缶詰
缶詰は塀に生い茂った葉に隠れてうずくまっていた。
塀と葉の作る陰気に収まって身動きもとれず朽ちていくのだろう。
それではあまりにも哀れに思えた。
せめて日陰に出してあげよう。
そんな事を思って近寄ってみれば、堂々と空白の内を晒して泥を着飾り健気に立って葉の陰気に抗っていた。
誰の助けも拒む様に見えたが、その態度は強がりにも見えた。
聞こうにも缶詰には口が存在しない。
私は嫌われる事を覚悟して缶詰を影から取り出して、迷った末に塀の隣に広がる空き地の正面、側溝の蓋の上にちょこんと置いた。
日の光に当たりくすんだ色合いになった缶詰は口が無いので何と言っているのか分からない。私に不満を言っている様でもあり、私に感謝している様にも見えた。
それでも私は良い事をしたと思った。影に居るよりは光の中を歩いていた方がきっと良い。
私は満足して小学校へと向かった。
学校の帰り道に再び缶詰を見舞った。
私が移した場所にそのままの姿勢で待っていた。
喜んでくれたのかな? 待っててくれたのかな?
そんな事は無いのだろうけど、そんな気がする。
その時、昨日漫画で読んだ、男の人が路上でギターを弾いている光景を思い出した。目の前に置いた缶詰に硬貨が入った瞬間、顔を上げるとそこには女の人が立っていてにっこりと微笑む。それはヒーローを描いた物語の始まりなのだ。
私はその場面を演じてみたくて、お財布から十円玉を取り出して缶詰に落とした。
勿論、目の前にギターを弾く人は居ないけど、からんと鳴る硬貨の音に合わせて私は微笑んだ。
缶詰が『ありがとう』と言っている様な気がした。
次の日、私がまた学校へ向かう途中で缶詰の所に寄ると、中の十円玉は無くなっていた。
缶詰が使ったのかもしれない。
十円玉は缶詰の向こうの空白にあげた物だったのだけれど、缶詰が使ってくれたならそれでも良い。空白はそこにいないのでお金は使えない。
缶詰がつかったのは良いにしても、缶詰が何に使ったのかは気になった。
十円では満足にお菓子も買えない。
お腹空いてないのかな?
それじゃあ百円玉を入れてあげようとお財布を開いたが、取り出そうとして惜しくなった。
缶詰にはお腹が無いんだから、お腹が空く事も無い。
そう考えて百円玉を戻したが、それでは少しかわいそうだった。
せめてと、また十円玉を取り出して、缶詰の中にからんと落として学校へ向かった。
夕暮れ時の帰り道に缶詰を覗くと、やっぱり十円玉は無くなっていた。
次の日、友達との待ち合わせに向かう途中、ふと缶詰を見たくなった。
約束に遅れるのは悪いが、それでも見たい。
罪と興味の天秤は呆気無く傾いて、私は気勢高々に缶詰の元へ自転車を向けた。
缶詰の場所に着いて愕然とした。空き地の前にも塀の前にも缶詰は居なかった。
堀の茂みの下を隈なく探してもあの缶詰の姿は見当たらない。
私は必死に前日の光景を思い描いて、泣きそうになりながら缶詰の行方を追った。
心当たりはまるで無かった。魔法の風が吹いて攫ってしまったとしか思えなかった。
涙に滲む記憶を尚も宙に映し出していると、はたと塀の向こうが気になった。
もしかして中に入ったのかも。だって昨日は寒かったから。きっと温かい所に行ったはず。
そう考えると、そうとしか思えなくなった。
塀の中央には錆びついた鉄格子の門があって内と外を隔てていた。けれど拒んでいる様には見えなかった。
門の高さは学校の門と同じ位で自転車を台にすれば上れそうだった。むしろ入ってもらいたがっている様に思えた。
果たして易々と乗り越えると、塀の先には荒れ果てた草叢と錆に覆われた建物があった。
温かい所に居るんだから、きっと建物の中だ。
そう考えて工場の正面を見渡すと、真ん中にシャッターの締まった大きな門と端に扉が一つあった。
扉はほんの少しだけ開いていた。それこそ缶詰が通れるぐらいの僅かな隙間が手招いていた。
草叢を掻き分けて扉へ近付いた。
扉は土と錆と虫に汚れ、ガラスが嵌っているはずの場所がぽっかりと空いていた。穴の奥は僅かな光に照らされているだけで良く見えない。
如何にも人の気配が無い。
扉の取っ手は土でくすみ、扉の下は土の小山に埋もれていた。
誰かが使っている様には見えない。
人から見放された建物の中で意識が休まるとはとても思えなかった。
本当にこの中に缶詰が居るのかな?
