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魔王の娘 はじめてのおつかい

作者: 江合 花果
掲載日:2026/10/20

 その日、魔王城の謁見の間に、一枚の紙が届いた。


 持ってきたのは、姫さま付きの侍女だった。両手で捧げ持ち、玉座の前で膝をついた。顔が真っ青だった。

「ひ、姫さまのお部屋の、机の上に」


 魔王は紙を受け取った。

 ヴォルフは、玉座の斜め後ろに控えたまま、首だけ伸ばして覗いた。


『おつかい いってきます るぅ』


 「つ」が一つ、裏返っていた。

 字の下に、絵があった。丸い何かと、その上にのった赤い点々。丸の横には小鳥が一羽、描いてある。小鳥のほうが、ずっと上手だった。羽の一枚一枚まで描き込んであった。


 魔王は、紙を読んだ。

 もう一度読んだ。

 それから立ち上がった。


「全軍に出撃の準備をさせよ」


 謁見の間の空気が、凍った。


「陛下」

 玉座の隣で、妃殿下が静かに言った。

「どちらへ?」


 魔王は止まった。

 片手を前に突き出した姿勢のまま、動かなかった。


 行き先を、知らないのだ。


「……城門の番兵を呼べ!」


 呼ばれてきた番兵は、震えながら報告した。昼前、小さなフードの子どもが一人、城下町を抜けて、橋のほうへ歩いていった。首から布の袋を下げて、丸めた紙を大事そうに抱えていた、と。


「なぜ止めなかった」

「お、おつかいだと、胸を張っておられましたので」


 橋の向こうは、人間の町リンデだ。


 魔王の顔から、血の気が引いた。


「――今から行く」

「陛下」

 宰相が、帳面を開いたまま言った。

「本日は、北の竜族との盟約の更新でございます」

「延期できぬか」

「百年に一度の儀でございます。竜族の長老がたは、すでに山の祭壇にお集まりです」

「延期できぬか」

「できません」

「……延期」

「できません」


 魔王は、玉座に座り直した。

 長いあいだ、黙っていた。眉間のしわが、ここ最近でいちばん深くなっていた。

 それから、顔を上げた。


「ヴォルフ」

「は」

 ヴォルフは、玉座の前に進み出て膝をついた。


「ルゥを探せ。見つけたら、そばを離れるな」

「御意」

「知らぬ者に菓子をもらっても、ついていかせるな。あの子は甘いものに弱い」

「は」

「泣いたら、抱き上げろ。ただし人前ではいかん。人前で抱くと怒る」

「は」

「疲れると、右の靴を脱ぐ癖がある。片方だけだ。脱いだら、ちゃんと拾え」

「……は」

「それから、あの子は高いところが好きだ。登ったら、下から手を出せ。登るなとは言うな。言うと余計に登る」

「……は」

「それから」

「陛下」

 妃殿下が、そっと袖を引いた。

「竜族の長老がたが、お待ちです」


 魔王は、まだ何か言い足りない顔をしていた。

 それから、咳払いを一つした。


「それから」


 魔王の声が、低くなった。


「人間に、指一本触れさせるな」


「――御意」


 それだけは、言われなくても分かっていた。


    ◇


 廊下に出たところで、妃殿下に呼び止められた。


「ヴォルフ」

「はっ」

「あの子を見つけても、危なくなければ、声はかけないであげて」


 ヴォルフは顔を上げた。

 妃殿下は、困ったように笑っていた。


「あの子が、自分でやりたいことなの。たぶんね」

「しかし、妃殿下。人間の町に、五つのお子さまがお一人で」

「ええ。だから、あなたに行ってもらうの」

 妃殿下は、ヴォルフの肩に手を置いた。

「危なくなったら、すぐに」

「……は」


 納得はしていなかった。


 出がけに、宰相が小さな革袋を投げてよこした。

「人間の銀貨だ。向こうでは、こちらの銅貨は使えん」

 ヴォルフは袋を受け取りながら、ふと思った。姫さまは、何を持って出ていったのだろう。


 ヴォルフは帽子を深くかぶり直した。人間の服を着て、角を帽子の中に押し込む。鏡を見ると、少し背の高い、愛想のない人間の男が立っていた。


 人間の町。

 噂なら、山ほど聞いている。人間は欲深い。人間は嘘をつく。魔族の子どもなど見つけたら、見世物小屋に売り飛ばす。


 どれも、誰かから聞いた話だった。

 そのことを、ヴォルフは考えなかった。


    ◇


 石橋の上を、荷車を引く魔族の商人と、本を抱えた人間の学生が、すれ違っていった。リンデの学院には、魔族の学生も何人か通っていると聞く。それでも、すれ違うとき、どちらも少しだけ相手を避けて歩いていた。


