すぎる程意味のある行動をしていたのだと今更ながらに思い知らされる。時はわたしからそんな感覚を奪っていった。この実際は恐ろしくちっぽけな人間が歴史空白を埋めるという事を成し遂げたのだから世の中は皮肉なものだ。
「面白かったよ。人よりもずっと長く生きた人間の辿った道を調べていくのは。ある一定の段階からはともかく、最初の頃は間違いなくもう調べがついてるの。ディアナ=トレイシーの事も何もかも。それから」
彼女は、シャンティは全員の様子をうかがった。
「宝珠を探してるんでしょう。不老不死の運命を変えることが出来るかも知れないから。それからレヴァーディアの後継者と、さらに虚無の卵を孵化させる方法も」
考えているだけで誰にも言った記憶がないことをどんどんと並べられる。記憶がないだけで誰かに言ったんだろうか。引き延ばされた、薄っぺらい歩みはそんなことすら忘却の彼方に追いやっていたのだ。
「凄いね、みんな」
まだ涙は止まらなかったが、ぐしゃぐしゃになった髪と顔をそのままでみんなの方を向いた。直視は出来ないがぼやけた視界で辺りの様子を確認する。何て親切なんだ。どれだけの思いがあればここまでしてくれるんだ。わたし、そんなに感謝されるようなことしたっけ? お返しは何も用意できないというのに。
「誕生日おめでとう、ルクス」
ありがとうと何とか言おうとしたが出てくるのは涙声だけだった。思えば母の人形を貰ったとき、何故そうだと気づけなかったのだろう。積み重なっていく過去と、終わることのない未来に押しつぶされて自分が何なのかすら見失っていたのだ。生きている意味も。だがこの仲間たちは、彼女とは違って限りある人生を消費してまでルクスが何者であるのかを細かく調べてくれたのだ。もはや自分自身がただ空虚な生にしか思えなかったルクスに新しい風を吹き込んでくれたのだ。
「こんな素晴らしいプレゼント貰ったことない」
やっと、聞き取れる声で言うことが出来た。
「どういたしまして」
「僕たちが勝手に調べたことだよ。こっちこそごめん、身辺を許可なく漁ったりして」
リーフが言った。
「知っての通りわたしはずっと生き続けてるけど、そうすると昔のことをどんどん忘れていってしまう。今このときまで自分がどこで生まれてどうやって育ったかなんて思い出すことすら出来なかった。もはやわたしは自分が何のために生きているのか、何に基づいて人生を組み立てているのかすら分からなくなってた。新たなグレートブランクがわたしの中で発生してたのよ。それを埋めてくれて本当にありがとう」ここまで言って、また新たな考えが浮かんできた。
「プラナ=E=レヴァーディアの事はみんな知ってるよね」
「最初にあった物語作中に出てくる実在した女の子がどうかしたのか」
エーリが言った。今ならはっきりと思い出せる。彼はエーリだ。大学で講義してるときにいつも時間に遅れて入ってきて、喉が渇いたとか風が呼んでるとか鳥に話があるとか言ってすぐに出て行ってしまった人だ。
「実はわたしの母ディアナはプラナの振るっていた剣、レヴァーディアを再発見したの。問題はそれにふさわしい持ち手がいないこと。でもあなたたちの中なら……」
ルクスは右手を真横に突き出した。それから目を閉じる。もはやルクスはどこにあっても必要なものを引き出せるようになっていた。ルクスの右手に現れたのは両刃の巨大な剣で、柄の所に丸い穴が開いている。今ルクスが探している宝珠がはまっていた穴だ。
「ユナイテッドさんは調停する杖イフィトラスディアを手にすることが出来た。彼女に教えを請うたわたしがそれを引き継いだ。でもこれは?」言ってから、流石に剣が重すぎたのでテーブルの上に置いた。全員が順番に剣を見たり手に取ったりしていった。最初にあった物語作中ではプラナはこの重量のある剣を軽々と振り回していた。しかし誰もそんな真似は出来なかった。
「流石に無理か。でも、そうだ。レーラ山の山頂にこの剣を持っていきましょう。プラナもルーンも行方不明になったきり、お墓が作られていない。誰かがこの二人の死を信じようとしなかったんでしょうね。これを墓標にすればきっとプラナは浮かばれる。ルーンは……どうしようか」
「あれだけの論文を歴史図書館に残してるんだ」ズェスが言った。
「だけど記念公園は燃え尽きてしまった。あそこは今ではユナイテッドサンクチュアリよ」
「ルーン=フィン=エルファース記念公園はそもそも彼女が存命の間に作られたものだ。決して死者のために作られたものじゃない。数多くの著作の中でルーンは未だに生き続けているんだ」
「そうかも知れない。それで、この大人数で山に登るの? あんまり人数が多いと危険よ」
「俺は遠慮しておくよ。家内が船で働いてて大半を船の中で一緒に過ごしてるからね」
