パパ2 桜井孔明の長期休暇
『デュエルキング』という人気少年漫画が連載を開始したのは、今から三十年も前のことである。連載が終了してからすでに二十年が経過しているが、作中に登場したカードゲーム「カードマスターズ」を現実世界で商品化したシリーズは、発売から二十五年を経た今なお、根強い人気を保ち続けている。
『デュエルキング』がカードゲームを本格的に取り入れ始めたのは、連載開始から十巻を過ぎた頃だった。それ以前は、さまざまなゲームを題材にしたエピソードで読者を楽しませていた。その中には、長年にわたって商品化を熱望され続けてきたゲームがある。
モンスターチェスである。
チェスの駒が個性豊かなモンスターに置き換えられ、それぞれが独自の特殊能力を持つ。さらに、将棋のように、取った相手の駒を自分の手駒として再利用できるという、チェスと将棋を融合させたようなゲームだった。
作中でモンスターチェスが扱われたのは、わずか五話ほどに過ぎない。それでも、当時の小学生男子たちの心を強くつかんだ。「オレたちもこのゲームがやりたい!」と、工作用紙を切り貼りして自作のモンスターチェスを作る少年たちが後を絶たなかった。
しかし、漫画に登場したゲームを完全に再現するのは、容易なことではなかった。モンスターの能力によって、チェス盤そのものが変化する仕組みがあったからだ。
たとえば、クラーケンは盤上のマスを海へと変え、ゴブリンは砦を築き上げる。こうした盤面の変化まで紙や手作業で再現するのは、子供たちの工作技術では到底追いつかない。結局、当時の少年たちは、再現できる範囲で独自のルールを付け足しながら遊ぶしかなかった。
それから二十年以上。液晶パネルが安価になり、複雑な盤面の変化も画面上で表現できるようになった現代、ついに伝説のゲームが商品化されることになったのである。
とはいえ、二十五年も前の漫画にわずか五話ほど登場しただけのゲームが、今さら大ヒットするとは考えにくい。どれほど熱心なファンが待ち望んでいたとしても、それだけで大規模な商品展開を支えられるほど甘い市場ではなかった。
だが、『デュエルキング』には、カードマスターズという強力なキラーコンテンツがあった。
メーカーは、モンスターチェスの発売に合わせて、半年後に全日本選手権を開催すると発表した。さらに、上位入賞者には、ここでしか手に入らないカードマスターズの限定レアカードを贈呈するという。
その発表がなされた瞬間、状況は一変した。
モンスターチェスそのものへの関心よりも、限定レアカードの入手手段として大会に注目する者たちが現れたのである。カードの転売で利益を得ようとする、いわゆる転売ヤーたちだった。
彼らにとって、モンスターチェスがどれほど面白いゲームなのかは、さしたる問題ではなかった。大会で上位に入賞し、希少なカードを手に入れる。それを高値で売りさばくことができれば、それでよかった。
こうして、懐かしの漫画から生まれたゲームは、発売早々、思いもよらぬ形で注目を集めることになった。
全日本選手権を主催するのは、カードマスターズとモンスターチェスを発売する玩具メーカーと、『デュエルキング』を連載していた少年漫画誌を発行する出版社の二社だった。漫画の往年の人気と、カードマスターズが築き上げてきたブランド力。その二つを組み合わせ、モンスターチェスを一気に世間へ売り込もうという算段である。
カードマスターズの歴史は、間もなく三十年に届こうとしていた。その長い歴史の中で、初期に発売されたレアカードや、数量限定で販売された商品の一部には、驚くようなプレミアがついていた。かつて最初の全日本大会で優勝者にのみ贈られた、世界に一枚しか存在しないカードには、なんと一億円という値段がついたことさえある。
もちろん、今回の大会で配布されるカードに、そこまでの値がつく保証はない。そもそも、発売前から希少性が確約されているわけでもなく、将来どれほどの価値を持つかは誰にも分からなかった。
だが、可能性は十分にある。
カードマスターズの歴史を知る者にとって、今回の賞品は見逃せないものだった。大会で上位に入賞すれば、将来、莫大な価値を持つかもしれないカードが手に入る。そう考えたゲーマーたちは、我先にとモンスターチェスの研究に取りかかった。
発売から数か月。ネット上には対局動画や棋譜ならぬ対戦記録が投稿され、強力なモンスターの組み合わせや有力な初期配置、盤面変化を利用した戦術などが盛んに議論されるようになった。金に目がくらんだ者たちが魑魅魍魎のごとく群がり、限られた時間の中で少しでも勝率を上げようと、定石の研究に血道を上げていたのである。
そんな熱狂が広がる中、日本将棋協会に一通の依頼が届いた。
ちょうど、ネット将棋に現れた亡霊をめぐる騒ぎが、少しずつ世間の注目を集め始めた頃のことだった。
依頼の内容は、全日本選手権へのプロ棋士の派遣。主催者側は、将棋界に限らず、麻雀、囲碁、ポーカー、オセロ、チェスなど、さまざまなゲームのプロや関係者に出場を打診しているらしかった。異なる競技の第一人者たちが一堂に会する大会となれば、それだけで話題性は十分にある。各競技のプロがどこまでモンスターチェスに適応できるのか。それを見せることも、大会の宣伝としては格好の材料だった。
もっとも、将棋協会の受け止め方は、いささか冷めたものだった。
「プロ棋士を派遣、ねえ……」
依頼書に目を通した事務局の職員は、面倒そうに眉をひそめた。将棋とは何の関係もないゲームの大会である。しかも、主催者が求めているのは、将棋の普及活動というより、話題作りのための客寄せに近い。
わざわざ棋士を派遣するほどの仕事なのか。そう考えるのも無理はなかった。
しかし、依頼を無下に断るわけにもいかない。将棋界にとっても、他競技のイベントに協力することが、思わぬ宣伝効果を生む可能性はある。かといって、タイトルホルダーを送り出すような大げさな話でもなかった。
しばらく検討した末、事務局の中で一つの方針がまとまった。
「若くて綺麗どころの女流を送れば、向こうも喜ぶだろう」
広報関係の仕事を取り扱う事務局としては、いかにも安直な判断だった。大会で優勝できるかどうかより、メディアに取り上げられ、将棋界の名前を売れるかどうか。その観点から候補に挙がったのが、北条りさ女流初段である。
北条は二十二歳。大学に通いながら女流棋士として活動する、いわゆる兼業棋士だった。ここ一、二年は美人女流棋士としてメディアへの露出も増えており、将棋の対局以外でも知名度を上げつつあった。
棋力についていえば、突出した実績を持つ棋士というわけではない。直近の勝率は、五割を切るか切らないかという水準で推移していた。将棋界を代表する実力者を送り込むというより、広報上の効果を期待した人選だった。
こうして将棋協会は、北条りさ女流初段を派遣する方向で話を進めることにした。
主催者側も、この人選には満足したようだった。大会公式ホームページには、さっそく新着ニュースが掲載された。
――北条りさ女流初段参戦!
若く華やかな女流棋士の参加は、主催者にとっても格好の宣伝材料だった。これで将棋界からの参加者も確保できた。少なくとも、その時点では誰もがそう考えていた。
龍山大学附属病院は、大学の附属病院らしく、広大な敷地に複数の診療棟や研究棟が並ぶ総合病院だった。エントランスには朝から多くの患者や付き添いの家族が行き交い、受付の案内放送が絶え間なく流れている。白い壁と明るい照明に満たされた院内は清潔そのものだったが、消毒液の匂いと、どこか張り詰めた空気が、ここが病院であることを否応なく意識させた。
その病院の入院病棟に、一人の美人が見舞いに訪れた。
長い黒髪が、ゆるやかなウェーブを描きながら肩から胸元へと流れ落ちている。艶やかな黒髪は光を受けて深みを増し、歩くたびに柔らかく揺れた。整った顔立ちに、切れ長の瞳。薄いピンク色の唇は、小さく弧を描いている。白い肌は滑らかで、頰にはほんのりと血色が差していた。
服装も、白を基調に統一されていた。ゴールドのボタンが並ぶ長袖のカーディガンは、柔らかな生地が身体の線に沿い、Vネックの襟元から鎖骨が上品にのぞいている。ウエストで切り替えられた短めの裾からは、細かなプリーツを施した白いスカートが幾重にも広がっていた。幾層にも重なるフリルが、歩みに合わせて優雅に揺れる。
清楚でありながら、どこか華やかさも感じさせる。控えめな装いの中に洗練された美しさが漂っていた。
彼女の名前は北条りさ。日本将棋協会所属の女流棋士である。
そして、入院中の桜井孔明の弟子の一人でもあった。
桜井は、タイトルホルダーとしては珍しく、若い頃から積極的に弟子を取ってきた棋士だった。ただし、その指導方針は独特である。本人は放任主義を公言しており、弟子を取る際にも、面倒は見ない、それでも構わないなら弟子にしてやる、という姿勢を崩さなかった。
桜井自身は、この師弟関係を「放牧」と称していた。
師匠が手取り足取り教えるのではなく、弟子を野に放ち、勝手に育つのを待つ。もちろん、弟子たちが本当に放っておかれているだけなのか、それとも師匠なりの考えがあるのかは、本人にしか分からない。
北条もまた、そんな桜井に放牧されている弟子の一人だった。
病室の扉を開けると、ベッドの上の大男が顔を上げた。43歳の超一流ベテラン棋士である。
「おー、りさ。来てくれたんか?」
ギョロリとした大きな目に、つるりとしたスキンヘッド。口元と顎には髭が生えている。険しい顔立ちは、まるで入道のようだったが、今はその顔が嬉しそうに崩れていた。
桜井の右腕と右脚にはギプスが嵌められていた。右脚はベッド脇の器具から吊り上げられ、自由に動かせる状態ではない。どう見ても、気軽に外出できるような怪我ではなかった。
「先生、お加減はいかがですか?」
「まあ、ぼちぼちやな。ところで、チョコ食うか? チョコ」
桜井は枕元に置かれた菓子袋を指さした。
莉央と蓮が見舞いに持ってきたチョコレート菓子だった。自分がもらったものを、まるで自分が用意した差し入れであるかのように、そのままりさへ差し出している。
「いえ、私は大丈夫です。それより、先生……」
りさはベッドの脇に立ち、師匠の姿を心配そうに眺めた。
「本当に大丈夫なんですか? 聖川先生の悪口を言いすぎて、呪われたんじゃないかって、みんな噂してますよ」
「あー、あれな。ホンマに悪霊やったらしいねん」
「……えっ?」
りさは目を丸くした。
聖川広司の亡霊をめぐる一件については、すでに莉央から話を聞いていた。
あの事件の翌日、莉央と蓮は揃って桜井のもとを訪れ、事の顛末を報告していた。蓮にはバイクを貸してやったうえ、警察に話を通してやった借りもある。
ただし、二人の説明は微妙に食い違っていた。
莉央は、本当に亡霊だったのだと断言した。一方の蓮は、結局のところ、本物の幽霊だったのかどうかは分からないという立場だった。
「悪霊だったんですか?」
「せや。無事に成仏したらしいで。雇った霊媒師から報告を受けたところや」
「霊媒師……?」
りさは首を傾げた。
桜井は大真面目な顔をしていた。
ちなみに、その霊媒師とは蓮のことである。ぶん殴って除霊したらしかった。
「まあ、その話はええねん。それより、りさ」
桜井は急に真剣な顔になった。
「お前、仕事は選ばなあかんで」
「……先生、ご存じだったんですか?」
りさにとっては寝耳に水だった。
モンスターチェスの全日本選手権への参加依頼が来たのは、つい最近のことだ。協会からは半ば一方的に出場を決められ、あとは大会に向けて準備しておくようにと言われただけだった。
大学の講義や課題をこなしながら、女流棋士としての研究や対局の準備も進めなければならない。そのうえ、これまで名前すら知らなかったゲームのルールを覚え、大会で勝てるように研究しろというのである。
正直なところ、勘弁してほしかった。
「協会からトップダウンで決められてしまって……。私には、断る余地もありませんでした」
「なんや。今が大事な時期やのに、かわいそうになあ。先生がなんとかしたるわ」
「えっ?」
桜井は枕元からスマートフォンを取り出した。
「せ、先生?」
りさが止めようとするより早く、桜井は協会に電話をかけていた。
数回の呼び出し音のあと、相手が出る。
「カードマスターズの件、担当者は誰や? なんか、よう分からんチェスみたいなゲームのやつや」
りさは思わず口を開けた。
師匠は、今回の大会についてどこまで知っているのだろう。
実のところ、桜井はカードマスターズそのものについては知っていた。子供たちの間で流行していたゲームであり、桜井の子供たちも夢中になって遊んでいたからだ。今では末っ子の娘も熱中している。
桜井としては、娘にはもう少し女の子らしい遊びをしてほしいという気持ちもあった。しかし、時代が時代である。親が遊び方を決めつけるわけにもいかない。
そんな娘から、先日、こんなことを言われていた。
『パパはモンスターチェスの大会、出ないの? 賞品のカード、欲しいなあ』
その言葉が、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
桜井は電話口の相手が担当者に代わるのを待ち、相手の声を聞くと、いつもの調子で名乗った。
「おー、ワシや。桜井や」
そして、間髪入れずに本題を切り出した。
「ウチの弟子の北条、あいつ今が大事な時期やねん。悪いけど、勘弁してくれへんか? 代わりにワシが出たるわ」
「えっ、先生!?」
りさが慌てて声を上げたが、桜井は気にする様子もない。
「ワシ、今は対局も欠場中で暇やしな。準備期間も取れるやろ。大丈夫や。大会の頃には杖ついて歩けるようになっとるはずや」
電話の向こうから何か言われたらしい。桜井は眉をひそめた。
「え? 何言うてんねん。優勝するから、安心しとき」
あまりにも自信満々な口調だった。
りさは、師匠の顔とスマートフォンを交互に見つめた。
怪我で入院中のタイトルホルダーが、聞いたこともないゲームの大会に出場する。そのうえ、準備期間はわずか一か月。しかも本人は、優勝すると言い切っている。
いったい、何がどうなっているのか。
少なくとも、りさには、まるで理解できなかった。
大学の研究室は静かだった。
学生一人ひとりに割り当てられた研究スペースは、仕切り板によってブース状に区切られている。莉央の机には三枚のモニターが横一列に並び、その中央にキーボードが置かれていた。画面には複数のウィンドウが開かれ、ソースコードや資料がそれぞれ表示されている。
ブースの脇には小さな本棚もあったが、並んでいるのは必要最低限の教科書ばかりだった。莉央は昔から電子書籍を好んでおり、論文も専門書も、可能な限りデータで管理している。物理的な本を並べておくより、検索一つで必要な箇所を呼び出せる方が性に合っていた。
その研究スペースで、莉央は車椅子に座り、パソコンの画面に向かっていた。
短いブロンドの髪がデスクランプの光を柔らかく反射している。白いクロップドシャツの袖を少し捲り上げた腕が、静かにキーボードを叩いていた。ブルーのチェック柄スカートは膝の上で軽く広がり、白いヒールサンダルを履いた足は、車椅子のフットレストに控えめに置かれている。
モニターから放たれる青白い光が、大きな瞳と、鎖骨のあたりで揺れるハートのネックレスを照らしていた。莉央は時折、画面を見つめて小さく頷きながら、淡々と作業を進めている。
その姿は、静かで知的だった。鮮やかなショッキングピンクの車椅子だけが、彼女の落ち着いた雰囲気の中でひときわ目を引いている。
もっとも、その車椅子は、今の莉央が好んで選んだものというわけではなかった。
先日の事故で、それまで使っていた車椅子が壊れてしまったのだ。新しい車椅子は身体に合わせてオーダーメイドすることになっていたが、完成まではまだ時間がかかる。それまでの代用品として引っ張り出してきたのが、ギャルだった高校時代に使っていた一台だった。
だが、車椅子としての機能に問題はない。新しいものが届くまで、文句を言わずに使うしかなかった。
莉央のスマートフォンが鳴った。
モニターから視線を外し、画面を確認する。着信相手は桜井孔明だった。
莉央はキーボードから手を離すと、車椅子のハンドリムを操作して机から離れた。ブースの出口へ向かい、そのまま廊下へと出る。幸い、莉央の席は扉に一番近い場所にある。移動にそれほど時間はかからなかった。