 石橋の真ん中に、腰の高さほどの古い石が立っている。ここから向こうが、人間の土地だ。

 ヴォルフは、その石の横を通るとき、ほんの少しだけ歩幅を縮めた。誰も見ていないのに、足音を立てないようにしていた。


 石橋の向こう側に、人間の門番が立っていた。


 ヴォルフが橋を渡りきったとき、門番はちょうど、小さな影の前にしゃがみこんでいるところだった。

 灰色のフード。首から下げた布の袋。胸に、丸めた紙を一枚抱えている。


 ルゥだった。


 ヴォルフは、荷馬車の陰で足を止めた。


「おつかい?」

 門番が聞いた。

「うん」

「一人で?」

「うん」


 門番は、しばらくルゥを見ていた。

 それから手を伸ばした。


 ヴォルフの手が、腰の剣の柄にかかった。


 門番の手は、ルゥのフードをつまんだ。片方にずり落ちていたのを、まっすぐに直した。

「広場はあっち。馬車に気をつけてな」

「うん!」


 ルゥが歩き出した。門番は、もう次の荷馬車の帳面を見ていた。


 橋の向こうの通りは、人であふれていた。荷車を押す男。籠を頭にのせた女。声を張り上げて値段を叫ぶ魚屋。

 誰も、ルゥを見ていなかった。小さなフードの子どもが一人で歩いていても、誰も足を止めなかった。それが、かえって落ち着かなかった。


 ヴォルフは、剣の柄から手を離した。

 触った。指一本触れさせるなと言われた、その指で。

 フードを直すのは、触ったうちに入るのだろうか。陛下に報告すべきだろうか。

 考えているうちに、ルゥの背中が人混みに紛れかけて、ヴォルフは慌てて後を追った。


    ◇


 広場の井戸の前で、ルゥは丸めた紙を広げた。


「あのね、このおみせ、しってる?」


 洗濯物を抱えたおばあさんが二人、紙を覗きこんだ。その後ろを、花束を抱えた女が通り過ぎていった。

 ヴォルフは、果物の籠を眺めるふりをして、少し離れたところに立った。


「……帽子かい?」

「帽子なもんかね。鍋だよ、これは」

「鍋にいちごを入れる人がいるかい」

「これがいちごだって、どうして分かるのさ」


 二人は、ルゥの頭の上で言い争いを始めた。

 ルゥは、紙を持ったまま待っていた。


「ケーキ」

 ルゥが言った。

「ああ、ケーキ!」

「ケーキだって言ったろう」

「言ってないよ、鍋って言ったのはあんただよ」


 一人が、紙の端の小鳥を指さした。

「この鳥なら、見たことあるよ。宿屋の看板に、こんなのがついてる。坂の上の」

「うん!ありがとう!」


 ルゥは紙を丸めて、坂のほうへ駆けていった。


 罠かもしれない。

 ヴォルフは坂を見上げた。宿屋。人目のない建物。子ども一人を連れ込むには、ちょうどいい。


 坂の上の宿屋の看板には、たしかに鳥がついていた。

 鳩だった。灰色の、丸々とした鳩だった。


 入口の前で、ルゥは看板と自分の絵を見比べて、首をひねっていた。

「……はと」

 小さな声で、そう言った。

 そこへ、箒を持った女の子が出てきた。ルゥより、いくつか年上だ。


「なあに、それ」

「このおみせ、さがしてるの」


 女の子は紙を覗きこんだ。

 そして、すぐに声を上げた。


「あ、これ、ことりやさん!うちのお母さんが、お祝いのときに買うとこ!」


 女の子は、ルゥの手を引いて歩き出しかけた。

 宿屋の中から、大きな声がした。

「メアリ!箒はどうしたの!」

「いま行く!」


 女の子は戻りかけて、足を止めた。それからしゃがんで、箒の柄で地面に線を引いた。

「ここがここ。まっすぐ行って、パン屋さんのとこで、こっち。そしたら青い鳥」

「パンやさんで、こっち」

「そう。じゃあね!」


 女の子は駆け戻っていった。


 ルゥは、地面の地図をしばらく見ていた。

 それから、地図を踏まないように、ぐるっと大回りして歩き出した。


 ヴォルフは、宿屋の向かいの壁にもたれたまま、自分がまだ剣の柄を握っていることに気づいた。


    ◇


 パン屋は、すぐに見つかった。

 ルゥは、パン屋の前の角で立ち止まった。右を見た。左を見た。もう一度、右を見た。


 どっちだったか、忘れたのだ。


 ヴォルフは、一歩踏み出しかけた。

 右だ。地図では、右だった。言えば済む。


 ――危なくなければ、声はかけないであげて。


 足を戻した。