まずはファインが抜けた。
「人数が人数だからある程度の装備がいるね。途中の山小屋までは僕が色々持って行くよ。そこまでだな。あの先は道が荒れててそう簡単には登れない」リーフが言った。
「レーラ山になら何度か登ったことがある。中腹のレーラス湖畔から川沿いに登ろうとするとダメだ。荒れ野を突っ切り岩肌を歩いて行くと頂上に出る。俺が誘導するよ」ディーはすっかり乗り気だった。
「誘った手前俺が行かないわけにもいかないだろう」
言い方は仕方なくという感じだったが彼はやる気だった。
「じゃあ後はもう一人くらい女性がいれば完璧ね。体力? 大丈夫よ、エウスには紅葉を楽しみにエウス山脈に毎年行ってるから。たまに迷って出れなくなって焦るけどね」
こうしてシャンティも同行者に加わり、プラナの墓標を作るための山登りは実行に移された。
仲間たちは山登りになれているらしく、どこが危険なのかを説明してくれたおかげで安全に頂上まで登ることが出来た。荒れ野を抜けて、突然開けた場所に出るとそこからは今は水没したカトルラ運河が一望できた。海と一体となった空が目に入る。高い場所特有の澄んだ空気が彼女の鼻腔を満たす。それから特別見晴らしの良い場所を見つけ、そこにプラナの剣を突き刺した。どんな長い年月を経ても失われなかった輝きだ。
「でもプラナはまだ生きている」
「急に何を言い出すんだ?」
「だってプラナは……そうだ、墓標なんていらないんだ。この剣は誰かが持っているべきなんだ」
ルクスは突如そう言うとせっかく地面に突き刺したレヴァーディアを再び手に取った。そうだ、これでいい。人と共にあろうとしたプラナ。こんなところで生家を一望して死んだ人間として振る舞うより、生きた人間として、生きた世の中にいたい、それがプラナの願いなんだ。
「それじゃあ俺たちの山登りは?」ディーが言った。
「ここからならカトルラ運河がよく見えるし、しばらく眺めて帰りましょう」
崖になっているところに腰掛け、運河を見つめる。ルクスの母はここでレヴァーディアをサルベージして、その引き替えに左腕と右足を失った。時々波が押し寄せてきて、陸地に乗り上げてくるのが見える。海の光は日光を反射し輝いていた。
「綺麗ね」
誰かが返事をするだろうと思ったのに何の答えもなかった。
「わたしの母さんはこの運河で手足を失ったんだ」
やはり返事はなかった。振り返ると誰もいない。あんなに沢山の人が一度に黙って下山するとは思えなかった。行方を捜すべく、視界を広げる。この辺りには? 誰の気配も感じられない。登山道には? 誰もいない。
「まさか、またわたしが……」
そういうことだ。距離感が近すぎた。どんなに素晴らしいプレゼントを貰っても、わたしは誰かに近づいちゃダメなんだ。生命を奪うだけでは飽きたらずとうとう存在までもを奪うようになってしまった。わたしは何て人間なんだろう。彼らはわたしのことを知りすぎたが故に、消え去るしかなかったのだ。
「じゃあ隠れて生きる?」
カトルラ運河を眺めながら言う。
「それは出来ない。これからも続くであろうわたしの人生では多くの人と出会う」
絶望感しかなかった。
「そしてわたしとかかわった人は不幸に見舞われる。わたしが幸せを奪い取ってしまうんだ」
風が彼女の髪を揺らした。
「孤独でいることが出来るのは幸せなんだろうな。誰も自分の所為で不幸になったりしないんだから。でもわたしにはそれが出来ない。不老不死。死ぬことの出来ない、終わりのない人生で誰にもかかわらないなんて事出来やしない。じゃあ相手を幸せにする? わたしから始まる不幸はその人の運命をねじ曲げるだけじゃ飽きたらず相手を消滅させるようになってしまった。わたしについて知ろうとすれば多分力が働くんだろう。本来不老不死の人間なんていないはずなんだから。知ろうとしたらそれは……」
わたしはどうすればいいの。ねえ。
「恐れを捨てなさい」
誰か、聞いたこともないような声がした。だけど、どこか懐かしい感じがした。
「あなたは?」
「あたしはプラナ=E=レヴァーディア。もう誰からも忘れ去られ、役割を終えた過去の存在」
「わたしが恐れなくても、誰かがまっとうな人生を歩めなくなってしまう」
「それは本当にルクスの所為なの? ルクスが不老不死の所為なの? たとえ他人の幸せを奪ってしまうとしてもその不幸を埋め合わせてあげればそれでいいんじゃないの」
「でもここに来た仲間たちは消えてしまった」
「消える前にルクスに会えて幸福だったとは考えられないの? 考え方を変えるなんて自分をごまかすだけの事よ。だけど別に彼らが不幸だったと決まった訳じゃないでしょう。不慮の事故で若くして命を失うとして、それは果たして本当に不幸なの? どうせ死ぬのよ。長く生きることが出来たとして、果たして短い生涯よりも長い生涯の方が楽しい生活を送れるのかな」
