魔王の娘 はじめてのおつかい
その日、魔王城の謁見の間に、一枚の紙が届いた。
持ってきたのは、姫さま付きの侍女だった。両手で捧げ持ち、玉座の前で膝をついた。顔が真っ青だった。
「ひ、姫さまのお部屋の、机の上に」
魔王は紙を受け取った。
ヴォルフは、玉座の斜め後ろに控えたまま、首だけ伸ばして覗いた。
『おつかい いってきます るぅ』
「つ」が一つ、裏返っていた。
字の下に、絵があった。丸い何かと、その上にのった赤い点々。丸の横には小鳥が一羽、描いてある。小鳥のほうが、ずっと上手だった。羽の一枚一枚まで描き込んであった。
魔王は、紙を読んだ。
もう一度読んだ。
それから立ち上がった。
「全軍に出撃の準備をさせよ」
謁見の間の空気が、凍った。
「陛下」
玉座の隣で、妃殿下が静かに言った。
「どちらへ?」
魔王は止まった。
片手を前に突き出した姿勢のまま、動かなかった。
行き先を、知らないのだ。
「……城門の番兵を呼べ!」
呼ばれてきた番兵は、震えながら報告した。昼前、小さなフードの子どもが一人、城下町を抜けて、橋のほうへ歩いていった。首から布の袋を下げて、丸めた紙を大事そうに抱えていた、と。
「なぜ止めなかった」
「お、おつかいだと、胸を張っておられましたので」
橋の向こうは、人間の町リンデだ。
魔王の顔から、血の気が引いた。
「――今から行く」
「陛下」
宰相が、帳面を開いたまま言った。
「本日は、北の竜族との盟約の更新でございます」
「延期できぬか」
「百年に一度の儀でございます。竜族の長老がたは、すでに山の祭壇にお集まりです」
「延期できぬか」
「できません」
「……延期」
「できません」
魔王は、玉座に座り直した。
長いあいだ、黙っていた。眉間のしわが、ここ最近でいちばん深くなっていた。
それから、顔を上げた。
「ヴォルフ」
「は」
ヴォルフは、玉座の前に進み出て膝をついた。
「ルゥを探せ。見つけたら、そばを離れるな」
「御意」
「知らぬ者に菓子をもらっても、ついていかせるな。あの子は甘いものに弱い」
「は」
「泣いたら、抱き上げろ。ただし人前ではいかん。人前で抱くと怒る」
「は」
「疲れると、右の靴を脱ぐ癖がある。片方だけだ。脱いだら、ちゃんと拾え」
「……は」
「それから、あの子は高いところが好きだ。登ったら、下から手を出せ。登るなとは言うな。言うと余計に登る」
「……は」
「それから」
「陛下」
妃殿下が、そっと袖を引いた。
「竜族の長老がたが、お待ちです」
魔王は、まだ何か言い足りない顔をしていた。
それから、咳払いを一つした。
「それから」
魔王の声が、低くなった。
「人間に、指一本触れさせるな」
「――御意」
それだけは、言われなくても分かっていた。
◇
廊下に出たところで、妃殿下に呼び止められた。
「ヴォルフ」
「はっ」
「あの子を見つけても、危なくなければ、声はかけないであげて」
ヴォルフは顔を上げた。
妃殿下は、困ったように笑っていた。
「あの子が、自分でやりたいことなの。たぶんね」
「しかし、妃殿下。人間の町に、五つのお子さまがお一人で」
「ええ。だから、あなたに行ってもらうの」
妃殿下は、ヴォルフの肩に手を置いた。
「危なくなったら、すぐに」
「……は」
納得はしていなかった。
出がけに、宰相が小さな革袋を投げてよこした。
「人間の銀貨だ。向こうでは、こちらの銅貨は使えん」
ヴォルフは袋を受け取りながら、ふと思った。姫さまは、何を持って出ていったのだろう。
ヴォルフは帽子を深くかぶり直した。人間の服を着て、角を帽子の中に押し込む。鏡を見ると、少し背の高い、愛想のない人間の男が立っていた。
人間の町。
噂なら、山ほど聞いている。人間は欲深い。人間は嘘をつく。魔族の子どもなど見つけたら、見世物小屋に売り飛ばす。
どれも、誰かから聞いた話だった。
そのことを、ヴォルフは考えなかった。
◇