研究室には、ほかにも作業に没頭している学生が何人もいる。静かな環境で集中している彼らのそばで、電話をするわけにはいかなかった。
廊下に出てから、莉央は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『莉央ちゃん、今暇?』
電話の向こうから、妙に軽い調子の声が返ってきた。
「どうしたんですか、桜井先生」
『暇やったら、ちょっと来てくれへん? 頼みたいことがあんねん』
「何ですか?」
『莉央ちゃん、この前来てくれたとき、趣味で将棋AIを開発しとった時期もある、言うてたやろ?』
「はあ、まあ」
『ほな、チェスのAIも作れへんかな思て』
「ゼロから作るのは無理ですよ。私にできるのは、基本的にオープンソースのソフトを改造することですから。普通のチェスなら、強いAIがいくつも公開されていますし、それをベースにすれば何とかなるんじゃないですか?」
将棋やチェスのAIは、ここ十年ほどで大きく進歩していた。
かつては、局面の評価を人間が考案した数多くの評価項目に基づいて計算し、探索によって最善手を探す手法が主流だった。もちろん、探索そのものも重要であり、計算速度を上げる工夫や、無駄な読みを省く技術は長年にわたって研究されてきた。
そこに大きな変化をもたらしたのが、深層学習の導入である。
囲碁では、自己対局を繰り返して強くなるAIが注目を集めた。将棋やチェスでも、ニューラルネットワークを用いて局面の形勢を評価する技術が発展し、従来の探索技術と組み合わせることで、ソフトの実力はさらに向上した。とりわけ将棋で開発されたNNUEと呼ばれる方式は、局面が変化した際に評価計算の一部を効率よく更新できるため、一般的なCPUでも高速に動作する。その技術はチェスにも取り入れられ、現在では世界最強クラスのエンジンにも採用されている。
さらに、棋譜やAI同士の対局から膨大な局面を集め、評価用のニューラルネットワークを学習させる手法も洗練されてきた。オープンソースのエンジンと学習済みの評価データが公開されているため、個人が一からすべてを開発しなくても、強力なAIを利用したり、用途に合わせて改造したりできる時代になっていた。
もっとも、それはあくまで、ルールが確立された将棋やチェスの話である。
『それがな、普通のチェスちゃうねん。特殊能力を持った駒が出てくるチェスやねん』
「特殊能力?」
『せや。なんや、ウィザードが盤の上にワープゲートを作ったりするらしいねん』
「……何ですか、それ?」
『いや、電話で説明するんは大変やから、ちょっと来てほしいねん。今、大学? それとも家? どっちにしても、タクシー代は出すから、顔貸してくれへん?』
莉央は、思わず眉間にしわを寄せた。
話の内容が見えない。普通のチェスではないというなら、既存のチェスAIをそのまま流用することは難しいだろう。駒の特殊能力だけならまだしも、盤面そのものに変化を加えるとなれば、局面の管理から合法手の生成、評価関数に至るまで、手を入れる必要があるかもしれない。
どう考えても、面倒な話だった。
そもそも、桜井が何を企んでいるのかさえ分からない。聞けば聞くほど厄介な案件に巻き込まれそうな気配が濃くなっていく。
しかし、莉央には桜井に対して、かなり大きな借りがあった。ここで無碍に断るわけにもいかない。
「分かりました。今から向かいます」
『おお、助かるわ! ほな、待っとるで!』
通話が切れた。
莉央はスマートフォンを膝の上に置き、短く息を吐いた。
――いったい、今度は何をさせられるんだろう。
そんな不安を抱えながら、彼女はタクシーを呼ぶために画面を操作し始めた。
桜井の病室には、将棋盤が置かれていた。
ベッドの上に設置されたテーブルに盤を載せ、桜井は向かいに座る弟子の北条りさに将棋を教えていた。右腕と右脚にはまだギプスが残り、右脚はベッド脇の器具で吊られている。とても盤上の勝負に集中できるような格好ではないが、本人はさほど気にしていないらしい。
桜井が手にしているのは、りさの直近の対局棋譜だった。
棋譜を一手ずつ追いながら、気になる局面が見つかると、桜井はそこで手を止めた。盤上の駒を動かし、棋譜に記録された局面を再現する。そして、その局面から改めて将棋を指し始めるのだ。
りさが実際の対局と同じ側を持つこともあれば、桜井があえてりさの側を持ち、別の手を試させることもあった。
「ここやな。実戦ではこう指したんやけど、なんでこの手を選んだん?」
「ええと……。相手に攻められるのが嫌だったので、先に受けておこうと思いました」
「うん。それは分かる。せやけど、受けたあと、どうするつもりやった?」
「……そこまでは、あまり考えていませんでした」
「ほな、ちょっと戻してみよか。今度はこっちから攻めてみてくれる?」
桜井に促され、りさは駒を動かした。
しばらく指し進めると、桜井はまた手を止めた。
「ほら、ここや。相手がこう来たら、どうする?」
「……あ」
「最初の局面に戻して、別の手も試してみよ。何が正解か、すぐに分からんでもええ。いろいろやってみて、どこで苦しくなるんかを確かめるんや」
そんなやり取りが、何度も繰り返された。
桜井の指導は、どこかスポーツの練習風景に似ていた。
バレーボールなどの球技では、練習試合の途中で動きの不具合や連携の乱れを見つけると、いったんプレーを止め、問題が起きた場面から何度もやり直すことがある。実際の動きを通じて、どこに問題があるのか、どうすれば改善できるのかを身体に覚えさせていくのだ。
桜井の指導は、それによく似ていた。
ただし、将棋にはスポーツにはない大きな利点がある。棋譜さえ残っていれば、実戦で起きた局面を寸分違わず再現できるのだ。
どこで形勢を損ねたのか。なぜその手を選んだのか。別の手を選んでいたら、どうなっていたのか。
実戦を振り返り、局面を再現し、何度も指し直す。そうすることで、自分では気づいていなかった思考の癖や、同じような局面で繰り返してしまう判断の誤りが、少しずつ見えてくる。
もちろん、将棋の上達に必要なのは、単に失敗を修正することだけではない。自分の得意な展開を理解し、その形に持ち込む技術を磨くことも重要だった。
とりわけ、りさのような棋士には、それが欠かせない。
りさは、あらゆる戦型を自在に使いこなすタイプではなかった。得意とする戦型は限られている。そのぶん、慣れ親しんだ形を深く掘り下げ、細かな変化まで読み切れるようになることが、勝率を高めるための重要な課題だった。
得意な形だからこそ、どこまで踏み込めるのか。どんな局面で判断を誤りやすいのか。そして、相手が想定外の手を指してきたとき、どう立て直すのか。
桜井は、そうした点を一つずつ確認していた。
りさにとって、これほど有り難い指導はなかった。
桜井はタイトルを獲得した経験もある一流の棋士だ。そんな人物から、病室で直接、時間をかけて教えてもらえる。しかも、単に正解を教えるのではなく、自分で考え、答えを見つけるまで付き合ってくれるのだ。
普段の桜井は豪快で、弟子の指導も本人の自主性に任せることが多い。自分のことを「放牧」と称するほどで、ここまで丁寧に面倒を見てもらえる機会は、決して多くなかった。
だからこそ、りさは目の前の局面に集中していた。
――ただ、一つだけ気になることがある。
先ほど、桜井は将棋協会に電話をかけていた。そのあとにも、別の相手に電話をかけていたのだが、どうやら将棋とは直接関係のない話をしているらしかった。
断片的に聞こえてきたのは、AIだの、開発だのという言葉だった。
桜井ほどの棋士になれば、研究用のソフトを作るプログラマーを個人的に抱えていても不思議ではない。近年では、将棋AIを研究に活用することも珍しくないのだから。
とはいえ、あの様子では、単に研究の相談をしていたというだけでもなさそうだった。
りさがそんなことを考えていると、桜井が病室の扉に目を向けた。
「もうすぐ来ると思うんやけどな」
「どなたがいらっしゃるんですか?」
「可愛い姪っ子や」
「……姪っ子?」
りさは首を傾げた。
桜井に姪がいるという話は、聞いたことがない。そもそも、これから来る人物が、なぜ将棋協会への電話やAIの話と関係しているのだろう。
疑問は尽きなかったが、桜井はそれ以上説明するつもりがないらしい。盤上の駒に視線を戻すと、何事もなかったかのように言った。
「ほな、もう一局やろか。今度は、さっきと違う手を試してみよ」
「はい」
りさは返事をして、盤面に向き直った。
桜井の言う「姪っ子」が何者なのか。その答えは、もうじき分かるはずだった。
病室のドアが開き、ひょいと莉央が顔を覗かせた。
「お疲れ様です。失礼しまーす」
短いブロンドの髪に、白いクロップドシャツとチェック柄のミニスカート。シャツの裾からは引き締まったお腹が覗き、すっきりとしたウエストのくびれや、へその周りにうっすら浮かぶ腹筋のラインが目を引いた。首元には長さの異なるネックレスが幾重にも重なり、手首にはいくつものブレスレット。腰に下げたチェーンやハート型のチャームまで、動くたびにきらきらと光を弾いている。華やかで、少しばかり派手な装いだった。
黒いタイヤに、鮮やかなショッキングピンクのチタンフレームを組み合わせた車椅子も、そんな彼女の雰囲気によく似合っていた。
「お前、どこのギャルやねん」
桜井が呆れたように言った。
「急に呼び出されたら、仕方なくないっすか? 私だって研究室でのんびり研究してただけですもん」
莉央は悪びれる様子もなく答えた。派手な服装をしているが、普段使ってた黒い車椅子が壊れて、ピンクの車椅子しかないせいで、洋服の色を合わせるのが難しいと言うのもある。
桜井と再び知り合ってから、まだそれほど長いわけではない。けれど、何度か顔を合わせるうちに、莉央の口調は当初のよそよそしい敬語から、少し砕けた丁寧語へと変わっていた。相手が将棋界の大棋士であろうと、遠慮なく軽口を叩ける程度には打ち解けているらしい。元々は子供の頃からの付き合いだ。
「ほら、りさ。紹介するわ。ワシの可愛い姪っ子、莉央や」
「あ、はじめまして。桜井先生の門下で、女流棋士の北条りさです」
りさは将棋盤から顔を上げ、丁寧に頭を下げた。
その姿を見た瞬間、莉央はわずかに言葉を失った。
長い黒髪は柔らかなウェーブを描き、肩から胸元へと優雅に流れている。白いカーディガンには小さな金色のボタンが並び、裾のフリルがついた白いプリーツスカートと相まって、清楚で上品な印象を与えていた。整った顔立ちに、落ち着いた物腰。華やかな美しさがありながら、どこか人を緊張させない柔らかな雰囲気も備えている。
最近、将棋界の美人女流棋士として名前が知られるようになったのも納得だった。
莉央は思わず見入ってしまい、返事をするのが一拍遅れた。
「あ、えっと……高瀬莉央です。龍山大の院生してます」
ようやく我に返り、少し慌てたように名乗る。
二人は同い年だった。どちらも二十二歳になる学年である。ただし、莉央は早期に大学の単位を取り終え、そのまま大学院へ進学できる制度を利用していたため、学年上は大学四年に相当するものの、現在の在籍は大学院一年だった。
「な? 可愛い子やろ?」
桜井が、まるで自分の自慢でもするように言った。
「はい!」
莉央は食い気味に答えた。
りさが目を丸くする。桜井は満足そうに大きく頷いた。
「せやろ、せやろ」
「いや、ほんとに綺麗な人ですね。びっくりしました」
「ちょ、ちょっと……そんなことないですよ」
りさが恐縮する。
莉央はそんな反応まで好ましく感じたのか、目を輝かせていた。
初めて桜井の見舞いに来たときには、まだどこか遠慮がちだった。それが今では、こんな調子で気兼ねなく言い合えるようになっている。
父の兄弟子であり、将棋界を代表する棋士の一人。それだけ聞けば、気軽に接するには畏れ多い相手だろう。
けれど、莉央にとっての桜井は、幼い頃から付き合いのある、親戚のおじちゃんのような存在でもあった。
「ほな、莉央。ちょっと頼みたいことがあんねん」
「……えっ。まさか、あの電話の件ですか?」
「せや。話が早いやないか」
桜井はにやりと笑った。
桜井は、莉央にスマートフォンを取り出すよう促した。
「とりあえず、モンスターチェスで検索してみてくれへん?」
「モンスターチェス……。ああ、これですか」
検索結果に表示された公式サイトを開き、莉央は画面をスクロールした。『デュエルキング』に登場したゲームを再現した玩具。その発売に合わせて開催される全日本選手権。上位入賞者には、カードマスターズの限定レアカードが贈られるという。
桜井は大会の概要を説明し、自分が出場することになった経緯も話した。もともとは弟子の北条りさが出場する予定だったが、事情があって自分が代わりに出ることになったのだという。
「……で、このゲームのAIを作れってことですか?」
「せやで。一週間でできるか? ワシも準備に時間がないからな。それくらいで頼むわ」
「予算次第ですね」
莉央はあっさりと言った。
「今どき、AIにいろんな作業を手伝わせられる時代ですから。トークン代に五十万くらい用意してもらえたら、いけると思いますよ」
「ご、五十万?」
「AIの利用料だけじゃなくて、開発に必要なものも含めて、です。まあ、実際にどれくらい使うかは、やってみないと分かりませんけど」
莉央は公式サイトの情報を確認しながら、さらに説明を続けた。
「それより、これ、公式の対局アプリがあるみたいですね。玩具を買うと、パソコンやスマホで対局できるソフトをダウンロードできるようになるみたいです」
「ほう。そんなもんまであるんか」
「あるみたいです」
莉央は画面を眺めながら、何かを思いついたように口元を緩めた。
「まぁ、これなら話は早いですね。公式アプリをバキバキに改造して、研究用のAIを組み込めばいいんです」
「バキバキに改造て……。なんや、えらい物騒な言い方やな」
「だって、一から全部作るより早いじゃないですか。盤面の管理や駒の動かし方、特殊能力の処理なんかが、すでにプログラムとして実装されてるわけですから。それを利用できれば、開発の手間をかなり減らせます」
「そら、そうか」
「もちろん、どこまで流用できるかは中身を見てからですけどね。AIの探索部分は既存の技術を使って、評価関数はモンスターチェス用に調整する。まずはそれで動くものを作って、先生の研究に使いながら改良していけばいいと思います」
莉央の頭の中では、すでに開発の手順が組み上がりつつあった。
「ところで、肝心の玩具は持ってるんですか?」
「それなら、一昨日アマゾンで注文しといたから、そこにあるで。りさ、扉の横にある段ボール、取ってくれへん?」
「はい」
りさは立ち上がり、病室の扉の脇に置かれた段ボール箱を持ってきた。
桜井が箱を開けると、中から現れたのは、モンスターチェスの盤と駒のセットだった。タブレット端末に使うような液晶盤を文字盤にしてる他は、ごく普通のボードゲームである。残念ながらモンスターを模したコマの作りが粗い事を見ると、玩具会社はタブレット端末に使う型落ちの液晶を安く入荷出来たから、高値で売り捌こうとしたのではないかと邪推するSNSの声も無理からぬことだった。
「これ自体は、普通に人間同士で対局するためのもんなんですね」
「みたいやな。AIと対局するんは、パソコンかスマホのアプリや」
桜井は箱の中を探り、説明書と一緒に入っていた一枚の紙を取り出した。そこには、公式の対局アプリやパソコン用ソフトをダウンロードするためのコードが印刷されている。
「これでソフトを落とせるらしいわ。莉央ちゃん、持って帰って調べてくれへんか?」
「もちろんです。これがないと始まりませんからね」
莉央は紙をスマホのカメラで撮影した。
「あ、紙は先生が待っててください。私はダウンロードコードがあれば良いんで」
どうやら桜井は、りさが見舞いに来ると連絡してきた時点で、こういう展開になることをある程度見越していたらしい。
「ソフトがあるっちゅうても、あんまり強くないらしいねん。人間同士の対局で見つかった定跡も、ちゃんと理解してへんみたいや」
「だったら、改造のしがいがありますね」
莉央は不敵に笑った。
「先生、まずは公式アプリを動かしてみます。盤面の処理が分かれば、今の将棋AIの技術を組み込む方法も見えてくるはずですから」