「わたしは悠久の年月の中、もう幸せを感じることもなくなってしまった……」
はっとした。ルクスは会ったこともないプラナの姿をはっきりと見ることが出来たのだ。凛々しい顔立ちをして栗色の瞳で真っ直ぐにルクスを見つめてくる彼女。言葉だけではなく自分の全存在を賭けてメッセージを訴えかけてくるような、そんな力強い女性。
「そうか。不幸なのはわたしにかかわって人生が歪められた人たちじゃなかった」
プラナは頷いた。
「わたしの人生が歪んでいたんだ。その歪みは死にまで及び、死という運命を回避するようにねじ曲っている。しかもその歪みは他人に伝染してしまう。ああ、わたしだ。わたしが原因だったんだ」
何時からだろう。幸せな人生を求めるのをやめてしまったのは。今からでも遅くはない。また探そうじゃないか。たとえ死によって、死という幸福を掴めないとしても何か別のわたしなりの幸福はどこかにあるはずだ。気がつくともうプラナの姿は見えなかった。
でも、ある意味では死よりも恐ろしいことが起きてしまった。それは間違いなく彼女が原因で起きたことであり、過程はどうあれ結果としてはそれを受け入れるよりほかなかった。しかもルクスという存在においてはそれ自体が他の人間と大きく意味が異なるのだ。彼女が積み重ねていく、人生の過程と結果、それを元に始まる新たなる過程と結果の繰り返しには、普通の人間にはどうしても存在する限界がないのだ。どのような幸せ、どのような不幸であっても、それは普通コップ一杯にまで溜まったら溢れるまでもなくそれでおしまいだ。ルクスの母、ディアナは混沌として生きることを選んだ。幸福と不幸が混じり合った、彼女の人生はどのような色に見えるのだろうか。しかしそれは終わりを告げた。絵の具全てを混ぜれば黒い色が完成し、もうどれだけ絵の具を増やしても変わることはない。幸いなことに、だからこそディアナは死ぬことが出来たのだ。だが、ルクスは死ぬことが出来ない。幸せも不幸も、憂いも歓喜も、それら全てを限界を超えて小さな容器に注ぎ続ける。やがてそれは溢れかえり、周囲を色で染め始める。それを一体どうやって止めればいいのだろうか。生き続けるが故に、キャパシティを超えた経験が発生し、それは周りにいる他の人間に押し付けられる。その人はもうそれまでの安定であれ不安定であれ、その人なりの人生はもう送れなくなる。汚染された人生だ。
「確かに……不老不死の人間と出会えたという経験はその人にとってある面ではプラスなんだろう」
山を一人で下りながらルクスは言った。
「その結果が不幸を伴うものだったとしても、不幸を伴わない経験があるわけがないから諦めがつく。でも、そうやって仕方のないことと理由をつけて嘘やごまかしを重ねていくのに際限がなかったら? 多くの物語はおぞましい行いをした人間は最後に裁かれる。たとえ小さな間違いだったとしても、それがもしも相手にとって決定的なものであれば、それは訂正できないことなんだ。だから、その人は最後の最後で裁きを受ける。そんな場面を見たことがないから見当もつかないけど、きっと精神的な戦いなんだろうな。わたしはどれだけ生きてもやっぱり人の心の中までは覗き見る気になれなかった。誰が内面でどれほど激しい戦いを繰り広げているのかは知らない。だけど、戦い疲れて眠ることの出来る、真の意味でも休息はどこかにあるんだ。わたしはどこで休めばいいの? わたしがこれまで不幸にしてきた人間の積み重ねは、たとえその一つ一つが小さなものだったとしても総和としてはこれまでのあらゆる人間の絶対量を超越してる。それはどんな形で降りかかってくるの? 現に、わたしは今ですらこんなにも苦しんでいる。これは、これには終わりはあるの?」
長い年月を生き過ぎたが故にもう季節すら分らないルクスだったが、天候の変わりやすい季節だったらしくさっきまで雲ひとつない快晴だったのに急に雨が降ってきた。滑る足もとに注意して、さっきまでの半分くらいの速さで歩き始める。
「止まない雨はないとか雨の後には虹が見えるとか誰かが言ってたらしいけど」