 ルゥは、パン屋の隣の果物屋に、とことこと歩いていった。

 店先では、花束を抱えた女が一人、林檎を選んでいた。

 店先のおかみさんの前で、背伸びをした。


「あのね、あおいことりのおみせ、どっち?」


 ヴォルフが聞くより、ずっと短くて、ずっと分かりやすかった。


「青い小鳥?」

 おかみさんは、首をかしげた。

「さあねえ。あたしは甘いもんは買わないから。この先で、もう一回聞いてごらん」


 おかみさんは、前掛けのポケットに手を入れた。

「歩きどおしかい。ほら」


 ルゥの手のひらに、紙に包んだ飴が二つ、ころんと落ちた。


「ありがとう!」


 ルゥは、果物屋の軒先の木箱に腰を下ろした。

 右の靴を脱いだ。

 足の指をぐーぱーさせて、少し休んで、また靴を履いた。


ヴォルフは、知らず詰めていた息を吐いた。


「あんた」


 声をかけられて、ヴォルフは飛び上がりかけた。

 果物屋のおかみさんが、こちらを見ていた。


「あの子の、お父さん?」

「い、いや、私は」

「さっきから、ずうっと見てるじゃないの。心配なのは分かるけどさ」

 おかみさんは、笑った。

「しっかりした娘さんだねえ。一人で聞きに来たよ」


 違う、と言いかけた。

 言えなかった。何と言えばいいのか、分からなかった。


「ほら、お父さんも。あんたも歩きどおしだろ」


 ヴォルフの手のひらに、紙に包んだ飴が一つ、落ちてきた。

 おかみさんは、もう次の客の林檎を量っていた。


 飴を上着のポケットにしまって、ヴォルフはまた歩き出した。


    ◇


 角を曲がると、青い小鳥の看板があった。


 ルゥは走り出しかけて、止まった。

 フードを両手で直した。丸めた紙を、胸に抱え直した。

 それから、扉を押した。


 扉の上で、鈴が鳴った。


 ヴォルフは、少し間を置いてから店に入った。

 焼き菓子の棚の前に立ち、並んだ包みを眺めるふりをした。


 店の奥から、男が出てきた。粉で白くなった前掛け。太い腕。愛想のない顔。

「いらっしゃい」


 ルゥは、ガラスの棚の前で背伸びをした。

 棚の中に、ケーキが並んでいた。チョコレートのもの。果物ののったもの。その真ん中に、白いクリームの上に、いちごがぎっしりのったケーキがあった。


 ルゥの背伸びが、つま先立ちになった。


 ルゥの目は、まずチョコレートのケーキに止まった。しばらく見ていた。

 それから果物ののったケーキに移って、そこでもしばらく止まった。

 最後に、真ん中のいちごのケーキに戻ってきた。もう動かなかった。


「これ」

 ガラスに、指がくっついた。

「これの、まるいの」

「丸ごとか」

「うん。ひとつ」


 店主は、棚の後ろから、同じケーキの小ぶりなものを一つ出して、台の上に置いた。ルゥの両腕で、ちょうど抱えられるくらいの大きさだった。

 ルゥは、口を少し開けて、それを見ていた。


「名前、入れるか」

 店主が、板チョコの札を一枚つまんだ。

「なまえ?」

「誰にやるんだ。名前でも、何でも、書いてやる」


 ルゥは、札を見た。

 考えていた。指を一本、口のはしに当てて。


 それから、一つずつ、言った。


「はっぴー、ばーすでー、ぱぱ」


 店主の手が、一瞬止まった。

「……パパ、な」


 チョコのペンが、札の上を走った。

 ルゥは、カウンターの縁に両手をかけて、それを見ていた。


「さいごに、びっくりのやつも」

「びっくり」

「こういうの」


 ルゥが、指で空中に棒を一本引いて、その下に点を打った。

 店主は黙って、札の最後に「!」を書き足した。


『ハッピーバースデー パパ!』


 焼き菓子の棚の前で、ヴォルフは包みを取ろうとしていた手を止めた。


 今日は、陛下の誕生日だった。

 姫さまは、これを買いに来たのだ。


 店主が、札をケーキの真ん中に立てた。

 ルゥは、首の布袋を外した。両手で持って、逆さにした。


 カウンターの上に、いろんなものが転がり出た。

 魔族の銅貨。人間の銀貨が三枚。ボタンが二つ。つるつるした白い石。押し花にした、黄色い花びら。


 店主は、それを黙って見下ろした。

 銀貨を三枚、指で手元に寄せた。残りを、一つずつ袋に戻していった。白い石だけ、一度つまみ上げて光にかざして、それも袋に戻した。