不安になって振り返ってみれば、掻き分けてきた草叢は我が物顔であちこちに伸びており、まるで自分達がここの主人だと主張している様だった。
ここは草の王国なんだ。
一歩後ずさると、ヒビの入る音がした。足元を見ると硝子片が散っていた。
よくよく辺りを見回してみると、草の影に人が使っていた様々な物、車輪や煙草や人形やパンの袋や何かが見えた。
ここはきっと人がいちゃ駄目な所だ。ここに居たら私も草にされちゃう。
そう思うと、突然草叢が私の事を取り囲んでいる様に思えた。遠く彼方に見える鉄格子の入り口が私にはあまりにも高すぎる。
閉じ込められた。
取り囲まれて身動きが取れず、草達に見守られながら扉の前でいつまでも立ち尽くし、やがて草になってしまう未来が見えた。
その時、からんと金属が鳴った。建物の中から響いてくる様だった。
そうだ、中には缶詰が居る。親切にしたんだから、きっと助けてくれる。
私は夢中で扉を引いた。盛られた土の所為で動きにくくそれが私を焦らせた。下の土を引きずり生え揃った草を抉って、なんとか一人分の隙間を作ると慌てて中に転げ入った。
うんと広いおんぼろの建物の中は、穴の開いた天井から木漏れ日が射して薄らと明るかった。
埃の霧が一帯にかかって霞んでいたが、目を凝らすまでもなく、中にはほとんど物が無かった。
鉄の棒やレンチ等の無骨な小物がぽつりぽつりと置かれていたが、大きな家具はほとんど無い。
たった一つ、中央に置かれた小さな丸テーブルが何も無い空間の所為で殊更眼を惹いた。
缶詰はどれだろう。
煙たい霧の中を歩いてコンクリートの上に視線を這わせていくと、壁際に愛らしい円筒が立っていた。
傍らには大きな影が壁に寄りかかっていた。一際暗い一角でそこにある何かは茫洋としていて平坦にしか見えず、傍に寄るまでは影にしか見えなかった。
缶詰への期待で駆け足になりながらも、影に対する不安の所為で視点は缶詰ではなく影へと固まっていた。
近寄ってみると襤褸切れの様だった。嫌な臭いが満ちていた。
近づいても尚、暗さの所為で何なのかはっきりと分からない。臭いの所為で触って調べる気も起きない。
その場を離れたいと一心に思いながら缶詰を拾い上げ、顔を上げると襤褸切れの代わりに男が立っていた。
「やあ、お嬢さん」
スーツを着ている男がさっきまでの襤褸切れだとはどうしても思えなかった。
襤褸切れは何処に行ったのか。男は何処から来たのか。
まるで手品の様だった。
驚き固まっていると、男がにこやかに尋ねてきた。
「こんな所で何をしているのかな?」
咄嗟に怒られると思った私は身をすくめながら後ろに下がった。
「外に出ようと思……って」
語気は少しずつ弱まり、語尾は薄らと消えていった。
もしかしたら男が私を閉じ込めようとした犯人かもしれないと思ったからだ。
下手な事を言えば、捕まって二度と出してもらえない気がした。
「えっと、そうなんだ」
男は困った様に顔を歪めた。
まるで私の事をどう閉じ込めようか思案している様に見えた。
「その缶詰をどうして持ってるの?」
男の指差した缶詰に視線を落として、私は泣かない様に力を込めて言った。
「缶詰が助けてくれると思って。十円、入れたから」
「ああ、なるほど!」
男が華やいだように笑った。
私はそれに怯えて更に一歩後ろに下がった。
「君がその缶詰に十円を入れてくれたんだね」
そう言って、男はポケットから何かを掴み取って、私に見える位置で手を開いた。
掌には十円玉が二枚乗っていた。
「私の……」
