一年で離婚するはずの契約結婚なのに、おまけのもふもふが可愛すぎてお別れできません ~「笑わずの騎士」なんて呼ばれる旦那様が、もふもふを撫でるときだけ優しいので、だんだん絆されてきました~
恋なんて、二度とするものか。
そう、固く誓っていたのです。
――まんまるの、もふもふに、出会うまでは。
わたし、フィーネ・アルブレヒトが「契約結婚」を持ちかけたのは、もう、恋なんてこりごりだったからだ。
二年前。
わたしには、結婚を約束した相手がいた。
優しくて、よく笑う人だった。
けれど、その人は、わたしの親友と恋に落ちて、ある日、ふらりと消えた。
残されたのは、安っぽい謝罪の手紙と、空っぽになったわたしの心だけ。
以来、わたしは決めた。
もう、恋はしない。心を動かさない。
――けれど。
貴族の娘というのは、面倒なもので。
二十二にもなって独り身でいると、家からの「早く嫁げ」という圧が、日に日に強くなる。
愛のない結婚を、家に決められるくらいなら。
いっそ、自分で「契約」してしまおう。
そう考えたのだ。
「――というわけですの」
わたしは、目の前に座る男に、淡々と切り出した。
「一年間だけ、夫婦のふりをしてくださる方を、探しておりますの。条件は、三つ。一つ、一年後に円満に離婚すること。二つ、その間、互いの生活に干渉しないこと。そして三つ――」
わたしは、まっすぐに、彼を見た。
「絶対に、恋愛感情を、持たないこと」
男は、しばらく、無言だった。
名は、テオドール・ファルケ。
辺境の小さな領地を持つ、子爵。
歳は、二十八。
長身で、肩幅が広く、立ち姿に隙がない。
数年前まで王都の騎士団に身を置いていた、叩き上げの元騎士だという。
今は爵位を継いで、辺境の領地経営に専念し、社交の場には、ほとんど顔を出さない。
整った顔立ちだが、その表情は、ぶっきらぼうに引き結ばれたまま、ほとんど動かない。
生まれてこのかた一度も笑ったことがないとさえ言われ、人々から「笑わずの騎士」などと呼ばれている、変わり者だ。
わたしが彼を選んだのは、まさに、その「無愛想さ」ゆえだった。
こんなに愛想のない人なら、間違っても、恋になど落ちようがない。
互いに、淡々と一年をやり過ごせる。
そう、踏んだのだ。
「……理由を聞いても?」
ようやく、テオドール様が口を開いた。
低く、抑揚のない声。
「あなたほどの家柄なら、いくらでも、まともな縁談があるだろう」
「恋を、したくないからですわ」
わたしは、正直に答えた。
「一度、こりごりいたしましたの。もう、誰かに心を委ねるのは。だから、最初から終わりが決まっている、安全な結婚が、欲しいのです」
テオドール様は、わたしを、じっと見つめた。
その目に、憐れみや、好奇の色は、なかった。
ただ、静かに、何かを確かめるような目。
「……いいだろう」
彼は、頷いた。
「私にも、家から結婚を急かされる事情がある。一年で離婚できるなら、好都合だ。受けよう」
こうして、わたしたちの「契約結婚」は、成立した。
恋のない、期限付きの、安全な結婚。
――そのはずだった。
*
結婚式は、ごく内輪で、簡素に済ませた。
そして、わたしは、テオドール様の辺境の屋敷へ、移り住むことになった。
王都から、馬車で三日。
森に囲まれた、こぢんまりとした屋敷。
使用人も最小限で、静かで、人の気配の少ない場所だった。
恋をしない一年を過ごすには、うってつけ。
そう思いながら、わたしが屋敷の玄関をくぐった、その瞬間だった。
「きゅう」
足元から、奇妙な声がした。
見下ろすと、そこに――まんまるの、何かがいた。
白い。とにかく、白くて、まるい。
大きさは、わたしが両手で抱えられるくらい。
ふわふわの毛に覆われていて、どこが顔で、どこが体なのか、よくわからない。
強いて言えば、雪だるまに、つぶらな黒い瞳をつけたような。
「……え、なに、これ」
わたしが戸惑っていると、そのまるい生き物は、ころん、と転がって、わたしの足に、ぽすん、と寄りかかってきた。
「きゅるるん」
「!?」
なんという、可愛らしさ。
不覚にも、心臓が、きゅっとなった。
「ああ、それは」
後ろから、テオドール様の声がした。
「モコ、という。私の、従魔だ」
「もこ……?」
「契約上、ついてくる。説明し忘れていた」
テオドール様は、相変わらずの無表情で、淡々と言った。
「私と婚姻を結んだ以上、屋敷で暮らす君にも、こいつは懐く。世話は私がするが……まあ、邪魔だったら、言ってくれ」
「邪魔だなんて、とんでもございませんわ!」
気づけば、わたしは、その「モコ」を、両手で抱き上げていた。
ふわふわで、あたたかくて、ずっしりと、いい重みがある。
腕の中で、モコは、きゅう、と気持ちよさそうに鳴いた。
「まあ……まあ、なんて、可愛らしいの」
わたしの口元が、自然と、緩む。
二年ぶりだった。
こんなふうに、心の底から、何かを「可愛い」と思ったのは。
テオドール様は、そんなわたしを、少し意外そうに――いや、その無表情からは、何も読み取れなかったけれど――しばらく、見ていた。
「……気に入ったなら、よかった」
ぽつりと、そう言って、彼は、奥へ歩いていった。
わたしは、モコを抱きしめたまま、その背中を見送った。
恋はしない。心は動かさない。
その約束は、ちゃんと、守るつもりだった。
――ただ、もふもふを、愛でるくらいは。きっと、許されるでしょう?
