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一年で離婚するはずの契約結婚なのに、おまけのもふもふが可愛すぎてお別れできません ~「笑わずの騎士」なんて呼ばれる旦那様が、もふもふを撫でるときだけ優しいので、だんだん絆されてきました~

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/14

恋なんて、二度とするものか。


 そう、固く誓っていたのです。


 ――まんまるの、もふもふに、出会うまでは。



 わたし、フィーネ・アルブレヒトが「契約結婚」を持ちかけたのは、もう、恋なんてこりごりだったからだ。


 二年前。


 わたしには、結婚を約束した相手がいた。


 優しくて、よく笑う人だった。


 けれど、その人は、わたしの親友と恋に落ちて、ある日、ふらりと消えた。


 残されたのは、安っぽい謝罪の手紙と、空っぽになったわたしの心だけ。


 以来、わたしは決めた。


 もう、恋はしない。心を動かさない。


 ――けれど。


 貴族の娘というのは、面倒なもので。


 二十二にもなって独り身でいると、家からの「早く嫁げ」という圧が、日に日に強くなる。


 愛のない結婚を、家に決められるくらいなら。


 いっそ、自分で「契約」してしまおう。


 そう考えたのだ。



「――というわけですの」


 わたしは、目の前に座る男に、淡々と切り出した。


「一年間だけ、夫婦のふりをしてくださる方を、探しておりますの。条件は、三つ。一つ、一年後に円満に離婚すること。二つ、その間、互いの生活に干渉しないこと。そして三つ――」