口ずさんだ言葉が急激に何かを連想させる。自分がルクス=トレイシーからルクス=クラウディアへと名前を変えた根本の理由。この世界に必要とされながらシーファ災厄を起こし、ライア=コーデリアを殺害し連鎖的にグレートブランクを引き起こした少女。しかし彼女はこの世界すべてに月を与えてくれた。月を、だ。彼女は雨が自然と止むのを待つのを拒んだ。今は雨が降っているけど、そのうち虹が見えるという、未来に希望を託し現在の不幸を諦める考えを真っ向から否定し、道筋こそ誤り大混乱を招いたものの、自らの止まない雨を、自らの力で終わらせた。マリン=クラウディアは知っていたのだ。待っているだけでは何時まで経っても本当の事柄にはたどり着けないと。それに雨で喜ぶ人だって少なからずいる。草花だってそうではないか。人間だって雨が降らなかったら干からびてしまう。だから、マリンは知っていた。止まない雨は無いなんて言葉はただの詭弁に過ぎないと。それも、自分の都合だけを考えている上に、将来なんていう不安定なものが特に理由もなく、努力すらなく自動的に獲得されるという詭弁。しかもその未来は必ず幸せだと。今の不幸は最後には幸せになるための何か必要な要素に過ぎないと。
「マリンは確かにグレートブランクこそ引き起こした。そして、凄まじいまでの大混乱を招き、わたしが、わたしたちが収拾をつけるまでに多くのものを奪っていった。止まない雨はない。終わらないグレートブランクはなかった。それはわたしが終わらせたんだ。何のために? 現在をよりよいものにするためにだ。止まない雨はない?」
ルクスは本降りの雨の中、顔を天に向け、草木のないむき出しの荒野が続く山道にもかかわらず足元を全く注意せずに叫んだ。
「ふざけるな! 今をより良くしようとする努力をしなくて、雨が止む訳が無いだろう! 自然がたまたまそうなっているだけのことなのに、それを人間の幸福や不幸や良いことや悪いことに当てはめるなんておぞましいとしか言いようがない」
ルクスは息を大きく吸い込んだ。雨水や風のせいで呼吸がうまくできないが構うことはなかった。
「ただの偶然だ! 自然と人間の人生が一致しているのはただの偶然だ! 死という終りがあるから不一致に気付かないだけで、あるいは自然と完全に分離して生きることが出来ないからともかく自然と人間の関連性を考えようとした結果たどりついた大間違いだ。そこまで気づいているのに何故分からないんだろう。自然を人間が観察してどうなっているのかと考えるのではなくそもそも自然も人間も同じものだってことに。雨が降ったり止んだりするのは要するにわたしたちが息をしたり吐いたりするのと同じことだ。止まない雨はない? 当り前だろう! 息を吸ったら次には吐くしかない! でも、幸せは自分で掴もうとするんだ。全然違う、本当に全然違う」
そうか。ルクスはふと思った。そうやって自分で幸せを掴もうとして、途中で誰かを巻き込んで不幸や不運を起こしてしまうのが怖いから、それからみんな目をそむけているんだ。そうやって目をそむけ続けていたら、誰かが気付かせるしかないじゃないか。マリンは――だからだ――グレートブランクを引き起こした。自分が幸せになるためにだけではなく、それまでの人々が盲目になっていた事柄を見せつけるために。以前まで見えなかった夜はすっかり明るく見えるようになったじゃないか。あの青かったり黄色かったりする月のおかげで。
変わりやすい気候の所為で雨は止み、それからすぐに雲もどけて陽光が降り注ぐようになり、小鳥たちのさえずりが聞こえるようになってきた。既に中腹辺りまで下山していたルクスは、荒れ地ばかりの標高の高い場所ではなく、豊かな自然のある場所にいた。ここでは土から木や草花が養分を吸い取り、太陽からエネルギーを生み出し、それを動物たちが食べ、その動物たちがまた土に養分を戻す。そしてそれはまた植物を育て、一方自然はさっきのように雨を降らしたり陽の光を照らしたりしながら、生命全体を支えている。風が吹けば草はそよぎ、鳥たちは慌てて進路を変える。そうだ、今ならはっきりと分かる。分かるなんていう生ぬるいものじゃない。全身で感じる。そうだ、見える、はっきりと見える。ああ、自然はなんて美しいんだろう。生きていることは何でこんなにも素晴らしいんだろう。お互いがお互いの生命を、全存在を、全てを賭けて支え合っているのだ。昆虫一つ、気候一つ欠けても、目には見えない空気の粒子が少しでも変化してもこの調和は乱れてしまう。きっとこれはわたしの心を躍らせなくなる。
「わたしは……死ぬことが出来ないと言うことは……相手の生命をひたすらに貪るだけの行為。だから彼らは消えてしまった。わたしは二度と素晴らしい仲間なんて持てないと……。自然は循環している。太陽からの力は植物を通して動物に伝わり、その動物の行動がまた植物を育てる。たまたま言葉が通じる相手がわたしたちの場合人間だったというだけで基本は同じ。人間が何かを食べたり飲んだりして活力を得ると、その結果として生まれるエネルギーは他の生命に伝わっていく。どこまでも。どこまでも。じゃあわたしは? わたしは根本的なところで欠落している。この身体じゃあ、溜まりに溜まった身体のエネルギーを自然に帰すことが出来ない。死して朽ちて大地に還り、最後にはまた何かの力となることが出来ない。それどころかわたしが摂取してしまうエネルギーがあれば他の生命はそれを使ってもっと長生きできたかも知れない。じゃあわたしは何も食べてはいけない? そうしたら排泄行為も止まり、いよいよわたしは自然から孤立してしまう。それをやってしまったら、自然からも見放される。じゃあわたしが何かを食べたら……そうやって生み出した力は……」