石橋の上を、荷車を引く魔族の商人と、本を抱えた人間の学生が、すれ違っていった。リンデの学院には、魔族の学生も何人か通っていると聞く。それでも、すれ違うとき、どちらも少しだけ相手を避けて歩いていた。
石橋の真ん中に、腰の高さほどの古い石が立っている。ここから向こうが、人間の土地だ。
ヴォルフは、その石の横を通るとき、ほんの少しだけ歩幅を縮めた。誰も見ていないのに、足音を立てないようにしていた。
石橋の向こう側に、人間の門番が立っていた。
ヴォルフが橋を渡りきったとき、門番はちょうど、小さな影の前にしゃがみこんでいるところだった。
灰色のフード。首から下げた布の袋。胸に、丸めた紙を一枚抱えている。
ルゥだった。
ヴォルフは、荷馬車の陰で足を止めた。
「おつかい?」
門番が聞いた。
「うん」
「一人で?」
「うん」
門番は、しばらくルゥを見ていた。
それから手を伸ばした。
ヴォルフの手が、腰の剣の柄にかかった。
門番の手は、ルゥのフードをつまんだ。片方にずり落ちていたのを、まっすぐに直した。
「広場はあっち。馬車に気をつけてな」
「うん!」
ルゥが歩き出した。門番は、もう次の荷馬車の帳面を見ていた。
橋の向こうの通りは、人であふれていた。荷車を押す男。籠を頭にのせた女。声を張り上げて値段を叫ぶ魚屋。
誰も、ルゥを見ていなかった。小さなフードの子どもが一人で歩いていても、誰も足を止めなかった。それが、かえって落ち着かなかった。
ヴォルフは、剣の柄から手を離した。
触った。指一本触れさせるなと言われた、その指で。
フードを直すのは、触ったうちに入るのだろうか。陛下に報告すべきだろうか。
考えているうちに、ルゥの背中が人混みに紛れかけて、ヴォルフは慌てて後を追った。
◇
広場の井戸の前で、ルゥは丸めた紙を広げた。
「あのね、このおみせ、しってる?」
洗濯物を抱えたおばあさんが二人、紙を覗きこんだ。その後ろを、花束を抱えた女が通り過ぎていった。
ヴォルフは、果物の籠を眺めるふりをして、少し離れたところに立った。
「……帽子かい?」
「帽子なもんかね。鍋だよ、これは」
「鍋にいちごを入れる人がいるかい」
「これがいちごだって、どうして分かるのさ」
二人は、ルゥの頭の上で言い争いを始めた。
ルゥは、紙を持ったまま待っていた。
「ケーキ」
ルゥが言った。
「ああ、ケーキ!」
「ケーキだって言ったろう」
「言ってないよ、鍋って言ったのはあんただよ」
一人が、紙の端の小鳥を指さした。
「この鳥なら、見たことあるよ。宿屋の看板に、こんなのがついてる。坂の上の」
「うん!ありがとう!」
ルゥは紙を丸めて、坂のほうへ駆けていった。
罠かもしれない。
ヴォルフは坂を見上げた。宿屋。人目のない建物。子ども一人を連れ込むには、ちょうどいい。
坂の上の宿屋の看板には、たしかに鳥がついていた。
鳩だった。灰色の、丸々とした鳩だった。
入口の前で、ルゥは看板と自分の絵を見比べて、首をひねっていた。
「……はと」
小さな声で、そう言った。
そこへ、箒を持った女の子が出てきた。ルゥより、いくつか年上だ。
「なあに、それ」
「このおみせ、さがしてるの」
女の子は紙を覗きこんだ。
そして、すぐに声を上げた。
「あ、これ、ことりやさん!うちのお母さんが、お祝いのときに買うとこ!」
女の子は、ルゥの手を引いて歩き出しかけた。
宿屋の中から、大きな声がした。
「メアリ!箒はどうしたの!」
「いま行く!」
女の子は戻りかけて、足を止めた。それからしゃがんで、箒の柄で地面に線を引いた。
「ここがここ。まっすぐ行って、パン屋さんのとこで、こっち。そしたら青い鳥」
「パンやさんで、こっち」
「そう。じゃあね!」
女の子は駆け戻っていった。
ルゥは、地面の地図をしばらく見ていた。
それから、地図を踏まないように、ぐるっと大回りして歩き出した。
ヴォルフは、宿屋の向かいの壁にもたれたまま、自分がまだ剣の柄を握っていることに気づいた。
◇
パン屋は、すぐに見つかった。
ルゥは、パン屋の前の角で立ち止まった。右を見た。左を見た。もう一度、右を見た。
どっちだったか、忘れたのだ。