「ほんまに一週間でいけそうなんか?」
「完成度は保証できませんけど、研究に使える試作版なら、何とかしてみます。先生が実際に使って、変な手を指したら教えてください。そこから調整していけばいいんです」
「よっしゃ。頼んだで、莉央ちゃん!」
「それと、先生。開発費は別として、AIの利用料や必要な機材なんかも含めて、予算は百五十万くらいでどうですか?」
「百五十万か……」
桜井は腕を組んだ。右腕はギプスで固定されているため、格好だけの仕草になっていたが。
「まあ、優勝賞品の値打ちを考えたら、安いもんかもしれんな」
「賞品の価値は、まだ分からないんですよね?」
「せやけど、カードマスターズの限定レアカードやで。化ける可能性はあるやろ」
「……先生、まさか転売するつもりじゃないですよね?」
「ちゃうわ! 娘にあげるんや!」
桜井は即座に言い返した。
その剣幕に、りさが小さく吹き出す。莉央も、口元に笑みを浮かべた。
「はいはい。じゃあ、娘さんのためにも、まずは動くものを作らないとですね」
「おう! 頼んだで、莉央ちゃん!」
莉央はスマートフォンのケースに挟んだダウンロードコードの紙を、指先で軽く押さえた。
一週間で、どこまでできるか。
少なくとも、引き受けた以上は、できるところまでやるしかなかった。
大学の研究室に戻った莉央は、いつものブースに車椅子を滑り込ませた。
机の上にスマートフォンと、桜井から預かったダウンロードコードの紙を置く。それからパソコンの電源を入れ、三枚のディスプレイに次々と開発環境を立ち上げていった。
中央の画面にはエディタ、左にはターミナル、右にはブラウザ。見慣れた作業環境が整うと、莉央はまずスマートフォンを手に取った。
実は、帰りのタクシーの中ですでに公式アプリをダウンロードし、モンスターチェスを一局指していた。
感想は、なかなか面倒なゲームだ、というものだった。
駒の種類が多い。それぞれが固有の特殊能力を持ち、能力によっては盤面そのものが変化する。単純に駒の損得を計算するだけでは、形勢を判断できない。相手の駒を取ることが得なのか、それとも相手に特殊能力を使わせる隙を与えることになるのか。考慮すべき要素が多く、普通のチェスの感覚で指していると、思わぬところで足をすくわれる。
とはいえ、完全に手探りというわけでもないらしい。
対局を終えた莉央は、SNSで情報を探してみた。すると、発売当初からこのゲームを研究しているプレイヤーたちがいることが分かった。彼らはSNSを通じて知り合い、互いに棋譜や研究成果を持ち寄りながら、ある程度閉じたコミュニティを形成しているようだった。
どうやら、彼らの間ではすでに有力な戦術がいくつか確立されている。
そして、おそらくは――。
莉央は椅子の背もたれに身体を預け、三枚のモニターを見渡した。
自分と同じように、生成系AIを利用して研究しているプレイヤーも、すでにいるだろう。
発売から五か月。その間に積み重ねられた研究の蓄積は、決して小さくない。今から始める莉央には、それだけの遅れがある。しかも、相手はゲームの発売当初から継続して対局を重ねてきた人間たちだ。
単純に棋譜を集めて分析するだけでは、追いつけないかもしれない。
「まあ、考えてても仕方ないか」
莉央は独り言を呟くと、キーボードに手を置いた。
まずは情報収集だ。
右側のディスプレイで生成系AIのコンソールを開き、検索して見つけた『モンスターチェス戦型まとめwiki』のURLを入力する。ページの内容を取り込み、戦術名や基本的な狙い、代表的な棋譜を整理するよう指示を出した。
ほどなくして、画面にAIによる分析結果が表示された。
現時点で有力とされている戦術は、大きく三つ。
ワイバーン急戦、クラーケン穴熊、Poppappe流セイレーン。
莉央は結果を読み進めながら、右側のディスプレイに三つの戦術を並べて表示させた。
ワイバーン急戦は、機動力に優れたワイバーンを中心に、序盤から相手の陣形を崩しにいく速攻型の戦術だった。クラーケン穴熊は、クラーケンの特殊能力を利用して守りを固め、相手の攻めを受け止めてから反撃する。対してPoppappe流サイレーンは、動きの制限されたサイレーンの能力を最大限に活用し、相手の戦術そのものを崩すことを狙う。
この三つには、明確な相性関係があった。
ワイバーン急戦はクラーケン穴熊に強く、クラーケン穴熊はPoppappe流サイレーンに強い。そして、Poppappe流サイレーンはワイバーン急戦に強い。
きれいな三すくみだった。
もっとも、すべての局面で相性どおりの結果になるわけではない。実際の勝敗はプレイヤーの読みや研究の深さにも左右される。それでも、戦術選択の段階で有利不利が生じることは、対局データからも確認できるらしい。
莉央は眉を寄せた。
モンスターチェスでは、駒ごとの性能差がかなり大きい。どの駒を中心に戦術を組み立てるかによって、戦い方そのものが変わってしまうのだ。
サイレーンも、当初はあまり評価されていなかった駒の一つだったという。
特殊能力自体は強力だが、移動能力に乏しく、普通に使おうとすると持ち味を発揮できない。扱いにくい駒として、長らく低く評価されていた。
それを変えたのが、カードマスターズの強豪プレイヤーとして知られるPoppappe氏だった。
サイレーンの能力を生かす独特の戦術を見つけ出し、それを実戦で有効に使えることを証明したのである。その研究成果は瞬く間に広まり、やがてPoppappe流サイレーンという名前で定着した。
莉央は、wikiに掲載されていた代表的な棋譜をいくつか開いた。
「へえ……。こう使うんだ」
思わず声が漏れた。
確かに、サイレーンの移動能力の低さを逆手に取った戦術になっている。駒そのものの性能だけを見ると弱くても、ほかの駒や盤面の変化と組み合わせることで、まるで違う価値が生まれるのだ。
ただし、こうした工夫を重ねても、三つの有力戦術が常に優位に立てるとは限らない。
これらを使わず、相手の戦術に依存しない力戦に持ち込むことも可能ではある。しかし、研究が進んだプレイヤー同士の対局では、三つの有力戦術に対して、どうしても勝率が六対四ほどに偏ってしまうらしい。
致命的な差ではない。だが、大会で勝ち上がることを考えれば、無視できる数字でもなかった。
結局のところ、現在の主流は三つの戦術をすべて使いこなし、相手の選択を見てから有利な戦術を選ぶことだった。
いわば、後出しジャンケンである。
相手が何を選ぶかを見極め、それに強い戦術をぶつける。さらに相手もそれを読んでくるから、こちらはその裏をかく。三すくみが成立している以上、戦術を一つしか使えないプレイヤーは、それだけで選択肢を狭められてしまう。
莉央は椅子の上で姿勢を直した。
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
――これ、将棋より覚えることが少ないんじゃない?
もちろん、モンスターチェスのルールは将棋より複雑だ。駒の種類も多ければ、特殊能力もある。盤面が変化することさえあるのだから、ゲームの仕組みを理解するだけなら、将棋よりも手間がかかるだろう。
しかし、実際の対局で有効な戦術が三つに集約され、その相性関係まで明確になっているとなると、話は別だった。
将棋は、駒の動きや基本的なルールこそ比較的単純だが、局面の変化は無数にあり、戦型も多岐にわたる。相手の選択に応じて、どこまでも研究の範囲が広がっていく。
一方のモンスターチェスは、ルールを複雑にした結果、実戦で覚えるべき有力な戦術が、かえって限定されているように見えた。
複雑さと奥深さは、必ずしも同じではない。
莉央は三つの戦術を表示した画面を見つめた。
このゲームで勝つために必要なのは、すべての可能性を理解することではないのかもしれない。まずは三つの有力戦術を使いこなし、その相性関係を利用して、相手より一手先に選択を迫ること。
そう考えると、やるべきことは少し見えてきた。
莉央は新しいウィンドウを開き、キーボードを叩き始めた。
まずは、この三つの戦術を再現できるかどうか。
そこから始めよう。
なるほど、思ったよりクソゲーだ。
莉央は、モンスターチェスの公式サイトに掲載されていた対局動画を見ながら、率直にそう思った。
もちろん、ゲームとして成立していないという意味ではない。ルールは複雑だし、駒ごとの特殊能力を把握するだけでも一苦労する。だが、実際の対局で有効な戦術が三つほどに集約され、それらの相性関係もはっきりしているとなると、話は違ってくる。
大ヒット漫画家が、いかにも奥深く、戦略性に富んだゲームであるかのように描いた。そのせいで、当時の日本中の小学生男子が目を輝かせ、こんなゲームで遊んでみたいと夢想したのだろう。
しかし、現実は漫画のようにはいかない。
複雑なルールと派手な特殊能力を詰め込んだからといって、戦略の幅まで広がるとは限らない。むしろ、駒の性能差が大きすぎるせいで、使うべき駒も戦術も限られてしまっている。
例えば、漫画では主人公が使って大活躍したとされるドラゴンの駒。特殊能力は派手だが、実際には使い所が難しい。初心者のうちは強い駒だが大振り過ぎて有志の定石研究では最終的に上級者同士の対局では上手い使い道がなくなると考察されていた。
まあ、子供の頃に夢中になった漫画のゲームを、現実に遊べる。それだけで十分に価値があるのかもしれない。だが、研究対象として見るなら、もう少し何とかならなかったのかと思わずにはいられなかった。
まずは公式アプリを入手するところからだ。
認証コードを入力し、公式サイトからパソコン版の対局ソフトをダウンロードする。スマートフォン版でも遊ぶだけなら問題ないが、プログラムを解析し、改造するつもりなら、パソコン版のほうが都合がいい。
インストールを終えると、莉央はさっそくプログラムのファイルを開いた。
実行ファイルの中身を調べる。文字列を検索し、データの並びを確認し、既存の解析ツールにかけてみる。
だが、そこにあったのは、ただの数字の羅列だった。
少なくとも、分かりやすい形で暗号化されているわけではない。データ自体は読み取れる。しかし、構造が完全に独自だった。どこからどこまでが盤面の情報で、どれが駒の能力を定義したデータなのか。そもそも、プログラムがどのような形式で情報を管理しているのか。それを一つずつ突き止めなければならない。
暗号化されていないからといって、解析が簡単になるわけではなかった。
「うわ、面倒くさ……」
莉央は画面を睨みながら呟いた。
人間が手作業で解析していたら、これだけで何日も潰れかねない。しかも、今回は一週間しかないのだ。
ならば、人間がやる必要のない作業は、すべてAIに投げればいい。
莉央は生成系AIのコンソールを複数立ち上げた。プログラムの構造を推測させるもの、関数の役割を調べさせるもの、データの規則性を探させるもの。それぞれに異なる作業を割り振り、並列で解析を進める。
トークン代に糸目をつけるつもりはなかった。
もちろん、いくらAIを並べたところで、正体不明のプログラムが一瞬で理解できるようになるわけではない。推測が外れれば検証が必要だし、出力された分析結果が正しいかどうかは、自分で確かめなければならない。それでも、人間一人で取り組むよりは、はるかに早く進むはずだった。
画面の隅では、AIたちが次々と解析結果を返してくる。そのたびに新しい指示を出し、追加のデータを与え、必要に応じて別のAIに検証させる。
この調子だと、一晩で五万円くらいは飛びそうだった。
「まあ、先生の財布だし」
莉央は小さく笑い、利用料の表示を一瞥しただけで作業を続けた。
桜井孔明が求めているのは、公式アプリの解析そのものではない。プログラムを改造することも、研究用の環境を整えることも、あくまでそのための手段にすぎなかった。
肝心なのは、モンスターチェスの局面を正確に評価できるAIを作ることだ。
将棋AIの強さを支えているのは、膨大な局面を探索する能力だけではない。探索によって見つけた局面が、どちらにとってどれほど有利なのか。それを数値として見積もる評価関数も、同じくらい重要になる。
駒の損得、王の安全性、陣形の良し悪し、攻めの継続性。将棋ならば、そうした要素を組み合わせて局面の価値を計算する。
だが、モンスターチェスではどうか。
駒ごとの特殊能力があり、能力によって盤面そのものが変化する。単純な駒の価値だけでは、局面の優劣を測れない。目先の駒得が、数手後には致命的な不利につながることもあるだろう。逆に、普通なら損としか思えない手が、特殊能力を利用するための布石になっている可能性もある。
このゲームにおける駒の価値とは何か。どのような陣形が有利で、どの程度の危険を冒して攻めるべきなのか。特殊能力によって生じる盤面の変化を、どう評価値に反映させるのか。
将棋で培った知識をそのまま持ち込むだけでは、おそらく通用しない。
莉央は解析用のウィンドウを画面の端に寄せ、別のエディタを開いた。
公式アプリの構造を調べる作業はAIに任せる。その間に、自分は評価関数の設計を考える。
まずはゲームのルールを、AIが扱える形で整理する。次に、駒の性能と特殊能力を数値化する。そこから実際の対局データを使い、評価の妥当性を検証していく。必要なら、桜井に局面を見せて、プロの感覚ではどう判断するのか意見を聞くこともできる。
むしろ、それこそが今回の仕事の肝なのかもしれない。
どれだけ探索を速くしても、評価関数が間違っていれば、AIは効率よく間違った手を選ぶだけだ。
桜井孔明が莉央に求めているのは、単にモンスターチェスを指せるプログラムではない。自分が研究に使い、局面を分析し、戦術を検証するための道具だ。
つまり、強い手を指すこと以上に、局面の良し悪しを正確に数値化できることが重要になる。
先ず考えるべきは評価関数。
AIに局面の良し悪しを判断させるには、盤面の状態を数値に変換する仕組みが必要になる。将棋AIの場合、その評価関数を作る方法はいくつかある。
導入が比較的簡単なのは、あらかじめ人間が評価の仕組みを細かく設計する方法だ。例えば、将棋AIで使われてきたKPPT型の評価関数がそれに当たる。
KPPTでは、盤面にある玉の位置と、ほかの二枚の駒の位置関係などを組み合わせ、そのパターンごとに評価値を設定する。無数にある配置の組み合わせを細かく分類し、それぞれに点数を与えるのだ。実際の局面では、該当するパターンの評価値をすべて足し合わせ、その合計をもとに形勢を判断する。もちろん、手番や先手・後手の違いなども評価に反映される。
こうした方式は、評価の仕組みが明確で、既存の技術を応用しやすい。一方で、新しいゲームにそのまま持ち込めるわけではない。
モンスターチェスで同じことをするなら、将棋のKPPTに相当する仕組みを一から設計する必要がある。将棋における玉に相当する駒は何か。どの駒同士の位置関係を評価すべきなのか。特殊能力による盤面の変化を、どのような特徴として表現するのか。そもそも、どの情報を組み合わせれば局面の強さを適切に評価できるのか。
それらを人間が考え、評価の仕組みに落とし込まなければならない。
設計がうまくいけば強力な評価関数になるが、肝心の特徴を見落としたり、重要でない要素を過大評価したりすれば、いくら探索を高速化しても意味がない。AIは、与えられた評価基準に従って、効率よく間違った判断を繰り返すだけになってしまう。
そこで莉央が考えたのは、NNUEを利用する方法だった。
NNUEは、ニューラルネットワークを用いて局面を評価する技術の一つである。人間がすべてのパターンに点数を割り振るのではなく、対局データなどを使って学習させることで、どのような局面が有利なのかをネットワーク自身に学ばせる。
もちろん、何も考えずにデータを与えれば、勝手に強くなってくれるわけではない。盤面をどのような数値の組み合わせで表現するのか、どのようなデータで学習させるのか、何を目標に学習させるのか。そうした設計や学習環境の準備は必要になる。それでも、モンスターチェス特有の駒の価値や特殊能力の組み合わせを、人間が一つずつ手作業で評価関数に書き込むよりは、現実的な選択肢に思えた。
さらに、NNUEには速度面での利点もある。
