帰り道
その日の帰り道は切ないくらいに寒かった。
吐く息はもちろん白いし、風だってビュウビュウ吹いていた。
とにかく、寒くて寒くて仕方がなかった。
「…………」
「…………」
でも、この寒さはきっと、気温や、北風のせいだけじゃないと思う。
「寒いな……」
沈黙を破って、僕は希にそう言った。
「……うん」
希はそれだけ言って、また俯いてしまった。
僕が自転車を押すカラカラという音だけが、夜の道に響いていた。
「きっとさ、向こうはもっと寒いぜ。何てったって雪国だからな」
「……うん、そうだね」
希がそう答えた瞬間、強くて冷たい風が僕らの間を通り抜けていった。
希は、明日引っ越す。父親の仕事の都合で、青森に。
最初に母親からその話を聞いた時、僕は驚いたっていうよりは、信じられないっていう気持ちだった。
希とは、幼稚園の頃からの付き合いで、所謂『幼馴染』ってやつなのかもしれない。小学校から現在中三に至るまでクラスもずっと同じ、来年受験する予定の高校も同じという正直あり得ないくらいの腐れ縁だった。
だから―――だから転校なんて、そんなこと、今まで考えたこともなかった。
「でもさ、びっくりしたよ」
希は薄く笑いながら言った。
「何が?」
僕は首をかしげた。
「仁が待ってるなんて、思ってもみなかった」
希はいつも僕を冷やかすように、笑った。
だけどそれはいつも通り上手くいってはいなくて、それに何だか寂しさを紛らわせているような、そんな感じだった。
「だって一時間だよ? この寒いのに。そんなのありえないって〜。そんなにあたしと帰りたかったの?」
そんな風に彼女は続けたけど、そうやって笑えば笑うたびに、希の笑顔は不自然なものになっていく。
「そうだよ。希と帰りたかった」
いつもの僕だったらきっと「そんなんじゃねーよ!!」なんて否定していたかもしれない。だけど、この日だけはそうしなかった。自然に本音を言っていた。
希と帰りたかったから、だから待っていた。
「ハハハ……。そんな素直に言われると調子狂っちゃうよね」
希は苦笑いを浮かべる。
「…………」
「…………」
そして、また静寂が訪れた。
「ゴメンね、一時間も待たせて。寒かったでしょ?」
「……別に。みんなとも最後だったんだし仕方ないだろ」
「……うん、そうなんだけど」
希は申し訳なさそうに俯いてしまった。
「だけど、そう言ってくれてればあんなに待たせなかったのに」
言えるわけが無かった。みんなが居るところで、一緒に帰ろうなんて。
希は僕にとってただの友達で、特別な感情なんてなくて、だからみんなに変な風に誤解されるのは嫌だったからだ。
そう、僕はこいつに―――希に特別な感情なんて持っていない。
だけど何だかこんなことはもう二度と出来ないんだと思うと、こうしないと後悔する気がして、だから今日は希を待った。
希の文句に僕は黙ってしまったから、今日何回目か分からない沈黙がまた流れた。
何か言わなければいけない気がして、何度も口を開きかけた。だけど、何を言ったらいいのか分からなくて、何度も口を閉じた。
「……なあ」
「……ねえ」
同時に言葉が出た。二人とも驚いて、一瞬黙る。
「お前から言えよ」
「え? 仁から言いなって」
「別に、俺は何も……」
「あたしも、別に……」
それで会話が終わってしまって、また静かになってしまった。
こうなると、ただ僕らはとぼとぼ歩くだけだ。
それで、
「……着いたな」
「……うん」
僕と希が別れる場所に到着した。
この曲がり角を、希は右に曲がって、僕はまっすぐ行く。
僕らは足を止める。
このままだと、ここで希とはお別れ。
別にそれがいけない訳じゃないし、大したことでもない。
「それじゃ………」
「ああ………」
―――だけど、だけど何だかこのままではいけない気がして、このまま希と別れたら一生後悔するような、そんな気がして、
「な、何?」
僕は希の腕を掴んでいた。
希は目を大きく開いて僕の顔を見る。
「あ………」
自分でも何故こんなことをしたのかと驚いた。
しかし、こうなったらもう、行くしかない。
心臓はバクバクいってるし、頭の中はパニック状態。
だけど、僕は覚悟を決めた。
「あのさ……家まで、送ってっちゃダメか?」
勇気を振り絞ってこの台詞を言った。
「え?」
希は驚いたような、そんな顔をして僕を見た。
「いや、嫌なら無理にとは言わないけど」
僕は頭をかきながら早口で言った。
どうしてこんなこと言ってしまったんだろう。僕は今更後悔なんかをしてみた。
きっと希は戸惑って、困った顔をしているに違いない。僕は希の顔を見ることが出来なかった。
「じゃあ、お願いしちゃおうかな」
「へ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
「い、今何て?」
確認をとる。今耳に入った言葉を僕は信じられなかったから。
「だから、家まで送ってって。そう言ったの」
希の顔を見ると、彼女は笑っていた。
今までのぎこちない笑いから比べるとかなり自然な、そして本当に嬉しそうな笑顔だった。
「仁、聞いてる?」
僕はそんな希に見とれてしまって、返事をするのさえ忘れていた。
「……あ。ご、ごめん」
「もう、仁ったら」
希は呆れたようにため息をついた。だけど、その表情は明るくて、口許も少し上がっていたようだった。
「あ、そうだ仁。どうせだったらさ……」
「え?」