ヴォルフは、一歩踏み出しかけた。
右だ。地図では、右だった。言えば済む。
――危なくなければ、声はかけないであげて。
足を戻した。
ルゥは、パン屋の隣の果物屋に、とことこと歩いていった。
店先では、花束を抱えた女が一人、林檎を選んでいた。
店先のおかみさんの前で、背伸びをした。
「あのね、あおいことりのおみせ、どっち?」
ヴォルフが聞くより、ずっと短くて、ずっと分かりやすかった。
「青い小鳥?」
おかみさんは、首をかしげた。
「さあねえ。あたしは甘いもんは買わないから。この先で、もう一回聞いてごらん」
おかみさんは、前掛けのポケットに手を入れた。
「歩きどおしかい。ほら」
ルゥの手のひらに、紙に包んだ飴が二つ、ころんと落ちた。
「ありがとう!」
ルゥは、果物屋の軒先の木箱に腰を下ろした。
右の靴を脱いだ。
足の指をぐーぱーさせて、少し休んで、また靴を履いた。
ヴォルフは、知らず詰めていた息を吐いた。
「あんた」
声をかけられて、ヴォルフは飛び上がりかけた。
果物屋のおかみさんが、こちらを見ていた。
「あの子の、お父さん?」
「い、いや、私は」
「さっきから、ずうっと見てるじゃないの。心配なのは分かるけどさ」
おかみさんは、笑った。
「しっかりした娘さんだねえ。一人で聞きに来たよ」
違う、と言いかけた。
言えなかった。何と言えばいいのか、分からなかった。
「ほら、お父さんも。あんたも歩きどおしだろ」
ヴォルフの手のひらに、紙に包んだ飴が一つ、落ちてきた。
おかみさんは、もう次の客の林檎を量っていた。
飴を上着のポケットにしまって、ヴォルフはまた歩き出した。
◇
角を曲がると、青い小鳥の看板があった。
ルゥは走り出しかけて、止まった。
フードを両手で直した。丸めた紙を、胸に抱え直した。
それから、扉を押した。
扉の上で、鈴が鳴った。
ヴォルフは、少し間を置いてから店に入った。
焼き菓子の棚の前に立ち、並んだ包みを眺めるふりをした。
店の奥から、男が出てきた。粉で白くなった前掛け。太い腕。愛想のない顔。
「いらっしゃい」
ルゥは、ガラスの棚の前で背伸びをした。
棚の中に、ケーキが並んでいた。チョコレートのもの。果物ののったもの。その真ん中に、白いクリームの上に、いちごがぎっしりのったケーキがあった。
ルゥの背伸びが、つま先立ちになった。
ルゥの目は、まずチョコレートのケーキに止まった。しばらく見ていた。
それから果物ののったケーキに移って、そこでもしばらく止まった。
最後に、真ん中のいちごのケーキに戻ってきた。もう動かなかった。
「これ」
ガラスに、指がくっついた。
「これの、まるいの」
「丸ごとか」
「うん。ひとつ」
店主は、棚の後ろから、同じケーキの小ぶりなものを一つ出して、台の上に置いた。ルゥの両腕で、ちょうど抱えられるくらいの大きさだった。
ルゥは、口を少し開けて、それを見ていた。
「名前、入れるか」
店主が、板チョコの札を一枚つまんだ。
「なまえ?」
「誰にやるんだ。名前でも、何でも、書いてやる」
ルゥは、札を見た。
考えていた。指を一本、口のはしに当てて。
それから、一つずつ、言った。
「はっぴー、ばーすでー、ぱぱ」
店主の手が、一瞬止まった。
「……パパ、な」
チョコのペンが、札の上を走った。
ルゥは、カウンターの縁に両手をかけて、それを見ていた。
「さいごに、びっくりのやつも」
「びっくり」
「こういうの」
ルゥが、指で空中に棒を一本引いて、その下に点を打った。
店主は黙って、札の最後に「!」を書き足した。
『ハッピーバースデー パパ!』
焼き菓子の棚の前で、ヴォルフは包みを取ろうとしていた手を止めた。
今日は、陛下の誕生日だった。
姫さまは、これを買いに来たのだ。
店主が、札をケーキの真ん中に立てた。
ルゥは、首の布袋を外した。両手で持って、逆さにした。
カウンターの上に、いろんなものが転がり出た。
魔族の銅貨。人間の銀貨が三枚。ボタンが二つ。つるつるした白い石。押し花にした、黄色い花びら。