ニューラルネットワークを使った評価というと、計算量が大きく、探索のたびに時間がかかるという印象がある。実際、深層学習を利用した評価は、ネットワークの構造や計算方法によっては大きな負荷になる。
しかし、NNUEは局面全体を毎回ゼロから計算するのではなく、指し手によって変化した部分を利用して、評価に必要な計算を効率化できるよう設計されている。前の局面から何が変わったのかを反映し、必要な部分だけを更新するのだ。
将棋のように、一手ごとに変化する盤面の情報を追跡できるゲームでは、この差分更新が大きな意味を持つ。モンスターチェスも、盤面や駒の状態が完全に公開され、合法手と特殊能力の効果をプログラムで把握できるゲームだ。少なくとも、情報が隠されていることによって計算が妨げられるような仕組みではない。特殊能力による盤面変化まで正しく差分として扱えるなら、NNUEの高速な評価処理を生かせる可能性は十分にある。
ネットワークによる学習で複雑な局面の特徴を捉え、差分更新によって評価を高速化する。
それが実現できれば、人間が評価基準を一から細かく設計する負担を減らしながら、探索に必要な速度も確保できるはずだった。
問題は、モンスターチェスの盤面をどのような形式でネットワークに入力し、どの情報を差分更新の対象にするか。そして、短い開発期間の中で、どこまで実用的な評価関数を学習させられるかだった。
莉央は、モンスターチェスの公式ルールブックや駒の能力をまとめた資料、SNSで公開されている定石研究、実際の対局棋譜を集め始めた。
それらを一つずつ読み込んで、自分で評価関数を設計するつもりはなかった。
せっかく生成系AIを使えるのだから、面倒な分析作業は可能な限り任せてしまえばいい。
莉央は複数のAIを立ち上げ、集めた資料を分配していった。あるAIには駒の性能と特殊能力を分析させ、別のAIには公開されている定石や棋譜から、有力な陣形や駒同士の連携を抽出させる。さらに別のAIには、分析結果をもとにNNUEの入力形式や評価関数の設計案を考えさせた。
それぞれの分析結果は、別のAIにも渡して検証させる。ある戦術で高く評価されている駒が、別の戦術ではどのような役割を果たすのか。特定の配置が有利なのは、駒そのものが強いからなのか、それとも特殊能力との組み合わせに理由があるのか。複数の視点から分析させることで、個々の棋譜を眺めるだけでは見えにくい特徴を洗い出していく。
もちろん、AIが出してきた結論を、そのまま正解として採用するわけにはいかない。棋譜の数が限られていれば、たまたま多く現れた配置を過大評価することもある。定石研究そのものが誤っている可能性もあるし、ある戦術に特化した評価関数が、ほかの戦術に対してまるで機能しないことだって考えられる。
だからこそ、複数のAIに異なる観点から分析させ、互いの結論を照合させる意味があった。
莉央自身が担当するのは、各AIの分析結果を統合し、実際にプログラムへ落とし込むための設計をまとめること。そして、出来上がった評価関数を対局で検証し、問題があれば修正することだった。
将棋AIで培った知識は、そのための土台になる。
ただし、将棋の評価関数をそのまま移植するわけではない。モンスターチェスの駒の価値や特殊能力の影響を、どのような入力特徴として表現するのか。どの情報を差分更新の対象にすれば、評価の精度と計算速度を両立できるのか。その設計を、集めたデータと分析結果に基づいて組み立てていく。
画面の向こうでは、複数のAIが同時に資料を読み込み、それぞれの分析結果を返し始めていた。
トークンの消費量を示す数字も、勢いよく増えていく。
「……うん。これは一晩で五万じゃ済まないかも」
莉央は苦笑しながらも、作業を止めなかった。
桜井孔明が求めているのは、単にモンスターチェスを指せるプログラムではない。自分が研究に使い、局面を分析し、戦術を検証するための道具だ。
そのためには、探索を速くするだけでは足りない。AIが局面の良し悪しを判断する基準そのものを、このゲームに合わせて作り上げる必要がある。
資料の分析も、評価関数の設計も、最初から最後まで一人で抱え込む必要はない。AIに仮説を立てさせ、別のAIに検証させ、莉央がその結果を確かめて実装する。多分、これと同じ事を何処かで誰かがやっている筈だ。カードマスターズの限定1枚のレアカードにはそれだけの価値があるからだ。
開発開始から一週間後。莉央は、モンスターチェスの研究用AIの叩き台を作り上げ、桜井の病室に現れた。
もっとも、彼女が一週間ずっと机に向かってプログラムを書き続けていたわけではない。
初日は夜中まで作業を続け、評価関数を生成するシステムの雛形を構築した。集めた資料や棋譜を分析し、複数のAIに評価関数の設計案を作らせ、それを実装可能な形にまとめる。さらに、対局による検証と改善を繰り返せるよう、開発環境そのものを整えていった。
ある程度の形ができると、莉央は夜中のうちに大学の計算機室へ向かった。研究目的で利用できる計算機サーバーを確保し、評価関数の生成と検証に必要な計算を走らせる。
このあたりから、彼女の本気度は明らかに変わっていた。
当初は、桜井に頼まれた仕事を一週間で何とか形にするつもりだった。だが、モンスターチェスの研究を進めるうちに、莉央の中に別の欲が生まれていた。ここまで来たら、このゲームで一報書いてやる。せっかく新しいゲームを研究するのだ。AIを作って終わりでは面白くない。新しいゲームに既存の将棋AI技術をどう応用できるのか。どのような評価関数が有効で、どこに限界があるのか。きちんと検証すれば、研究論文の一つくらい書けるのではないか。
そう考えた途端、必要な作業はすべて研究の一部になった。
そして二日目の夜、莉央は早くも次の段階へ進んでいた。
有志が運営する、モンスターチェスのオンライン対戦サーバーにアカウントを登録したのである。完成したばかりの雛形AIを接続し、実際の対局に投入する。評価関数が未完成であることは承知の上だった。実戦で通用しない部分を見つけるには、実戦に出すのが一番早い。
もちろん、莉央自身が一局ずつ指すわけではない。
AIに管理させたアカウントが、次々と対局をこなしていく。対局の棋譜や勝敗、評価値の推移を記録し、その結果をフィードバックして評価関数の改善に利用する。
その裏では、別のプログラム同士が自動対局を繰り返していた。異なる評価関数を持つAIを戦わせ、どちらが強いのかを検証する。成績のよかった評価関数を残し、改良したものを新たに作り、再び対局させる。
オンライン対戦で得られた棋譜を分析し、ソフト同士の対局で仮説を検証する。そこで見つかった問題を評価関数に反映し、改良版を再び実戦に投入する。
人間が手作業で行えば、何日もかかる試行錯誤だ。それを、複数のAIと計算機サーバーを使って並列に進めていく。
莉央は、開発環境が正常に動いていることを確認すると、あとは監視と調整に回った。すべてをAI任せにするわけにはいかない。異常な評価値が出ていないか、対局結果に不自然な偏りがないか、改善の方向が間違っていないか。要所で人間が判断し、必要な修正を加えていく。
そうして、六日間。
モンスターチェスのAIは、対局と学習を繰り返しながら、少しずつ強くなっていった。
宣言したとおり、莉央はAIの利用料に五十万円を投じた。請求書は全て桜井孔明に回す手筈である。
一週間前、モンスターチェスの世界では、三つの有力戦術を使いこなすプレイヤーたちが、互いの研究を競い合っていた。
そこへ突然、正体不明のプレイヤーが現れた。
アカウント名は、@HijirikawaRyo。
対局を重ねるたびに、その棋譜はオンライン上で話題になった。定石をなぞるだけではない。相手の戦術に応じて柔軟に評価を変え、ときには人間が避けていた駒の組み合わせから勝ち筋を見つけ出す。序盤は既存の定石を利用しながら、中盤以降は独自の判断で局面を切り開いていく。
もちろん、すべての対局で勝てたわけではない。評価関数の未熟さが露呈することもあれば、相手の研究に対応できずに敗れることもあった。
それでも、膨大な対局数と改善の積み重ねは、着実に結果へと結びついていた。
一週間が終わる頃には、@HijirikawaRyoはオンライン対戦のトッププレイヤーの一角に食い込んでいた。
いや、単に勝ち星を重ねただけではない。これまで人間の研究者たちが積み上げてきた定石に、AIという新たな視点を持ち込んだのである。
「出来ましたよ、桜井先生」
莉央はそう言って、桜井の病室でノートパソコンを開いた。
「おおっ、ほんまか! さすがやなあ。五十万も使て、何もできへんかったらどないしよかと思てたわ」
「先生、毎日いくら使ったか、スマホに通知が来るようにしてたじゃないですか」
「来とったで。来とったけどな、見るたびに金額が増えていくんや。あれはなかなか心臓に悪いで」
「自分で頼んでおいて、何を言ってるんですか」
今回の開発にかかったAIの利用料は、すべて桜井孔明に請求することになっていた。莉央はあらかじめ、利用額が日ごとに桜井のスマートフォンへ通知されるよう設定していたのである。最初のうちは興味深そうに眺めていた桜井も、数日が経つ頃には、通知が届くたびに複雑な顔をするようになっていた。
もっとも、今となってはその出費も報われたと言っていい。
莉央が画面を操作し、オンライン対戦サイトのランキングを表示する。そこには、見慣れないアカウント名がランキング一位の位置に輝いていた。
@HijirikawaRyo
「……なんや、この@HijirikawaRyoっちゅうアカウント名は」
桜井は画面をのぞき込み、眉をひそめた。
「意趣返しの一種ですかね?」
莉央は、どこか他人事のように答えた。
あの一週間、開発は想像以上に過酷だった。複数のAIを並列で動かし、膨大な対局データを処理し、出てきた結果を検証しては修正する。思うような結果が出なければ、原因を探して再び試す。計算機の前で作業を続けるうち、睡眠不足も重なり、莉央の精神は日に日に荒んでいった。
そんなとき、ふと思いついたのが、このアカウント名だった。
ほんの出来心だった。少しばかり性格の悪い冗談。疲れた頭で思いついたブラックジョークにすぎなかった。
ところが、思いのほか大きな反響を呼んだ。
将棋界隈では、以前から聖川広司の亡霊をめぐる話題がくすぶっていた。死んだはずの棋士の名を冠したアカウントがネット将棋に現れ、かつての本人を思わせる指し回しで勝ち続ける。やがてその正体をめぐって、さまざまな憶測が飛び交うようになった。
そして、その亡霊騒ぎがようやく一段落した頃。
今度は、娘の聖川龍王の亡霊が現れた。
しかも、将棋ではない。モンスターチェスという、まったく新しいゲームの世界にである。
もちろん、アカウント名だけで本人だと信じる者ばかりではない。だが、ランキングを駆け上がる謎のプレイヤーと、聖川という名前の組み合わせは、それだけで人々の想像力を刺激するには十分だった。
世間では今なお、聖川広司の娘は、父親との無理心中によって命を落としたものと思われている。
父親に将棋を強要され、同年代の子供たちが当たり前のように楽しむ遊びからも遠ざけられた少女。父親の手によって命を奪われた、哀れな天才少女。
そんな少女の霊が、死後、漫画やゲームの世界に現れて、生前に果たせなかった夢をかなえようとしている――。
いつしか、そんな物語が人々の間で形作られつつあった。
実際のところ、莉央がやっているのは、大学院生としての研究と、桜井に頼まれたAIの開発でしかない。そこに怨念もなければ、無念を晴らすための壮大な計画もない。
ただ、開発に疲れた頭でつけたアカウント名が、思いがけず世間の好む物語にぴたりとはまってしまったのだ。
「そういえば、最近、あの霊媒師の大男を見かけへんな。元気にしとるんか?」
桜井が思い出したように尋ねた。
霊媒師の大男とは、結城蓮のことである。莉央の恋人であり、桜井とも何かと付き合いがある。以前、蓮が本当に霊を信じているわけでもないのに、怪異絡みの騒動に首を突っ込んだことから、桜井は彼を「ワシ専属の霊媒師」と呼んでいた。
「月末に大きな大会があるんですよ。そこで表彰台に上がれなかったら、天皇杯の出場権が取れなくて、そのまま引退なんです。だから今は、合宿でバクーに行っています」
「バクー? なんや、そこ」
「アゼルバイジャンです」
「……どこや、それ」
「中東の方です」
「なんでまた、そんな遠いとこまで行っとるんや」
「本当はロシア連邦のダゲスタンに行きたかったみたいなんですけど、国際情勢の関係で難しかったらしくて」
莉央の恋人である蓮は、グレコローマンスタイルを専門とするアマチュアレスラーだった。大学レスリング界でも実力のある選手だが、競技生活は決して順風満帆ではない。月末の大会は、彼にとって現役を続けられるかどうかを左右する大一番だった。
合宿先に選んだバクーは、アゼルバイジャン共和国の首都である。レスリングをはじめとする格闘技が盛んな地域で、海外の強豪選手と練習を積むには都合がいい。
蓮が当初、練習拠点として希望していたダゲスタンは、ロシア南部の北カフカス地方に位置する共和国だ。MMA、すなわち総合格闘技の世界では、ダゲスタン出身の選手が数多く活躍していることで知られている。幼い頃から組み技やレスリングに親しむ文化が根づいており、世界の頂点を争う強豪選手を次々と輩出してきた。
ただし、ダゲスタン人が特別な身体能力を持っているというよりも、格闘技を重視する地域の文化や、幼少期からの競技経験、厳しい練習環境などが、強い選手を育てる土壌になっていると考える方が適切だろう。
蓮もまた、そうした環境に身を置いて自分を鍛え直したかったのだろう。だが、国際情勢を考慮すると、ロシアへの渡航は簡単ではなかった。そのため、代わりにバクーで合宿することになったらしい。
「なるほどなあ。まあ、そこまでして頑張っとるんやったら、ええ結果を出してほしいもんやな」
桜井はうなずくと、にやりと笑った。
「そしたら蓮君の大会が終わる頃には、ワシも退院できとるやろ。祝勝会でもやったるわ」
大会当日の朝。
展示面積約五千平方メートルを誇る巨大なホールには、二千人もの参加者が集まっていた。
会場のあちこちで、モンスターチェスの盤面を囲んだ参加者たちが、互いの戦術について語り合っている。発売から半年足らずの新作ゲームとは思えない熱気だった。漫画の中でしか実現できなかった遊びが、現実のものとなった。その懐かしさに惹かれた往年のファンもいれば、発売後に研究を重ね、競技としての奥深さに魅了された新世代のプレイヤーもいる。
もっとも、二千人もの参加者が一堂に会するとなれば、運営も一筋縄ではいかない。
大会は、まず予選から始まる。参加者二千人を対象とした、巨大なトーナメントだ。九回戦を戦い抜き、最後に八人まで絞られた選手が決勝トーナメントへ進出する。
一方、事前に招待された八人の選手には、予選を免除されるスーパーシードの権利が与えられていた。
決勝トーナメントは、予選を勝ち抜いた八人と招待選手八人を合わせた、計十六人で争われる。招待選手たちは予選の喧騒に巻き込まれることなく、決勝トーナメントから参戦するわけだ。
その決勝トーナメントのために、ホールの中央には特別な対局スペースが設けられていた。
いわゆるフューチャー卓である。
観客が周囲を取り囲み、大型モニターには盤面や対局者の表情が映し出される。ゲームの進行に合わせて実況や解説も行われる予定だった。予選が大人数をふるいにかけるための競技場だとすれば、こちらは大会の主役たちが脚光を浴びるための舞台だった。
そして、その舞台に立つことを約束された八人は、いずれも各分野を代表する顔ぶれだった。
将棋界からは、タイトルホルダーの桜井孔明。
囲碁界からは、実力派の若手、山根沙織。
麻雀界からは、実力と人気を兼ね備えた女性プロ雀士、河田花梨。
チェス界からは、アマチュアながら数々の強豪を破ってきた金山亮。
オセロ界からは、全日本王者の土岐竜太。
カードマスターズ界からは、かつて日本王者に輝いた実力者、Poppappeこと海野泰治。
そして、桃太郎電鉄の全国大会で日本一に輝いた佐藤達也。
最後に、中国からの留学生でありながら、シャンチーの日本王者にまで上り詰めた徐栄華。