 わたしは、まっすぐに、彼を見た。


「絶対に、恋愛感情を、持たないこと」


 男は、しばらく、無言だった。



 名は、テオドール・ファルケ。


 辺境の小さな領地を持つ、子爵。


 歳は、二十八。


 長身で、肩幅が広く、立ち姿に隙がない。


 数年前まで王都の騎士団に身を置いていた、叩き上げの元騎士だという。


 今は爵位を継いで、辺境の領地経営に専念し、社交の場には、ほとんど顔を出さない。


 整った顔立ちだが、その表情は、ぶっきらぼうに引き結ばれたまま、ほとんど動かない。


 生まれてこのかた一度も笑ったことがないとさえ言われ、人々から「笑わずの騎士」などと呼ばれている、変わり者だ。


 わたしが彼を選んだのは、まさに、その「無愛想さ」ゆえだった。


 こんなに愛想のない人なら、間違っても、恋になど落ちようがない。


 互いに、淡々と一年をやり過ごせる。


 そう、踏んだのだ。



「……理由を聞いても?」


 ようやく、テオドール様が口を開いた。


 低く、抑揚のない声。


「あなたほどの家柄なら、いくらでも、まともな縁談があるだろう」


「恋を、したくないからですわ」


 わたしは、正直に答えた。


「一度、こりごりいたしましたの。もう、誰かに心を委ねるのは。だから、最初から終わりが決まっている、安全な結婚が、欲しいのです」


 テオドール様は、わたしを、じっと見つめた。


 その目に、憐れみや、好奇の色は、なかった。


 ただ、静かに、何かを確かめるような目。


「……いいだろう」


 彼は、頷いた。


「私にも、家から結婚を急かされる事情がある。一年で離婚できるなら、好都合だ。受けよう」



 こうして、わたしたちの「契約結婚」は、成立した。


 恋のない、期限付きの、安全な結婚。


 ――そのはずだった。



          *



 結婚式は、ごく内輪で、簡素に済ませた。


 そして、わたしは、テオドール様の辺境の屋敷へ、移り住むことになった。


 王都から、馬車で三日。


 森に囲まれた、こぢんまりとした屋敷。


 使用人も最小限で、静かで、人の気配の少ない場所だった。


 恋をしない一年を過ごすには、うってつけ。


 そう思いながら、わたしが屋敷の玄関をくぐった、その瞬間だった。



「きゅう」


 足元から、奇妙な声がした。


 見下ろすと、そこに――まんまるの、何かがいた。


 白い。とにかく、白くて、まるい。


 大きさは、わたしが両手で抱えられるくらい。


 ふわふわの毛に覆われていて、どこが顔で、どこが体なのか、よくわからない。


 強いて言えば、雪だるまに、つぶらな黒い瞳をつけたような。


「……え、なに、これ」


 わたしが戸惑っていると、そのまるい生き物は、ころん、と転がって、わたしの足に、ぽすん、と寄りかかってきた。


「きゅるるん」


「!?」


 なんという、可愛らしさ。


 不覚にも、心臓が、きゅっとなった。



「ああ、それは」


 後ろから、テオドール様の声がした。


「モコ、という。私の、従魔だ」


「もこ……?」


「契約上、ついてくる。説明し忘れていた」


 テオドール様は、相変わらずの無表情で、淡々と言った。


「私と婚姻を結んだ以上、屋敷で暮らす君にも、こいつは懐く。世話は私がするが……まあ、邪魔だったら、言ってくれ」


「邪魔だなんて、とんでもございませんわ!」


 気づけば、わたしは、その「モコ」を、両手で抱き上げていた。


 ふわふわで、あたたかくて、ずっしりと、いい重みがある。


 腕の中で、モコは、きゅう、と気持ちよさそうに鳴いた。


「まあ……まあ、なんて、可愛らしいの」


 わたしの口元が、自然と、緩む。


 二年ぶりだった。


 こんなふうに、心の底から、何かを「可愛い」と思ったのは。


 テオドール様は、そんなわたしを、少し意外そうに――いや、その無表情からは、何も読み取れなかったけれど――しばらく、見ていた。


「……気に入ったなら、よかった」


 ぽつりと、そう言って、彼は、奥へ歩いていった。


 わたしは、モコを抱きしめたまま、その背中を見送った。


 恋はしない。心は動かさない。


 その約束は、ちゃんと、守るつもりだった。


 ――ただ、もふもふを、愛でるくらいは。きっと、許されるでしょう?



          *



 契約結婚の生活は、思っていたより、ずっと、穏やかだった。


 テオドール様は、約束通り、わたしの生活に、一切干渉しなかった。


 朝は別々に食事を取り、昼は彼は領地の仕事、わたしは好きに過ごす。


 会話らしい会話も、ほとんどなかった。


 完璧な、距離感。


 そして、その距離を、唯一、行き来する存在が――モコだった。



「きゅう!」


 朝。


 わたしが目を覚ますと、決まって、モコが枕元で、まるくなっている。


 夜の間に、どうやってか、わたしの部屋に忍び込んでくるらしい。


 ふわふわの体で、ころころと、わたしの周りを転がっては、きゅんきゅんと鳴く。


 わたしは、すっかり、モコの虜になっていた。


 ブラッシングをしてやると、気持ちよさそうに目を細める。


 お腹が空くと、わたしの足元で、ぽよんぽよん跳ねて、催促する。


 眠くなると、わたしの膝の上で、まるくなって寝息を立てる。


 可愛い。とにかく、可愛い。



 そして、ある日、気づいてしまった。


 テオドール様が、モコに、とても、優しいことに。


 その日、わたしが廊下を歩いていると、書斎から、かすかな声が聞こえた。


「……ほら、モコ。今日は、よく食べたな」


 そっと覗くと、あの無愛想なテオドール様が、膝の上にモコを乗せて、その丸い体を、剣だこのある武骨な手で、ゆっくりと、不器用に撫でていた。


 いつもの、ぶっきらぼうに引き結ばれた口元が、ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、緩んでいた。


「きゅるん」


「……ああ。明日は、好物の木の実を、用意してやろう」


 わたしは、思わず、息を呑んだ。


 なに、あの顔。


 一度も笑ったことがないと言われる、「笑わずの騎士」テオドール様が。


 もふもふを撫でながら、あんなに、優しい顔を、するなんて。


 不覚にも、また、心臓が、きゅっとなった。


(……いけない、いけない)