店主は、それを黙って見下ろした。
銀貨を三枚、指で手元に寄せた。残りを、一つずつ袋に戻していった。白い石だけ、一度つまみ上げて光にかざして、それも袋に戻した。
「たりる?」
「足りる」
店主は、ケーキを箱に入れて、紐をかけた。
箱の蓋に、青い小鳥の焼き印があった。
ルゥは、箱を両手で受け取った。
胸の前で、そっと抱えた。それから、一歩ずつ足元を確かめるようにして、扉のほうへ歩いていった。
「傾けるなよ」
店主が言った。
「うん!」
鈴が鳴って、扉が閉まった。
ヴォルフは、手に取っていた焼き菓子の包みを、カウンターに置いた。
店主は、無愛想に代金を受け取って、釣り銭を返した。
ヴォルフは少し遅れて、鈴の鳴る扉を押した。外に出ると、ルゥはもう角を曲がりかけていた。箱を胸に抱えて、ゆっくりと。
◇
帰りの石橋の上は、風が強かった。箱の紐が揺れて、ルゥの足が一度もつれかけた。
ヴォルフは、思わず二歩、前に出た。持ってやろうと思った。帽子をかぶったまま、知らない人間の男のふりをしたまま。
ルゥは、箱を胸に引き寄せて、足を踏ん張り、また歩き始めた。
ヴォルフは、二歩戻った。
橋を渡り終えるころには、空が橙色になっていた。
魔王城の城下町。見慣れた黒い石畳。角の生えた人々の、見慣れた顔。
ヴォルフは、知らず知らずのうちに肩の力を抜いていた。ここまで来れば、もう大丈夫だ。
鍛冶屋の前で、若い魔族の男が二人、壁にもたれていた。
一人が、鼻をひくつかせた。
「おい。甘ったるい匂いがするぞ」
「人間の匂いだ」
二人の目が、ルゥの抱えた箱に止まった。蓋の、青い小鳥に。
「おい、ちび。それ、向こうで買ったのか」
ルゥは答えなかった。箱を、ぎゅっと抱えた。
「魔族領に、人間の食い物を持ち込んじゃいけねえんだぞ。決まりだ」
「人間の作ったもんなんか、何が入ってるか分かったもんじゃねえ」
「だから、それは俺たちが預かってやる」
一人が、箱に手を伸ばした。
ルゥは、その場にしゃがみこんだ。
箱を、体ぜんぶで抱えこんだ。泣かなかった。顔を上げもしなかった。
ヴォルフは、二人とルゥのあいだに割って入っていた。
自分が動いたことに、割って入ってから気づいた。
「なんだ、てめえ」
若い男が、ヴォルフを見上げた。人間の服。人間の顔。
「人間かよ。こっちに何の用だ」
「人間がガキの肩持つのか。上等だな」
ヴォルフは、帽子を取った。
押しこめていた角が、二本、ゆっくりと起き上がった。上着の襟を返すと、魔王直属の徽章が光った。
二人の顔から、色が抜けた。
「子どもの持ち物だ」
ヴォルフは言った。
「手を出すな」
二人は、何か言いかけて、やめた。
それから、走っていなくなった。
ヴォルフは、しばらく二人が消えた路地を見ていた。
持ち込みを禁じる決まりなど、聞いたことがない。
預かると言いながら、二人は箱から目を離さなかった。
人間は欲深い。人間は嘘をつく。
ヴォルフが何度も聞いてきた言葉が、なぜか今、頭の中で鳴っていた。
足元で、紙の音がした。
ルゥが、しゃがんだまま、箱の蓋をほんの少しだけ持ち上げて、中を覗いていた。
「……つぶれてない?」
ヴォルフも、覗いた。
白いクリーム。いちご。チョコの札。どれも、そのままだった。
「つぶれていません」
「よかったぁ」
ルゥは蓋を閉じて、立ち上がった。
それから、初めてヴォルフの顔を、まっすぐ見上げた。
「ヴォルフだ」
「……はい」
「なんで、にんげんのかっこう、してるの?」
「……いろいろと、事情がありまして」
ルゥは、少し考えた。
それから、箱を抱えたまま、声をひそめた。
「ケーキ、パパにみせるまで、ないしょね」
陛下からは、娘を探せと言われた。そばを離れるなと言われた。人間に指一本触れさせるなと言われた。
内緒にしろとは、言われていない。
「……はい。内緒です」
城への坂道を、二人で並んで歩いた。
ルゥは箱を抱えて一歩ずつ、ヴォルフはその歩幅に合わせた。
門番の手を、思い出した。