将棋、囲碁、麻雀、チェス、オセロ、トレーディングカードゲーム、ボードゲーム、そして中国将棋。それぞれ異なる競技で頂点を争ってきた者たちが、モンスターチェスという新たな舞台で一堂に会する。
もちろん、招待選手だからといって、必ずしも勝てるわけではない。モンスターチェスは、既存の競技で培った経験をそのまま持ち込めるほど単純なゲームではなかった。むしろ、各分野で成功を収めた者ほど、これまでの常識が通用しない場面に戸惑うこともある。
それでも、彼らが招待されたのには理由があった。
異なるゲームの世界で磨かれた思考力や勝負勘が、この新しい競技でどのような形を見せるのか。それこそが、大会の見どころの一つだったのである。
早坂聖也は、この日のために半年間、準備を続けてきた。
もちろん、目当ては大会の賞品である。
早坂はカードマスターズをかなりやり込んでいた。店舗大会なら何度も優勝しているし、大規模な大会でも二日目まで勝ち残ることは珍しくなかった。もっとも、それは高校時代の話だ。
当時はカードを買う金を稼ぐためにアルバイトを詰め込みすぎて、受験勉強がおろそかになった。その結果、大学受験に失敗して一浪。翌年は翌年で、受験期に流行していた感染症にかかり、受験そのものができなくなって二浪した。
カードゲームに青春を捧げたと言えば聞こえはいいが、受験に関しては、我ながら少々間抜けな経歴である。
それでも、カードマスターズへの情熱が消えたわけではなかった。
そして今、早坂はモンスターチェスの全国大会で、決勝トーナメントへの進出を決めていた。
「これで二枚」
早坂は、これまでの戦績を頭の中で確認しながらつぶやいた。
まず、予選トーナメント八ブロックの各決勝戦に進出した十六人には、参加賞とは別に特別なカードが一枚ずつ配られる。
カードマスターズの往年の名カード、『暗黒騎士ヴァイヤ』。その大会限定イラスト版だ。
今となっては、ゲームのインフレによって実戦で使われる機会も少なくなったカードである。しかし、二十五年前にはトップレアとして君臨していた。長年のファンにとっては、思い入れの深い一枚だった。
しかも、今回の配布枚数はわずか十六枚。再録の予定もなく、この大会でしか手に入らない。
カードショップでの販売価格は十万円前後、買い取り価格でも五万円程度にはなるだろう。もちろん、実際の相場は需要次第だが、希少性を考えれば十分に期待できる金額だった。
そして、決勝トーナメントに進出した選手には、もう一枚が与えられる。
こちらは、カードマスターズを代表する人気カードの一つ、『美少女白魔術師』の書き下ろし限定イラスト版だ。
元々、かわいらしい少女のイラストが人気を集めたカードである。今回は新規描き下ろしということもあり、コレクターからの需要は高そうだった。
こちらも配布枚数は十六枚。ただし、そのうち八枚は招待選手に渡るため、一般のプレイヤーが市場に流す可能性のあるものは限られている。
販売価格は二十万円、買い取り価格でも十万円ほどになるかもしれない。
もちろん、今すぐ売らずに保管しておけば、希少性が評価されてさらに値上がりする可能性もある。だが、カードの相場は気まぐれだ。人気が落ちれば値下がりするし、再録が発表されれば一気に暴落することもある。
確実に利益を得たいなら、早めに売ってしまうのが無難だろう。
つまり、現時点で手に入れた二枚を売れば、十五万円ほどになる計算だった。
半年間の準備に費やした時間を考えれば、これだけでは割に合わない。せめて、もう一勝はしたいところだ。
決勝トーナメントの一回戦を突破し、二回戦に進出すれば、さらに一枚が手に入る。
『天界の白龍』。
漫画『デュアルキング』で主人公のライバルが愛用していた、人気の高いカードだ。作品の連載が終わって二十年が経った今でも、ファンデッキの切り札として使い続けるプレイヤーは多い。
今回の限定版は、配布枚数わずか八枚。販売価格は三十万円、買い取り価格でも十五万円ほどになるのではないか。
ここまでの三枚をすべて売却できれば、合計で三十万円。
半年間の準備に対する報酬としては、悪くない数字だった。
問題は、次の対戦相手である。
決勝トーナメント一回戦では、予選を勝ち抜いた八人が、招待選手八人と対戦する。相手は各界で名を馳せた一流のプレイヤーばかりだ。だが、モンスターチェスに関しては、どれほどの実力があるのか未知数だった。
将棋や囲碁で培った読みが、そのまま通用するとは限らない。チェスやオセロの強豪にしても同じだ。ゲームが変われば、求められる知識も戦術も変わる。
だからこそ、勝機はある。
早坂が最も引きたくない相手は、カードマスターズ界から招待されたPoppappeこと海野泰治だった。
彼は単にカードマスターズの元日本王者というだけではない。モンスターチェスの研究でも頭角を現し、現在の三大戦術の一つである「Poppappe流サイレーン」の名の由来となった人物だ。
このゲームの研究において、彼はすでに第一人者の一人だった。優勝候補と見なされているのも当然である。
よりによって、そんな相手を一回戦で引いてしまったら目も当てられない。
早坂は、運営スタッフに案内されてステージ脇へ移動した。
決勝トーナメントに進出した八人が集められ、招待選手との組み合わせを決める抽選が始まる。
くじはAからHまでの八本。どれを引くかによって、対戦相手が決まる仕組みだった。
早坂は小さく息を吐き、箱の中へ手を入れた。
引き当てたくじには、Aの文字。
対応する対戦相手の名前が、スクリーンに映し出された。
桜井孔明。
将棋界を代表するタイトルホルダーである。
「……ああ、そっちか」
早坂は、思わず声を漏らした。
Poppappeではなかった。それだけでも、ひとまず安心していい。
だが、相手は相手で、とんでもない大物だった。
決勝トーナメントが始まる頃には、時刻は午後六時を回っていた。
ここからは、いよいよインターネットでの生中継が始まる。
決勝トーナメント一回戦の八試合は、すべて同時に行われる。対局者がほかの試合の盤面を見て戦術を選ぶことはできない。招待選手たちがどのような戦い方をするのかは、実際に対局が始まるまで分からなかった。
持ち時間は双方十分钟。チェスクロックを使用し、持ち時間を使い切った後は一手10秒の秒読みとなる。
フューチャー卓の一角に、対局者の名前が表示された。
龍山大学オカルト研究部、早坂聖也。
対するは、日本将棋協会所属、天棋タイトルホルダー、桜井孔明。
異色の対決だった。
コイントスの結果、先手は早坂となった。
対局開始の合図とともに、早坂は盤面を見渡した。
まずは、最前列に並ぶスケルトンの一体を前進させる。
スケルトンは、相手陣地に侵入すると冠をかぶり、ワイドキングへと変化する特殊能力を持つ。序盤では弱い駒だが、敵陣に到達すれば一転して強力な戦力となる。もっとも、そこまで運ぶには相手の防御をかいくぐらなければならない。
早坂の狙いは、ワイバーンの進路を確保することだった。
ワイバーン急戦。
現在のモンスターチェスにおける三大戦術の一つであり、序盤から強力な攻撃力を押しつけ、相手に対応を迫る戦法である。
この戦型に対する定石は、Poppappe流サイレーンによる受けだった。サイレーンの能力を生かすため、クラーケンで盤面の一部を海に変え、移動や攻撃の条件を整える。ワイバーンの攻めを受け止めながら反撃の機会をうかがう、比較的オーソドックスな対抗策である。
早坂も、相手がその対応を選ぶ可能性を考えていた。
しかし、桜井は中央のスケルトンを前進させた。
海を作る様子もなければ、サイレーンを繰り出す気配もない。
真正面から、中央突破を目指す構えだった。
早坂は、わずかに眉を動かした。
――そっちか。
桜井孔明がこの大会に向けて行ってきた研究は、一般の参加者とは少々異なっていた。
彼は莉央に依頼して研究用AIを開発させ、それを使ってモンスターチェスの戦術を分析していた。自分自身で膨大な対局をこなす代わりに、AIに局面を評価させ、異なる戦型を比較し、勝率を検証してきたのである。
その研究の末に、桜井がたどり着いた結論が、全局中央突破を目指す力戦だった。
モンスターチェスのトップメタには、三すくみの関係がある。
ワイバーン急戦はクラーケン穴熊に強く、クラーケン穴熊はPoppappe流サイレーンに強く、サイレーンはワイバーン急戦に強い。
それぞれの戦型には明確な長所と短所があり、有利な相手には強い一方、不利な相手には苦戦を強いられる。序盤の選択ひとつで、その後の展開が大きく左右されるのだ。
もちろん、世間には三大戦術以外にも、さまざまな戦型が存在していた。独自の駒組みや、特定の能力を組み合わせた奇策も研究されている。
しかし、AIの評価では、それらの多くは三大戦術に対抗できるほどの成績を残せなかった。
ならば、最初から特定の戦型に固執しなければいい。
中央の利き駒を意識しながら、盤面全体のバランスを保ち、正面から相手の陣形を崩す。序盤の評価値では多少不利になっても、中盤から終盤にかけて差を詰め、最後には相手の魔王を噛みちぎる。
それが、桜井の採用した戦い方だった。
有力な戦型に対して、どのような手順を選べば評価値を大きく落とさずに済むのか。どこで定石から外れ、どの駒を交換し、どのタイミングで中央を突破するべきなのか。
桜井は、そうした局面をAIに繰り返し検証させていた。
序盤の研究をあえて外し、互いに定石から離れた局面へと誘導する。そうして戦場を混戦に持ち込み、最後は駒の能力と読みの深さで勝負する。
桜井にとって、力勝負は最も自信のある領域だった。
将棋の世界で長年にわたり第一線を走り続けてきた棋士である。盤面を読み、複雑な局面を整理し、相手の狙いを見抜く。その能力には絶対の自信があった。
モンスターチェスの経験では、早坂の方が上かもしれない。だが、定石を外れた混戦になれば、簡単には負けない。
ましてや、素人相手に力勝負で後れを取るつもりなどなかった。
もっとも、桜井の研究にも不安がなかったわけではない。
自分たちが見つけていない戦術が、まだどこかに眠っているかもしれない。公開されている棋譜だけでは分からない研究が、すでに別のプレイヤーによって進められている可能性もある。
モンスターチェスのAIを開発したのは、莉央だけではないはずだ。ソースコードが公開されていないからといって、ほかに開発者がいないことにはならない。大会の発表から半年という準備期間を考えれば、より高度なAIを用意している参加者がいても不思議ではなかった。
それでも、桜井には一つ、確かな強みがあった。
AIを使った研究を積み重ねてきたという、一日の長である。
莉央の開発したAIは、有志が運営する非公式のオンライン対戦サーバーでトップレーティングに到達していた。もちろん、オンラインで強いことが、そのまま大会での勝利を保証するわけではない。だが、少なくとも研究用の道具としては、十分に実用的な強さを持っている。
そのAIを使って、桜井は有力戦型への対抗策を繰り返し検証してきた。
結局のところ、最も勝率が高かったのは、序盤から相手の得意な研究に付き合うことではなかった。定石の分岐をずらし、局面を複雑にし、最後は自分の得意な力勝負に持ち込むことだったのである。
桜井は盤面を見据え、次の一手を考えた。
中央のスケルトンを前進させたのは、単なる力押しではない。早坂がワイバーン急戦を選んだ場合、どのタイミングで攻撃が始まり、どの駒が連携し、どこに弱点が生じるのか。そうした要素を計算したうえで、あえて中央を押し込んでいるのだ。
序盤の評価値が多少悪くなろうと、構わないという事だろうか? 早坂からすれば、それが不気味だった。
早坂聖也は、モンスターチェスの非公式オンライン対戦サーバーに現れた謎のプレイヤー、@HijirikawaRyoの正体に、早い段階で気づいていた。
聖川広司の亡霊騒ぎの際、早坂は莉央と蓮に協力していた。その過程で、莉央の過去についても、世間が知る話とは異なる事情を知っている。だからこそ、聖川龍王の名を思わせるアカウントが、まったく新しいゲームの世界に現れたとき、真っ先に彼女の顔が浮かんだのだった。
しかも、そのアカウントは異様なほど対局を続けていた。
朝も夜も関係なく、ひたすら対局を繰り返す。人間が操作しているとは思えない活動時間と、急速に上昇するレーティング。その様子は、SNSでも大きな話題になっていた。
AIが対局しているのではないか。
いや、そもそも聖川龍王の亡霊が現れたのではないか。
聖川広司の亡霊騒ぎがようやく落ち着いたと思ったら、今度は娘の亡霊である。冗談めいた憶測から、妙に真剣な考察まで、さまざまな投稿が飛び交っていた。
早坂は、すぐに莉央へLINEを送った。
――このアカウント、莉央さんですよね?
既読はつかなかった。
追加でメッセージを送ってみても、反応はない。研究に没頭しているのか、それとも何か事情があるのか。あの対局頻度を見ていると、本人が操作しているとは考えにくいが、だからといってAIの開発を一人でやっているとも限らない。
結局、返信が来たのは、@HijirikawaRyoがオンライン上で散々暴れ回った末に、ぱたりと姿を消したあとだった。
莉央から届いたメッセージは、簡潔だった。
『研究室に来る?』
指定された時間に大学の研究室を訪ねると、莉央は3枚のモニターとキーボードの前に座っていた。
顔色は悪く、目の下にはうっすらと隈ができている。普段から表情の変化が大きい方ではないが、今は明らかに疲れていた。机の上には飲みかけのペットボトルと、作業途中らしいメモが散らばっている。
早坂は椅子に腰を下ろすなり、単刀直入に切り出した。
「あのアカウント、莉央さんですよね?」
「正解」
莉央はあっさり認めた。
「やっぱり……。でも、どうしてモンスターチェスなんかに?」
「ある人から依頼されて、AIを使ってたのよ」
「ある人?」
「それは言えない」
莉央は申し訳なさそうにするでもなく、きっぱりと言った。
「こっちも、割と良い金額をもらってるから」
「そんなに簡単に教えてくれないんですね……」
「契約ってそういうものでしょ」
早坂は苦笑した。莉央が口を割らない以上、依頼主については諦めるしかなさそうだった。
それでも、気になることは山ほどある。
「じゃあ、あのアカウントを動かしていたのは、どんなAIなんですか?」
「納品済みのものだから、詳しいことは話せないけど……」
莉央は少し考えるように間を置いた。
「大会が終わるまでは公開するな、って契約になってるの。だから、今は表に出すつもりはないわ」
「本格的なものなんですか?」
「評価値を表示できるくらいにはね。単に決められた手を返すだけのプログラムじゃないわよ」
早坂は思わず身を乗り出した。
評価値を表示できるということは、少なくとも盤面を一定の基準で評価し、候補手を比較する仕組みが組み込まれているということだろう。短期間でそこまでのものを作り上げたのなら、かなり本格的な開発である。
「一週間くらいで、そこまで作ったんですか?」
「まあ、いろいろ工夫したのよ。全部を一から手作業で作ったわけじゃないけど」
莉央はそう答えたが、それ以上、詳しく説明する気はないようだった。
早坂は改めて彼女の顔を見た。
相変わらず、疲労の色が濃い。たった一週間でAIを開発し、オンライン対戦でトップレーティングにまで到達させたのだ。相応の無理をしたのだろう。
「……莉央さん、ちゃんと寝てます?」
「必要な分はね」
「その顔で言われても、全然説得力がないんですけど」
「失礼ね。これでも納品は終わったのよ」
莉央は不満そうに頬を膨らませた。
だが、早坂には分かっていた。彼女が何かに集中すると、周囲が見えなくなるほど没頭してしまうことを。
そして今回もまた、限界ぎりぎりまで自分を追い込んだのだろう。
早坂はため息をついた。
「とりあえず、少し休んだ方がいいですよ。SNSでは、AI説と幽霊説で大騒ぎになってますから」
「へえ。幽霊説まであるんだ」
「他人事みたいに言わないでくださいよ……」
莉央は、ほんの少しだけ笑った。
「まあ、正体が分からない方が面白いこともあるでしょ」
その言葉に、早坂は何も言い返せなかった。
聖川龍王の亡霊。
その正体が、疲れ切った顔で研究室に座る一人の大学院生だと知っているのは、今のところ、ほんのわずかな人間だけだった。
――そうか。あれは桜井先生だったのか!