*
契約結婚の生活は、思っていたより、ずっと、穏やかだった。
テオドール様は、約束通り、わたしの生活に、一切干渉しなかった。
朝は別々に食事を取り、昼は彼は領地の仕事、わたしは好きに過ごす。
会話らしい会話も、ほとんどなかった。
完璧な、距離感。
そして、その距離を、唯一、行き来する存在が――モコだった。
「きゅう!」
朝。
わたしが目を覚ますと、決まって、モコが枕元で、まるくなっている。
夜の間に、どうやってか、わたしの部屋に忍び込んでくるらしい。
ふわふわの体で、ころころと、わたしの周りを転がっては、きゅんきゅんと鳴く。
わたしは、すっかり、モコの虜になっていた。
ブラッシングをしてやると、気持ちよさそうに目を細める。
お腹が空くと、わたしの足元で、ぽよんぽよん跳ねて、催促する。
眠くなると、わたしの膝の上で、まるくなって寝息を立てる。
可愛い。とにかく、可愛い。
そして、ある日、気づいてしまった。
テオドール様が、モコに、とても、優しいことに。
その日、わたしが廊下を歩いていると、書斎から、かすかな声が聞こえた。
「……ほら、モコ。今日は、よく食べたな」
そっと覗くと、あの無愛想なテオドール様が、膝の上にモコを乗せて、その丸い体を、剣だこのある武骨な手で、ゆっくりと、不器用に撫でていた。
いつもの、ぶっきらぼうに引き結ばれた口元が、ほんの少しだけ――ほんの少しだけ、緩んでいた。
「きゅるん」
「……ああ。明日は、好物の木の実を、用意してやろう」
わたしは、思わず、息を呑んだ。
なに、あの顔。
一度も笑ったことがないと言われる、「笑わずの騎士」テオドール様が。
もふもふを撫でながら、あんなに、優しい顔を、するなんて。
不覚にも、また、心臓が、きゅっとなった。
(……いけない、いけない)
わたしは、慌てて、その場を離れた。
恋は、しない。心は、動かさない。
そう、決めたのだから。
*
けれど、それから、わたしは、少しずつ、気づき始めてしまった。
テオドール様の、無愛想の、その奥にあるものに。
たとえば、雨の降る寒い日。
わたしの部屋の暖炉には、いつのまにか、薪がたっぷりと足されていた。
誰がやったのか、聞かなくても、わかった。
たとえば、わたしが夜更かしして本を読んでいると、翌朝、机の上に、そっと、温かいお茶が置かれていた。
たとえば、わたしが、ふと、故郷の菓子の話をしただけで、数日後、その菓子が、食卓に並んでいた。
彼は、何も言わない。
「やった」とも、「気にするな」とも。
ただ、黙って、わたしのために、いろいろなことを、してくれている。
まるで、モコを、こっそり甘やかすのと、同じように。
「……テオドール様」
ある夜、わたしは、夕食の席で、とうとう、尋ねた。
「どうして、わたくしに、こんなに、よくしてくださるの? 契約では、干渉しない、という、約束でしたでしょう」
テオドール様は、フォークを持つ手を、止めた。
しばらく、沈黙が、流れた。
それから、彼は、ぽつりと、言った。
「……君が、寒そうにしていたから。眠そうだったから。故郷を、懐かしんでいたから」
彼は、目を、伏せた。
「それだけだ。干渉とは、思わなかった。ただ、気になっただけだ」
気になった。
その一言が、なぜだか、わたしの胸の、奥の方を、じんわりと、温めた。
「……そう、ですの」
わたしは、それ以上、何も言えなかった。
言えば、認めてしまいそうだったから。
この、契約結婚が。恋をしないはずの、この生活が。
だんだん、わたしにとって、心地よいものに、なり始めていることを。
膝の上で、モコが、きゅう、と鳴いた。
まるで、わたしの心を、見透かしたみたいに。
*
春に始まった契約結婚は、いつのまにか、夏を迎えていた。
その夏は、とにかく、暑かった。
辺境の屋敷は、王都よりは涼しいはずなのに、その日は、朝から、じっとりと汗ばむような陽気で。