「たりる?」

「足りる」


 店主は、ケーキを箱に入れて、紐をかけた。

 箱の蓋に、青い小鳥の焼き印があった。


 ルゥは、箱を両手で受け取った。

 胸の前で、そっと抱えた。それから、一歩ずつ足元を確かめるようにして、扉のほうへ歩いていった。


「傾けるなよ」

 店主が言った。

「うん!」


 鈴が鳴って、扉が閉まった。


 ヴォルフは、手に取っていた焼き菓子の包みを、カウンターに置いた。

 店主は、無愛想に代金を受け取って、釣り銭を返した。


 ヴォルフは少し遅れて、鈴の鳴る扉を押した。外に出ると、ルゥはもう角を曲がりかけていた。箱を胸に抱えて、ゆっくりと。


    ◇


 帰りの石橋の上は、風が強かった。箱の紐が揺れて、ルゥの足が一度もつれかけた。

 ヴォルフは、思わず二歩、前に出た。持ってやろうと思った。帽子をかぶったまま、知らない人間の男のふりをしたまま。


 ルゥは、箱を胸に引き寄せて、足を踏ん張り、また歩き始めた。


 ヴォルフは、二歩戻った。


 橋を渡り終えるころには、空が橙色になっていた。

 魔王城の城下町。見慣れた黒い石畳。角の生えた人々の、見慣れた顔。

 ヴォルフは、知らず知らずのうちに肩の力を抜いていた。ここまで来れば、もう大丈夫だ。


 鍛冶屋の前で、若い魔族の男が二人、壁にもたれていた。

 一人が、鼻をひくつかせた。


「おい。甘ったるい匂いがするぞ」

「人間の匂いだ」


 二人の目が、ルゥの抱えた箱に止まった。蓋の、青い小鳥に。


「おい、ちび。それ、向こうで買ったのか」

 ルゥは答えなかった。箱を、ぎゅっと抱えた。

「魔族領に、人間の食い物を持ち込んじゃいけねえんだぞ。決まりだ」

「人間の作ったもんなんか、何が入ってるか分かったもんじゃねえ」

「だから、それは俺たちが預かってやる」


 一人が、箱に手を伸ばした。


 ルゥは、その場にしゃがみこんだ。

 箱を、体ぜんぶで抱えこんだ。泣かなかった。顔を上げもしなかった。


 ヴォルフは、二人とルゥのあいだに割って入っていた。

 自分が動いたことに、割って入ってから気づいた。


「なんだ、てめえ」

 若い男が、ヴォルフを見上げた。人間の服。人間の顔。

「人間かよ。こっちに何の用だ」

「人間がガキの肩持つのか。上等だな」


 ヴォルフは、帽子を取った。

 押しこめていた角が、二本、ゆっくりと起き上がった。上着の襟を返すと、魔王直属の徽章が光った。


 二人の顔から、色が抜けた。


「子どもの持ち物だ」

 ヴォルフは言った。

「手を出すな」


 二人は、何か言いかけて、やめた。

 それから、走っていなくなった。


 ヴォルフは、しばらく二人が消えた路地を見ていた。


 持ち込みを禁じる決まりなど、聞いたことがない。

 預かると言いながら、二人は箱から目を離さなかった。


 人間は欲深い。人間は嘘をつく。

 ヴォルフが何度も聞いてきた言葉が、なぜか今、頭の中で鳴っていた。


 足元で、紙の音がした。

 ルゥが、しゃがんだまま、箱の蓋をほんの少しだけ持ち上げて、中を覗いていた。


「……つぶれてない?」


 ヴォルフも、覗いた。

 白いクリーム。いちご。チョコの札。どれも、そのままだった。


「つぶれていません」

「よかったぁ」


 ルゥは蓋を閉じて、立ち上がった。

 それから、初めてヴォルフの顔を、まっすぐ見上げた。


「ヴォルフだ」

「……はい」

「なんで、にんげんのかっこう、してるの?」

「……いろいろと、事情がありまして」


 ルゥは、少し考えた。

 それから、箱を抱えたまま、声をひそめた。


「ケーキ、パパにみせるまで、ないしょね」


 陛下からは、娘を探せと言われた。そばを離れるなと言われた。人間に指一本触れさせるなと言われた。

 内緒にしろとは、言われていない。


「……はい。内緒です」


 城への坂道を、二人で並んで歩いた。

 ルゥは箱を抱えて一歩ずつ、ヴォルフはその歩幅に合わせた。


 門番の手を、思い出した。

 ずり落ちたフードを、指でつまんで、まっすぐにした手。あのとき、ヴォルフは剣の柄を握っていた。


 さっきの若い男の手を、思い出した。

 箱に伸びてきた手。


 坂を上るあいだ、ヴォルフは気がつくと、その二つの手を何度も思い返していた。