早坂がその意味に気づいたときには、すでに手遅れだった。
中央突破を狙う桜井の指し回し。三大戦術の定石から外れた駒運び。序盤から多少の不利を許容しながら、盤面全体の均衡を崩さずに押し込んでくる。
ただの力押しではない。AIによる研究を重ねた末に選び抜かれた、計算ずくの力戦だったのだ。
早坂はワイバーンを前進させ、なんとか攻勢を維持しようとした。しかし、桜井の対応は早かった。
ワイバーンが撃ち落とされる。
攻めの要を失った早坂は、次の一手に苦しんだ。後続の駒が連携できず、せっかく築いた攻撃陣形が崩れていく。
その隙を逃さず、桜井はセイレーンの守りを固めた。クラーケンの能力によって生み出された海が、その防御と結びつく。攻めにも守りにも使える駒の配置が、早坂の動きを少しずつ制限していった。
スケルトンたちが絡め取られる。
敵陣へ送り込むはずだった駒が、いつの間にか自陣を守るために足止めされていた。前へ進めば守りが薄くなり、後ろへ下がれば攻めの機会を失う。早坂が築いてきた陣形に、わずかな隙が生じた。
その瞬間を、桜井は待っていた。
ドラゴンは、力を蓄え終えていた。
大振りで扱いにくく、能力を発揮するまでに時間がかかる。序盤から中盤にかけての展開が速いモンスターチェスでは、その欠点ばかりが目立つ駒だった。研究が進むにつれ、上級者同士の対局では使いどころが難しいと評価され、三大戦術のいずれにも組み込まれないことが多かった。
だが、桜井はその評価を鵜呑みにしなかった。
中央で相手の攻めを受け止め、互いの駒が入り乱れる力戦に持ち込む。その間にドラゴンの力を蓄え、決定的な瞬間まで温存する。
早坂がワイバーン急戦に意識を向けている間も、桜井は着実に準備を進めていたのだ。
そして今、ドラゴンの前に道が開けた。
燃え盛る炎が盤面を走る。
早坂の魔王を守る駒は、すでに本来の配置を維持できなくなっていた。スケルトンは拘束され、攻めの主力だったワイバーンは撃ち落とされている。残された駒だけでは、ドラゴンの一撃を受け止められない。
炎が、魔王を焼き尽くした。
勝敗を告げる表示が、モニターに大きく映し出される。
桜井孔明の勝利。
下馬評では、ドラゴンはデメリットばかりが強調されていた。強力な能力を持つ反面、扱いにくく、力を発揮するまでの時間も長い。初心者には派手で分かりやすいが、研究が進んだ環境では通用しない――それが、広く共有されていた評価だった。
しかし、桜井は違った。
ドラゴンが弱いのではない。ドラゴンの力を発揮できる局面が、まだ十分に研究されていなかっただけなのかもしれない。
早坂は、敗北の表示を見つめたまま、しばらく動けなかった。
そして、ようやく理解した。
桜井孔明は、既存の定石を知らなかったわけでも、三大戦術に対応できなかったわけでもない。
知ったうえで、それらを外してきたのだ。
将棋界の大棋士が、モンスターチェスの盤上で見せたのは、奇抜な一発芸などではなかった。
研究と読み、そして勝負師としての経験が生み出した、見事な一撃だった。
各界のプロやトップアマを招待選手として集めた、決勝トーナメントのスーパーシード組。そのうち二回戦へ駒を進めたのは、将棋界の桜井孔明、プロ雀士の河田花梨、チェスの金山亮、オセロ全日本王者の土岐竜太、そしてPoppappeこと海野泰治の五人だった。
いずれも、この大会に向けて相応の準備を重ねてきた面々である。
一方、招待選手のうち三人は、予選を勝ち抜いてきた一般参加者に敗れた。各界を代表する実力者であっても、モンスターチェスという新しい競技では、必ずしもその実績が通用するとは限らない。
もっとも、二千人もの参加者がいたことを考えれば、一般参加者の健闘も長くは続かなかった。決勝トーナメントに残った一般参加者は、わずか三人。大半が姿を消した中で、彼らは各界の強豪たちと肩を並べていた。
その三人を含む十六人の中で、ひときわ異彩を放っていたのが河田花梨だった。
二十五歳。麻雀界では実力派のプロ雀士であり、同時に、テレビのバラエティ番組でも活躍する人気タレントである。美人雀士として知られ、華やかな容姿に加えて、勝負事に強いギャンブラーというキャラクターで売り出していた。
彼女は大会前から、賞品の限定カードをすべて獲得し、すべて売り払うと公言していた。
テレビ番組の企画では高額の万舟券を的中させたことがあり、パチンコについても、通算収支はプラスだと語っている。ギャンブルにまつわる話題には事欠かない。
蒲田の貧しい父子家庭で育ち、大学の学費は梅屋敷駅前のパチンコ店に稼がせてもらった――というのも、彼女がテレビで披露してきたエピソードの一つだった。
どこまでが計算された演出で、どこからが素顔なのか。そんな境界を曖昧にしたまま、河田は勝負師としての実績とタレントとしての知名度を巧みに結びつけていた。
その彼女が、公共の場で「ストップ賭け麻雀」と書かれたポスターに登場しているのだから、なかなか強烈な光景である。
もちろん、賭け麻雀の防止を呼びかける活動と、ギャンブラーとしてのキャラクターは矛盾するとは限らない。だが、河田の普段の言動を知る者にとっては、どうにも印象に残る取り合わせだった。
彼女の華やかな容姿も、注目を集める理由の一つだった。
幼い頃に家を出ていった母親は、スペイン系のフィリピン人だったという。河田は彫りの深い顔立ちに、はっきりとした目鼻立ちを持っていた。グラマラスな体型でスタイルもよく、テレビ映えする美貌の持ち主である。
男性ファンが多い一方、彼女は同性愛者であることを公表していた。そのため、女性ファンの中にも、単なる憧れを超えて彼女に本気で恋をしている者が少なくない。
麻雀を始めたのは高校時代だった。当時、八歳年上の恋人が麻雀を打っており、その影響で自分も覚えたのだという。
勝負事を愛し、勝つことに執着し、時には自分の人生さえ賭けの材料にしてしまう。河田花梨という人物は、そんな危うさと華やかさを併せ持っていた。
今回のモンスターチェスでも、その勝負勘は存分に発揮されていた。
決勝トーナメント一回戦では、ワイバーン急戦を思わせる駒の配置を見せながら、実際にはクラーケン穴熊へと移行する戦術を採用した。相手に攻めの形を意識させ、その対応に手数を使わせながら、自分は守りを固めていく。
対局は長引いた。
互いに持ち時間を使い切り、秒読みの段階に入ってからも、両者は一手も譲らなかった。やがて考える時間さえ惜しい局面となり、ほとんどノータイムで指し続ける展開になる。
そこで、河田が相手のわずかなミスを誘った。
長考の末に見つけた妙手というより、時間に追われる相手の判断の乱れを見逃さなかったのである。相手が一瞬迷った手を見せると、河田は間髪を入れずに応じ、勝負を決めた。
麻雀では、限られた情報から状況を判断し、相手の選択を読み、短い時間で決断を下すことが求められる。その経験が、モンスターチェスでも生きたのだろう。
盤面のすべてを読み切ったわけではない。相手がどこで迷い、どの手を選びやすいのかを見極め、勝負どころで迷わず決断する。
河田花梨の強さは、そんな判断の鋭さにあった。
決勝トーナメント二回戦。
河田花梨は、対局席に着くと、向かいに座る男を見た。
桜井孔明。将棋界のタイトルホルダーにして、この大会の優勝候補の一人である。
正直なところ、河田は彼と三時間も持ち時間のあるモンスターチェスを指せと言われたら、勝てる気がしなかった。もちろん、これは将棋ではなくモンスターチェスであり、互いの土俵では無い。だが、盤面を読む力も、複雑な局面を整理する力も、長年にわたって勝負の世界で磨いてきた男である。まともに時間を与えれば、こちらの小細工など見透かされてしまうだろう。
だからこそ、彼女は自分の戦い方を決めていた。
対局を長引かせる。
相手に考える時間を使わせ、持ち時間を削り、最後は一手十秒の秒読みへ持ち込む。そこで判断の精度が落ちた瞬間を狙う。麻雀で培った読みと度胸を武器に、相手のミスを誘い、最後に勝ちを拾う。
河田にとって、時間は最大の味方だった。
そして今回の持ち時間は、双方わずか十分。
これなら勝機はある。
対局開始の合図が鳴った。
河田は盤面を見つめ、相手の初手を待った。
桜井が動かしたのは、ワイバーンの道を通す為のスケルトンだった。
中央の駒を押し出し、攻撃の通り道を開く。これまでの対局で見せていた、中央突破を軸にした力戦とは明らかに違う。序盤から攻めの形を整え、ワイバーンの機動力を生かして一気に仕掛ける構えだった。
河田は内心で舌打ちした。
――バレてたか。
クラーケン穴熊。
彼女がこの大会で使ってきた戦術は、ほぼこれ一本だった。ワイバーン急戦を思わせる駒組みからクラーケン穴熊へ移行した一回戦も、勝利の決め手になったのは、相手の時間切れ寸前の判断ミスだった。
ここまで勝ち上がれば、戦術が分析されるのは当然だ。桜井が彼女の棋譜を研究していないはずがない。
クラーケン穴熊は、完成すれば強固な守りを築ける。しかし、その陣形が完成するまでには時間がかかる。海を作り、駒を配置し、魔王の周囲を固める。その準備をしている間にワイバーン急戦を仕掛けられれば、守りが整う前に駒を食い散らかされてしまう。
それが、この戦型が不利とされる理由だった。
だが、河田は焦らなかった。
クラーケン穴熊が弱いのではない。完成するまでの手順が難しいのだ。
彼女は、クラーケンの能力を使って海を作る手を後回しにした。
先に守りの駒を配置する。
魔王から遠い位置にいる駒を犠牲にしてでも、穴熊の骨格を作り上げる。駒損は避けられないが、ここで目先の損得にこだわっていては、ワイバーンの猛攻を止められない。
河田は盤面の一角を捨てた。
桜井のワイバーンが進出し、守りの薄い駒を次々と狙う。河田はそれらをすべて救おうとはしなかった。取られる駒と、守るべき駒を見極める。相手の攻撃を受け止めながら、陣形を完成させるための手を重ねていく。
時間は、刻々と減っていった。
だが、河田は相手の時計を気にしなかった。自分の時間も同じように削られている。ここで焦って指し手を急げば、桜井の思うつぼだ。
耐える。
今は、それだけでいい。
やがて、桜井のワイバーンが穴熊の奥深くまで食い込んできた。
河田は、そこで初めてクラーケンを動かした。
盤面に海が広がる。
それまで地道に配置してきた駒と、クラーケンの能力が噛み合った。ワイバーンの動きが制限され、攻撃の連携が崩れていく。
河田は逃げ道を塞ぎ、反撃の駒を繰り出した。
ワイバーンが撃墜された。
河田は小さく息を吐いた。
間に合った。
駒損はあったが、穴熊は完成した。魔王の周囲は海と駒に守られ、正面から攻め込むのは容易ではない。桜井の急戦をしのぎ切った今、ようやく彼女の得意な展開に持ち込めたはずだった。
しかし、盤面を見た河田は、すぐに違和感を覚えた。
桜井のドラゴンが、二枚いる。
一枚は、彼が序盤から大切に育ててきたドラゴン。そしてもう一枚は、先ほどの駒損の際、河田が手放した駒の中にあったドラゴンだった。
――まさか、これを狙っていた?