わたしは、書斎の窓を開け放って、ぼんやりと、庭を眺めていた。
すると、庭の片隅で。
「きゅーう!」
モコが、水浴び用の桶に、頭から、ぼちゃん、と突っ込んでいた。
「え、ちょっと、モコ!?」
慌てて駆け寄ると、モコは、桶の中で、ぷかぷかと、浮かんでいた。
ふわふわの白い毛が、すっかり水を吸って、いつもの三分の一くらいに、しぼんでいる。
まるで、濡れた雑巾みたいな有様で、それでも本人(本魔?)は、実に、満足げで。
「きゅるん♪」
「もう、こんなに、びしょびしょになって……」
わたしが、苦笑いしながら、モコを桶から救出していると。
「……何の、騒ぎだ」
書斎から、テオドール様が、出てきた。
そして、しぼんだモコと、水浸しのわたしを見て、ほんの一瞬――その切れ長の目が、まるく、なった。
「……ぷ」
聞こえた。たしかに、聞こえた。
あの、一度も笑わぬと言われた「笑わずの騎士」テオドール様が。
鼻から、息を、漏らした。
「い、いま、笑いましたわね?」
「……笑っていない」
「笑いましたわ! 絶対!」
「……気のせいだ」
ぷいと顔を背けた、その耳が。
ほんの少し、赤かった。
わたしは、なんだか、おかしくなって、つられて、笑ってしまった。
二人で(一匹も)、びしょ濡れのモコを、布で拭いてやって。
ふくふくに乾いて、元のまんまるに戻ったモコを見て、また、二人で、顔を見合わせて、ふっと笑った。
恋は、しない。
そう、決めていたはずなのに。
その夏、わたしは、テオドール様の、笑った顔を、初めて見た。
たった一度。鼻から息を漏らした、それだけ。
それなのに、その横顔が、なぜだか、ずっと、忘れられなかった。
*
夏が過ぎ、屋敷を囲む森の木々が、少しずつ、色づき始めた頃。
わたしは、テオドール様に、森へ、誘われた。
「モコの、冬の食料を、集めに行く。……君も、来るか」
彼が、自分から、わたしを何かに誘うのは、初めてのことだった。
わたしは、少し、驚きながら、頷いた。
秋の森は、しんと、静かで。
足元には、赤や黄の落ち葉が、降り積もっていた。
木漏れ日が、斑に揺れて、空気は、ひんやりと、澄んでいる。
モコは、大はしゃぎで、落ち葉の山に、ぼふん、と飛び込んでは、木の実を見つけて、きゅんきゅんと鳴いた。
「この実が、モコの好物だ」
テオドール様は、木の根元にしゃがんで、丸い木の実を、一つ、拾い上げた。
その手つきは、いつもの武骨さとは、少し違って。
どこか、慣れた、優しいものだった。
「……昔から、こうしていらしたの?」
なにげなく、わたしは、尋ねた。
テオドール様は、しばらく、黙っていた。
拾った木の実を、手のひらの上で、転がしながら。
それから、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
「……モコを拾ったのは、五年前だ。まだ、騎士団にいた頃。任務で、賊に焼かれた村の、跡を、見回っていた」
わたしは、息を、潜めた。
「がれきの中で、こいつだけが、生き残っていた。親も、群れも、いなかった。……まだ、手のひらに乗るくらい、小さくてな」
彼の声は、淡々としていた。
けれど、その奥に、何か、深いものが、沈んでいるのが、わかった。
「私は、騎士だった。守るのが、務めのはずだった。だが、あの村は、守れなかった。間に合わなかったんだ。……私が、もっと、早く駆けつけていれば」
テオドール様は、木の実を、ぎゅっと、握りしめた。
「がれきの中で、震えていた、こいつを見て。……せめて、こいつだけは、と思った。それで、騎士団を退いて、領地に、戻った。守れなかった分まで、こいつを、守ろうと」
わたしは、言葉を、失っていた。
いつも、無愛想で。何を考えているのか、わからなくて。
心ない人々から「笑わずの騎士」と、嗤われている、この人が。
こんなにも、深い傷と、優しさを、その内側に、抱えていたなんて。
「……すまない。柄にも、ないことを、話した」