    ◇


 城に着くと、ルゥはまっすぐ厨房へ走っていった。

 厨房の奥から、料理長の太い声が聞こえた。「姫さま、それは……ははあ。承知しました。誰にも見せません」。


 ヴォルフは、妃殿下の居間に報告に上がった。


「無事に、お戻りになりました」

「ええ。ありがとう、ヴォルフ」

「途中、果物屋の前で、右の靴をお脱ぎになりました」

 妃殿下の眉が、少し上がった。

「あら。拾ってくれた?」

「いいえ。ご自分で、お履きになりました」


 妃殿下は、何も言わなかった。

 ただ、目を細めた。


 妃殿下は、窓辺の椅子に座っていた。膝の上の刺繍は、朝から少しも進んでいないように見えた。


「妃殿下。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」

「なあに」

「なぜ、人間のケーキだったのでしょう」


 妃殿下は、刺繍の針を置いた。


「去年の春にね、人間の商人が、お土産に一つ持ってきてくれたの。青い小鳥の箱に入ってた。あの人は会議が長引いて、あの子と二人で食べたのよ」

 妃殿下は、窓の外を見た。

「あの子、ひと口食べて、目をまんまるにして笑ったの。それから、フォークを持ったまま言ったのよ。『パパにも、たべさせたい』って」


 それから、自分の眉間を、指で軽くつまんでみせた。

「最近、あの人、ずっとこういう顔でしょう」


 ヴォルフは、何も言えなかった。

 陛下の眉間のしわなら、毎日、玉座の斜め後ろから見ていた。


「お一人で行かせて、よろしかったのですか」

「よろしくないわ」

 妃殿下は、すぐに答えた。

「だから、あなたに行ってもらったの」


 それから、少しだけ、いたずらっぽく笑った。


「それと、もう一人」


「……もう一人?」

「わたくしの侍女をね。買い物のふりをして」


 ヴォルフは、今日すれ違った人間の顔を思い浮かべようとした。

 どの顔も、ルゥの背中の向こうにぼやけていた。


「あなたは、気づかなかったでしょう」

「……面目ございません」

「いいのよ。気づかれたら困るもの」


 妃殿下は、刺繍の針を取り直した。

 一針刺して、それからヴォルフを見た。


「あなたは、どうだった?」


 ヴォルフは、口を開いた。

 何から話せばいいのか、分からなかった。門番のことか。井戸の前のおばあさんたちのことか。地面に引かれた地図のことか。お父さんかと聞かれたことか。


 口を閉じた。


 妃殿下は、それ以上聞かなかった。

 また一針、刺した。


「あの子がケーキを見せるまで、あの人には内緒よ」

「はい。姫さまと、お約束しましたので」


 妃殿下が、声を出して笑った。


    ◇


 城壁の上に出ると、日が沈みかけていた。


 北の街道の向こうに、小さな灯りが並んでいた。松明の列だ。陛下の一行が、竜族の山から戻ってくる。


 風が冷たかった。

 ヴォルフは、上着のポケットに手を入れた。


 指先に、紙の包みが触れた。


 取り出すと、果物屋のおかみさんがくれた飴だった。ルゥがもらったのと、同じ包み紙だった。


 明日になれば、またどこかで人間の噂を聞くだろう。

 そのうちのいくつかは、本当なのかもしれない。


 けれど、ヴォルフはもう、鍋か帽子かで言い争う声を知っている。地面に引かれた線と、それを踏まないように大回りした小さな足を知っている。


 いつか、あの子がフードもかぶらずに、あの橋を渡れたらいい。

 角も隠さず、誰の陰にも隠れずに、青い小鳥の店の扉を押して、「これの、まるいの」と言えたらいい。


 包み紙を開いた。

 黄色い、まるい飴だった。


 口に入れた。


 松明の列の先頭から、一頭の馬が飛び出した。

 供の者たちをはるか後ろに置き去りにして、坂を駆け上ってくる。夕闇の中に、黒い外套と大きな角が見えた。

 陛下だった。


 ヴォルフは、城壁の階段を下りはじめた。


 飴はとても甘かった。

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― 新着の感想 ―
とても優しいお話で癒されました。
ああ、ほっこり♡
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