河田は盤面を読み直した。
桜井はワイバーンで攻めていたのではない。ワイバーンを使って、河田に駒を取らせる展開へ誘導していたのかもしれない。
もちろん、駒を取ったからといって、相手がその駒を自由に使えるとは限らない。だが、ドラゴンを二枚そろえられたことの意味は大きかった。
河田が考え込んでいる間に、桜井は最前線にいたゴブリンを動かした。
ゴブリンは、特殊能力によって盤上に櫓を建てることができる。その櫓が、ドラゴンの攻撃準備を整えるまでの時間を稼ぐ防壁となった。
河田は攻め駒を繰り出した。
しかし、届かない。
穴熊の守りは堅い。だが、堅い守りを作るために駒を使いすぎたせいで、今度は攻めるための駒が足りなくなっていた。櫓を崩そうとしても、決定打を与えられない。
桜井は急がなかった。
ゴブリンが建てた櫓の向こうで、二枚のドラゴンが着実に力を蓄えていく。
河田の時計が、残りわずかになった。
桜井の時計も、もう余裕はない。
やがて、双方が持ち時間を使い切り、一手十秒の秒読みへ入った。
河田が望んでいた展開だった。
ここからなら、相手も十分に考える時間はない。複雑な局面で判断を誤らせれば、勝機はある。
だが、桜井は崩れなかった。
一手十秒。
駒を動かし、盤面を確かめ、次の手を指す。その繰り返しに迷いがない。将棋の世界で何度も修羅場をくぐってきた男にとって、秒読みは恐怖ではなかった。
そして、ドラゴンの攻撃準備が整った。
最初の一頭が、櫓の陰から飛び出した。
炎が河田の陣地を襲う。
穴熊の守りが崩れ、駒が焼かれていく。河田は必死に応戦した。魔王への道を塞ぐために駒を動かし、ドラゴンの進路を読み、攻撃を受け止める。
ついに、一頭目のドラゴンを撃ち落とした。
河田は息を呑んだ。
やった。
守りは大きく傷ついたが、最大の脅威を一つ排除した。残るドラゴンを止めれば、まだ勝負は分からない。
そう思った瞬間だった。
もう一頭のドラゴンが動いた。
一頭目が荒らした陣地を、悠々と駆け抜けていく。
焼け落ちた櫓。崩れた守り。倒れた駒。河田が必死に築き上げた穴熊は、すでに本来の形を失っていた。
二頭目のドラゴンは、その傷跡を利用するように進んだ。
河田は手を伸ばしかけた。
止めなければ。
しかし、間に合わない。
ドラゴンの炎が、魔王を貫いた。
勝敗を告げる表示が、フィーチャー卓の上にある巨大なモニターに浮かび上がる。
勝者、桜井孔明。
河田は盤面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
時間切れ寸前の判断勝負に持ち込めば、勝機はあると思っていた。クラーケン穴熊を完成させ、ワイバーンを撃退し、相手の攻めを受け止めるところまでは計算どおりだった。
それでも、勝てなかった。
桜井は、彼女の得意戦法を知ったうえで、あえてワイバーン急戦を仕掛けてきた。そして、駒損さえも織り込みながら、二枚のドラゴンを使った攻撃を完成させたのだ。
河田は小さく笑った。
負けたのは悔しい。だが、これほど鮮やかにやられてしまっては、文句のつけようもない。
桜井孔明という男は、思っていた以上に手強かった。
決勝トーナメント準決勝。
Poppappeこと海野泰治は、対局席に座る桜井孔明を眺めながら、頭の中で賞金の使い道を計算していた。
この大会で優勝すれば、手に入るのは世界に一枚しか存在しないカードだ。
売る。できるだけ高く。目標は一億円。
荒唐無稽な話ではない。海野には、それを実現できるだけの商才があった。
海野泰治は、カードマスターズの世界で名を馳せたトッププレイヤーだった。日本王者に輝いただけではない。世界王者になった経験もある。
カードマスターズは日本発祥のカードゲームだが、今やその人気は海を越え、アメリカ、ヨーロッパ、アジアへと広がっている。世界各地に競技プレイヤーが存在し、国境を越えて大会が開催されていた。
その国際的な競技シーンで、海野にはもう一つの呼び名があった。
――Pirates。海賊。
その名の由来は、彼のプレイスタイルにある。
海野は盤上の勝負だけで勝とうとはしなかった。相手のルール理解の穴を突き、ジャッジを味方につけて勝利をもぎ取る。遅延行為で相手の集中力を削る。時には、勝敗そのものを金で動かそうとすることさえあった。
悪事が露見し、出場停止という重い処分を受けたことも一度や二度ではない。
だが、海野は反省しなかった。
勝負の世界は、勝った者が正義だ。少なくとも、彼はそう考えていた。
出場停止期間中には、地元・大阪の千里山にカードショップを開いた。近隣の名門大学に通う学生たちが集まり、店内では連日のように対戦が繰り広げられた。その中でも競技志向の強い者たちは、やがて海野を中心に結束し、腕を磨いていった。
そこは、勝つためなら何でも学ぶ若者たちが集まる虎の穴となった。
処分が明けて競技シーンに復帰した後も、海野のやり方は変わらなかった。プロツアーで優勝し、グランプリでも何度となく頂点に立った。実力は本物だった。だからこそ、彼の盤外戦術は余計に厄介だった。
そして、世界を転戦するうちに、海野はカードの売買でも頭角を現した。
希少カードの相場を読み、需要が高まる前に仕入れ、価値が跳ね上がったところで売り抜ける。大会の賞金だけに頼らず、カードそのものを商材として扱う。海野にとって、勝負と商売は地続きだった。
今回の賞品も、まさに彼のために用意されたようなものだった。
世界に一枚しかないカード。しかも、注目度の高い大会の優勝賞品だ。話題性も希少性も申し分ない。売り方さえ間違えなければ、一億円という値段も決して夢物語ではない。
海野は、その価値を誰よりもよく理解していた。
何としても優勝する。
そのために、彼は半年間、モンスターチェスの研究を続けてきた。
もっとも、ゲームそのものに魅了されたわけではない。勝つために必要だから研究した。それだけのことだ。
そして、この準決勝に勝つための策も、すでに用意してあった。
相手は桜井孔明。将棋界の第一人者でありながら、モンスターチェスでも勝ち上がってきた男だ。ここまでの対局を見る限り、単純なゲーム初心者ではない。定跡への理解も深い。
正面から戦えば、何が起こるか分からない。
だからこそ、海野は罠を仕掛けていた。
その中心にあるのが、Poppappe流セイレーンだった。
海野自身が発見した戦型であり、今では有力な選択肢の一つとして広く知られている。ワイバーン急戦に対して有効とされ、多くのプレイヤーが採用していた。
しかし、海野は知っていた。
この戦型には、欠陥がある。
しかも、その欠陥は偶然見つかったものではない。海野は研究の過程でそれに気づきながら、あえて公表しなかった。いや、正確には――欠陥を知らない者たちに、積極的に広めてきたのだ。
千里山の店に集まる若者たちを使って。
彼らにPoppappe流セイレーンを覚えさせ、大会やオンライン対戦で使わせる。強い戦型として評判が広がれば、相手もそれを警戒する。ワイバーン急戦を指されたら、セイレーンで受ける。それが今や、半ば常識になりつつあった。
だが、その常識こそが罠だった。
勝つのは、この一局だけでいい。
この大会で優勝できれば、他の大会で何度負けようと構わない。世界に一枚しかないカードを手に入れ、一億円で売る。そのためなら、半年間の研究も、千里山の若者たちを使った仕込みも、すべてが意味を持つ。
海野は対局開始の合図を待ちながら、桜井の表情を観察した。
この男は、どちらを選ぶだろうか。
やがて対局が始まった。
海野は、あえて典型的な駒運びを選んだ。前線の駒を進め、ワイバーンの進路を開く。余計な工夫はしない。誰が見ても分かる、教科書どおりのワイバーン急戦だった。
誘いは明白なほど明白に。
相手が有利とされる戦型を知っているなら、自然とそちらを選びたくなるはずだ。ましてや、ここまで勝ち上がってきた桜井なら、定跡の知識もあるだろう。
ワイバーン急戦を見せれば、Poppappe流セイレーンで受けてくる。
その瞬間、罠が発動する。
海野は確信していた。
ところが、桜井はセイレーンを選ばなかった。
彼は、海野と同じようにワイバーン急戦を選んだのだ。
海野の指が、盤面の上で一瞬止まった。
――そっちか。
予想外ではあった。だが、動揺するほどのことではない。ワイバーン急戦そのものが悪い戦型というわけではない。セイレーンを使わない相手に対しても、十分に戦える。
ただし、そこから先は純粋な実力勝負になる。
同じ戦型を選んだ以上、定跡の知識だけでは差がつかない。駒の動かし方、盤面の読み、相手の狙いを察する力。最後にものを言うのは、そうした地力だった。
桜井は、罠を見破ったのだろうか。
いや、違うかもしれない。
そもそも彼は、罠の存在など気にしていないのかもしれなかった。相手が何を仕掛けてこようと、同じ戦型で受けて立つ。そうすれば、少なくとも相手の用意した研究に乗せられることはない。
単純だが、理にかなっている。
そして、厄介な選択だった。
海野は盤面に集中した。ここで余計なことを考えても仕方がない。罠が不発に終わったなら、別の方法で勝てばいい。
だが、桜井の指し手は、海野の想定を少しずつ外れていった。
派手な奇策はない。無理に優位を奪おうともしない。ただ、盤面の急所を押さえ、海野が狙っていた攻め筋を一つずつ潰してくる。
こちらが仕掛ければ、受け止める。隙を見せれば、そこを突く。大きく得をしようとはせず、わずかな有利を確実に積み上げていく。
海野は、奥歯を噛みしめた。
この男は、罠に乗らなかった。
知識があったからではない。自分の得意な土俵に相手を引き込もうとせず、ただ目の前の盤面を見て、最も堅実な手を選んだのだ。
その結果、海野は自分が仕掛けた罠の外で、桜井と戦わなければならなくなった。
気づけば、盤面は終盤に差しかかっていた。
海野の魔王は、まだ逃げ道を残していた。逆転の可能性が完全に消えたわけではない。だが、桜井の駒は、すでに必要な場所へと配置されている。
桜井の魔物が、じりじりと距離を詰めてくる。
海野は最後の抵抗を試みた。魔王を逃がし、攻撃の矛先を逸らす。しかし、桜井は追撃の手を緩めなかった。
そして、決定的な瞬間が訪れた。
桜井の駒が、海野の魔王へと飛びかかる。
魔王は逃げられない。盤上の戦いは、そこで終わった。
海野は盤面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
Poppappe流セイレーンの欠陥を突くために、半年をかけて罠を張った。その罠を発動させるため、相手にわざと分かりやすいワイバーン急戦を見せた。
だが、桜井は乗らなかった。
罠を見抜いたのか。それとも、最初から相手の思惑など考えず、自分の選択を貫いただけなのか。
どちらにせよ、結果は同じだった。
勝者、桜井孔明。
決勝戦。
会場の照明が落とされ、中央のステージにスポットライトが集まった。大型スクリーンには決勝戦の文字が躍り、観客席からは開幕を待ちわびるざわめきが絶え間なく響いている。
やがて、場内アナウンスが高らかに告げた。
『ただいまより、決勝戦に進出した選手が入場いたします! まずは、プロ棋士、日本将棋協会所属、天棋タイトルホルダー、桜井孔明選手の入場です!』
歓声が湧き上がった。
ステージ脇から姿を現した桜井孔明は、右腕と右脚に医療用のサポーターを装着し、左手で松葉杖をついていた。
一か月前、彼はひき逃げ事故に遭った。だいぶ回復して退院こそしたものの、負傷が完治したわけではない。歩く姿には痛々しさが残り、万全の状態とはほど遠かった。
それでも、桜井の表情に気負いはなかった。
タイトル獲得通算三十期を誇る超一流棋士である。大勢の観客が見守る大舞台には慣れている。負傷した身体を引きずっての入場であっても、彼の立ち居振る舞いには、長年にわたって勝負の世界の頂点に立ち続けてきた者の風格があった。
そして、その後ろには四人の子供たちが続いていた。
先頭を歩く父親の両肩に、大学生の長男が手を置く。その長男の肩に次男が手を置き、次男の肩には三男が手を置いた。最後尾では、末っ子の長女が、三男の肩に届こうと一生懸命に両腕を伸ばしている。
家族五人が一列につながった、奇妙な行進だった。
かつて総合格闘技の世界で、グレイシー一族が入場の際に披露していた「グレイシートレイン」。それを思わせる、桜井家独自のパフォーマンスである。
父親の負傷を心配しているのか、あるいは単純にこの晴れ舞台を楽しんでいるのか。子供たちの表情はさまざまだったが、少なくとも末っ子の長女は、父親と一緒に入場できることが嬉しくてたまらない様子だった。
桜井は松葉杖をつきながらも、どこか得意げに胸を張っていた。
その姿に、観客席から再び大きな歓声が上がった。
『続きまして、予選トーナメントから勝ち上がり、一般参加選手の中に紛れていたのは――なんと、なんと! 大人気漫画『デュエルキング』の原作者にして、モンスターチェスの創作者! 高幡政宗先生です!』
一瞬の間を置いて、会場が爆発したような歓声に包まれた。
『お忍びで大会に参加し、ついに決勝戦まで勝ち上がった高幡先生! 皆さん、盛大な拍手でお迎えください!』
ステージの反対側から現れた男は、黒い革のジャケットを羽織り、白いシャツの襟元を軽く開いていた。
濃い黒髪は自然に流れるように整えられ、前髪が額にかかっている。細い口ひげと、顎に短く整えられた髭が、顔立ちに落ち着いた陰影を与えていた。穏やかな目元には余裕があり、微笑むと口角が柔らかく上がる。首元では細いチェーンのネックレスが光っていた。
全体として洗練された装いだが、どこか遊び心も感じさせる。見た目から察する年齢は、桜井と同じくらい。四十代半ばと言われても違和感のない若々しさだった。
実際には、還暦をとうに過ぎているのだが。
高幡政宗は、観客の歓声に軽く手を振りながらステージへと進んだ。
桜井は、その姿を見るなり、自分から歩み寄った。
「高幡先生! ご無沙汰しておりましたわ」
「こちらこそ、ご無沙汰しております。桜井先生」
二人は笑顔で握手を交わした。
桜井が初めてタイトルを獲得したばかりの若手棋士だった頃、出版社の企画で高幡と対談し、将棋の対局も行っている。高幡は将棋のアマチュア四段の免状を持つほどの腕前で、当時から将棋界との縁があった。
あれから長い年月が過ぎた。桜井は将棋界の第一人者となり、高幡は漫画界の巨匠となった。こうして再会するのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
「娘が大ファンなんですわ」
桜井はそう言うと、背後に控えていた末っ子の長女を手招きした。
「ほら、挨拶せえ」
少女は少し緊張した様子で高幡を見上げた。憧れの漫画家を前に、普段の元気さがどこかへ飛んでしまったらしい。
高幡は柔らかな笑みを浮かべ、少女に目線を合わせるように少し身をかがめた。
「いつも読んでくれてありがとう」
その一言に、少女の顔がぱっと明るくなった。
高幡は桜井へと向き直った。
「桜井先生も、あれから大活躍なさって。お噂はかねがね伺っております」
「いやいや、恐縮ですわ。ワシの方でも先生の噂は聞いちょりましたで。なんでも、ハワイの海で溺れた米軍関係者のご家族を助けて、米海軍から表彰されたとか」
「ええ、まあ。たまたま居合わせただけですよ」
高幡は照れくさそうに笑った。
還暦を過ぎているというのに、その髪には白いものが一本も見当たらない。肌にも年齢を感じさせる衰えが少なく、身のこなしも軽やかだった。桜井が思わず感心するほどの若々しさである。
「たまたま、で済む話やないでしょう。なかなかできることやありませんわ」
「いえいえ。桜井先生こそ、あの事故から復帰されて、こうして決勝まで勝ち上がってこられた。私の方こそ驚いています」
「まあ、何とかここまで来られましたわ。子供らにええとこ見せなあきませんからな」
桜井が笑うと、背後の子供たちも誇らしげに顔を見合わせた。
大学生の長男を筆頭に、四人の子供たちは皆、カードマスターズを通ってきている。幼い頃から親しんできたゲームの生みの親を目の前にして、誰もが目を輝かせていた。
桜井の顔には、そんな子供たちの様子を見せつけるような、得意満面の笑みが浮かんでいた。
――パパはこの人とも知り合いなんやぞ。
口に出さずとも、そんな自慢が聞こえてきそうだった。
高幡は子供たちの反応に気づいたのか、楽しそうに笑った。
「しかし、このゲームを考えたのは五十年前。中学一年生の頃です。その20年も後に漫画では何話か描きましたが、まさか還暦を過ぎてから、こんな大きな大会が開かれるとは思ってもいませんでしたよ」
彼は会場を見渡した。
巨大なスクリーン。ぎっしりと埋まった観客席。配信カメラの向こうには、会場に来られなかった大勢の視聴者もいるはずだ。
「今日は一人の参加者として楽しんでいたんですが、まさか決勝で将棋界の第一人者、桜井先生と対戦できるなんて。中学一年生の頃の僕が聞いたら、きっとびっくりするでしょうね」
「恐縮ですわ。お手柔らかに頼んます」
桜井は笑顔で頭を下げた。
その言葉とは裏腹に、目には勝負師の光が宿っていた。