ルクスはもう殆ど山を下りかかっていることに気付いた。今日は随分と日が長いな、と思った。彼女は気付いていなかったが山頂でプラナと話していたとき、丁度月が照っていた。殆ど眠りに近い状態に陥っていて全く気付かなかったが、あの後彼らを必死に探している間に夕焼けが起き、それを見てふと気付いたのだ。もう彼らには会えないと。それから、確かな仲間、それも不確定な未来を抱き続け、長すぎる記憶が本来確実なものであるはずの過去すらも忘却という手段で葬り去ろうとし、まさに彼女の現在を奪おうとしていた不老不死という現実から救ってくれた仲間を一瞬にして失ったのだ。そのショックは経験を重ねていただけにより増幅され受け取られた。大量に積み重なった過去の、忘れていたはずの記憶が一気に流れ込んできたのだ。それに殆ど自我が耐えられず、彼女は気を失うようにして眠りに陥った。人間の記憶とは不思議なものだ。実際に経験したわけではなく、聞いたり読んだりしただけのことであってもそれは実際に見たり体験したりした事として認識できてしまうのだ。だからだろう。彼女はプラナ=E=レヴァーディアを見た。そして朝の光を受けて下山を開始した。もう季節がルクスには分からない。きっとそのうちにはどちらが昼でどちらが夜なのか。朝と夕方は何が何なのか区別がつかなくなるだろう。不確実で何が起きるのか分からない未来の中で、それだけははっきりと見えた。それは回避できることのない現象だった。それは老人が妄想的になり訳の分からない発言を繰り返したり近所を出回ったりする類の行為に似ていた。だが、決定的な違いが一つだけあった。彼女は、ルクスは自分の存在がどれだけの不幸をまき散らすかという結果を知りながら、自分が生き続けるが故にどれだけの生命が生きられないのかを知りながら、少しでも、そう、本当に少しでも世界を、自然を良くしようと、守ろうと努力しなければいけないのだ。無限の時間がある存在であっても、所詮はルクスは一人の人間に過ぎない。出来ることはたかが知れている。だが、その性質上彼女は周囲の協力を仰ぐことが出来ないのだ。その場合の結果こそが最も恐れるべき事だ。孤独に、一人で立ち向かわなければいけない。悠久の時の中を。終わることのない、まして敵なんてどこにもいないのに、それでも戦わなければいけないのだ。
「もしも、本当にもしもだけど」
やっと、月が出てきた。今日の月は彼女から見て右側が欠けている半月で色は黄色だった。
「わたしがその戦いをやめることが出来るなら……その時、この生命自体が歪み不老不死となった身体は……生命自体が存在そのものを歪ませて死という結果をどこかにはじき飛ばし、自分を死から守っている恐ろしい現象は……終わりを告げるんだろうか……」
右手の鏡の指輪には青い月が映っていた。
この空虚な空は灰色に塗りつぶされている。そう、全てを混ぜ込んだ黒い色が混沌を表すとしたら、その混沌から生まれた彼女はそれ以上のものになることを半ば運命付けられていた。この世のあらゆる事象を見つめ直し、自らの中に取り込んだディアナ。それは死に至る小道であり、死を前提とし、あらかじめ終着点を見据えることで自らを最終的にその地へと運ぶことに成功したという逆説的な手段だった。まさに、ディアナ=トレイシーはデストレイルを歩みきったのだ。そこまでに見てきた様々な光景を、それによって感じた思い出を、大切な出会いを、何か少しだけ普段とは違った一日を、全て積み重ねるとそれは混沌以外のなにものにもならない。ただ、殆どの人はそれが怖いのだ。だから分離を試みる。そして、そうすることで色鮮やかな絵や何かが完成し、どうやらそれは何かの風景かあるいはもっと別なもののように見えたりする。絵ではなく、音楽が完成するかも知れない。物語が完成するかも知れない。一見何もないように見えるがそこには何かがきっとある。そう、目には見えなくても空気はそこにあるように。曇が邪魔で見えない日でも、星は瞬いているように。混沌であるとは、そう言った一見すると成り立っている構成を全て破壊してまで、画家は一つの絵の完成したキャンバスに、さらに別の絵を描くと言うことを繰り返し、最後には何が書いてあるのか分からない絵を完成させる。