「さ、入って」
希はドアを開けてそう言った。
「お、お邪魔しま〜す」
僕はためらいがちにそう言って、中に入った。
中に人の気配はない。電気もついていなかった。
「父さんも母さんも、今晩は職場の人と飲むから遅くなるんだってさ」
希は壁際に手を伸ばし、電気をつけた。玄関は一気に明るくなった。
「…………」
何年振りだろうか、この家に来たのは。
家の間取りは、当然ながら変わっていなかった。懐かしいな、なんて僕はちょっとだけ感慨に耽ったりした。
「ごめんね、ダンボールばっかで」
だけど、家の中には沢山のダンボール箱が積まれていて、明日希がこの街からいなくなるのだという事実を改めて僕は思い知らされた。
「別に、いいけどさ……」
僕たちは居間に入って、テーブルに向かい合わせに座った。
居間にはかろうじてテレビが置いてあるくらいで、他のものは―――ダンボール箱以外のものはほとんどなかった。
「お茶でも淹れてあげたいところだけどさ、そういうのも全部箱の中でさ」
申し訳なさそうに希は頭をかいた。
「そんなこと別に気にしなくていいから」
そうしてまた帰り道と同じ様に沈黙が訪れる、
「そういえばさ仁、覚えてる?」
―――そのはずだった。
「へ?」
いきなりのことに僕は間抜けな声を出してしまう。
「確か小学二年くらいだったかな………」
それから希は、帰り道とは対照的に喋りまくった。
話の内容は主に昔の話。僕らが小学校のときの話や、それより前の話もした。
話している希は、終始笑顔のままだった。
「……で、その帰りのバスの中で仁ったら吐いちゃってさ〜」
「ったく、何でそんなこと覚えてんだよー」
思い出話をするのはとても楽しくて、僕も笑いながら話す。
「泣きながら『希ちゃん助けて〜!!!』ってさ。もうあれは酷かった」
楽しくて、
「だからもう止めろってーー」
とても楽しくて、
「やだよ〜」
だけど何だか、
「そんなこともう忘れろよーー!!!」
―――胸が、とても痛かった。
僕のその一言で、希は急に黙ってしまった。
「………………」
さっきの言葉を僕は冗談っぽく言ったつもりなのに、彼女は俯いてしまっている。
「おい、どうした?」
僕はいきなり黙り込んだ彼女が心配になって声をかけた。
「………………」
希はじっと下を向いたままだった。
「なあ、希。どうしたんだよ?」
僕の台詞に続いて、希はゆっくりと顔を上げた。
そして真っ直ぐ僕を見る。
「………忘れちゃ、ダメなんだよ」
その声は微かに震えていた。
「忘れたくないの……」
希はそう続けた。
「………の、希?」
僕はその場から動けなくなった。僕を見つめる希の表情は真剣そのもので、さっきまでとは一変していた。
「忘れたくないの、仁との思い出全部。全部全部、私にとって大切だから、大切な宝物だから!!!」
大きく息を吸ってから、希は声を荒げて一気に言った。
僕は、何も言えなかった。ただ何も考えられなくなって、ただ目の前で泣きはじめた希を、正面から見ていた。
希を、泣かせたくなかった。
泣いてほしくなかった。
どうしてかって?
そんなの決まってる。
ずっと、ずっと前から決まってる。
僕にとって、あいつが―――希が大切だから。
彼女が悲しむところなんて見たくないんだ。
大事なんだ大切なんだ大好きなんだ。
―――僕の中で答えが、出た。今日希と一緒に帰りたかった理由が、何もしなかったら後悔するような気がした理由が。
そして―――こんなにも胸が痛くなっている理由が。
僕は椅子から立ち上がる。
希は相変わらず泣いている。
やることは、やりたいことは決まってる。
僕は希のすぐ近くまで歩み寄る。
そして、僕は希の手を引っ張る。
「ひ、仁!?」
希がびっくりして声をあげたが、僕はそのままその手を引いて彼女を立たせた。
希の目は、赤かった。顔にも涙はまだ残っていたし、呼吸も荒かった。
そんな希を見て、僕の胸はさらに締め付けられる。
「………希」
それしか言えなかった。肝心な時に、格好いい台詞は降ってこない。
だけど、だけどそれで十分だ。
―――僕は希を抱きしめた。
希の体は震えていた。
その震えを止めるために、僕はさらにきつく希を抱きしめた。
こんなのはよくある映画や小説みたいだと思ったけど、月並みな行動だとは思ったけど、僕の頭にはそうすることしか浮かんでこなかったのだ。
「なあ、希……」
腕の中の彼女はゆっくりと僕を見上げた。それを確認してから僕は、深く息を吸い込んだ。
これからとっておきの、一番大事な言葉を言うために。
ありふれているけれど、まっすぐな言葉を言うために。
今までの想いをすべてこの言葉にのせる為に、僕は深く深く、息を吸い込む。
「俺、希が好きだ」
希は何も言わずにただ泣いた。これでもかっていうくらい泣いた。
その間、僕はずっと希の頭をなでていた。
優しく優しく、世界で一番大切な彼女をなでていた。
彼女が泣き終わったとき、涙でだか鼻水でだか、はたまた唾液でだか分からないけど、僕の制服の胸の部分はビショビショになっていた。
「寒いね……」
外は相変わらず寒かった。
「……ああ」
―――だけど、さっきと違うのは、
「ねえ、仁……」
希が言う。
「大好きだよ」
―――さっきの帰り道と違うことは、希が笑っていることと、
「ああ」
―――それと、僕らの関係だった。
読んでくださってありがとうございました。感想などありましたらよろしくお願いします。