「やっぱり。てっきり僕をかわいそうに思ったお供え物だと思ってたんだけど。本当は缶詰君の物だったんだね。ならこれはその缶詰君にお返ししよう」
男の言葉を飲み込んだ私は男が誰なのかを閃いた。
この人はあの時缶詰の向こうに居た人なんだ。
漫画の中に出てくるヒーローが私の中で男と重なった。
この人なら私を助けてくれる。
そう思うと、途端に男へ親しみが湧いた。
「ううん、それはお兄さんにあげたのだから、お兄さんにあげる」
「そ、そう? それならありがたく」
男は恥ずかしそうに、嬉しそうに、十円玉をポケットの中に入れてお礼を言った。
「そうだ、十円玉のお礼に珍しいお茶を御馳走しよう」
「珍しいお茶」
「そう、外国のお茶なんだ。お兄さんが会社で扱ってたんだ。とっても人気なんだよ。飲んでいきなよ」
「うん、ありがとう!」
何故か表情を陰らせた男に丸テーブルへ案内されると、テーブルの上にはポットとカップが一つずつ置かれていた。白い陶器から甘い桃の香りが漂って、思わず唾を呑みこんだ。
男がポットを傾けてカップに向けると、沸き立つ湯気が立ち上る毎にお茶の嵩が増していって、甘い匂いがどんどん強くなっていった。
「さあ、どうぞ」
「お兄さんは飲まないの?」
「うん、僕はもう何度も飲んだから。さあ、冷めない内に」
男に促されるままに口を付けると、辺りに漂っていた甘さが、喉の奥、胸、お腹と降りていった。二口付けると、今度は頭の方にまで甘さが広がって、体中が温かく柔らかく蕩ける様な心地がした。
「どう? おいしい?」
「うん!」
私がすっかり飲み干してしまうと男は満足そうに溜息を吐いた。
きっとお茶の事が大好きで、それを飲んでもらう事がこの上もなく嬉しいに違いない。
その事に気が付くと私まで嬉しくなって、元気に「おかわり」と言っていた。
「ごめんね。もうないんだ」
男が本当に悲しげに呟くので、私は酷く申し訳ない気持ちになった。
表情に出ていたのか、男は申し訳なさそうに胸の前で手を振った。
「ごめんね。もっとお茶っ葉があれば良かったんだけど」
「じゃあ、今度また来るからその時に飲ませてよ」
私が何の気なしにそう言うと、男は一層悲しそうな顔になった。
「君が来ちゃったから、もう僕はここに居られないんだ」
「私の所為で?」
打ちのめされた様な心地がした。
きっと一人で居たかったのに私が来たからだ。
男の残念そうな顔がいかにこの場所が大事な場所かを物語っている様に思えた。
その大事な場所に私は何の躊躇いもなく、軽い気持ちで入ってしまった。
誰だって自分の部屋に勝手に入られたら嫌な気持ちになる。大事な場所ならきっと尚更だ。
その嫌な事をしたんだ。
私が後悔の念で一杯になって男の顔が見れなくなった。
「あ、違うんだ。君の所為って訳じゃなくて。ただここに人が来ると僕は出て行かなくちゃいけないだけで。どうせ、ここにずっといるなんて結局無理な事だから、仕方の無い事なんだ」
「でも」
「むしろありがたいくらいだよ。最後に来てくれたのが、君の様に美味しそうに、僕の好きなお茶を飲んでくれる人で」
「ごめんなさい」
男が必死になって私を慰めようとしている意志が伝わってくるだけに、私はとても情けなくて悲しくなった。
私の震える声に狼狽したのか男は次ぐ言葉を出せず、黙っていた。
それでも何かを言おうとして、必死に言葉を探している。
顔を見なくてもそんな気配が伝わってきた。
やがて男が息を吸い込む音と同時に、何かを叩きつける大きな音がした。
振り返ると強い光が私の眼を焼いた。