テオドール様は、ばつが悪そうに、目を、伏せた。
「私は、言葉が、下手だ。人と、どう接していいか、わからない。だから、塩だの、無愛想だのと、言われる。……君にも、愛想のない夫で、退屈な思いを、させているだろう」
「……そんなこと、ございませんわ」
気づけば、わたしは、首を、横に振っていた。
強く、強く。
「あなたは、無愛想なのではなくて。ただ、優しさを、言葉にするのが、下手なだけ。……わたくしには、ちゃんと、わかります」
暖炉に足された薪も。
朝の、温かいお茶も。
故郷の、菓子も。
全部、全部。
この、不器用な人の、声にならない、優しさだったのだ。
テオドール様が、顔を、上げた。
そして、わたしを、じっと、見つめた。
その目が――いつもの、凪いだ静けさとは、違って。
何か、揺れるものを、含んでいるように、見えた。
「きゅるん!」
その時、モコが、両手いっぱい(?)に木の実を抱えて、ぽよん、と、二人の間に、飛び込んできた。
張りつめた空気が、ふっと、ほどけて。
わたしたちは、また、顔を見合わせて、笑った。
帰り道。
夕暮れの森を、三人(一匹)で、並んで歩きながら。
わたしは、隣を歩く、テオドール様の、横顔を、そっと、盗み見た。
もっと、知りたい、と思った。
この人の、こと。その傷も、優しさも、不器用さも。全部。
――ああ、いけない。
わたしは、もう、とっくに。
この、気持ちの、名前を。知ってしまっている。
*
そうして、季節は、巡り。
気づけば、屋敷の窓辺に、初雪が、ちらつき始めていた。
一年の、契約。
その終わりが、刻一刻と、近づいていた。
そのことを、わたしは、努めて、考えないようにしていた。
けれど。
ある日、テオドール様が、夕食の席で、静かに切り出した。
「フィーネ。……契約の期限が、近い」
わたしの、心臓が、ひやりと、冷えた。
「離婚の手続きについて、そろそろ、話しておくべきだと思う。書類は、私が用意する。君は、王都に戻れば……元の暮らしに、戻れる」
彼の声は、いつも通り、淡々としていた。
何の感情も、こもっていない、ように、聞こえた。
「……ええ」
わたしは、かろうじて、頷いた。
「そう、ですわね。そういう、約束、でしたもの」
元の暮らし。
恋を、しない暮らし。心を、動かさない暮らし。
わたしが、自分で望んだ、安全な、独りの日々。
なのに。
どうして、こんなに、胸が、苦しいのだろう。
その夜。
わたしは、なかなか、眠れなかった。
暗い部屋の中で、枕元のモコの、あたたかい寝息だけが、聞こえていた。
わたしは、そっと、モコの、まるい体を、抱き寄せた。
「……ねえ、モコ」
ふわふわの毛に、顔を埋める。
「わたくし、お別れする自信が、ないわ」
あなたとも。
そして――テオドール様とも。
言葉にして、初めて、わかった。
わたしは、もう、とっくに。
恋を、していたのだ。あの、塩対応の、優しい人に。
モコが、きゅう、と、小さく鳴いて、わたしの頬に、ぴたりと、寄り添った。
*
翌朝。
わたしは、決意して、テオドール様の書斎を、訪ねた。
言わなければ。たとえ、振られても。
この気持ちを、伝えなければ。
後悔したまま、別れたくはない。
「テオドール様。お話が、ございますの」
扉を開けると、テオドール様は、机に向かっていた。
その手元には――離婚の書類では、なかった。
彼は、一枚の、書きかけの手紙を、握りしめていた。
そして、わたしが入ってきたことに気づくと、慌てて、それを、隠そうとした。
けれど、遅かった。
わたしには、見えてしまった。その手紙の、書き出しが。
『フィーネへ。どうか、離婚を、考え直してはくれないか――』
「……テオドール様?」
彼は、観念したように、目を、伏せた。
そして、長い、沈黙の後、絞り出すように、言った。
「……すまない。契約違反だ」
「契約、違反?」
「恋愛感情を、持たない。それが、約束だった。なのに、私は」