 わたしは、慌てて、その場を離れた。


 恋は、しない。心は、動かさない。


 そう、決めたのだから。



          *



 けれど、それから、わたしは、少しずつ、気づき始めてしまった。


 テオドール様の、無愛想の、その奥にあるものに。


 たとえば、雨の降る寒い日。


 わたしの部屋の暖炉には、いつのまにか、薪がたっぷりと足されていた。


 誰がやったのか、聞かなくても、わかった。


 たとえば、わたしが夜更かしして本を読んでいると、翌朝、机の上に、そっと、温かいお茶が置かれていた。


 たとえば、わたしが、ふと、故郷の菓子の話をしただけで、数日後、その菓子が、食卓に並んでいた。


 彼は、何も言わない。


 「やった」とも、「気にするな」とも。


 ただ、黙って、わたしのために、いろいろなことを、してくれている。


 まるで、モコを、こっそり甘やかすのと、同じように。



「……テオドール様」


 ある夜、わたしは、夕食の席で、とうとう、尋ねた。


「どうして、わたくしに、こんなに、よくしてくださるの? 契約では、干渉しない、という、約束でしたでしょう」


 テオドール様は、フォークを持つ手を、止めた。


 しばらく、沈黙が、流れた。


 それから、彼は、ぽつりと、言った。


「……君が、寒そうにしていたから。眠そうだったから。故郷を、懐かしんでいたから」


 彼は、目を、伏せた。


「それだけだ。干渉とは、思わなかった。ただ、気になっただけだ」


 気になった。


 その一言が、なぜだか、わたしの胸の、奥の方を、じんわりと、温めた。


「……そう、ですの」


 わたしは、それ以上、何も言えなかった。


 言えば、認めてしまいそうだったから。


 この、契約結婚が。恋をしないはずの、この生活が。


 だんだん、わたしにとって、心地よいものに、なり始めていることを。


 膝の上で、モコが、きゅう、と鳴いた。


 まるで、わたしの心を、見透かしたみたいに。



          *



 春に始まった契約結婚は、いつのまにか、夏を迎えていた。


 その夏は、とにかく、暑かった。


 辺境の屋敷は、王都よりは涼しいはずなのに、その日は、朝から、じっとりと汗ばむような陽気で。


 わたしは、書斎の窓を開け放って、ぼんやりと、庭を眺めていた。


 すると、庭の片隅で。


「きゅーう!」


 モコが、水浴び用の桶に、頭から、ぼちゃん、と突っ込んでいた。


「え、ちょっと、モコ!?」


 慌てて駆け寄ると、モコは、桶の中で、ぷかぷかと、浮かんでいた。


 ふわふわの白い毛が、すっかり水を吸って、いつもの三分の一くらいに、しぼんでいる。


 まるで、濡れた雑巾みたいな有様で、それでも本人(本魔?)は、実に、満足げで。


「きゅるん♪」


「もう、こんなに、びしょびしょになって……」


 わたしが、苦笑いしながら、モコを桶から救出していると。


「……何の、騒ぎだ」


 書斎から、テオドール様が、出てきた。


 そして、しぼんだモコと、水浸しのわたしを見て、ほんの一瞬――その切れ長の目が、まるく、なった。


「……ぷ」


 聞こえた。たしかに、聞こえた。


 あの、一度も笑わぬと言われた「笑わずの騎士」テオドール様が。


 鼻から、息を、漏らした。


「い、いま、笑いましたわね?」


「……笑っていない」


「笑いましたわ! 絶対!」


「……気のせいだ」


 ぷいと顔を背けた、その耳が。


 ほんの少し、赤かった。


 わたしは、なんだか、おかしくなって、つられて、笑ってしまった。


 二人で(一匹も)、びしょ濡れのモコを、布で拭いてやって。


 ふくふくに乾いて、元のまんまるに戻ったモコを見て、また、二人で、顔を見合わせて、ふっと笑った。


 恋は、しない。


 そう、決めていたはずなのに。


 その夏、わたしは、テオドール様の、笑った顔を、初めて見た。


 たった一度。鼻から息を漏らした、それだけ。


 それなのに、その横顔が、なぜだか、ずっと、忘れられなかった。



          *



 夏が過ぎ、屋敷を囲む森の木々が、少しずつ、色づき始めた頃。


 わたしは、テオドール様に、森へ、誘われた。


「モコの、冬の食料を、集めに行く。……君も、来るか」


 彼が、自分から、わたしを何かに誘うのは、初めてのことだった。


 わたしは、少し、驚きながら、頷いた。


 秋の森は、しんと、静かで。


 足元には、赤や黄の落ち葉が、降り積もっていた。


 木漏れ日が、斑に揺れて、空気は、ひんやりと、澄んでいる。


 モコは、大はしゃぎで、落ち葉の山に、ぼふん、と飛び込んでは、木の実を見つけて、きゅんきゅんと鳴いた。


「この実が、モコの好物だ」


 テオドール様は、木の根元にしゃがんで、丸い木の実を、一つ、拾い上げた。


 その手つきは、いつもの武骨さとは、少し違って。


 どこか、慣れた、優しいものだった。


「……昔から、こうしていらしたの?」