暗闇の中で誰かの叫ぶ声が聞こえて、それが人だと分かった時には、私は誰か達に囲まれていた。
突然煙たさが肺にきて、激しくせき込んでいる間に、私は抱え上げられ、気が付くと塀の外に連れ出されていた。
闇に包まれた塀の外で待っていた両親が泣きながら私の事を抱き寄せ、大声で何かを言っているが何を言っているのか分からない。
私はひたすら男の事が気にかかって塀の向こうに立つ建物に顔を向けていた。
私一人でも嫌だったのに、今は沢山の人が中に居る。
きっと嫌で嫌で堪らないに違いない男の心を思うと、私の心も嫌な気分が充満して悔しくなった。
唐突に掌に痛みが走ったので、見ると缶詰の縁で切ってしまっていた。
痛みで現実感が戻り、辺りの雑音が意味のある声になった。
口々に叱る声や心配する声の中で、遠く、建物の中から運び出されている青い塊が気にかかった。
「男の死体が一人だけ」
ざわめく声の中で微かにそんな言葉が聞こえて、他の言葉の中に消えていった。
それからしばらく経って建物の外で何があったかを知った。
私が建物の中で呑気に過ごしている間に建物の外は駆け足で夜になっていた。帰らない私を心配してあちこちに電話を掛け、それでも私を見つけられなかった両親は、すわ誘拐かと青ざめて警察に連絡し、深夜になる頃には大騒ぎになった。
今の私にはそんなエピソードが田舎の町らしくて微笑ましいと思えるが、捜索に駆り出された大人達は勿論気が気でない。見つからなければ次は我が子とヘルメットとバットで武装しだす者もあらわれ一大捜索網が張られそうになった折に、呆気無く廃工場の前に乗り捨てられた私の自転車が見つかり、中に入ってみれば何も分かっていない私がきょとんと立っていた。
誘拐疑惑は私が見つかった事で一気に解決し、平謝りする私の両親を尻目に捜索隊は笑いながら流れ解散、結局世間的には笑い話に落着した。
工場の中から一つ男の死体が出てきたが、喧伝する様な事でもなかったので、知っている人は少ない。男はずっと以前に亡くなっていて、素性も何も知れず、流れ着いた浮浪者だろうと、これも大した事件にはならなかった。
私は塀の向こうで男にお茶を飲ませてもらったと必死に語ったが、勿論信じる者など誰もおらず、只の夢だと切り捨てられた。
私はあの時の事を夢だと思ってはいない。
きっとあの男もお茶も空白なんかでは決してなくて、確かに存在していたのだと思う。
この間偶然あの時飲んだお茶と同じ紅茶を見かけたので買ってみた。
かなり値が張っただけはあり、身体に染み入る様な甘い香りは素晴らしかった。
けれどあの男に飲ませてもらったお茶には及ばない。あの時に植え付けられた強烈な印象は、きっとこれからどんな物を口に入れても超える物は無いと思う。
ただ一つ、磨きすぎた所為で只の銀色の円筒になってしまった缶詰を見た時だけは、あの時の極上の味が微かに私の体に蘇る。
今でも時たま、缶詰の中に十円玉を入れる。別にそれでまた不思議に会えると信じている訳ではないけれど、あの不思議な体験を遂げてからそれは私の一種の癖になっている。
貯金箱の代わりにしている訳でもないので、入れてはすぐ取り出して、また落とす。
底に当たる音が快く、手持無沙汰になるとつい十円玉を摘まんでしまう。
缶詰はもううんざりしてしまった様で「もういらないよ」などと拗ねている。
私は「別にあんたにあげてるんじゃないよ」と笑う。
「あんたの向こう側に居る人にあげてるの」
私は十円玉を落とす度に、缶詰の向こうへ微笑んだ。