ずり落ちたフードを、指でつまんで、まっすぐにした手。あのとき、ヴォルフは剣の柄を握っていた。
さっきの若い男の手を、思い出した。
箱に伸びてきた手。
坂を上るあいだ、ヴォルフは気がつくと、その二つの手を何度も思い返していた。
◇
城に着くと、ルゥはまっすぐ厨房へ走っていった。
厨房の奥から、料理長の太い声が聞こえた。「姫さま、それは……ははあ。承知しました。誰にも見せません」。
ヴォルフは、妃殿下の居間に報告に上がった。
「無事に、お戻りになりました」
「ええ。ありがとう、ヴォルフ」
「途中、果物屋の前で、右の靴をお脱ぎになりました」
妃殿下の眉が、少し上がった。
「あら。拾ってくれた?」
「いいえ。ご自分で、お履きになりました」
妃殿下は、何も言わなかった。
ただ、目を細めた。
妃殿下は、窓辺の椅子に座っていた。膝の上の刺繍は、朝から少しも進んでいないように見えた。
「妃殿下。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「なあに」
「なぜ、人間のケーキだったのでしょう」
妃殿下は、刺繍の針を置いた。
「去年の春にね、人間の商人が、お土産に一つ持ってきてくれたの。青い小鳥の箱に入ってた。あの人は会議が長引いて、あの子と二人で食べたのよ」
妃殿下は、窓の外を見た。
「あの子、ひと口食べて、目をまんまるにして笑ったの。それから、フォークを持ったまま言ったのよ。『パパにも、たべさせたい』って」
それから、自分の眉間を、指で軽くつまんでみせた。
「最近、あの人、ずっとこういう顔でしょう」
ヴォルフは、何も言えなかった。
陛下の眉間のしわなら、毎日、玉座の斜め後ろから見ていた。
「お一人で行かせて、よろしかったのですか」
「よろしくないわ」
妃殿下は、すぐに答えた。
「だから、あなたに行ってもらったの」
それから、少しだけ、いたずらっぽく笑った。
「それと、もう一人」
「……もう一人?」
「わたくしの侍女をね。買い物のふりをして」
ヴォルフは、今日すれ違った人間の顔を思い浮かべようとした。
どの顔も、ルゥの背中の向こうにぼやけていた。
「あなたは、気づかなかったでしょう」
「……面目ございません」
「いいのよ。気づかれたら困るもの」
妃殿下は、刺繍の針を取り直した。
一針刺して、それからヴォルフを見た。
「あなたは、どうだった?」
ヴォルフは、口を開いた。
何から話せばいいのか、分からなかった。門番のことか。井戸の前のおばあさんたちのことか。地面に引かれた地図のことか。お父さんかと聞かれたことか。
口を閉じた。
妃殿下は、それ以上聞かなかった。
また一針、刺した。
「あの子がケーキを見せるまで、あの人には内緒よ」
「はい。姫さまと、お約束しましたので」
妃殿下が、声を出して笑った。
◇
城壁の上に出ると、日が沈みかけていた。
北の街道の向こうに、小さな灯りが並んでいた。松明の列だ。陛下の一行が、竜族の山から戻ってくる。
風が冷たかった。
ヴォルフは、上着のポケットに手を入れた。
指先に、紙の包みが触れた。
取り出すと、果物屋のおかみさんがくれた飴だった。ルゥがもらったのと、同じ包み紙だった。
明日になれば、またどこかで人間の噂を聞くだろう。
そのうちのいくつかは、本当なのかもしれない。
けれど、ヴォルフはもう、鍋か帽子かで言い争う声を知っている。地面に引かれた線と、それを踏まないように大回りした小さな足を知っている。
いつか、あの子がフードもかぶらずに、あの橋を渡れたらいい。
角も隠さず、誰の陰にも隠れずに、青い小鳥の店の扉を押して、「これの、まるいの」と言えたらいい。
包み紙を開いた。
黄色い、まるい飴だった。
口に入れた。
松明の列の先頭から、一頭の馬が飛び出した。
供の者たちをはるか後ろに置き去りにして、坂を駆け上ってくる。夕闇の中に、黒い外套と大きな角が見えた。
陛下だった。
ヴォルフは、城壁の階段を下りはじめた。
飴はとても甘かった。