 なにげなく、わたしは、尋ねた。


 テオドール様は、しばらく、黙っていた。


 拾った木の実を、手のひらの上で、転がしながら。


 それから、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。


「……モコを拾ったのは、五年前だ。まだ、騎士団にいた頃。任務で、賊に焼かれた村の、跡を、見回っていた」


 わたしは、息を、潜めた。


「がれきの中で、こいつだけが、生き残っていた。親も、群れも、いなかった。……まだ、手のひらに乗るくらい、小さくてな」


 彼の声は、淡々としていた。


 けれど、その奥に、何か、深いものが、沈んでいるのが、わかった。


「私は、騎士だった。守るのが、務めのはずだった。だが、あの村は、守れなかった。間に合わなかったんだ。……私が、もっと、早く駆けつけていれば」


 テオドール様は、木の実を、ぎゅっと、握りしめた。


「がれきの中で、震えていた、こいつを見て。……せめて、こいつだけは、と思った。それで、騎士団を退いて、領地に、戻った。守れなかった分まで、こいつを、守ろうと」


 わたしは、言葉を、失っていた。


 いつも、無愛想で。何を考えているのか、わからなくて。


 心ない人々から「笑わずの騎士」と、(わら)われている、この人が。


 こんなにも、深い傷と、優しさを、その内側に、抱えていたなんて。


「……すまない。柄にも、ないことを、話した」


 テオドール様は、ばつが悪そうに、目を、伏せた。


「私は、言葉が、下手だ。人と、どう接していいか、わからない。だから、塩だの、無愛想だのと、言われる。……君にも、愛想のない夫で、退屈な思いを、させているだろう」


「……そんなこと、ございませんわ」


 気づけば、わたしは、首を、横に振っていた。


 強く、強く。


「あなたは、無愛想なのではなくて。ただ、優しさを、言葉にするのが、下手なだけ。……わたくしには、ちゃんと、わかります」


 暖炉に足された薪も。


 朝の、温かいお茶も。


 故郷の、菓子も。


 全部、全部。


 この、不器用な人の、声にならない、優しさだったのだ。


 テオドール様が、顔を、上げた。


 そして、わたしを、じっと、見つめた。


 その目が――いつもの、凪いだ静けさとは、違って。


 何か、揺れるものを、含んでいるように、見えた。


「きゅるん!」


 その時、モコが、両手いっぱい(?)に木の実を抱えて、ぽよん、と、二人の間に、飛び込んできた。


 張りつめた空気が、ふっと、ほどけて。


 わたしたちは、また、顔を見合わせて、笑った。



 帰り道。


 夕暮れの森を、三人(一匹)で、並んで歩きながら。


 わたしは、隣を歩く、テオドール様の、横顔を、そっと、盗み見た。


 もっと、知りたい、と思った。


 この人の、こと。その傷も、優しさも、不器用さも。全部。


 ――ああ、いけない。


 わたしは、もう、とっくに。


 この、気持ちの、名前を。知ってしまっている。



          *



 そうして、季節は、巡り。


 気づけば、屋敷の窓辺に、初雪が、ちらつき始めていた。


 一年の、契約。


 その終わりが、刻一刻と、近づいていた。


 そのことを、わたしは、努めて、考えないようにしていた。


 けれど。


 ある日、テオドール様が、夕食の席で、静かに切り出した。


「フィーネ。……契約の期限が、近い」


 わたしの、心臓が、ひやりと、冷えた。


「離婚の手続きについて、そろそろ、話しておくべきだと思う。書類は、私が用意する。君は、王都に戻れば……元の暮らしに、戻れる」


 彼の声は、いつも通り、淡々としていた。


 何の感情も、こもっていない、ように、聞こえた。


「……ええ」


 わたしは、かろうじて、頷いた。


「そう、ですわね。そういう、約束、でしたもの」


 元の暮らし。


 恋を、しない暮らし。心を、動かさない暮らし。


 わたしが、自分で望んだ、安全な、独りの日々。


 なのに。


 どうして、こんなに、胸が、苦しいのだろう。



 その夜。


 わたしは、なかなか、眠れなかった。


 暗い部屋の中で、枕元のモコの、あたたかい寝息だけが、聞こえていた。


 わたしは、そっと、モコの、まるい体を、抱き寄せた。


「……ねえ、モコ」


 ふわふわの毛に、顔を埋める。


「わたくし、お別れする自信が、ないわ」


 あなたとも。


 そして――テオドール様とも。


 言葉にして、初めて、わかった。


 わたしは、もう、とっくに。


 恋を、していたのだ。あの、塩対応の、優しい人に。


 モコが、きゅう、と、小さく鳴いて、わたしの頬に、ぴたりと、寄り添った。



          *



 翌朝。


 わたしは、決意して、テオドール様の書斎を、訪ねた。


 言わなければ。たとえ、振られても。


 この気持ちを、伝えなければ。


 後悔したまま、別れたくはない。


「テオドール様。お話が、ございますの」