音楽家は調和を無視して、あらゆる楽器を同時に滅茶苦茶に奏でるよう指示し、調子も音程も全てが混在するカオスを形成する。だけど、それが本来ある姿なのだ。ディアナはそれについて想像を絶するまでに悩んだ。捨て子だったと言うことが余計に災いしたのだろう。ディアナは殺人を犯し、ルーン=フィン=エルファース記念公園に放火した。きっと自分でもどうすればいいのか分からなかったのだ。母は。もう自分が何なのかすら分からないほど生きたからこそ分かる、人とは変わった感情。入り乱れた気持ちが意味をなすのではなく、本来は意味をなさない気持ちの雑多な集まりに無理矢理意味づけしている、そんな行為への本能的な不満。でも、母は、ディアナはそれをそのまま受け入れることこそが正しい生き方で、たとえそれ以外に生き方があったとしても少なくとも自分はそれ以外は出来ないと知ることが出来た。そして、左手と右足を失い、それでも力強く生き続け、満足出来た。死という結果が訪れない彼女には、どんどんと死の足音が近づいてくるのがどうしてもイメージ出来ない。想像出来るのは、自分が死のうと崖の前に立っていると、突然誰かが突っ込んできて、慌てて自分が避けてしまったが故に彼が落ちて死んでいく、そんな光景だけだ。自分が死ぬことはどんな事柄であれ、人が安易に神を会話に持ち出さないのと同じように彼女の周りを避けて通る。それは昼には太陽が照り、夜には月が照らすのと同じくらい当然のことなのだ。誰でも死ぬ、という当然のことが彼女にも成り立っている。死ぬことが出来ない、というのは彼女にとっては当然のことであり、それに対してどう向き合うのかを、無限にある時間の中でひたすら考え続けなければいけないのだ。
ユナイテッドは最初は自分がこんな運命を歩んでいるとは気付かなかったという。きっと半分はディアナと出会った所為だろう。彼女の混沌はユナイテッドの高貴な存在を少しだけ、染めてしまった。だけど、ユナイテッドはその逆を結論づけた。混沌が、もしも混沌が本当にあるとしたらそれはグレートブランクによる大混乱以外には有り得ない。それは終わらせなければいけない。ユウはユナイテッドする。それにより、表向きは混乱を収めることが出来る。ディアナというカオスの力を借りればそれは可能なのだ。もしもディアナが現在を現在そのものとして、自分に都合の良い部分ではなく、都合の良い部分も悪い部分も全てひっくるめて認識し、混同してしまい何が何だか分からなくなる、という悩み方をしていなければ、ユナイテッドは不可能だったのだ。しかも彼女たち二人の力を合わせても完全なる目的達成は不可能だった。また、ルクスは空から落ちそうになった。目的地は近い。もう上空を高速で飛ぶ必要もない。空に輝く月と海に輝く月、どちらも強烈に受けながら、海面すれすれを歩いて行く。グレートブランクを埋めたのはわたしなんだ。どんなにユナイテッドさんが統治しても、どんなに母が自らの中に混沌を抱いても、グレートブランクそれ自体を埋めるという仕事は混沌から生まれたレイかルクスのどちらかにしか出来ないことに他ならなかった。レイは混沌とは違う、真っ当な人生を。でも、結婚した相手は生まれたときから両親のいない女性だったからディアナの混沌はやはり少しだけ受け継がれていた。ルクスはユナイテッドの話を聞き、すぐに会いに行きたいと思った。それが災いした。ユナイテッドは道すがらルクスが興味本位で文明大戦時代の悪夢に触れてしまったことを知ったのだ。もう記憶は定かではないため、何をしたのかは思い出せないがコーデリア本家にたどり着いた時点でルクスの身体は文字通り汚染された状態にあった。幸いなことに秘術を数多く知っていたユナイテッドはルクスをすぐに治療することが出来た。それがいけなかった。ルクスは直感的にその魔力を読み取り、あっという間に生命を操る秘術を理解してしまったのだ。ユナイテッドはそのことに後々気づき、その魔法は危険だから使わないようにと色々な説明を試みた。それはルクスにはよく分かった。ユナイテッドさんの言っている通りだ。気をつけよう。実際、ルクスはこの魔法を、膨大な量になってしまって思い出すことの出来ない記憶を頼りにするなら数えるほども使っていない。汚染された仲間を助けるのに数回使った程度だ。だが、実際はそうではなかった。無意識的にルクスはこの魔法を使っていたのだ。それは手を切ったらその部分の成長を少しはやめて血を早く止めるとか、体内時計を少しだけずらして眠る時間を遅らせ、起きるときには逆に早めてしまうことで人より多くの生活を歩むとか、そんな事だった。ルクスは、生命を操る魔法をあろう事か自分自身に、少しずつとはいえかけ続けていたのだ。その結果、生命そのものが歪み始め、原形をとどめなくなり、とうとう死が彼女の生命から去っていった。一度壊れたものは形は元通りになっても、もう完全には元通りではないのだ。