彼は、顔を上げた。
いつも揺るがないその瞳が、初めて、頼りなく揺れていた。
「私は、君に、恋を、してしまった」
わたしの、息が、止まった。
「いつからか、わからない。気づいたときには、もう。君が、笑うと、嬉しかった。君が、寒そうにしていると、放っておけなかった。モコと、君が、じゃれている姿を見るのが……何より、幸せだった」
彼は、握りしめた手紙を、机に置いた。
「離婚の書類を、用意するつもりだった。約束だから。けれど、どうしても、書けなかった。代わりに、こんな、未練がましい手紙ばかり、書いては、破って」
テオドール様は、深く、頭を下げた。
「すまない。契約を、破ったのは、私だ。君が望むなら、約束通り、離婚しよう。慰謝料も、いくらでも――」
「テオドール様」
わたしは、彼の言葉を、遮った。
そして、つかつかと、彼に歩み寄ると――その手を、両手で、握った。
「わたくしも、ですわ」
テオドール様が、目を、見開いた。
「わたくしも、契約違反、ですの。とっくの昔に。……あなたに、恋を、しておりますもの」
言ってしまった。
二年間、固く閉ざしていた心が、その一言で、ふわりと、ほどけていくのが、わかった。
まるで、緊張していたモコの体が、撫でられて、くたりと力を抜くときのように。
「恋なんて、もうしないと、決めておりましたのに。あなたが、あんまり、不器用に優しいものだから。モコを撫でる、あなたの顔が、あんまり、優しいものだから」
わたしの目に、涙が、滲んだ。
「お別れする自信なんて、これっぽっちも、ございませんわ」
テオドール様は。
しばらく、呆然と、わたしを見つめていた。
それから――ゆっくりと、その腕を、伸ばして。
わたしを、そっと、抱き寄せた。
ぶっきらぼうな見た目とは、裏腹に。
その腕は、武骨で、大きくて、とても、あたたかかった。
「……離婚は、なしだ」
耳元で、彼が、囁いた。
「契約は、破棄する。代わりに――本物の、夫婦になってくれ。期限なんて、つけずに」
「ええ。喜んで」
わたしは、彼の胸に、顔を埋めて、頷いた。
その足元で。
「きゅるるん!」
モコが、嬉しそうに、ぽよんぽよんと、跳ねていた。
まるで、二人を、祝福するように。
*
後日談を、少しだけ。
わたしたちは、契約結婚を、本物の結婚に、結び直した。
あの、簡素な式とは違う、今度は、心からの、お祝いの席で。
テオドール様は、相変わらず、無愛想で、口下手だった。
世間では、今でも「笑わずの騎士」と呼ばれている。
一度も笑ったことがない、冷たい人だと。
けれど、わたしは、知っている。
その無愛想の、奥にある、誰よりも、温かくて、不器用な、優しさを。
そして――その人が、ちゃんと、笑うことも。
「テオドール様。今日も、モコが、あなたのお膝を、独占しておりますわよ」
「……ああ。少し、退いてくれないか、モコ。妻が、妬く」
「あら。妬きませんわ。だって、わたくしも、あなたの隣に、座りますもの」
わたしが、彼の隣に腰を下ろすと、テオドール様は、ほんの少しだけ、口の端を、緩めた。
その、めったに見せない微笑みを、引き出せるのは。
この世で、わたしと、モコだけ。
膝の上のモコが、きゅう、と、満足そうに、鳴いた。
恋なんて、もうしないと、決めていた。
心なんて、もう動かさないと、誓っていた。
固く閉じて、鍵をかけて。
誰にも、触れさせないように、していた。
でも。
まんまるの、もふもふが、その扉に、ぽすんと、寄りかかって。
塩対応の、優しい人が、声にならない優しさで、何度も、何度も、そっと、叩いて。
いつのまにか、わたしの心は、この屋敷みたいに。
薪のはぜる音と、温かいお茶の湯気と、ふわふわの寝息に満ちた、あたたかな場所に、なっていた。
もう、独りで、震えていた頃には、戻れない。
戻りたくも、ない。
お別れしなくて、本当に、よかった。
心から、そう思える、あたたかな、冬の日だった。