 扉を開けると、テオドール様は、机に向かっていた。


 その手元には――離婚の書類では、なかった。


 彼は、一枚の、書きかけの手紙を、握りしめていた。


 そして、わたしが入ってきたことに気づくと、慌てて、それを、隠そうとした。


 けれど、遅かった。


 わたしには、見えてしまった。その手紙の、書き出しが。


『フィーネへ。どうか、離婚を、考え直してはくれないか――』


「……テオドール様?」


 彼は、観念したように、目を、伏せた。


 そして、長い、沈黙の後、絞り出すように、言った。


「……すまない。契約違反だ」


「契約、違反?」


「恋愛感情を、持たない。それが、約束だった。なのに、私は」


 彼は、顔を上げた。


 いつも揺るがないその瞳が、初めて、頼りなく揺れていた。


「私は、君に、恋を、してしまった」


 わたしの、息が、止まった。


「いつからか、わからない。気づいたときには、もう。君が、笑うと、嬉しかった。君が、寒そうにしていると、放っておけなかった。モコと、君が、じゃれている姿を見るのが……何より、幸せだった」


 彼は、握りしめた手紙を、机に置いた。


「離婚の書類を、用意するつもりだった。約束だから。けれど、どうしても、書けなかった。代わりに、こんな、未練がましい手紙ばかり、書いては、破って」


 テオドール様は、深く、頭を下げた。


「すまない。契約を、破ったのは、私だ。君が望むなら、約束通り、離婚しよう。慰謝料も、いくらでも――」


「テオドール様」


 わたしは、彼の言葉を、遮った。


 そして、つかつかと、彼に歩み寄ると――その手を、両手で、握った。


「わたくしも、ですわ」


 テオドール様が、目を、見開いた。


「わたくしも、契約違反、ですの。とっくの昔に。……あなたに、恋を、しておりますもの」


 言ってしまった。


 二年間、固く閉ざしていた心が、その一言で、ふわりと、ほどけていくのが、わかった。


 まるで、緊張していたモコの体が、撫でられて、くたりと力を抜くときのように。


「恋なんて、もうしないと、決めておりましたのに。あなたが、あんまり、不器用に優しいものだから。モコを撫でる、あなたの顔が、あんまり、優しいものだから」


 わたしの目に、涙が、滲んだ。


「お別れする自信なんて、これっぽっちも、ございませんわ」


 テオドール様は。


 しばらく、呆然と、わたしを見つめていた。


 それから――ゆっくりと、その腕を、伸ばして。


 わたしを、そっと、抱き寄せた。


 ぶっきらぼうな見た目とは、裏腹に。


 その腕は、武骨で、大きくて、とても、あたたかかった。


「……離婚は、なしだ」


 耳元で、彼が、囁いた。


「契約は、破棄する。代わりに――本物の、夫婦になってくれ。期限なんて、つけずに」


「ええ。喜んで」


 わたしは、彼の胸に、顔を埋めて、頷いた。


 その足元で。


「きゅるるん!」


 モコが、嬉しそうに、ぽよんぽよんと、跳ねていた。


 まるで、二人を、祝福するように。



          *



 後日談を、少しだけ。


 わたしたちは、契約結婚を、本物の結婚に、結び直した。


 あの、簡素な式とは違う、今度は、心からの、お祝いの席で。


 テオドール様は、相変わらず、無愛想で、口下手だった。


 世間では、今でも「笑わずの騎士」と呼ばれている。


 一度も笑ったことがない、冷たい人だと。


 けれど、わたしは、知っている。


 その無愛想の、奥にある、誰よりも、温かくて、不器用な、優しさを。


 そして――その人が、ちゃんと、笑うことも。


「テオドール様。今日も、モコが、あなたのお膝を、独占しておりますわよ」


「……ああ。少し、退いてくれないか、モコ。妻が、妬く」


「あら。妬きませんわ。だって、わたくしも、あなたの隣に、座りますもの」


 わたしが、彼の隣に腰を下ろすと、テオドール様は、ほんの少しだけ、口の端を、緩めた。


 その、めったに見せない微笑みを、引き出せるのは。


 この世で、わたしと、モコだけ。


 膝の上のモコが、きゅう、と、満足そうに、鳴いた。



 恋なんて、もうしないと、決めていた。


 心なんて、もう動かさないと、誓っていた。


 固く閉じて、鍵をかけて。


 誰にも、触れさせないように、していた。


 でも。


 まんまるの、もふもふが、その扉に、ぽすんと、寄りかかって。


 塩対応の、優しい人が、声にならない優しさで、何度も、何度も、そっと、叩いて。


 いつのまにか、わたしの心は、この屋敷みたいに。


 薪のはぜる音と、温かいお茶の湯気と、ふわふわの寝息に満ちた、あたたかな場所に、なっていた。


 もう、独りで、震えていた頃には、戻れない。


 戻りたくも、ない。


 お別れしなくて、本当に、よかった。


 心から、そう思える、あたたかな、冬の日だった。

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