もう一人、彼女を記述する上で避けて通れない存在がいる。最初の兄、サクリファイスだ。永遠に生き続けなければいけないルクスとは逆に、最初から死んでいた兄だ。果たしてそんな人が本当にいたのかどうか、墓参りもあまりしないルクスにはよく分からなかった。だけど、彼女が永久に生きるならば、それは半分以上はサクリファイスの歩むことの出来なかった道筋を辿ると言うことなのだ。出来たのだろうか。きっと出来たんだろう。せめて、心の中でそう思いたい。
「人を不幸にしてきた部分を、生命を貪ってきた部分を、他の生命を奪ってきた部分を、私さえいなければもっと生きることが出来たはずだった他の生命を。そういうわたしのためのサクリファイス。さあ、贄は捧げられたわ。わたしをどうするかはあなたの自由よ。クラウディア」
最初にあった物語に出てきた宝珠は実在する。これは恐らく本当だろう。理由はよく分からないが最初にあった物語が実話であり、ルーンとプラナの冒険譚は事実であると感覚で理解できる。そして、奇跡とも呼べる力を引き起こす三つの宝珠のうちどれか一つでも手に入れば不老不死は終わらせることが出来る。この世界を、レヴァーディアと言う名を与えられた世界で、この世界で最初に生まれた純粋な生命そのものの結晶である妖精族の力を借りれば、歪みきった生命を終わらせられる。
「最後の希望の地か。ユナイテッドサンクチュアリに対して、クラウディアサンクチュアリとは我ながらよく言ったものね」
空にはますます大きく、満月が輝き、鏡の指輪の表面でその光が反射していた。彼女が右手に持った剣の刀身もまた月光を受けてきらめき、調停する杖イフィトラスディアもそれが生まれた土地に還ってきた嬉しさからか、どこかで喜んでいるように見えた。
「感じる……」
最初にあった物語で妖精の聖域と呼ばれている場所。ここにきてはっきりと感じるようになる。今まで手に持って歩んできても、ただかざすと光を屈折させ、ここに自分がいると分からせるだけの存在だった虚無の卵が孵化しようとしている。
誰も近寄らない、かつては循環海流で全ての船の接近から守られていた場所。禁忌とされているのは今も変わらず、自由に近づけるとはいえ結局は恐れから誰も近づけない。不老不死によって、終わることのない生命を歩まなければいけないわたしはなおさらだった。ここに何もなければわたしは最後の希望を失う。ルクス=クラウディアはクラウディアサンクチュアリで絶望する。生に彩られた、とても美しい絶望だ。月光にとらわれ、昼も夜も分からなくなる。きっと食べ物も食べなくなる。誰とも話さなくなる。もう生命は誰も奪わないし、歪めたりもしない。彼女が歪めることはない。ただ、もう彼女はただそこにいるだけで意味のない存在、芸術家が作って設置したオブジェ以下の存在になってしまう。道行く人はいつかは別にして将来的にはルクスがそこにいても全く気付かなくなる。誰も声をかけなくなる。話しかけることはかかわることだけど、記憶の波に飲み込まれた彼女にはそれはもう出来ない。食物を摂取しないことで自然の摂理から外され、さらに雨が吹いても雪が降っても今がどの季節なのか自分では分からないから結局は天候が変化しないのと同じという無意味な存在になりはてる。ねえ、太陽って何だっけ。雲って沢山あるけどあの中のどれだっけ。月と星はどう違うんだっけ。そうやって、何も分からなくなり、全てを失うに等しい状態になる。ここになにもなければ私にとってはそう遠くない将来、そうなる。
クラウディアサンクチュアリをゆっくりと進む。豊かな自然はしかし静かで何の音も奏でなかった。不思議なことだ。風が吹けば自然の音楽が聞こえる、それはここでもそうだ。しかし、決して草木がざわめいているわけではないのだ。それは、まさに自然そのものが音楽を奏でているという不思議な調和だった。満月に照らされ、満月を反射し、そして風は音を奏で、そう、光も音も、何もかもがひたすらに調和を持って彼女を受け入れていたのだ。何を恐れて今までここに来なかったのだろう。ここにさえ来れば永遠によどみなく続く、自然そのものの素晴らしさをいつでも感じることが出来たんだ。左手に持った杖が行き先を示す。こっちへ、そう、こっちだと言っている。その方向に行く。草花や木々に囲まれた美しい森は終わり、開けた場所に出る。風がもっと美しい、そう、ここに来るまで聞いたこともなかったような完璧な音楽を奏で、月の光はその中で踊っている。