相手は、モンスターチェスを生み出した男。五十年前にこのゲームを考案し、漫画を通じて大勢の子供たちに夢を与えた創作者だ。しかも、ただの記念参加者ではない。予選から勝ち上がり、数々の強豪を破って決勝までたどり着いた実力者である。
簡単に勝てる相手ではない。
だが、だからこそ面白い。
桜井は松葉杖を握り直し、決勝戦の対局席へと視線を向けた。
世界に一枚しかないカードを手にするのは、果たしてどちらか。
会場の熱気は、いよいよ最高潮に達しようとしていた。
先手は高幡政宗だった。
対局が始まると、高幡は迷いのない手つきで駒を進めていった。
その駒運びには、見覚えのあるものがあった。
ゴブリンが櫓を築き、クラーケンが周囲を海へと変えていく。海は堀となり、ゴブリンの作った砦が城壁となる。駒を配置し、地形を変え、少しずつ防御を固めていく。
漫画『デュエルキング』の主人公、勇気が作中で披露した戦術だった。
原作を知る観客たちは、すぐに気づいた。
「あれ、勇気の城塞戦術じゃないか?」
「マジか! 高幡先生が自分で再現してる!」
スクリーンに映し出された盤面を見て、会場が沸き立った。
25年前に読者を熱狂させた架空の戦術が、今、現実の対局で再現されている。原作者本人が、その手で。
対する桜井孔明は、観客の興奮に付き合うことなく、着実に駒を進めていた。
ワイバーンを前線に送り込み、急戦を仕掛ける。高幡が城塞の構築を進める一方で、桜井は攻撃の圧力をかけ続けた。
だが、その攻めの裏側では、別の駒が静かに出番を待っていた。
ドラゴン。
桜井はまだ、それを戦場へ投入していなかった。
盤面が進み、双方の駒がぶつかり始めた頃、高幡が口を開いた。
「桜井さん」
「はい?」
「このゲームが発売されたとき、私は本当に驚いたんですよ」
高幡は盤面から目を離さず、穏やかな口調で続けた。
「『デュエルキング』の派生作品も連載を終えて、カードマスターズの開発からも手を引いていましたからね。あとは気ままな隠居生活を送るつもりだったんです。それが、ある日突然、モンスターチェスが発売されると聞きまして」
「ははあ」
「しかも、半年後には全国大会を開くという。特別な賞品にしたいから、イラストを描いてほしいと頼まれたんです」
高幡は、ふと顔を上げた。
「『漆黒の睡蓮』。勇気が海竜を倒すときに起動させた、無限のエネルギー源です。カードとしても強くて現実の大会でも暴れ回ってましたね。今回、新イラストで世界に1枚だけ再録された訳です」
高幡は、少しだけ懐かしそうに笑った
「ワシは今日、そのカードを娘にプレゼントするために来たんですわ」
桜井が胸を張ると、高幡は楽しそうに目を細めた。
「もし私に勝てたら、ぜひそうしてください」
「先生、そこは負けてくれるところとちゃいますの?」
「それは困りましたね。せっかくなら、私も勝ちたいので」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ただ、一つお願いがあります」
高幡は、再び盤面に目を落とした。
「できれば、ボロボロになるまで使ってください。カードは遊ぶためにあるのですから」
その言葉には、創作者としての実感がこもっていた。
世界に一枚しかないカード。希少性だけを考えれば、誰もが手元に置いて大切に保管したくなるだろう。ましてや、この大会の優勝賞品ともなれば、値段がどこまで上がるか分からない。
だが、高幡にとってカードは、飾って眺めるためのものではなかった。
遊んでこそ、カードなのだ。
二人の手は止まらなかった。
ワイバーンが攻め、ゴブリンが守る。クラーケンが海を広げ、双方の駒が互いの進路を塞いでいく。
やがて、戦線は徐々に硬直し始めた。
その間も、高幡は話を続けた。
「それにしても、今日の大会は面白いですね」
「ほう。どの辺がです?」
「この半年間で、戦術が驚くほど発展したことです。発売直後は、漫画の再現を楽しむ人がほとんどでした。それが、いつの間にか本格的な研究が始まって、定跡まで生まれている。私はずっと、その推移を見守っていたんですよ」
高幡は桜井の方を見た。
「桜井さんも、AIを作らせたのでしょう?」
桜井の指が、ほんの一瞬止まった。
Hijirikawaryo。
非公式オンライン対戦サイトで、連日のように異様な勝率を叩き出していたアカウント。人間離れした強さから、AI説だけでなく、死んだ棋士の幽霊が指しているのではないかという噂まで飛び交っていた。
「……バレてましたか」
「ええ。あれだけ一週間、対局し続けていたら、不自然ですからね」
高幡は悪戯っぽく笑った。
「実は、あの非公式オンライン対戦サイトの管理人は私なんです。プログラマーを雇って作らせました。完全に趣味の世界ですよ」
「なんと。そうやったんですか」
「何年も前から、誰にも知られずにネットの海を漂っていたんです。そこに気づいた何十人かのファンが集まって、対戦を楽しむ場所になりましてね。皆さん、私が管理人だとは知らず、熱心なファン仲間の一人だと思っていたようです。この騒ぎで人が沢山集まりまして、サーバーの増強代がバカになりませんでしたよ」
「ははあ」
「それで、Hijirikawaryoというアカウントを見て、気づいたんです。名前を調べたら将棋界の話が出てきましたし、対局内容も明らかに普通の人間とは違う。将棋AIの技術を応用したソフトだろうと」
「なるほどなあ」
桜井は曖昧に笑った。
高幡がどこまで知っているのかは分からない。だが、少なくとも、AIの存在を隠し通せる相手ではなさそうだった。
盤上では、双方の駒が押し合い、互いの攻めを牽制し合っていた。
高幡の城塞は堅い。桜井のワイバーンは攻め手を探っているが、無理に踏み込めば反撃を受ける。どちらも決定打を見いだせず、戦場には停滞の気配が漂い始めていた。
高幡は、盤面に目を向けたまま言った。
「……世間がドラゴンを切り捨てたときは、悲しかったですね」
桜井は、その言葉に視線を上げた。
ドラゴン。
特殊能力は強力だが、機動力に乏しく、扱いも難しい。初心者が使えば派手な活躍をする一方、上級者同士の対局では動きの大きさが弱点になる。研究が進むにつれて、ドラゴンは実戦向きではない駒だという評価が広まっていた。
少なくとも、世間ではそう考えられていた。
「漫画では、勇気はドラゴンを切り札にして勝ちました。けれど、あの戦い方にたどり着くまで、僕は子供の頃から二十年も考え続けたんです」
高幡の声から、先ほどまでの軽やかさが少しだけ消えた。
「だから、ここまでの対局で桜井先生がドラゴンを使ってくださったのが、本当に嬉しかった。ありがとうございます。ドラゴンの価値に気づいてくださって」
桜井は、すぐには答えなかった。
ドラゴンの真価に気づいたのは、大会のわずか二日前だった。
莉央が作ったAIは、最初からドラゴンを高く評価していたわけではない。
開発当初の評価関数は、ネット上で公開されていた戦術や対局記録を参考にしたものだった。そこからAI同士の対局を繰り返し、評価の基準そのものを学習によって更新していく。
当初、ドラゴンを失っても、評価値はそれほど大きく下がらなかった。
ところが、三週間にわたってAI同士の自動対局を走らせ続けるうちに、変化が現れた。
ドラゴンを取られた瞬間、評価値が急落するようになったのだ。
AIの中で、駒の価値がひっくり返った。
それまでの研究で見落とされていた何かを、機械が見つけたのかもしれない。
桜井は、試しにドラゴンを使ってみた。
そして、気づいた。
これは、誰が使っても強い駒ではない。
本当に強い人間が使えば、恐ろしく強い駒なのだ。
モンスターチェスは、特殊能力の影響が大きい。強力な能力を持つ駒が盤面を一変させるため、序盤から中盤にかけては派手な攻防が繰り広げられる。しかし、ある程度の実力を持つ者同士が対局すると、どの戦型でもやがて戦線が膠着しやすい。
三すくみの戦型は、その攻防をどう組み立てるかという、中級者までの研究では有効だった。
だが、上級者同士の対局では、話が変わる。
戦線が膠着すれば、機動力の高い駒も攻めあぐねる。相手の防御を崩そうにも、特殊能力を使った地形の変化が邪魔になる。
そんな膠着した戦場を、力ずくで突破できる駒がある。
ドラゴンだ。
動きは大振りで、使いどころも難しい。だが、戦線が固まったあとなら、その欠点が目立たなくなる。むしろ、強力な能力を活かして相手の守りを破壊する切り札となる。
つまり、三すくみは中級者の世界の話だった。
上級者同士の戦いでは、ドラゴンの価値が一段と高くなる。
半年間の研究では、まだそこまで見抜けていなかった。
桜井は、AIが示した変化を実際の対局で確かめ、自分の手でドラゴンの可能性を見いだしたのだった。
「先生」
桜井は、穏やかな声で答えた。
「ワシも、最初から分かってたわけやありません。AIが教えてくれたんですわ。ドラゴンの評価が、途中からえらい変わりましてな」
「そうだったんですか」
「そこから実際に使ってみて、ようやく分かりました。こいつは、使いこなすのが難しいだけで、弱い駒やない。むしろ、強い人間が使うほど怖い駒ですわ」
高幡は、嬉しそうに目を細めた。
「……そうですか。それを聞けただけでも、今日は参加した甲斐がありました」
そのときだった。
膠着していた盤面に、変化が訪れた。
高幡のドラゴンが、戦場を駆け抜けた。
それまで互いの駒が牽制し合い、動きを封じられていたはずの盤面を、ドラゴンは力ずくで突破していく。城塞の守りをすり抜け、敵陣の奥深くへと進撃した。
観客席から、どよめきが上がった。
高幡は、盤面を見つめたまま静かに言った。
「そう。そして、相ドラゴンなら先手が勝つ」
桜井の目が、細くなった。
ドラゴン同士の勝負。
高幡は、その結論を知っていた。
五十年前に生み出したゲームの、その奥底に眠る答えを。
そして今、その答えを証明するために、原作者自身がドラゴンを走らせていた。
新宿にある桜井家の食卓は、夕食の時間を迎えて、いつも以上に騒がしかった。
桜井孔明が若い頃に建てた家は、都心の一戸建てとしてはかなり立派なものだった。将棋の世界で早くから頭角を現し、十九歳で初めて竜王位を獲得した男が、結婚を機に構えた自宅である。六人家族で暮らすには十分な広さがあるはずだった。
ただし、それは家族が全員、行儀よく暮らしていればの話だ。
大学生の長男から、まだ幼い末っ子の長女まで。四人の子供たちは、それぞれに主張が強く、好きなものがはっきりしている。ことカードマスターズの話となれば、譲り合いの精神など、どこかへ吹き飛んでしまう。
食卓の中央には、四枚のカードが並べられていた。
『美少女白魔術師』。
『天界の白龍』。
『熟練の白魔術師』。
『混沌の騎兵』。
いずれも今回のモンスターチェス大会で手に入れた、限定イラストの賞品カードである。予選から決勝まで、それぞれの段階に進んだ選手に贈られたものだ。
本来なら、そこにもう一枚加わるはずだった。
世界に一枚しかない、優勝賞品の『漆黒の睡蓮』。
桜井は娘にそれをプレゼントするために大会へ出場したのだが、決勝戦で高幡政宗に敗れ、惜しくも手に入れることはできなかった。
もっとも、手ぶらで帰ってきたわけではない。
四枚もの限定カードを持ち帰った父親を、子供たちは大いに称賛していた。
「いやあ、さすがパパだよね。あの高幡先生と決勝で戦ったんだから」
長男が、感心したように言った。
「しかも、事故からまだ一か月くらいしか経ってないんでしょ? 普通だったら出場するのも大変なのに」
「そうそう。準決勝まで勝ち上がっただけでもすごいよ」
次男も頷く。
「でも、決勝で負けちゃったんだよね?」
三男が余計な一言を挟んだ。
「おい、そこは言わなくていいだろ」
「だって、事実じゃん」
「事実でも言い方があるだろ!」
「なんや、お前ら。人がせっかく頑張ってきたっちゅうのに、負けた話ばっかりしよって」
桜井が眉をひそめた。
「パパ、別に悪く言ってるわけじゃないよ。むしろ尊敬してるって」
「ほんまかいな。ほな、もっと褒めてもええんやで?」
「調子に乗らないでよ」
長男が即座に突っ込むと、食卓に笑いが起こった。
桜井は不満そうに鼻を鳴らしたものの、口元には笑みが浮かんでいた。子供たちが自分の対局を見てくれていたことが、やはり嬉しいのだろう。
だが、和やかな時間は長く続かなかった。
「ところで、この四枚ってどうするの?」
次男がカードを見下ろした。
「どうするって、分けるんだろ?」
「誰がどれをもらうかってこと?」
「そりゃそうでしょ。四枚あるんだから、一人一枚でいいじゃん」
三男が当然のように言った。
「待って。『美少女白魔術師』は私が欲しい」
末っ子の長女が、すかさず手を伸ばした。
「えー、ずるい! それ、今回のカードの中でも人気があるやつじゃん!」
「だって、かわいいもん!」
「かわいいだけなら、別のカードでもいいだろ!」
「よくない!」
長女はカードを胸元に引き寄せた。
長男は苦笑しながら、残る三枚を眺めた。
「じゃあ、俺は『天界の白龍』かな。やっぱり主人公が使ってたカードだし」
「それなら僕だって欲しいよ。『天界の白龍』は普通に強いし」
「お前、さっき一人一枚でいいって言っただろ」
「言ったけど、どれが欲しいかは別の話だよ!」
「なんだそれ!」
次男と三男の言い争いが始まった。
桜井は、目の前で繰り広げられる兄妹喧嘩を眺めながら、深々とため息をついた。
「お前らなあ……。四枚あるんやから、仲よう分けたらええやないか」
「だから、どれを誰がもらうかで揉めてるんでしょ」
長男が呆れたように返す。
「ほな、じゃんけんでもしたらええやん」
「それで『美少女白魔術師』を取られたら嫌だもん!」
長女が即座に抗議した。
「お前、さっきからそればっかりやな」
「だって欲しいんだもん!」
「そないに欲しいんやったら、最初から自分の分はこれやって決めといたらええやろ」
「パパが『漆黒の睡蓮』を取ってきてくれたら、こんなことにならなかったのに!」
長女の言葉に、桜井はぐっと詰まった。
「……それを言われると、耳が痛いなあ」
娘のために出場した大会だった。優勝して『漆黒の睡蓮』を持ち帰り、喜ぶ顔を見る。それが桜井の目標だった。
しかし、あと一歩届かなかった。
桜井は、決勝戦の盤面を思い返した。
研究の末に、彼は一つの結論にたどり着いていた。モンスターチェスは、双方が最善手を指し続けるなら、先手必勝になる。つまり、後手番を引いた時点で、理論上は負けが決まるゲームなのだ。
もっとも、そこまで研究が進んでいるのは自分だけだと思っていた。発売からわずか半年。世間では三すくみの戦型が主流で、ドラゴンの真価にすら気づいていないプレイヤーが大半だった。
だが、高幡政宗は違った。
約五十年前にこのゲームを生み出した原作者は、桜井と同じ景色を見ていた。ドラゴンの価値を理解し、膠着した戦線の先にあるものを見据え、先手必勝という結論にまでたどり着いていたのだ。
さすがは原作者、と言うべきだろうか。
悔しさはあった。だが、それ以上に、あそこまで研究を深めた人間が自分以外にもいたことが嬉しかった。決勝戦は、互いに積み上げてきたものをぶつけ合う、まさしく勝負師同士の対局だった。
それでも、娘に約束したカードを渡せなかったことだけは、心残りだった。
「まあ、せやけどな」
桜井は、食卓の四枚を見回した。
「パパは頑張ったんやで。決勝まで行ったんやからな。高幡先生は強かったわ。あれはほんまに、ええ勝負やった」
「うん。それは分かってるよ」
長女は少しだけ表情を和らげた。
「パパがすごいのも分かってる。でも、カードは欲しかったんだもん」
「せやなあ。そら、欲しいもんは欲しいわな」
桜井は娘の頭を撫でた。
「よっしゃ。今回はこの四枚で我慢してもらうとして、また何かええカードが手に入ったら、パパが考えたるわ」
「本当?」
「嘘ついてどないすんねん」
「じゃあ、次は私が欲しいカードを取ってきてね!」
「次も大会に出るの?」
次男が目を丸くした。
「パパ、まだ怪我が治ってないんだから、無理しないでよ」
「せやな。そこはちゃんと治してからや」
桜井は苦笑した。
身体はまだ万全ではない。松葉杖なしで歩けるようになるには、もう少し時間がかかるだろう。それでも、盤上の勝負から遠ざかるつもりはなかった。
将棋も、モンスターチェスも、勝負である以上、勝つことには意味がある。
だが、こうして家族が集まり、カード一枚を巡って本気で喧嘩している姿を見ると、勝負の結果だけがすべてではないとも思う。
食卓では、まだ兄妹たちが揉めていた。
「『熟練の白魔術師』は僕がもらう!」
「いや、俺が先に言った!」
「先に言ったって、誰も決めてないだろ!」
「じゃあ、じゃんけん!」
「だから、私は『美少女白魔術師』を譲らないからね!」
「それはもう分かったって!」
「お前ら、飯が冷めるで!」
桜井の声が響く。
しかし、子供たちは聞いているのかいないのか、カードを前に真剣な議論を続けていた。
桜井は呆れ顔でその様子を眺め、やがて小さく笑った。
世界に一枚の『漆黒の睡蓮』は、手に入らなかった。
それでも、四枚のカードを囲んで騒ぐ家族の姿は、桜井にとって何よりも大切な戦利品だった。