それからもう死ぬことがないが故に死んでしまっていたはずのわたしの生命もまた息を吹き返し、脈動を始めていた。虚無の卵に目をやると、それを通して屈折した光が元に戻ってきて自分の姿が見える。それは明らかに少女の顔ではなかった。何だろう。きっと虚無の卵に何かが起きているに違いない。その開けた場所には彼女が望んでいた全てがあった。三つの宝珠が全てある。紅いのが全てを調和する炎と全てを繋ぎ止める空間を司るというニーズライア。水色のが絶対なる海と最も根源に近い生命を司る宝珠シーファーグス。そして緑色のが全ての基盤たる魔力と空に集まる夢である魔力を司る宝珠であるフィアグスルーン。その宝珠たちは丁度それぞれが正三角形の頂点をなすように落ちていた。その正三角形の真ん中には、もっと別なものがあった。鳥の羽を司ったブローチだ。ローナミアに似ているな、とすぐに思った。何でだろう、さっきまでクリアな部分とブラインドな部分の差が激しかった記憶が、大切な仲間に自らの過去を発掘して貰ったときよりも遥かに劇的に、全てが見渡せるようになっていく。そう、見えるのだ。この世界全てが。長い年月を持って経験してきた事柄が全て目の前に全ての感覚を伴って再現できる。視覚も、聴覚も、触覚も、その時の自分の感情の動きも。それだけではない、相手が何を考えていたのか、その相手の考えを受けてその後例えばその人の家族はどうしたのか、とかが全て見える。何てことだろう。わたしには今、はっきりと分かったのだ。空に集まる夢である風こそがわたしが欲してやまなかった希望に他ならなかった。風を読み取ればそれだけでどんなものも、忘却に沈んだ記憶であっても、失われた大冒険であっても、全て目の前に再現できるのだ。ここは全ての風が集まり再び旅立っていく場所だという。ここに集まる風が奏でる特別な音楽はこの世界の記憶全てだったのだ。だからそんなに美しかったのだ。光に彼女は照らされていた。左手に杖を、右手に剣を持ったまま、右手に持った虚無の卵を前に突き出す。月光がその中にくっきりと表れていた。月だ。ああ、こんなに近くに月がある。左手を伸ばせばわたしは夜を照らす光と同じになれる。じっと見つめる。どうしようか少しだけ悩む。虚無の卵からもう一つのものを感じる。生命だ。歪みきった自分の生命なんかじゃない、純粋な生命。この、世界中の記憶を集め、幸せも不幸も全部を完璧に織り交ぜれば、調和した祈りが完成するという、単純な結論の中で生まれることが出来ればどれだけ幸福なのだろう。プラスとマイナスは相殺しあって何も残らないのではない。プラスとマイナスを全て完璧に足し合わせないと混沌も統治も光も闇も何も最初から現れないのだ。炎が見えた。どこから見えたのかは分からない。
「生命は炎に見えるんだ」
呟いた声はしわがれていた。
段々と立っているのが辛くなってきた。光を全身で受けたまま、座り込む。彼女の右手と一体化して離れることのなかった虚無の卵も今ではすっかり分離していた。
「調和が起きれば、自然と力が生まれ、力は例えば炎になり、水の流れになり、風に乗って伝わっていく。生命は生まれ、調和を認識する。この繰り返しだ」
ふっと、本当は音なんて聞こえるはずがないのに何か音が鳴ったかのように、急に辺りから調和した音楽と光が消えた。音が消えたのだから音がするように感じるのは本来おかしいのに、ルクスはその正反対を感じた。完璧な音楽が不意に鳴り止むと、何らかの雑音を感じるのだ。だが、心地よい雑音だった。その雑音もまた、調和していたのだから。ハーモニクスの中から炎は生まれ、風に乗ってどこかへと旅立つ。誰かの声がした。
「おばあちゃん、誰?」
「わたし? わたしはルクス。ディアナ=トレイシーとユナイテッド=コーデリアの娘のルクス=クラウディアよ」
「おばあちゃんはこれからどうするの?」
「少しだけ、昔に行こうと思う」
「どれくらい昔?」
「人間が生まれる遙か以前にいた、妖精族に会いに行く。この空にある月も、妖精の生命そのものの輝きだから」
「じゃあ僕は、ずっと未来に行く」
「ここでお別れね。最後に、名前を教えてくれない? わたしが旅立つ前に」
不意に、また風が音楽を鳴らし始めた。それに誘われるように、彼女は過去に向かってもうこのままでは寿命で早々に死んでしまう生命を飛ばす。この風は全ての記憶が無限に溜まり続けるもの。過去の流れを見つければ過去へと旅立つのだって可能のはず。彼は、虚無の卵から孵化した少年はその逆を行くと言った。まだ世界が記憶していないものを見に行くのだ。
「記憶も無限にあるし、未来も無限にある」
行こう、その狭間で無限に揺れる現在に。
これにて私の作品の一連のシリーズは全て完結です。
ここまでお読みいただいてありがとうございました。